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琉装

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
江戸時代の琉装の絵。日中両国の服の特徴が見られる
琉装の男性
紅型という染法を使った琉装を着て琉球舞踏を踊る女性
礼服着の士族の男子(左)と庶民服の武士の男子(右)

琉装(りゅうそう、沖縄語: 沖繩姿󠄁ウチナースガイ)とは、かつて琉球王国で着用されていた民族衣装のことであり、現在では沖縄県の伝統的な地方衣装として知られている。

概要と歴史

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琉球王国は薩摩藩の支配下にあり、薩摩藩は徳川幕府の一部であったため、当時の琉球は日本領土とされていた。一方で、中国の明王朝清王朝冊封国としての関係も続いており、日中双方の文化的影響を受けていた。その結果、日本の和服と中国の漢服の特徴や、着用法、文様、織り技術が琉球王国で融合し、独自の琉装文化が形成されていた。

琉球王国が成立する以前の服装については、記録や文物がほとんど残っていないものの、日本の縄文時代弥生時代の服装に似た様式だったと推測されている。

15世紀から16世紀にかけて、琉装は明王朝から大きな影響を受け、明代の漢服の特徴が色濃く反映されていた。しかし、明国の滅亡と清国の成立に伴い、清国は漢服ではなく満洲服(いわゆるチャイナドレスの原型)を中国全土に普及させていた。この影響により、明代の漢服を模範としていた琉球王国は、服装文化の基盤を失った。

17世紀1609年薩摩藩による「琉球侵攻」以降、江戸時代風の和服が大量に流入し、琉装は正式的に和服に影響を受けるようになった。当時の琉球王国では、服に関する規制が少なかったため、庶民は日本、中国、そして琉球独自の服装を自由に取り入れていた。琉装はこの時期に多様化が進んでいた一方で、全国的な統一感を失うことにもつながった。

18世紀に入ると、琉球国王は『衣服定』と呼ばれる服装規定を幾度も発布し、時代や地域、身分に応じた服装を細かく定めていた。これにより、貴族町民農民商人など、それぞれの身分や役割に応じた独特の着用方法が確立され、ようやく統一的な服装文化が整いた。とくに身分の高い者には、製の衣装や、(かすり)、紋織りなどが許され、それが現代の琉装の象徴的な要素となっている。

特徴

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ウチナースガイは亜熱帯の気候風土にあわせて色々な形状があるが、身分が違っていても、下記のような特徴がある。

  • 衿は縫い留めず、広衿で長く折り曲げるのものある。
  • 広袖で筒状になっている。
  • 対丈なので、おはしょりはしない。
  • 身幅は布幅いっぱい使い、ゆったりした縫い方である
  • 和服とは違って、太帯で固定せず着られる。
  • 帯を使用する際は、和服とは異なり前で結ぶ。
  • 帯をせずに、下着の中帯に押し込んで着ることもある。
  • 礼服は男女とも、二部式の中着の上から表着を着用する。
  • 二部式の中着と表着の、素材や色の組み合わせで印象が変わる。

日本での文献記載

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思想家 柳宗悦は以下のように記し、琉装と能衣装との近接性を指摘している。(柳宗悦選集 第5巻「沖縄の人文」より「沖縄の富」(富は原文では旧字体)民芸協会編 春秋社)

 しかし日本が有つ地方的風俗の中で、最も特色ある土地は北方よりむしろ南方の沖縄であるといわねばなりません。沖縄はいわゆる「琉装」において、特色ある独自の文化を示しているのです。これは沖縄が有つ一つの特権だといわねばなりません。想うに琉装は二つの起源から発したものです。一つは言語と同じく日本の鎌倉、足利時代の風俗を受けぐものです。そうして一つにはその土地の温度や湿度から必然に喚起せられたものなのです。いわば歴史的伝統と自然的要求との結合であって、地方風俗としての充分な根拠を有するものです。

 私たちはあの能衣裳が如何に立派なものであるかを知っています。それならなぜその形態を引き承ぐ琉装に美を認めないのでしょうか。能衣裳は既に古典に属するものですが、琉球ではそれが現在にも活きているのです。(中略)想うに形は遠く打掛けに起源を有つものでしょう。断ち方はほとんど能衣裳と変る所がありません。帯を用いはしないのです。今の和装に用いる幅広い帯の流行は起源がもっと新しく、琉装の方がずっと古格を示しているわけです。のみならず幅広い帯を着物の上に用いないということは、全く沖縄の気候が要求することなのです。涼をとる上にそれは極めて自然な服装だといわねばなりません。保健の上から見ても理に適ったところでありましょう。琉装は日本の風俗の正系であり、しかも地方的特色の最も鮮かなものです。

中国での文献記載

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尚巴志建立統一的琉球國,史稱第一尚氏,仍然向明朝朝貢。據《明史·外國列傳·琉球國》載,宣德元年,尚巴志王遣使向明朝求賜冠服,獲賜皮弁服[1]。後來又獲賜臣下服飾[2]至正統元年,尚巴志王再遣使朝貢,使者稱之前所賜的臣下冠服已經破爛,請求再賜,明英宗則下令琉球國自行製作冠服[2]。謝杰《琉球錄撮要補遺》則載吞併山南、山北的尚巴志王獲賜麟袍、犀帶《琉球錄撮要補遺》:「以其國有三王:曰山南王、山北王,後為所併,故獨稱中山封之者,仍其舊號也;賜以麟袍、犀帶視二品秩。」。後來尚圓推翻第一尚氏,建立第二尚氏王朝,繼續向明朝朝貢,歷代均獲賜服。

脚注

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  1. ^ 《明史·外國列傳·琉球國》:「宣德元年,其王以冠服未給,遣使來請;命製皮弁服賜之。」
  2. ^ a b 《明史·外國列傳·琉球國》:「使者奏:『本國陪臣冠服,皆國初所賜。歲久敝壞,乞再給』。』又言:『小邦遵奉正朔而海道險遠,受曆之使或半歲、一歲始返,常懼後時。』。帝曰:『冠服,令本邦自製;「大統曆」,福建布政司給予之。』。」

外部リンク

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