猪苗代盛国
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文5年(1536年) |
死没 | 天正18年(1590年)? |
改名 | 盛親(初名)→盛国 |
別名 | 平太郎、弾正忠 |
主君 | 蘆名盛氏→伊達政宗 |
氏族 | 猪苗代氏 |
父母 | 父:猪苗代盛清または猪苗代盛頼 |
子 | 盛胤、宗国、盛明 |
猪苗代 盛国(いなわしろ もりくに)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。蘆名氏の家臣。猪苗代氏12代当主。父は蘆名盛詮の次男・猪苗代盛清とされるが、天文10年(1541年)に蘆名氏に対して謀反を起こした猪苗代盛頼ともいわれる。
生涯
[編集]猪苗代氏は桓武平氏・三浦氏の流れを汲む蘆名氏の支流。蘆名氏の重臣であるが、自立傾向が強く度々反乱を起こしていた。
盛国も最初は蘆名盛氏の家臣として仕える。
天文20年(1551年)11月24日、元服に際し、盛氏の偏諱を与えられ、盛国と称した(会津旧事雑考)[1]。
天正13年(1585年)、嫡男・盛胤に家督を譲って隠居したが、後妻の息子・宗国を溺愛し、同16年(1588年)に後妻の讒言に乗って盛胤を廃嫡しようと画策。盛胤に譲ったはずの猪苗代城ごと伊達氏に寝返り、その軍勢を招き入れ、摺上原の戦いでの蘆名氏惨敗の原因を作った。その際、宗国を伊達方に人質として差し出している。
天正17年(1589年)7月23日、伊達政宗により、猪苗代近辺に500貫文の地を加増され、伊達氏の準一門に列せられた[2]。のち、政宗の移封に際し、盛国も会津を去り、岩井郡東山(現・岩手県一関市、旧・東磐井郡東山町)で1000石を与えられた[3]。のち、知行半分を削られた[3]。
子ども・子孫
[編集]盛国の次男は、はじめ、松王丸、平太郎、弾正を称した[3]。元服の際、政宗から一字を与えられ、越後宗国を名乗った[3]。その子孫は、代々伊達家の家臣として明治維新に至った[3]。
その弟・縫殿盛明は、盛国から200石を与えられ別家を立てたが、一代で絶えた(伊達世臣家譜)[3]。
脚注
[編集]- ^ 猪苗代町史編さん委員会 1982, p. 142.
- ^ 猪苗代町史編さん委員会 1982, p. 150.
- ^ a b c d e f 猪苗代町史編さん委員会 1982, p. 151.