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田中美矩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
田中 美矩
時代 江戸時代後期
生誕 宝暦4年(1754年
死没 文化9年3月6日1812年4月17日
改名 田中安五郎、元之進、五郎左衛門
別名 方矩[1]
諡号 古道先生
幕府 江戸幕府佐渡奉行所
氏族 甲斐源氏佐渡田中家
父母 田中美真、石井いち
辻重意娘
田中葵園、疇之助
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田中 美矩(たなか よしのり?)は江戸時代後期の佐渡奉行所地役人。佐渡田中家10代。

経歴

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宝暦4年(1754年)生まれ[2]。幼名は安五郎[1]。阿川権之助に兵法・鎗術を学んだ[3]明和8年(1771年)部屋住みより御役所向見習となり、2人扶持を受けた[2]安永3年(1774年)御米蔵見習となり、安永4年(1775年)御役所向見習に戻った[2]

安永9年(1780年)御役所向見習、天明元年(1781年)再分所役並役、天明2年(1782年)銀山方定役頭取、天明4年(1784年)銀山方定役・鏈粉成所定役[2]、天明5年(1785年)地方掛[4]、天明7年(1787年)山方役[2]。同年精錬に不手際があったとして押込30日を科された[5]

天明8年(1788年)6月[4]前年分地方・銀山御勘定等御用のため江戸に赴任し[2]寛政元年(1789年)8月帰郷した[4]。寛政2年(1790年)山方役、寛政5年(1793年)地方掛[2]、寛政11年(1799年)地方掛頭取助[4]享和2年(1802年)[2]安五郎に元之進の名を譲り、五郎左衛門と改称した[4]文化元年(1804年)地方掛頭取[4]

文化6年(1809年)銀山方定役[2]。文化9年(1812年)3月6日56歳で病没した[4]。諡号は古道先生、法名は光徳院満誉定真惇斎居士[4]

遺稿

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  • 「賦山河連歌」(寛政4年(1792年))[6]
  • 「歌稿 祖母追禅」[6]
  • 「歌稿 秋」[6]
  • 「俳句」[6]
  • 「見くるしき事」[6]

親族

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脚注

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  1. ^ a b 佐藤 2003, p. 4.
  2. ^ a b c d e f g h i 佐藤 2003, pp. 14–15.
  3. ^ 資料目録 2003, p. 89.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 田中 1931.
  5. ^ 佐藤 2003, p. 19.
  6. ^ a b c d e 資料目録 2003, p. 93.
  7. ^ a b 佐藤 2003, p. 3.

参考文献

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  • 「葵園先生年譜」『葵園遺稿』田中完三、1931年9月。 
  • 佐藤利夫「佐渡田中家の系譜」『地役人の系譜 田中葵園資料寄贈記念展報告書』相川郷土博物館、2003年3月。 
  • 「資料目録」『地役人の系譜 田中葵園資料寄贈記念展報告書』相川郷土博物館、2003年3月。