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生野賢一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生野賢一
第69回安田記念優勝時
(調教助手として。2019年6月2日)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県
生年月日 (1984-08-10) 1984年8月10日(40歳)
身長 157.4cm
体重 47.5kg
血液型 O型
騎手情報
所属団体 JRA
所属厩舎 音無秀孝(栗東)
初免許年 2003年
免許区分 平地・障害
騎手引退日 2010年12月20日
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生野 賢一(しょうの けんいち、1984年昭和59年〉8月10日 - )は、日本中央競馬会栗東トレーニングセンターに所属する元騎手・現調教助手

経歴

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競馬学校第19期生として、2003年平成15年)に騎手免許を取得。同年に栗東音無秀孝厩舎所属として騎手デビュー。同期生に松岡正海長谷川浩大石橋脩などがいる。

初騎乗は同年3月8日中京競馬第5競走のクリスタルシオンで7着。同年4月5日福島競馬第6競走を、ナムラテンニョで制し初勝利を挙げる。

2009年4月25日福島牝馬ステークスブラボーデイジーで制し、重賞初制覇。さらに5月17日ヴィクトリアマイルでも同馬に騎乗し、7年目にしてGI初出走。レースは単勝46.8倍の11番人気と低評価ながら、先行策から最後まで粘りこみ、GI初出走ながら連対を果たした。この年は結局4勝に終わったが、4勝はすべて特別レースで挙げており重賞を勝ったにもかかわらず平場レースでの勝ちが一度もないという珍しい結果になった。

2010年3月28日、阪神第8競走でファンドリゲットに騎乗し落馬、左大腿骨骨幹部骨折などの重傷を負う[1]。手術後は1週間意識が戻らず、脚の切断も危ぶまれたが、後遺症が残ることなく全快した[2]。 しかし復帰後は騎乗数が激減、音無秀孝調教師の勧めもあって2010年12月20日付けで騎手を引退し、音無厩舎の調教助手となった[3]。最後の騎乗もブラボーデイジーとのコンビによる12月19日愛知杯だった。

主な騎乗馬

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  • ブラボーデイジー(2009年福島牝馬ステークス、2009年ヴィクトリアマイル2着)
  • エンシェントヒル(2006年ファイナルステークス

騎乗成績

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日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 2003年3月8日 1回中京1日5R 4歳上500万円下 クリスタルシオン 16頭 7 7着
初勝利 2003年4月5日 1回福島1日6R 4歳上500万円下 ナムラテンニョ 12頭 6 1着
重賞初騎乗 2005年4月24日 3回京都2日11R アンタレスステークス エンシェントヒル 16頭 3 11着
重賞初勝利 2009年4月25日 1回福島5日11R 福島牝馬ステークス ブラボーデイジー 16頭 7 1着
GI初騎乗 2009年5月17日 2回東京8日11R ヴィクトリアマイル ブラボーデイジー 18頭 11 2着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
2003年 8 12 16 173 .046 .116 .208
2004年 14 4 7 160 .088 .113 .156
2005年 19 10 19 382 .050 .076 .126
2006年 10 7 7 169 .059 .101 .142
2007年 7 4 4 120 .058 .092 .125
2008年 2 4 2 98 .020 .061 .082
2009年 4 3 2 106 .038 .066 .085
中央 64 44 57 1208 .053 .089 .136
地方 0 0 0 5 .000 .000 .000

脚注

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  1. ^ 阪神8レースの競走中止について”. ラジオNIKKEI. 2022年10月30日閲覧。
  2. ^ 『優駿』2011年2月号、135頁。 
  3. ^ 金折・菊池・北村浩・生野・田島・仲田・船曳・柄崎騎手が引退日本中央競馬会プレスリリース 2010年12月17日

関連項目

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