琉装
琉装(りゅうそう、沖縄語:
琉球王国という国は薩摩藩の属国および江戸幕府の支配下の日本領土である。この同時に、中国の明朝・清国の冊封国・朝貢国でもあった。長い時間に日中間の文化を取り続けて、日本の和服と中国の漢服の特徴や着方・文様・織り方法を融合し、独自の琉装文化が生まれた。
歴史
[編集]琉球王国以前の琉装に関しての記録は極めて少ないが、何れも日本の縄文時代・弥生時代の服装に近い様式である。前期(15~16世紀)は明朝からの影響が絶大だったが、明朝の滅びに伴って、清国は漢服では無く、満州服(昔のチャイナドレス)を中国全土に強制的に推奨した。琉球王国は服の真似の手本である明朝漢服が無くなったため、服装文化の面ではまた日本の和服に撤回した。17世紀、薩摩藩による琉球侵攻以降、日本の和服が大量流入した。庶民は日本・中国・琉球王国自身の服装の中で無章法に着続けて、琉球王国内は服装乱立の現象が発生し、全国の服装の統一性が無くなってしまった。1800年代から、琉球王国の国王は幾度かの『衣服定』を出し、時代・地域・身分によって諸士や町百姓・夫人の服装が強制的に規定され、それぞれの独特な着用方法を付けされて、いよいよまとめた服装文化になった。基本的に身分の高いものだけが絹製の衣装・絣や紋織りなどを許された。
特徴
[編集]ウチナースガイは亜熱帯の気候風土にあわせて色々な形状があるが、身分が違っていても、下記のような特徴がある。
- 衿は縫い留めず、広衿で長く折り曲げるのものある。
- 広袖で筒状になっている。
- 対丈なので、おはしょりはしない。
- 身幅は布幅いっぱい使い、ゆったりした縫い方である
- 和服とは違って、太帯で固定せず着られる。
- 帯を使用する際は、和服とは異なり前で結ぶ。
- 帯をせずに、下着の中帯に押し込んで着ることもある。
- 礼服は男女とも、二部式の中着の上から表着を着用する。
- 二部式の中着と表着の、素材や色の組み合わせで印象が変わる。
日本での文献記載
[編集]思想家 柳宗悦は以下のように記し、琉装と能衣装との近接性を指摘している。(柳宗悦選集 第5巻「沖縄の人文」より「沖縄の富」(富は原文では旧字体)民芸協会編 春秋社)
しかし日本が有つ地方的風俗の中で、最も特色ある土地は北方よりむしろ南方の沖縄であるといわねばなりません。沖縄はいわゆる「琉装」において、特色ある独自の文化を示しているのです。これは沖縄が有つ一つの特権だといわねばなりません。想うに琉装は二つの起源から発したものです。一つは言語と同じく日本の鎌倉、足利時代の風俗を受けぐものです。そうして一つにはその土地の温度や湿度から必然に喚起せられたものなのです。いわば歴史的伝統と自然的要求との結合であって、地方風俗としての充分な根拠を有するものです。
私たちはあの能衣裳が如何に立派なものであるかを知っています。それならなぜその形態を引き承ぐ琉装に美を認めないのでしょうか。能衣裳は既に古典に属するものですが、琉球ではそれが現在にも活きているのです。(中略)想うに形は遠く打掛けに起源を有つものでしょう。断ち方はほとんど能衣裳と変る所がありません。帯を用いはしないのです。今の和装に用いる幅広い帯の流行は起源がもっと新しく、琉装の方がずっと古格を示しているわけです。のみならず幅広い帯を着物の上に用いないということは、全く沖縄の気候が要求することなのです。涼をとる上にそれは極めて自然な服装だといわねばなりません。保健の上から見ても理に適ったところでありましょう。琉装は日本の風俗の正系であり、しかも地方的特色の最も鮮かなものです。
-
南島雜話その5
-
琉球の庶民服
-
琉球王国の男女の庶民服
-
礼服着の士族の家庭
-
中級の士族の家庭
中国での文献記載
[編集]脚注
[編集]外部リンク
[編集]- 『琉装』 - コトバンク
- 琉球民族衣装普及協会(アゴラプラン沖縄) - ウェイバックマシン(2017年1月18日アーカイブ分)
- 沖縄琉装苑
- 読谷村観光協会琉装一番屋