王子直
王 子直(おう しちょく、生没年不詳)は、北魏から北周にかけての官僚・軍人。字は孝正。本貫は京兆郡杜陵県。
経歴
[編集]雍州主簿・東雍州長史の王琳の子として生まれた。正光年間、雍州に主簿として召し出され、奉朝請を初任とした。太尉府水曹行参軍に任じられ、明威将軍の号を加えられた。525年(孝昌元年)、臨淮王元彧が徐州を攻撃すると、子直は本官のまま元彧の参軍をつとめた。南朝梁の軍と戦って、その軍主の夏侯景超を斬り、梁軍を撃退した[1]。兵乱の後で淮南の民心が安定せず、反乱が続発したため、子直は元彧の命を受けて反乱勢力を招撫し、わずかな期間のうちに合肥以北を帰順させた。528年(永安元年)、員外散騎常侍・鴻臚少卿に任じられた。531年(普泰元年)、後軍将軍・太中大夫の位に進められた。賀抜岳が関中に入ると、子直はその下で開府主簿をつとめ、行台郎中に転じた。534年(永熙3年)、孝武帝が関中に入ると、子直は山北県男に封じられた。
535年(大統元年)、漢熾の屠各が南山で起兵し、隴東の屠各と連係した。子直は宇文泰の命を受けて涇州の兵5000を率いて反乱軍を撃破し、南山を平定した。尚書左外兵郎中に任じられた。537年(大統3年)、車騎将軍に進められ、中書舎人を兼ねた。538年(大統4年)、宇文泰に従って東魏による洛陽の包囲を解かせ、河橋の戦いに参戦した。尚書左丞を兼ね、秦州総管府司馬として出向した。546年(大統12年)、涼州刺史の宇文仲和が涼州に拠って叛くと、子直は隴右大都督の独孤信に従ってこの反乱を鎮圧した。入朝して大行台郎中となり、丞相府記室を兼ねた。吐谷渾が西平を攻撃すると、子直は尚書兵部郎中を兼ね、隴右に出兵した。吐谷渾の軍を長寧川で撃破し、敗走させた。549年(大統15年)、車騎将軍・左光禄大夫の位に進められ[2]、太子中庶子に任じられ、斉王元廓の友を兼ねた。ほどなく行馮翊郡事となった。550年(大統16年)、斉王元廓が秦隴二州牧として出向すると、子直は王友を兼ねたまま秦州別駕となった。随郡と安陸郡が平定されると、子直は安州長史に任じられ、別駕を兼ね、帥都督の位を加えられた。并州長史に転じた。
552年(廃帝元年)、使持節・大都督に任じられ、行瓜州事をつとめた。554年(恭帝元年)、長安に召還されて黄門侍郎に任じられた。在官のまま死去した。
子の王宣礼は柱国府参軍事となった。
脚注
[編集]- ^ 『周書』王子直伝は「時梁人囲寿春、臨淮王元彧率軍赴援、子直以本官参彧軍事。与梁人戦、斬其軍主夏侯景超、梁人乃退」とする。南朝梁が寿春を攻撃したのは孝昌2年7月のことであり、11月に北魏の揚州刺史の李憲が南朝梁に降って寿春を占領している。この経緯は梁人を撃退したとする本伝の記述に合わない。中華書局版校勘記はこの前年の孝昌元年正月に臨淮王元彧と李憲が都督として東道行台元延明とともに徐州を討ったときの出来事とみなし、寿春に援軍に赴いたと誤ったものであろうとする。
- ^ 張森楷は子直がすでに大統3年に車騎将軍となっていることを指摘して、ここの「車」は「驃」の誤りかともいう。