コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

狩野旭峰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
狩野良貴から転送)
狩野 旭峰
(かのう きょくほう)
生誕 天保3年(1832年
日本の旗 日本
久保田藩秋田郡大館町秋田県大館市
死没 大正14年(1925年
日本の旗 日本
秋田県秋田市、93歳
研究分野 漢学
影響を
受けた人物
塩谷宕陰古賀謹一郎藤森弘庵田口江村狩野良知
影響を
与えた人物
深澤多市江畑新之助
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

狩野 旭峰(かのう きょくほう、1832年天保3年) - 1925年大正14年))は、日本の漢学者漢詩人ジャーナリスト

千秋公園の狩野旭峰翁頌徳碑

略歴・人物

[編集]

出羽国秋田郡大館町に狩野与十郎長安の子として生まれた[1]。本名は良貴、通称は徳蔵。狩野氏は、山形を本拠地とする最上氏江戸幕府によって改易されたのち、久保田藩(本城は久保田城)の支城のあった大館の佐竹西家に仕えた[1]1849年嘉永2年)、18歳で江戸に出て、塩谷宕陰に学び[注釈 1]、以降5年のあいだ、古賀謹一郎藤森弘庵田口江村らに学んだ。のち、久保田藩江戸邸の学問所「日知館」の教授を務めた[1][2]

内務省に入った兄狩野良知の推挙で、明治7年(1874年)、遐邇かじ新聞(現在の秋田魁新報)の創刊にかかわり、その編集長(のち主幹)となって明治初年の秋田言論界をリードした[1][2][注釈 2]。なお、同新聞は明治11年(1878年)、「秋田遐邇新聞」に改題した[3]

旭峰は明治15年(1882年)、山形新聞の主筆となったが、ほどなく秋田県にもどり、『出羽風土記』『戊辰出羽戦史』『秋田温故史談』『雄鹿名勝誌』など30余種の著作にいそしみ、明治22年(1889年)には秋田魁新報に復帰して県史編纂主任となった[1][2]。旭峰が同郷の江帾澹園とともに明治の文芸界を主導した功績は大きい[1]。明治25年(1892年)、彼は秋田を訪れた清国の文人王治本と交流している[4]

明治27年(1894年)、秋田県南部の仙北郡飯詰村の江畑宇三郎に招かれ、江畑家の屋敷に設けられた私塾酔経学舎の初代学長となり、深澤多市江畑新之助らを薫陶した[1]。翌明治28年には文芸誌『棣華(ていか)』を、明治29年(1896年)『先憂文編』を刊行した[2][注釈 3]

大正14年(1925年)、秋田市で没した[2]。93歳。県北大館で生まれ、県央秋田で健筆をふるい、県南飯詰の地で教育した旭峰を慕う人は全県におよんだといわれる。秋田市千秋公園(久保田城址)に「狩野旭峰翁頌徳碑」がある[1]

家族

[編集]

著書

[編集]
  • 『出羽風土記』
  • 雄鹿おが名勝誌』[1]1884年
  • 『戊辰出羽戦史』(1890年
  • 『秋藩温故談』(1893年
  • 棣華ていか』(1895年
  • 『先憂文編』(1896年

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 塩谷宕陰の父桃蹊が大舘の村野氏の出身であった。
  2. ^ 「遐邇新聞」の名は兄狩野良知の命名による。
  3. ^ 『棣華(ていか)』は秋田漢学派最後の雑誌として注目される。「狩野旭峰」『秋田大百科事典』(1981)p.203

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 「狩野旭峰」『秋田大百科事典』(1981)p.203
  2. ^ a b c d e 狩野旭峰” (pdf). 秋田県立博物館. 2024年11月7日閲覧。
  3. ^ 荒谷(1969)pp.61-76
  4. ^ 柴田清継「明治二十五年 羽後における王治本の足跡及び日本文人との交流」『武庫川国文』第77巻、武庫川女子大学国文学会、2013年11月、50頁、doi:10.14993/00000577ISSN 0389-8652NAID 120005999770。「8.江帾澹園・狩野旭峰との交流」 

参考文献

[編集]
  • 井上隆明「狩野旭峰」『秋田大百科事典』秋田魁新報社、1981年9月。ISBN 4-87020-007-4 
  • 荒谷浩 著「狩野旭峰・江帾澹園」、秋田県総務部秘書広報課(編) 編『秋田の先覚 2』秋田県広報協会、1969年4月。 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]