コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

田中杏子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たなか あこ

田中 杏子
生誕 10月30日
日本の旗 日本大阪府
職業 スタイリスト雑誌編集者[1]
著名な実績Numéro TOKYO』創刊
テンプレートを表示

田中 杏子(たなか あこ、Ako Tanaka10月30日 - )[2][3]は日本のスタイリスト雑誌編集者である。

来歴

[編集]

中学生の頃からスタイリストに憧れ、ファッション関係の仕事に就くのが夢だった[2]。アパレル関係の仕事をしていた父親の勧めで[2]高校卒業後、イタリアミラノに渡る。最初の3年間はデザイン学校でデザインやパターンを学んだ。自分でテストシュートをしてブックを制作し、それを持ち歩いてセールスに行き、勤め先を探した。3件目に立ち寄ったスタイリスト事務所で仕事を貰えたが、アシスタントとして雇われた為、最初の1ヶ月間は無給だった。1ヶ月経ったら、給料が支給されるようになった上、周りの人物が最初の1ヶ月分の給料をポケットマネーで出してくれた[2]

1991年平成3年)に帰国。何もコネがなかった為、ミラノの時と同様ブックを持って営業に回った。フリーランスのスタイリストとして『流行通信』『スプリング』『フィガロ』で働き、広告やショーなど仕事の幅が広がってきた頃に『エル・ジャポン』から誘いを受けた[2]。同誌の当時の編集長森明子から薫陶を受けたと語っている[2]。『流行通信』の編集長が『ヴォーグ・ニッポン』を創刊する際に声をかけられ、ファッション・エディターとして参加した。参加するに当たって、日経コンデナストに入社して正社員となり、編集者になるように言われていた。その頃の『ヴォーグ・ニッポン』は創刊したばかりで、本国のチームが乗り込んできて指示を出していた。彼らは雑誌の質を、それに関わるクリエーターのランクで決める。同誌に関わるクリエーターは世界レベルのAランクでなければならず、世界レベルのクリエーターは自分のチームを持つ為、スタイリストとしては入り込めない部分もあった。そのため、エディターとなって雑誌に関わるというのは自然な流れであった[2][4]。伊勢丹の販促本のプロデュースにも参加した。

2005年(平成17年)11月に『Numéro TOKYO』準備室を作り、2007年(平成19年)2月に創刊、編集長を務める[1][5]

出典

[編集]
  1. ^ a b Osaki Chiyoko (2007年3月14日). “扶桑社『ヌメロ トウキョウ』編集長 田中杏子さん” (日本語). キャリアインタビュー. cafeglobe.com. 2010年10月26日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 第7回 Numero TOKYO(ヌメロ・トウキョウ)編集長 田中杏子さん” (日本語). インタビュー ニッポンの編集長. Fujisan.co.jp. pp. pp.1 (2009年6月). 2010年10月26日閲覧。
  3. ^ “[http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_200704/numero_tokyo07428.html 『Numéro TOKYO』創刊記念 藤原ヒロシ×田中杏子トークショー]” (日本語). イベント. 青山ブックセンター (2007年). 2010年10月26日閲覧。
  4. ^ 第7回 Numero TOKYO(ヌメロ・トウキョウ)編集長 田中杏子さん” (日本語). インタビュー ニッポンの編集長. Fujisan.co.jp. pp. pp.2 (2009年6月). 2010年10月26日閲覧。
  5. ^ Yumiko Takayama (2009年6月). “Vol.2 「Numero TOKYO」編集長・田中杏子さんの「美人論」(前編)” (日本語). ビューティスタイル. msn. pp. pp.2. 2010年10月26日閲覧。

外部リンク

[編集]