王家楨
王家楨 | |
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Who's Who in China 4th ed. (1931) | |
プロフィール | |
出生: | 1899年(清光緒25年)[1] |
死去: |
1984年12月28日 中華人民共和国北京市 |
出身地: | 清吉林将軍管轄区阿勒楚喀副都統管轄区双城堡[2] |
職業: | 政治家・外交官 |
各種表記 | |
繁体字: | 王家禎 |
簡体字: | 王家祯 |
拼音: | Wáng Jiāzhēn |
ラテン字: | Wang Chia-chen |
和名表記: | おう かてい |
発音転記: | ワン ジアジェン |
英語名: | C. C. Wang |
王 家楨(おう かて、1899年(光緒25年) - 1984年12月28日)は中華民国・中華人民共和国の政治家・外交官。初めは北京政府の直隷派、奉天派の政治家で、国民政府では張学良の配下として外交畑で活動している。字は樹人。民国時代の政治家・莫徳恵の甥。
事績
[編集]張父子の配下として
[編集]国立北京大学法科を卒業後、日本に留学して慶應義塾大学部理財科で学ぶ。卒業後に帰国し、北京政府交通部法律編輯局書記官となる。孫文(孫中山)が護法運動を開始すると、南下してこれに参加し、広州大元帥府秘書となる。しかし、後に北京政府に戻って直隷派の呉佩孚の秘書となり、日本との連絡役をつとめた。呉が失脚した後は、莫徳恵の甥という関係を利用して奉天派の張作霖に付き、大元帥秘書、外交部秘書をつとめた。[3][4]
張作霖死後、張学良が後継すると、王家楨は引き続きその配下となる。張学良の易幟後に、東北辺防軍司令長官公署外交機要処主任に任ぜられた。1930年(民国19年)4月、国民政府で王は外交部常務次長に抜擢され、さらに外交部特派威海衛接収専員、日本租界回収委員会委員長もつとめている。翌年、満州事変(九・一八事変)で張学良が失脚すると、王も同様に要職から離れた。[3][5][4]
国民政府、中華人民共和国での活動
[編集]しかし、まもなく王家楨は国民政府に復帰し、外交部顧問、国際連盟代表、中央政治委員会外交委員会委員を歴任した。1934年(民国23年)10月、軍事委員会委員長東北行営経済委員会委員に任ぜられる。翌年5月、監察院監察委員になり、1937年(民国26年)5月には国民政府主席東北行轅政務委員会委員に任ぜられたが、同月にただちに罷免された。翌1938年(民国27年)6月、第1期国民参政会参政員となる(第2期でも就任)。以後、蔣介石政権において対日外交の「ブレーン・トラスト」と目された。[3][5][4]
1945年(民国34年)、王家楨は中国代表団顧問として、サンフランシスコで開催された国際連合成立式典に出席する。日中戦争(抗日戦争)終結後、東北生産管理局局長、東北政務委員会常務委員を歴任した。蔣介石からの台湾行きの命令を拒否し、中華人民共和国建国後も大陸に留まる。以後、中国人民外交学会に所属したほか、中国国民党革命委員会(民革)中央委員となり、第2期から第6期で中国人民政治協商会議全国委員会委員をつとめた。1984年12月28日、北京市にて死去。享年86。[3][5]
田中上奏文入手者との説
[編集]王家楨は、いわゆる「田中上奏文」を入手した人物として言及されることがある。ただし、中国側へどのように上奏文が伝播したかについては諸説存在する(詳細は「田中上奏文#田中上奏文の来歴」を参照)。
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
- 「第19編人物 第1章人物伝略」『双城県志』哈爾濱地情網(ハルビン市人民政府地方志弁公室ホームページ)