甄豊
甄 豊(しん ぽう、? - 10年)は、中国の前漢時代末期から新代にかけての政治家。字は長伯。荊州南陽郡の人。子は甄尋。
事跡
[編集]王莽の謀臣
[編集]姓名 | 甄豊 |
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時代 | 前漢時代 - 新代 |
生没年 | 生年不詳 - 10年(始建国2年) |
字・別号 | 長伯(字) |
本貫・出身地等 | 荊州南陽郡 |
職官 | 京兆都尉〔前漢〕→水衡都尉〔前漢〕
→泗水相〔前漢〕→左曹中郎将〔前漢〕 |
爵位・号等 | 広陽侯〔前漢〕→広新公〔新〕 |
陣営・所属等 | 成帝→哀帝→平帝→孺子嬰→王莽 |
家族・一族 | 子:甄尋 |
王莽の腹心・幕僚の一人。同姓の甄邯とともに、王莽にさまざまな献策を行った。
綏和元年(紀元前8年)、甄豊は京兆都尉から水衡都尉に遷る。綏和2年(紀元前7年)、泗水相に遷る。元寿2年(紀元前1年)、左曹中郎将から光禄勲に遷る。
元始元年(1年)、甄豊は光禄勲から離れ、同年3月には右将軍に遷る。これと同時に、または後に、少傅も兼任し、太傅王莽・太師孔光・太保王舜とともに四保となった。同年2月に左将軍就任時に、宗廟を安んじる策を定めた功績を評価され、広陽侯に封じられた。元始2年(2年)4月、病により罷免された王崇の後任として、大司空に就任した[1]。
以上のように、元始年間に、甄豊と甄邯は王莽の側近として台頭し、朝廷で威勢を振るい始めた。元始3年(3年)、王宇・呂寛や平帝の母の衛氏の一族が誅滅される事件が起きると、甄豊は王莽の意を汲み、何武・鮑宣・彭宏(彭寵の父)などの名士・豪傑数百人を連座により死に追いやっている。
居摂元年(6年)3月、甄豊は太阿・右払も兼任し、孺子嬰を補佐する。居摂2年(7年)9月の東郡太守翟義の反乱の際には、王舜とともに夜間に宮中を巡回し、王莽を護衛した。
不平の末の最期
[編集]甄豊は、王舜・劉歆らとともに、王莽を早くから補佐していた。しかし、王莽が摂皇帝となってから皇帝に即位するまでは、甄豊ら古くからの腹心ではなく、符命を献上するなどした新たな部下たちが王莽に信任されている。この状況に甄豊は不満を抱いたが、王莽も甄豊のその内心は見抜いていた。
始建国元年(9年)、王莽は新を創建するとともに、甄豊を広新公に封じる一方で、更始将軍に降格した。これにより、甄豊は孫建・王興・王盛とともに四将の一人となったものの、餅売り出身の王盛と同列にされたことになる。甄豊とその子の茂徳侯甄尋は不満を抱きながらも、黙り込むしかなかった。
始建国2年(10年)、甄尋が作成した符命に基き、甄豊は右伯に任命された。ところがそれに就任する前の同年12月、甄尋がさらに作成した符命の内容が、「漢の平帝の后であった黄皇室主(王莽の娘)は、甄尋の妻となるだろう」というものであったため、王莽の怒りを買い、甄尋は逃亡し、甄豊は自殺した。
脚注
[編集]- ^ 以上の甄豊の職歴は『漢書』百官公卿表下による。なお、『漢書』外戚伝下によると、平帝が即位した元寿2年(紀元前1年)に、甄豊はすでに大司空となっているが、これは百官公卿表の記載と矛盾する。本記事は、百官公卿表に拠った。
参考文献
[編集]- 『漢書』巻18 表6 外戚恩澤侯表
- 同 巻19下 表7下 百官公卿表下
- 同 巻69 列伝39 辛慶忌伝
- 同 巻84 列伝54付・翟義伝
- 同 巻86 列伝56 何武伝
- 同 巻97下 列伝67下 外戚伝下
- 同 巻99上 列伝69上 王莽伝上
- 同 巻99中 列伝69中 王莽伝中