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猪苗代盛国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
猪苗代 盛国
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文5年(1536年
死没 天正18年(1590年)?
改名 盛親(初名)→盛国
別名 平太郎、弾正忠
主君 蘆名盛氏伊達政宗
氏族 猪苗代氏
父母 父:猪苗代盛清または猪苗代盛頼
盛胤宗国盛明
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猪苗代 盛国(いなわしろ もりくに)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将蘆名氏の家臣。猪苗代氏12代当主。父は蘆名盛詮の次男・猪苗代盛清とされるが、天文10年(1541年)に蘆名氏に対して謀反を起こした猪苗代盛頼ともいわれる。

生涯

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猪苗代氏は桓武平氏三浦氏の流れを汲む蘆名氏の支流。蘆名氏の重臣であるが、自立傾向が強く度々反乱を起こしていた。

盛国も最初は蘆名盛氏の家臣として仕える。

天文20年(1551年)11月24日、元服に際し、盛氏の偏諱を与えられ、盛国と称した(会津旧事雑考)[1]

天正13年(1585年)、嫡男・盛胤に家督を譲って隠居したが、後妻の息子・宗国を溺愛し、同16年(1588年)に後妻の讒言に乗って盛胤を廃嫡しようと画策。盛胤に譲ったはずの猪苗代城ごと伊達氏に寝返り、その軍勢を招き入れ、摺上原の戦いでの蘆名氏惨敗の原因を作った。その際、宗国を伊達方に人質として差し出している。

天正17年(1589年)7月23日、伊達政宗により、猪苗代近辺に500貫文の地を加増され、伊達氏の準一門に列せられた[2]。のち、政宗の移封に際し、盛国も会津を去り、岩井郡東山(現・岩手県一関市、旧・東磐井郡東山町)で1000石を与えられた[3]。のち、知行半分を削られた[3]

子ども・子孫

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盛国の次男は、はじめ、松王丸、平太郎、弾正を称した[3]。元服の際、政宗から一字を与えられ、越後宗国を名乗った[3]。その子孫は、代々伊達家の家臣として明治維新に至った[3]

その弟・縫殿盛明は、盛国から200石を与えられ別家を立てたが、一代で絶えた(伊達世臣家譜)[3]

脚注

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参考文献

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  • 猪苗代町史編さん委員会 編『猪苗代町史』《歴史編》猪苗代町史出版委員会、1982年1月20日。NDLJP:9642447 (要登録)

外部リンク

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