王狗
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王 狗(おう く、生没年不詳)は、百済の人物。『続日本紀』延暦十年(791年)四月条の文忌寸最弟らの言上によると、漢の高帝の血筋で百済に移住していた[1]。
内容
[編集]戊戌、左大史正六位上文忌寸最弟・播磨少目正八位上武生連真象等言、文忌寸等、元有二二家一。東文称レ直、西文号レ首。相比行レ事、其来遠焉。今、東文挙レ家、既登二宿禰一、西文漏レ恩、猶沈二忌寸一。最弟等、幸逢二明時一、不レ蒙二曲察一、歴レ代之後、申レ理尤レ由。伏望、同賜二栄号一、永貽二孫謀一。有レ勅、責二其本系一。最弟等言、漢高帝之後曰レ鸞。々之後、王狗、転至二百済一。百済久素王時、聖朝遣レ使、徴二召文人一。久素王、即以二狗孫王仁一貢焉。是文・武生等之祖也。於レ是、最弟及真象等八人、賜二姓宿禰一。 — 続日本紀、巻第四十、桓武天皇延暦十年四月戊戌
人物
[編集]王狗の孫である王仁は、百済貴須王に派遣されて、『論語』『千字文』を携えて来日したとされているが、『千字文』は6世紀に成立したので、応神朝にあたる5世紀には存在せず、つくり話しとみるのが通説である[2][3]。それは、7世紀から8世紀の為政者にあった、漢字・漢学は中国が起源であり、中国から百済を通過して日本に伝えられたという認識が王仁の出自に仮託されたものである[1][2]。
なお、実際の王仁は高句麗に滅ぼされた漢の朝鮮植民地楽浪郡の漢人学者(楽浪王氏は楽浪郡出土の印章、漆器、塼、封泥、墓壁銘などに多く記されており、楽浪郡の有力豪族であったことが知られる)か[4][5]、あるいは実在の人物ではないかのどちらかに大別される[6][7][8][9]。津田左右吉は、後人の造りごととしている[7]。
脚注
[編集]- ^ a b 犬飼隆『「鳥羽之表」事件の背景』愛知県立大学〈愛知県立大学文学部論集 国文学科編 (57)〉、2008年、12頁。
- ^ a b 井上光貞『王仁の後裔氏族と其の仏教』岩波書店〈井上光貞著作集二 日本古代思想史の研究〉、1986年。
- ^ 犬飼隆『「鳥羽之表」事件の背景』愛知県立大学〈愛知県立大学文学部論集 国文学科編 (57)〉、2008年、6頁。
- ^ 日本大百科全書『王仁』 - コトバンク
- ^ 朝日日本歴史人物事典『王仁』 - コトバンク
- ^ 田中健夫、石井正敏 編『対外関係史辞典』吉川弘文館、2009年1月1日、356頁。ISBN 978-4642014496。
- ^ a b 中村新太郎『日本と中国の二千年〈上〉―人物・文化交流ものがたり』東邦出版社、1972年1月1日、53頁。
- ^ 斎藤正二『日本的自然観の研究 変容と終焉』八坂書房〈斎藤正二著作選集4〉、2006年7月1日、129頁。ISBN 978-4896947847。
- ^ 菅原信海『日本思想と神仏習合』春秋社、1996年1月1日、24頁。ISBN 978-4393191057。