田中彰 (1954年生の内野手)
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 熊本県熊本市西区 |
生年月日 | 1954年7月27日(70歳) |
身長 体重 |
173 cm 71 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
ポジション | 二塁手、三塁手 |
プロ入り | 1976年 ドラフト外 |
初出場 | 1979年4月9日 |
最終出場 | 1980年11月8日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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田中 彰(たなか あきら、1954年7月27日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手(内野手)。
来歴・人物
[編集]九州学院高から神戸学院大学に進学[1]。もともとは外野手であったが高校3年の時に投手に転向し大学でも投手として活躍[1]。関西大学野球連合の下部リーグである阪神大学野球リーグでは2回優勝、2年春と秋にノーヒットノーランを記録した[1]。1974年秋季リーグ優勝後の入替戦で大阪学院大を降し、関西六大学野球リーグに昇格。1976年春季リーグでは3位と健闘。リーグ通算成績は36試合登板、8勝21敗、防御率3.29。
1976年オフにドラフト外で阪急ブレーブスに入団し、野手転向[1]。1979年には俊足を買われ、主に代走として26試合に出場。翌1980年11月には二塁手として初先発出場を果たす。しかしその後は出場機会がなく、1982年限りで現役を引退した[1]。
引退後は1993年頃にオリックス・ブルーウェーブにスコアラーとして復帰。1999年に山田久志監督が就任した中日ドラゴンズにスコアラーとして移籍した。2009年当時は中日ドラゴンズイヤーブックによると、監督付きスコアラーとなっている。2012年からは横浜DeNAベイスターズでスコアラーを務める。退団後は高槻市シルバー人材センターで理事を務める[2]。
木村公一のノンフィクション短編集「裏方」で、1995年のヤクルトとの日本シリーズの仕事が取り上げられている。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1979 | 阪急 | 26 | 1 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1980 | 1 | 4 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .250 | .250 | .250 | .500 | |
通算:2年 | 27 | 5 | 5 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .200 | .200 | .200 | .400 |
記録
[編集]- 初出場:1979年4月9日、対南海ホークス前期2回戦(阪急西宮球場)、5回裏に中沢伸二の代走で出場
- 初盗塁:1979年4月10日、対西武ライオンズ前期1回戦(阪急西宮球場)、8回裏に2盗(投手:古沢憲司、捕手:野村克也)
- 初打席:1979年4月12日、対西武ライオンズ前期3回戦(平和台球場)、8回裏に山下律夫の前に凡退
- 初先発出場:1980年11月8日、対近鉄バファローズ前期13回戦(藤井寺球場)、2番・二塁手で先発出場
- 初安打:同上、久保康生から単打
背番号
[編集]- 59 (1977年 - 1982年)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 田中彰 - NPB.jp 日本野球機構