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2024年2月11日 (日) 23:41時点における版
豊予海峡地震 | |
---|---|
本震 | |
発生日 | 1854年12月26日[1]9-10時頃 |
震央 | 日本 豊予海峡[2] |
規模 | マグニチュード(M)7.4 |
最大震度 | 震度6:[3]豊後府内、豊後臼杵、伊予八幡浜[3] |
地震の種類 | スラブ内地震[3] |
| |
プロジェクト:地球科学 プロジェクト:災害 |
豊予海峡地震(ほうよかいきょうじしん)は、江戸時代後期の1854年12月26日(嘉永7年/安政元年[注 1]11月7日)辰下刻-巳上刻(9-10時頃)に、豊予海峡を震源として発生したマグニチュード(M)7.4の地震である。豊予地震、豊予大地震とも呼ばれる。
概要
震源は現在の九州の大分県と四国の愛媛県との間にある豊予海峡のやや大分県寄りで[2]、安芸灘から伊予灘を経て豊後水道に至る領域を震源とするプレート内地震のひとつと考えられる[3]。
この地震の直前には、12月23日の安政東海地震(M8.4)、12月24日の安政南海地震(M8.4)と巨大地震が相次いで発生している。本地震は南海地震の約40時間後に発生し、豊前では南海地震より強く感じられた[5]。
河角廣(1951)は規模MK = 4.3 を与え[6]、マグニチュードは M = 7.0に換算されている。宇佐美(2003)は M = 7.3-7.5と推定している[4]。
地震の記録
本地震に関する古記録は東海地震および南海地震と共に記されている[7][8][9]。
伊予の吉田(『赤松家文書』)、宇和島(『地震海溢記』)、豊後の佐伯(『御用日記』)、延岡(『日記』)、および豊前小倉(『鈴木大雑集』)では、五日の地震よりも一層烈しいものであったと記録されている[4]。
南海地震は中国の上海郊外の嘉定付近でも有感であったとされるが、これを記述した同史料である『中国地震歴史資料彙編』には、12月26日、上海において「辰刻地大震」とも記録され、震央距離約1000kmにおいて本地震の揺れが南海地震より強く感じられたことが示唆される[10]。
この地震では津波は無かったとされており、宇和島では潮は平常と相変らずと記録されているが(『大控』)、佐伯では「浦々高浪之趣」と記録されている(『御用日記』)[9]。
街道 | 推定震度[11][4] |
---|---|
畿内 | 大坂(e) |
東海道 | 津(M), 伊勢(M) |
東山道 | 馬籠(M) |
北陸道 | 金沢(e) |
山陰道 | 松江(M), 邑智(e), 萩(E) |
山陽道 | 津山(e), 勝山(e), 岡山(e), 児島(E), 福山(e), 鞆(M),広島(4), 岩国(e), 徳山(5-6) |
南海道 | 松茂(E), 徳島(e), 多度津(E), 琴平(E), 小松(S), 今治(E), 松山(E), 大洲(5-6), 八幡浜(6), 吉田(5-6), 宇和島(E), 野村(E), 一本松(E), 高知(E), 土佐清水(5-6), 宿毛(5) |
西海道 | 小倉(5), 芦屋(5-6), 木屋瀬(5), 久留米(E), 多久(e), 小城(e), 白石(E), 佐賀(E), 諫早(S), 柳川(e), 熊本(E), 仏原(5), 牛ヶ瀬(5), 豊野(E), 坂本(E), 人吉(E), 中津(5-6), 宇佐(5), 杵築(5-6), 日出(5), 別府(6), 大分(6), 臼杵(6), 佐伯(5-6), 高千穂(E), 椎葉(5-6), 米良(5-6), 延岡(5-6), 高鍋(E) |
S: 強地震(≧4), E: 大地震(≧4), M: 中地震(2-3), e: 地震(≦3) |
被害
2日前に発生した安政南海地震と被害地域が重なるため、現存する記録からはいずれの地震による被害か区別が困難であるが、豊後国鶴崎で100棟の家屋が倒壊した[12][3]。別府では200軒、府内では400軒余潰家となり死者数は不明という(『震動記』)。
伊予の松山、大洲、伊予吉田、豊後の杵築、日出、岡、臼杵、佐伯では、五日の南海地震は破損が生じた程度であったが、七日の地震では潰家を生じた。豊前小倉では南海地震による被害記録は見当たらないが、七日の地震では潰家、死者も出た(『鈴木大雑集』)。肥後人吉では幕府への被害の届け出に、「去月五日申中刻、同七日辰下刻古来より無之大地震にて、住居向始城内外・櫓・塀・門等及大破、潰候場所も有之」とあり、両地震の被害を区別できない(『御届』)[9]。
なお、安政南海地震では、豊後国内において府内藩で死者18人、家屋全壊4,546棟、臼杵藩で家屋全壊500棟の被害があったとされるが[12]、上述のとおり両地震の被害の峻別は困難であり、この中には豊予海峡地震による被害が含まれている可能性がある。
脚注
- 注釈
- 出典
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月2日閲覧。
- ^ a b 1854年12月26日の地震の震度分布(宇佐美,2003)
- ^ a b c d e 安芸灘~伊予灘~豊後水道のプレート内地震 地震調査研究推進本部
- ^ a b c d 宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年
- ^ 宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年
- ^ 河角廣(1951)、「有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値」 東京大學地震研究所彙報 第29冊 第3号, 1951.10.5, pp.469-482, hdl:2261/11692
- ^ 震災予防調査会編 『大日本地震史料』 下巻、丸善、1904年
- ^ 東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一 安政元年十一月四日・五日・七日』 日本電気協会、1987年
- ^ a b c 東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二 安政元年十一月四日・五日・七日』 日本電気協会、1987年
- ^ 宇津徳治(1988): 日本の地震に関連する中国の史料」『地震 第2輯』 1988年 41巻 4号 p.613-614 , doi:10.4294/zisin1948.41.4_613
- ^ 宇佐美龍夫 1994.
- ^ a b 大分県の地震活動の特徴 - 地震調査研究推進本部
参考文献
- 震災予防調査会編 編『大日本地震史料 下巻』丸善、1904年。NDLJP:993659 。 pp.361-526
- 武者金吉 編『日本地震史料』毎日新聞社、1951年。 pp.75-468
- 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一 安政元年十一月四日・五日・七日』日本電気協会、1987年。 pp.1-1438 - 安政地震に関する新収古記録原典の集成
- 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二 安政元年十一月四日・五日・七日』日本電気協会、1987年。 pp.1439-2528 - 安政地震に関する新収古記録原典の集成
- 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 補遺 別巻』日本電気協会、1989年。 pp.409-612
- 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 続補遺 別巻』日本電気協会、1994年。 pp.414-869
- 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺 別巻』東京大学地震研究所、1999年3月。 pp.467-710
- 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺二』東京大学地震研究所、2002年3月。 pp.296-435
- 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺三』東京大学地震研究所、2005年3月。 pp.463-543
- 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺四ノ上』東京大学地震研究所、2008年6月。 pp.589-1133
- 宇佐美龍夫, 大和探査技術株式会社, 日本電気協会『わが国の歴史地震の震度分布・等震度線図』日本電気協会、1994年。 NCID BN10781006 。
関連項目
外部リンク
- 安芸灘~伊予灘~豊後水道のプレート内地震 地震調査研究推進本部