田尻利雄
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田尻 利雄 | |
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生誕 |
1890年1月27日 日本 福岡県 |
死没 | 1970年2月8日(80歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 |
1911年 - 1941年 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
田尻 利雄(たじり としお、1890年(明治23年)1月27日[1] - 1970年(昭和45年)2月8日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級[2]
経歴
[編集]1890年(明治23年)に福岡県で生まれた[1]。陸軍士官学校第23期、陸軍大学校第31期卒業[1]。1928年(昭和3年)には山東出兵後の山東省を視察するため同地に出張し[3]、1929年(昭和4年)には英国に出張している[4]。1933年(昭和8年)1月12日に陸軍省軍務局徴募課高級課員に着任し[2]、1935年(昭和10年)3月15日に陸軍歩兵大佐進級と同時に歩兵第46連隊長に転じた[2]。1937年(昭和12年)3月には第3師団参謀長に就任した[2]。
1938年(昭和13年)7月15日に陸軍少将進級と同時に歩兵第10旅団長に着任し[1][2]、1939年(昭和14年)10月には第11歩兵団長に転じた[1]。1941年(昭和16年)3月1日に陸軍中将進級と同時に留守第1師団司令部附となり[1][2]、その後同師団長代理として報告書を提出している[5]。7月22日には第61独立歩兵団長として、部隊編成完結を東条英機陸軍大臣に報告している[6]。11月6日に留守近衛師団長に就任したが[1]、同月宮城でボヤ騒ぎが発生したことから[7]、東条陸軍大臣の手によって12月1日に待命[2]、12月28日に予備役に編入された[1][7]。1945年(昭和20年)3月31日に召集され、福岡連隊区司令官兼福岡地区司令官に就任した[8]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[9]。
栄典
[編集]- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[10]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 福川 2001, 443頁.
- ^ a b c d e f g 外山 1981, 292頁.
- ^ 「田尻少佐支那出張の件」 アジア歴史資料センター Ref.C07090422500
- ^ 「外務省報第百七十六号(昭和四年四月一日)/出張及留学」 アジア歴史資料センター Ref.B13091579500
- ^ 「臨時軍事費予算増額の件上申」 アジア歴史資料センター Ref.C07092050000
- ^ 「全部隊編成完結の件」 アジア歴史資料センター Ref.C04123322200
- ^ a b 藤井 2013, 228頁.
- ^ 「第74号 昭和20年3月31日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120937900
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」163頁。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 藤井非三四 著『陸軍人事 : その無策が日本を亡国の淵に追いつめた』潮書房光人社、2013年。ISBN 4769828055。