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王通 (明)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王 通(おう つう、生年不詳 - 1452年)は、明代軍人は彦亨。本貫西安府咸寧県

生涯

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金郷侯王真の子として生まれた。父の官を嗣いで都指揮使となった。父の兵を率いて転戦し、功績を挙げて都督僉事に累進した。永楽元年(1403年)5月、武義伯に封じられ、世券を与えられた。永楽7年(1409年)、長陵の造営を監督した。永楽11年(1413年)5月、成山侯に爵位を進められた。永楽12年(1414年)、永楽帝の漠北遠征に従い、左掖を管轄した。永楽16年(1418年)、陝西での飢饉に際して振恤にあたった[1]。永楽20年(1422年)、永楽帝の漠北遠征に従い、右掖を管轄した。永楽22年(1424年)、洪熙帝が即位すると、王通は後府を管掌するよう命じられ、太子太保の位を加えられた。

ときに交趾総兵官の豊城侯李彬が先だって死去しており、栄昌伯陳智と都督方政が参将として交趾に駐屯していたが、二人の仲は険悪で協調を欠いていた。ベトナム北部で黎利が勢力を拡大し、たびたび郡邑を破り、明の将軍や官吏を殺していた。宣徳元年(1426年)4月、宣徳帝は陳智と方政の官爵を削った。王通が征夷将軍の印を受けて総兵官となり、軍を率いて黎利の討伐に赴くこととなった。黎利の弟の黎善が交州府城を攻め、都督の陳濬らがこれを撃退した。王通が交趾に到着すると、道を分かれて出撃した。参将の馬瑛が黎利の軍を石室県で撃破した。11月、王通は軍を率いて馬瑛と合流し、応平の寧橋までいたって伏兵に遭遇した。王通の軍は大敗して、戦死者は2万から3万人に達し、兵部尚書の陳洽も敗走中に自死した。王通は負傷して交州府に帰った。黎利は乂安でこのことを聞くと、自ら精兵を率いて東関を包囲した。王通は戦意を喪失しており、ひそかに人を北京に派遣して黎利の封建を許すよう請願し、清化迤南の地が黎利に帰属することを認めて停戦しようとした。按察使の楊時習がこれに反対したので、王通は声を荒げて叱った。清化知州羅通も城の放棄を受け入れず、指揮の打忠とともに堅守していた。北京の朝廷は柳升らを派遣して王通を助けさせることにした。

宣徳2年(1427年)2月、黎利が交州府城を攻撃した。王通は精兵5000を出撃させて黎利軍の不意を突き、その陣営を破って、黎利の司空の丁礼以下1万人あまりを斬った。黎利が敗走したので、諸将は追撃の許可を求めたが、王通は許可しなかった。黎利は態勢を立て直して、柵を立てて塹壕を掘り、兵を分遣して昌江・諒江を攻め落とし、交州を再び包囲した。王通は兵を集結させて出撃しなかった。黎利が講和を求めたので、王通はこれを奏聞した。9月、柳升が倒馬坡で戦没し、沐晟の軍が水尾県で進軍できなくなった。王通はひそかに黎利との交渉を進めた。10月、王通は交州における明の官吏や軍民を集めて城から出させ、黎利と盟約して軍の撤退を開始した。12月、王通は太監の山寿と陳智らに命じて水軍を欽州に撤退させ、自らは歩兵と騎兵を率いて広西に撤退した。南寧までいたって、ようやく撤退のことを奏聞した。北京の朝廷では厭戦論が広がり、ついに交趾の放棄が承認された。

宣徳3年(1428年)、王通が北京に帰ると、群臣たちの弾劾を受け、死刑を論告されて獄に繋がれた。世襲の特権を停止され、家の財産を没収された。正統4年(1439年)、特別に一命を赦されて、爵位を剥奪されて民とされた。正統14年(1449年)、景泰帝が即位すると、王通は都督僉事に起用され、北京城を守った。エセン・ハーンの侵攻を防いだ功績により、都督同知に進み、天寿山を守備するよう命じられ、没収された財産を返還された。景泰3年(1452年)、死去した。

天順元年(1457年)、子の王琮が成山伯の爵位を嗣いだ。

脚注

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  1. ^ 明史』成祖紀三

参考文献

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  • 『明史』巻154 列伝第42