田中美矩
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 宝暦4年(1754年) |
死没 | 文化9年3月6日(1812年4月17日) |
改名 | 田中安五郎、元之進、五郎左衛門 |
別名 | 方矩[1] |
諡号 | 古道先生 |
幕府 | 江戸幕府佐渡奉行所 |
氏族 | 甲斐源氏佐渡田中家 |
父母 | 田中美真、石井いち |
妻 | 辻重意娘 |
子 | 田中葵園、疇之助 |
田中 美矩(たなか よしのり?)は江戸時代後期の佐渡奉行所地役人。佐渡田中家10代。
経歴
[編集]宝暦4年(1754年)生まれ[2]。幼名は安五郎[1]。阿川権之助に兵法・鎗術を学んだ[3]。明和8年(1771年)部屋住みより御役所向見習となり、2人扶持を受けた[2]。安永3年(1774年)御米蔵見習となり、安永4年(1775年)御役所向見習に戻った[2]。
安永9年(1780年)御役所向見習、天明元年(1781年)再分所役並役、天明2年(1782年)銀山方定役頭取、天明4年(1784年)銀山方定役・鏈粉成所定役[2]、天明5年(1785年)地方掛[4]、天明7年(1787年)山方役[2]。同年精錬に不手際があったとして押込30日を科された[5]。
天明8年(1788年)6月[4]前年分地方・銀山御勘定等御用のため江戸に赴任し[2]、寛政元年(1789年)8月帰郷した[4]。寛政2年(1790年)山方役、寛政5年(1793年)地方掛[2]、寛政11年(1799年)地方掛頭取助[4]。享和2年(1802年)[2]子安五郎に元之進の名を譲り、五郎左衛門と改称した[4]。文化元年(1804年)地方掛頭取[4]。
文化6年(1809年)銀山方定役[2]。文化9年(1812年)3月6日56歳で病没した[4]。諡号は古道先生、法名は光徳院満誉定真惇斎居士[4]。
遺稿
[編集]親族
[編集]- 父:田中美真(享保11年(1726年) - 天明4年(1784年)12月11日)[4]
- 母:いち(石井英純娘[7]、享保16年(1731年) - 寛政6年(1794年)11月3日[4])
- 妻(辻六兵衛重意娘[7]、宝暦9年(1759年) - 天保8年(1837年)11月[4])
- 子:田中葵園(天明2年(1782年)6月8日 - 弘化2年(1845年)5月3日)[4]
- 子:田中疇之助(天明6年(1786年) - 享和3年(1803年)6月22日)[4]