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王子帯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王子帯(おうじたい、紀元前672年 - 紀元前635年4月)は、の初代君主。姓は、名は。別名に叔帯大叔帯大叔がある。『史記十二諸侯年表には「恵王五年(紀元前672年)、恵后生叔帯」とある。食邑として甘(現在の河南省新郷市原陽県)が与えられた。は昭で、甘昭公と呼ばれる。周の恵王の子で、襄王の異母弟。東周春秋時代に叛乱を起こし王を称した。

王子帯
初代
王朝
在位期間 ? - 紀元前635年
姓・諱 姫帯
諡号 昭公
生年 紀元前672年
没年 紀元前635年
恵王
恵后陳嬀中国語版
年号 不明

生涯

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恵王は恵后陳嬀中国語版とその子の王子帯を寵愛し、王子帯を太子にしようとした。しかし、その前に恵王が死去した。恵王の死は周王室の安定を破壊することとなる。

恵王22年(紀元前655年)、覇主の桓公は首止の会盟を行った。僖公桓公宣公文公文公僖公昭公が参加した。会盟中に諸侯は周の太子鄭(後の襄王)と会見した。太子を尊重することによって周王室を安定させるためであった。恵王は不満をもち、鄭の文公に斉の桓公へ叛するように命じた。これは桓公率いる諸侯同盟軍と鄭の戦争に発展した。

恵王24年(紀元前653年)冬、恵王が崩御した。太子鄭(襄王)と王子帯は王位を争った。襄王は恵王崩御の喪を伏せると同時に斉に使者を送り、斉の桓公の支援を得て即位した。

襄王元年(紀元前653年)春、斉の桓公は洮の会盟を主催した。参与した諸侯は首止の会盟と同じである。会盟で襄王の王位を安定させた後、恵王の喪に服すことを定めた。

襄王4年(紀元前649年)夏、王子帯は揚邑・拒邑・泉邑・皋邑の人を集めて、洛邑を攻めて、王城に攻め入り、東門を焼き払った。穆公恵公は戎を討伐し、周を救った。戎は退走した。

襄王5年(紀元前648年)、襄王は王子帯を討伐した。王子帯は斉に亡命した。

襄王6年(紀元前647年)、斉の桓公は鹹の会盟を結んだ。会盟の後、諸侯は軍を周畿に派遣した。

襄王15年(紀元前638年)、襄王は王子帯を京師に呼び戻した。

襄王18年(紀元前635年)、周王室で王子帯の乱が発生し、晋の文公は出兵して王子帯を殺し、襄王を洛邑へ護送した。

脚注

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参考文献

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王子帯
の君主

紀元前672年 - 紀元前635年4月

先代
- (初代)
の君主
初代

不明 - 紀元前635年
次代
不明
先代
18代:襄王
の王
紀元前636年 - 紀元前635年
対立王:襄王
次代
18代:襄王