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田代寿雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

田代 寿雄(壽雄、たしろ ひさお[1][2][3]1890年明治23年)3月2日[1] - 1963年[4]公職追放まで三井鉱山社長を、戦後、民営化された後の帝国石油社長を務めた。

略歴

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静岡県御殿場市出身[5]1907年(明治40年)、旧制静岡県立静岡中学校修了[6]旧制第一高等学校を経て、1914年(大正3年)東京帝国大学法学部政治学科卒業[1]。卒業後は三井鉱山に入社した[1]1945年(昭和20年)に同社長に就任した[1]

GHQ財閥解体措置の一環として、1946年(昭和21年)12月に持株会社整理委員会令が改正され、財閥の主要な人物は会社役員を辞任することが強要された。翌1947年(昭和22年)1月には公職に関する就職禁止、退官、退職等に関する勅令、いわゆる公職追放令が制定され、主要な経営者が財界から追放されるに至った。三井鉱山の場合、社長・常務取締役を含む24名が追放令の該当者となった。1945年(昭和20年)12月の株主総会で田代寿雄社長以下18名が新役員に就任していたが、この追放令を受けて現役の役員は全員辞任した[7](1947年2月14日[8][9]。この間、鉄道会議議員、日本石炭鉱業会会長、三洋石炭社長を務めた[1]

追放解除後の1952年(昭和27年)9月、帝国石油社長に就任[10][11]。社長は1954年(昭和29年)9月まで務めた[1]1955年(昭和30年)6月経団連推薦委員となった[1]

人物

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静岡中学では野球部(現在の静岡高校野球部)に所属[12]、第一高等学校で捕手を務めた。

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h 『大衆人事録』第19版、東京篇、469頁。
  2. ^ 『実業の世界 49(12);12月号』実業之世界社、1952年12月1日、17頁。 
  3. ^ 『新・人物風土記 第2巻』読売新聞社、1955年、193頁。 
  4. ^ 『静中静高野球部史』453頁。 昭和39年発行
  5. ^ 『静中静高野球部史』61頁。 昭和39年発行
  6. ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 47頁。
  7. ^ 「研究ノート 戦後復興期における三井鉱山の再建整備」 木庭俊彦 189ページ。
  8. ^ 三井鉱山(株)『男たちの世紀 : 三井鉱山の百年』
  9. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、660頁。NDLJP:1276156 
  10. ^ INPEX年表 1952年
  11. ^ 「戦後日本経済の混乱と改革」小林良彰 393ページ。
  12. ^ 高校野球名門校シリーズ8 『静岡高校野球部 誇り高き文武両道 Since1896』84ページ。

参考文献

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  • 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第19版 東京篇』帝国秘密探偵社、1956年。

関連項目

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外部リンク

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