田中耕三
たなか こうぞう 田中 耕三 | |
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生誕 |
1926年5月13日 山口県徳山市 |
死没 | 2021年9月12日(95歳没) |
死因 | 肺炎 |
出身校 | 慶應義塾大学大学院経営管理研究科 |
職業 | 経営者 |
田中 耕三(たなか こうぞう、1926年〈大正15年〉5月13日 - 2021年〈令和3年〉9月12日)は、日本の経営者。山口銀行元頭取。
経歴
[編集]山口県徳山市(現周南市)出身。埼玉県朝霞市の海軍兵学校在学中に終戦を迎える。
戦後、慶応義塾大学大学院経営管理学研究科修士課程修了、日立製作所に入社。人事部労務課に配属され労働組合との交渉窓口を担当した。
1953年(昭和28年)、山口銀行から労務管理の責任者として招聘され、翌年3月入行[1]。7月1日、総務部長代理に就任する。以後、総務部人事課長、総務部次長兼人事課長等、長らく人事部門の役職を歴任し、本店営業部副長となる。
1975年(昭和50年)5月取締役に選任され[1]、80年12月常務[1]、86年6月専務に昇進する[1]。
頭取に就任
[編集]1992年(平成4年)6月、代表取締役頭取に就任する[1]。
在任中は、2000年(平成12年)10月2日に個人向けインターネットバンキングのサービスを開始し[2]、翌年7月16日には日本の銀行としては初めて、中国銀行(中華人民共和国・北京市)と業務提携を結び信用供与枠(クレジットライン)を設定した[3][4]。
相談役に退く
[編集]2002年(平成14年)6月、相談役に退くが[1]、本店に専用の個室を持ち、役員並みの報酬、運転手付きの専用車をあてがわれていた[5]。17年9月、特別社友に退くが、以降も同行の社宅である一軒家に住み続けた[6]。20年11月、特別社友の呼称を返上した[7]。
このほか山口放送監査役、宇部興産学術振興財団理事を務めた。
2021年(令和3年)9月12日、肺炎のため死去[1][4][8]。95歳没。
不祥事
[編集]1979年(昭和54年)に周南地区の支店長が定期証書偽造事件を起こした際、田中は同支店の統括店である徳山支店の支店長であったが、監督責任は問われなかった。
2004年(平成16年)に山口銀行の頭取が交代した際に、既に相談役に退き役員でなかった田中が大きく関与したことについて、中国財務局より「ガバナンス上の問題がある」と批判され、これが遠因となって経営不安があったもみじホールディングスとの経営統合(事実上の救済合併)を余儀なくされたと『週刊ダイヤモンド』が報じている[5]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g “【訃報】山口銀行元頭取 田中耕三”. 山口銀行 (2021年9月14日). 2021年9月16日閲覧。
- ^ “2000(平成12)年10月8日 第1094号 主要目次”. 山口経済レポート (2000年10月8日). 2021年9月16日閲覧。 “山口銀行、Iネットで預金の振替・振込サービスを開始 中国地方金融機関で初めて”
- ^ 山口銀行、邦銀初の中国銀行との業務提携[リンク切れ]
- ^ a b “田中 耕三氏(山口銀行元頭取)”. 財界九州 (2021年9月15日). 2021年9月16日閲覧。
- ^ a b 重石岳史 (2020年11月21日). “第一生命元社員・19億円詐取が「地銀再編」の引き金となり得る理由”. ダイヤモンド・オンライン. ダイヤモンド社. 2021年9月16日閲覧。
- ^ 森岡英樹 (2020年11月30日). “第一生命19億円詐欺 営業職員A子さんと山口銀行元頭取との“深い関係”が発火させた「地銀再編」”. 文春オンライン. 週刊文春 2020年12月3日号. 文藝春秋. 2021年9月16日閲覧。
- ^ “特別社友の呼称、田中氏が返上 山口銀元頭取 | 中国新聞デジタル”. 特別社友の呼称、田中氏が返上 山口銀元頭取 | 中国新聞デジタル. 中国新聞社 (2020年12月10日). 2022年7月29日閲覧。
- ^ “田中耕三氏が死去 元山口銀行頭取”. 日本経済新聞社. (2021年9月14日) 2021年9月15日閲覧。