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王溥 (軍人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
王 溥
Wang Pu
生誕 1908年2月
清の旗 遼寧省興城県曹庄郷
死没 1940年11月16日
中華民国の旗 中華民国 河北省
所属組織 奉天派
国民革命軍
満州国軍
八路軍
最終階級 上校(満州国軍)
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王 溥(おう ふ / ワン・プー、1908年光緖33年)2月 - 1940年民国29年)11月16日)は中華民国の軍人。は彦東、は英亜。奉天派満洲国軍の所属であったが、のちに離反し八路軍に加入、百団大戦にて戦死。

経歴

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遼寧省興城県曹庄郷(現興城市曹庄鎮中国語版)の農家に生まれる。

1924年、興城中学を中退し郭松齢配下の軍官教導班に入る。郭の反乱失敗後は東北陸軍講武堂に入学、卒業後は第34方面軍団司令部副官、教導隊第7連連長を経て1930年、東北陸軍講武堂の高等軍学研究班に再度入学。卒業後同校教官となる[1]。この時22歳にして階級は少校であった。

1931年、満洲事変が勃発すると東北軍黒竜江省主席代理馬占山の配下として関東軍と戦闘。1932年2月7日、馬とともに降伏し、満洲国軍に入隊。中央陸軍訓練処教官、灤県督導長[2]など教育畑を歩き、1937年平漢鉄路警防隊三縦隊六区隊長に就任。

1938年8月23日、1800名の部下とともに離反、八路軍に帰順。31日、六区隊は晉察冀軍区抗日遊撃軍へと改変、王は司令員となる。1939年、中国共産党に加入[3]

1940年11月16日、河北省保定市曲陽県にて戦死。享年32。

野火春風斗古城」の関敬陶(1963年の八一電影中国語版版映画では王潤身、2005年の海潤影視集団中国語版版ドラマでは連奕名中国語版が演じる)は王溥がモデル[4]

注釈

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  1. ^ 抗战英雄---英勇殉国的抗日英烈王溥 中国文明网
  2. ^ 八路军晋察冀军区游击军司令员王溥 晋察冀民族抗日研究会
  3. ^ 中共抗战英烈:王溥 人民网-中国共产党新闻网
  4. ^ 陷敵重圍,最後一顆子彈留給自己 中華人民共和国国防部