王文豹
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王文豹 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1873年(清同治12年)[1] |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清湖南省長沙府長沙県 |
職業: | 警察官僚・法務官・行政官僚・法学者・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 王文豹 |
簡体字: | 王文豹 |
拼音: | Wáng Wénbào |
ラテン字: | Wang Wen-pao |
和名表記: | おう ぶんひょう |
発音転記: | ワン ウェンバオ |
王 文豹(おう ぶんひょう)は、清末・中華民国の警察官僚・法務官・行政官僚・法学者・政治家。当時において監獄制度を実際に司り、当該制度の第一人者であった。字は紹荃。
事績
[編集]清の附生(府・州・県で採用された生員)。1902年(光緒28年)、日本に留学し、東京帝国大学で治安警察法を専攻する。その後、巡査教習所を経て警視庁で警察法を学んだ。1905年(光緒31年)に帰国すると、湖南省警察庁上席顧問兼巡警教習所教官となる。翌年、北京に移り、北京外城巡警総庁検事・外城分庁知事に任ぜられ、以後、行政局長、衛生局長も歴任した[2]。
中華民国成立後の1912年(民国元年)、警察庁課長に任ぜられる。翌年、禁煙局参事となり、さらに京畿税務局長も兼任した。その後、司法部秘書長に転じ、1914年(民国3年)7月に司法部監獄司司長に任命された。なお北京政府が崩壊する1928年(民国17年)6月まで、そのほとんどの期間において、王文豹はこの地位にあり続けた[3][4][5]。
監獄司司長を務めつつ、1924年(民国13年)11月に王文豹は司法部次長署理を兼任する。1926年(民国15年)4月、賈徳耀内閣で盧信の後任として司法総長代理となり、胡惟徳臨時内閣を経た同年5月まで務める。その後、燕京大学講師に転じたが、1927年(民国16年)7月に監獄司司長に再任され、北京政府崩壊まで務めた。その他、民国学院法律系主任、北平大学法学院法律系講師も務めている[3][4]。
王文豹の没年は不明である。
著作
[編集]- 『監獄改良紀要』(1924年)
注
[編集]- ^ 徐主編(2007)、74頁による。外務省情報部編(1928)、424頁は、1928年時点で「年齢50」としているため、(数え年として)1879年生まれとなる。Who's Who in China 3rd ed., p.836.も1879年生まれとしている。
- ^ 外務省情報部編(1928)、424頁とWho's Who in China 3rd ed., pp.836-837.による。徐主編(2007)、74頁によると、京師警察庁処長、内務部検事、京師市政公所捐務主任を歴任した、とする。
- ^ a b 徐主編(2007)、74頁。
- ^ a b 外務省情報部編(1928)、424頁。
- ^ Who's Who in China 3rd ed., p.837.
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 外務省情報部編『改訂 現代支那人名鑑』東亜同文会調査編纂部、1928年。
- Who's Who in China 3rd ed. (中國名人錄 第三版). The China Weekly Review (Shanghai) (上海密勒氏評論報). (1925)
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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