玄融
表示
玄融(げんゆう)は以下の人物の名・号。
- 玄融 - 奈良時代の大安寺僧。生没年不詳。天平勝宝6年(754年)8月に小寺主を務めていた[1] [2]。
- 林喜右衛門玄融 - 能観世流京都五軒家の一、林家の第三代(1665年-1743年)[3] [4]。
- 深見玄融 - 江戸時代の儒者。深見玄岱(高天漪)の次男。1722年、目安箱に蝦夷地開拓を投書、処罰された[5]。
- 柏倉玄融 - 北海道豊富町に移住し、光寿寺の前身となる大谷派説教所を開設した僧[6]。
脚注
[編集]- ^ 『日本古代人名辞典』[要文献特定詳細情報]
- ^ “銀塵”. 「大安寺三綱牒」(『正倉院文書』). 独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所. 2021年10月28日閲覧。 “天平勝寳六年八月九日小都維那 常 孝(略)小寺主 玄 融”
- ^ 『観世』 42巻、1-6号、檜書店、1975年、15-25頁 。2021年10月29日閲覧。
- ^ “能を知る”. 林家略年表. 観世流能楽師【林 宗一郎】. 2021年10月28日閲覧。 “二代目までの歴史的検証が出来ず、三代目が初祖ではないかという説が有力”
- ^ 「五 深見玄融蝦夷地拓殖意見を目安箱に投ず」『新撰北海道史: 第2巻』北海道庁、1937年、195-196頁 。2021年10月29日閲覧。
- ^ “豊富町の歴史”. 北海道豊富町. 2021年10月28日閲覧。 “明治40年 (西暦1907年) 柏倉玄融大谷派説教所(光寿寺)を開設した。 豊富八幡神社を建設した。沼の端(兜沼)特別教授所を開設した。”