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王狗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王 狗(おう く、生没年不詳)は、百済の人物。『続日本紀延暦十年(791年)四月条の文忌寸最弟らの言上によると、漢の高帝の血筋で百済に移住していた[1]

内容

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戊戌、左大史正六位上文忌寸最弟・播磨少目正八位上武生連真象等言、文忌寸等、元有二家。東文称直、西文号首。相比行事、其来遠焉。今、東文挙家、既登宿禰、西文漏恩、猶沈忌寸。最弟等、幸逢明時、不曲察、歴代之後、申理尤由。伏望、同賜栄号、永貽孫謀。有勅、責其本系。最弟等言、漢高帝之後曰鸞。々之後、王狗、転至百済。百済久素王時、聖朝遣使、徴召文人。久素王、即以狗孫王仁貢焉。是文・武生等之祖也。於是、最弟及真象等八人、賜姓宿禰 — 続日本紀、巻第四十、桓武天皇延暦十年四月戊戌

人物

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王狗の孫である王仁は、百済貴須王に派遣されて、『論語』『千字文』を携えて来日したとされているが、『千字文』は6世紀に成立したので、応神朝にあたる5世紀には存在せず、つくり話しとみるのが通説である[2][3]。それは、7世紀から8世紀為政者にあった、漢字漢学中国が起源であり、中国から百済を通過して日本に伝えられたという認識が王仁の出自に仮託されたものである[1][2]

なお、実際の王仁は高句麗に滅ぼされた朝鮮植民地楽浪郡漢人学者楽浪王氏楽浪郡出土の印章漆器封泥墓壁銘などに多く記されており、楽浪郡の有力豪族であったことが知られる)か[4][5]、あるいは実在の人物ではないかのどちらかに大別される[6][7][8][9]津田左右吉は、後人の造りごととしている[7]

脚注

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  1. ^ a b 犬飼隆『「鳥羽之表」事件の背景』愛知県立大学〈愛知県立大学文学部論集 国文学科編 (57)〉、2008年、12頁。 
  2. ^ a b 井上光貞『王仁の後裔氏族と其の仏教』岩波書店〈井上光貞著作集二 日本古代思想史の研究〉、1986年。 
  3. ^ 犬飼隆『「鳥羽之表」事件の背景』愛知県立大学〈愛知県立大学文学部論集 国文学科編 (57)〉、2008年、6頁。 
  4. ^ 日本大百科全書王仁』 - コトバンク
  5. ^ 朝日日本歴史人物事典王仁』 - コトバンク
  6. ^ 田中健夫石井正敏 編『対外関係史辞典』吉川弘文館、2009年1月1日、356頁。ISBN 978-4642014496 
  7. ^ a b 中村新太郎『日本と中国の二千年〈上〉―人物・文化交流ものがたり』東邦出版社、1972年1月1日、53頁。 
  8. ^ 斎藤正二『日本的自然観の研究 変容と終焉』八坂書房斎藤正二著作選集4〉、2006年7月1日、129頁。ISBN 978-4896947847 
  9. ^ 菅原信海『日本思想と神仏習合』春秋社、1996年1月1日、24頁。ISBN 978-4393191057