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田崎仁義

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田崎義介から転送)
田崎仁義

田崎 仁義(たざき まさよし、旧名:義介、1880年明治13年〉7月25日 - 1976年昭和51年〉1月30日)は、日本経済学者。経済学博士国士舘大学教授。大阪商科大学名誉教授。専門は中国古代経済史

略歴

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新潟県北蒲原郡大室村(現 阿賀野市大室)の田崎恒四郎[注 1]の次男として出生[4][5]

1888年明治21年)9月、8歳の時に父が亡くなると、水原町の豪農・佐藤家に奉公しながら苦学し、1896年(明治29年)に新潟中学校の2年に編入[6]

1900年(明治33年)3月に新潟中学校を卒業、1905年(明治38年)7月に東京高等商業学校本科を卒業、1907年(明治40年)7月に東京高等商業学校専攻部を卒業[注 2]

1907年(明治40年)12月に一年志願兵として東京麻布陸軍歩兵第1連隊に入隊、陸軍三等主計(陸軍主計少尉)に任官[4]1908年(明治41年)12月に除隊[8]

1909年(明治42年)に東京高等商業学校講師に就任[9]1910年(明治43年)9月から中央大学講師を兼任、1913年大正2年)12月に義介から仁義に改名[10]

1914年(大正3年)10月に長崎高等商業学校教授に就任[11]1916年(大正5年)11月から1919年(大正8年)2月までアメリカハーバード大学ニューヨークワシントンD.C.シカゴ大学カリフォルニア大学バークレー校に留学[12]

1924年(大正13年)3月に東京商科大学から経済学博士号を取得、1929年昭和4年)3月に大阪商科大学教授に就任[13]1930年(昭和5年)1月から11月までイギリスロンドン・スクール・オブ・エコノミクスフランスに留学[14]

1941年(昭和16年)3月に大阪商科大学を依願退職、大政翼賛会大阪府支部常務委員に就任、神宮皇學館大學講師に就任、太平洋戦争のため1945年(昭和20年)5月に故郷の笹岡村(旧 大室村)に疎開[15]戦後、著書が理由で公職追放[16]

1951年(昭和26年)8月に追放解除[17][18]1952年(昭和27年)4月に上京、明治大学教授に就任[15]鹿児島経済大学教授を経て、1961年(昭和36年)に国士舘大学政経学部経済学科教授に就任[19]、90歳で退職[20][注 3]

1976年(昭和51年)1月30日午前6時40分に東京都杉並区高井戸東の自宅で老衰のため死去[20]

1933年(昭和8年)9月に大阪商科大学に皇道研究会を設立して皇道経済学の樹立を目指すなど、皇道思想を鼓吹した[22]

栄典・表彰

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友人

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1950年昭和25年)8月、公職追放により故郷の笹岡村(旧 大室村)で晴耕雨読の生活を送っていた田崎仁義は地元の笹岡中学校の校長から依頼され同校の校歌を作詞したが、自身が公職追放者のため会津八一に相談し、歌詞の添削のうえ、作詞者の名義を「會津八一」としてもらった。1951年(昭和26年)3月、笹岡中学校校歌制定(作曲:下総皖一)。追放解除後、1954年(昭和29年)に会津八一と田崎仁義が笹岡中学校の次代校長に書簡で事情を説明し、11月に同校の校歌の作詞者の名義は「田崎仁義」となった[28]

親族

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著作物

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著書

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  • 『家族制問題』穂積重遠[共著]、冬夏社〈現代社会問題研究 第21巻〉、1922年。
  • 支那古代經濟思想及制度内外出版、1924年。
  • 王道天下之硏究 「支那古代政治思想及制度」』内外出版、1926年。
  • 支那改造論 附日支共榮と文化方策同文館、1926年。
  • 經濟史講義』巌松堂書店、1927年。
  • 『對外商業政策講義』黎明社、1928年。
  • 『繪文字及原始文字』磯部甲陽堂〈日本民俗叢書〉、1928年。
  • 婦人問題の原理』大鐙閣〈経済生活研究 第2編〉、1928年。
  • 『皇道及王道』巌松堂書店、1928年。
  • 『皇道日本と王道滿洲』斯文書院、1933年。
  • 『世界經濟史』改造社〈経済学全集 第28巻〉、1933年。
  • 一般經濟史 序論・原始經濟時代』甲文堂書店、1934年。
  • 『皇道的と覇道的』新騰社、1935年。
  • 『孔子』三省堂〈社会科学の建設者 人と学説叢書〉、1936年。
  • 『皇道・王道・覇道・民道 其の社會經濟史觀、特に皇道の本質』甲文堂書店、1936年。
  • 『大義名分思想 我國朱子學派、特に淺見絅齋の』甲文堂書店、1937年。
  • 『皇道國體及び皇道原理』神祇院教務局指導課〈敬神思想普及資料 10〉、1942年。
  • 『皇道原理と絶對臣道』甲文堂書店、1943年。
  • 『孔子と王道の政治經濟』三省堂、1944年。

訳書

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論文

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脚注

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注釈

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  1. ^ 越後国蒲原郡諏訪山新田(現 新潟県北蒲原郡聖籠町大字諏訪山)の私塾・絆己楼で大野耻堂に学び、「翠溪」と号した[1]。小学校の教員であり[2]1878年明治11年)4月から1880年(明治13年)6月まで堀越小学校の第4代校長を務めた[3]
  2. ^ 1906年(明治39年)夏、田崎仁義や菅礼之助が後輩の塚田公太たちと30数人で一緒に禅寺で修行しようと発案し、臨済宗円覚寺派管長の宮路宗海の斡旋で円覚寺如意庵で自炊生活を行い、由比ヶ浜で海水浴をしたり、座禅を組んだりして2カ月を過ごした[7]
  3. ^ 1973年昭和48年)4月、92歳の時点で家族に外出を制止されている[21]

出典

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  1. ^ 新潟県大百科事典 下巻』90頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1178頁。『北越詩話 下卷』806頁。
  2. ^ 笹神村史 資料編三 近現代』93頁。
  3. ^ 水原町編年史 第三巻』366頁。
  4. ^ a b 越佐名士錄』692頁。『越佐人物誌 中巻』547頁。『新潟県大百科事典 下巻』90頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1178頁。
  5. ^ 田崎仁義生家の柊 - 新潟県内+αの巨木・名木
  6. ^ 新潟県大百科事典 下巻』90頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1178頁。『會津八一全集 第十一』新版、500頁。
  7. ^ 私の履歴書 経済人 5』255頁。
  8. ^ 嘉悦孝子伝 - 第十七章 “どぎゃんすればよかね” - 嘉悦大学情報メディアセンター
  9. ^ 一橋論叢』第22巻第1号、292頁。
  10. ^ 官吏改名」「官廳事項」「彙報」『官報』第435号、179頁、内閣印刷局、1914年1月13日。
  11. ^ 新潟県大百科事典 下巻』90頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1178頁。『一橋論叢』第22巻第1号、298頁。
  12. ^ 新潟県大百科事典 下巻』90頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1178頁。『一橋論叢』第22巻第1号、302-303頁。
  13. ^ 新潟県大百科事典 下巻』90頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1178頁。『大阪商科大學六十年史』696頁。
  14. ^ 新潟県大百科事典 下巻』90頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1178頁。『大阪商科大學六十年史』729頁。『一橋論叢』第22巻第1号、304頁。
  15. ^ a b 笹神村史 資料編三 近現代』568頁。
  16. ^ 笹神村史 資料編三 近現代』566頁。
  17. ^ 笹神村史 資料編三 近現代』569頁。
  18. ^ 指定理由取消公告 第二号」「総理府公告」『官報』号外第70号、23頁、印刷庁、1951年8月15日。
  19. ^ 国士舘史研究年報 楓原』第8号、3-4・113-114頁。
  20. ^ a b 新潟日報』1976年2月1日付朝刊、15面。
  21. ^ 国体文化』第610号、42頁。
  22. ^ 新潟県大百科事典 下巻』90頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1178頁。『大阪商科大學六十年史』446頁。
  23. ^ 敍任及辭令」『官報』第2283号、302頁、内閣印刷局、1934年8月10日。
  24. ^ 敍任及辭令」『官報』第3104号、330頁、内閣印刷局、1937年5月12日。
  25. ^ 辭令二」『官報』第4438号付録、19頁、内閣印刷局、1941年10月23日。
  26. ^ 新潟県大百科事典 下巻』90頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1178頁。『會津八一全集 第十一』新版、500頁。『笹神村史 資料編三 近現代』566-568頁。
  27. ^ 田崎 仁義 | 人物検索 | 徳富蘇峰記念館
  28. ^ 笹神村史 資料編三 近現代』566-569頁。
  29. ^ 會津八一傳』87頁。
  30. ^ 新潟県大百科事典 下巻』90頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1178頁。
  31. ^ 會津八一と坂口献吉』27頁。『坂口献吉追悼録』393-394頁。
  32. ^ 百々三郎 - デジタル版 日本人名大辞典+Plus - コトバンク
  33. ^ 田崎健作 - 歴史が眠る多磨霊園 - 小村大樹

参考文献

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関連文献

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  • 「壽福集」『柊樹』第16号(特集)、田崎仁義先生米寿祝賀会[編]、出版者不明、1968年。
  • 「柊樹 田崎仁義先生回想録」『柊樹』第25号(特集)、有村国治・田崎高義・多田豊山・赤田正人・東條博[編]、出版者不明、1976年。