コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

カン・タガミ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田上寛から転送)
カン・タガミ
Kan Tagami
田上 寛
生誕 1918年2月21日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州セルマ英語版
死没 (2005-11-24) 2005年11月24日(87歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ハワイ州ミリラニ英語版
所属組織 アメリカ合衆国陸軍の旗 アメリカ陸軍
軍歴 1941 - 1961
最終階級 少佐
テンプレートを表示

カン・タガミ(Kan Tagami、漢字:田上 寛[1]1918年2月21日 - 2005年11月24日)は、アメリカ合衆国の軍人。連合国軍占領下の日本において、ダグラス・マッカーサーの個人通訳を務め、昭和天皇と一人で謁見した唯一の日系2世として知られる。

また、オークリーフ・クラスター英語版付きの青銅星章をはじめとして、アメリカ従軍記章アジア・太平洋従軍章英語版進駐軍記章英語版第二次世界大戦戦勝記念章戦闘歩兵バッジ英語版朝鮮従軍記章英語版国土防衛従軍章国連朝鮮戦争従軍章英語版予備軍年功記章英語版キャリア・インテリジェンス・メダル英語版など、全部で11の勲章を授与された[2]

生涯

[編集]

1902年に渡米し、自転車店との兼業農家を営む父・千五郎と、1915年に渡米した農場労働者の母・ちせの次男として、カリフォルニア州セルマで生まれる。両親は、共に広島県の出身である[1][2]

両親の方針により、8歳の時に父の故郷である、現在の広島県海田町に送られ、13歳まで祖父母の下で尋常小学校に通いながら、日本語日本の文化を学んだ[3]

帰国後は、ハイスクールを経てメリーランド大学へ進学したものの、当時の排日的風潮英語版から、希望する形での就職は叶わず、卒業後は青果店で働く事を余儀なくされた[2]

1941年2月17日に陸軍へ入隊し、当初はカリフォルニア州モントレー湾近郊のフォート・オード英語版で、第153歩兵連隊英語版の一員として訓練を受けていた。しかし、同年12月7日の太平洋戦争開戦に伴い、翌1942年2月19日に『大統領令9066号』が発令され、日系人の強制収容が実施された事により、自身以外の家族は、アリゾナ州ポストン戦争強制収容センターへ送致された。その理不尽に憤りながらも、母国への忠誠心を示したいと考えたタガミは、軍が日本語の流暢な人材を求めている事を知り、1942年6月にミネソタ州キャンプ・サベージ英語版に移転したばかりの陸軍情報部語学学校(MISLS)へ転属した[2]

サベージ移転後のMISLS第1期生となったタガミは、同校を首席で卒業した。これにより、タガミは前線には赴かず、講師として後身の指導にあたるよう、上層部より請われた同期生10人の内の1人となった。しかし、太平洋戦争の激化に伴い、タガミは前線への派遣を、自ら希望するようになった[2]

その後は、1944年7月から1945年4月にかけて、ビルマ戦線において、壊滅状態にあった『メリル略奪隊英語版』に成り代わるものとして、第124騎兵連隊英語版の隷下で編成された『マーズ任務部隊』において、タガミは15人から成る語学要員分遣隊の隊長に任ぜられた。同任務部隊は、日本陸軍の前線の背後における任務を与えられ、国民革命軍に武器と食料を供給する為の援蒋ルートにおける掃討作戦にあたった。そうした中で、タガミ達は捕虜の尋問のほか、鹵獲した文書の翻訳に従事した[2]

終戦後は、首都ワシントンD.C.ペンタゴンに派遣され、日本語文書の翻訳に従事した。やがて、連合国軍占領下の日本において、復興の支援にあたる事を希望するようになり、1946年12月に、ダグラス・マッカーサーGHQ最高司令官の副官兼個人通訳に就任。通訳だけにとどまらず、日本人の生活習慣や文化、法律に関して、マッカーサーに助言し続けたタガミは、戦後の日本が民主主義社会へ移行するうえで、非常に大きな役割を果たしたと言える[2]

GHQ時代のエピソードとしては、アメリカの報道機関が、昭和天皇に対して、その私生活を撮影させる事を要求した際、タガミは彼等へ圧力を掛けるよう、マッカーサーに進言した。これを受けてマッカーサーは、「陛下にも私生活がある。プライバシーは守られるので、見せたくなかったら、“NO”と仰っていただいて構いません」というメッセージをタガミに託し、皇居へ差し向けた。その際、天皇はタガミに感謝の意を表したうえで、「ご両親は日本人ですか?」と問いかけ、「私は、日系の人々に感謝しております。どうか日米の架け橋になって、今後も宜しく頼みます」と述べたという[2][3][4]

1951年4月に、マッカーサーがGHQ最高司令官を解任されて以降は、対敵諜報部隊に務める事となった。1961年に軍を退役してからも、民間人の立場で政府を支えるべく、1978年にリタイアするまで、アジア全域を股にかける活動を続けた。1996年には、アメリカ軍情報部殿堂英語版入りを果たした[2]

2005年11月24日に、隠居先のハワイ州オアフ島ミリラニで逝去。享年87歳[5]

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]