「ナボニドゥス」の版間の差分
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[[Image:Cylinder Nabonidus BM WA91128.jpg|thumb|right|月神シンの神殿の修復に関するナボニドスの円筒形碑文。大英博物館。]] |
[[Image:Cylinder Nabonidus BM WA91128.jpg|thumb|right|月神シンの神殿の修復に関するナボニドスの円筒形碑文。大英博物館。]] |
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ナボニドゥスの経歴は明らかではない。彼は自らの碑文の中で、自分は取るに足らない出自だと述べている<ref>ボーリュー(カナダの歴史学者)が1989年に論考している</ref>。同様に、長生きした彼の母{{仮リンク|アッダ・グッピ|en|Addagoppe of Harran}}は、おそらく[[ハッラーン|ハラン]]にある[[シン (メソポタミア神話)|月神シン]]の神殿と関係があるが、彼女の碑文の中でも彼女の家の経歴を語らない。彼が[[アッシリア人]]の血を引くのではないかとする論点が2つある。1つは、ナボニドゥスの王としてのプロパガンダの中で、[[アッシリア#新アッシリア時代|新アッシリア帝国]]の最後の偉大な王、[[アッシュールバニパル]]へ繰り返し言及することである。もう1つは、彼が[[ハッラーン|ハラン]]の出身であることと、[[ハッラーン|ハラン]]に対する彼の特別な関心である。[[ハッラーン|ハラン]]は[[アッシリア]]の都市であるとともに、[[アッシリア#新アッシリア時代|新アッシリア帝国]]の首都[[ |
ナボニドゥスの経歴は明らかではない。彼は自らの碑文の中で、自分は取るに足らない出自だと述べている<ref>ボーリュー(カナダの歴史学者)が1989年に論考している</ref>。同様に、長生きした彼の母{{仮リンク|アッダ・グッピ|en|Addagoppe of Harran}}は、おそらく[[ハッラーン|ハラン]]にある[[シン (メソポタミア神話)|月神シン]]の神殿と関係があるが、彼女の碑文の中でも彼女の家の経歴を語らない。彼が[[アッシリア人]]の血を引くのではないかとする論点が2つある。1つは、ナボニドゥスの王としてのプロパガンダの中で、[[アッシリア#新アッシリア時代|新アッシリア帝国]]の最後の偉大な王、[[アッシュールバニパル]]へ繰り返し言及することである。もう1つは、彼が[[ハッラーン|ハラン]]の出身であることと、[[ハッラーン|ハラン]]に対する彼の特別な関心である。[[ハッラーン|ハラン]]は[[アッシリア]]の都市であるとともに、[[アッシリア#新アッシリア時代|新アッシリア帝国]]の首都[[ニネヴェ]]陥落後は、最後の拠点となった<ref>W. Mayer, "Nabonidus Herkunft", in M. Dietrich and O. Loretz (eds.), Dubsar anta-men: Studien zur Altorientalistik (Munster: Ugarit-Verlag 1998), 245-61<br> |
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(『筆記者:古代近東史の研究』(編:マンフィールド・ディートリッヒ、オスワルド・ロレッツ、ウガリット出版(ドイツ・ミュンスター)、1998年、p.245-261)に収録されている『ナボニドゥスの祖先』(著:ウォルター・メイヤー)。なお、「Dubsar anta-men」の、anta-menの部分のみ、翻訳保留中。Dubsarは、シュメール語で「筆記者」の意味。)</ref><ref>Parpola, Simo (2004). "National and Ethnic Identity in the Neo-Assyrian Empire and Assyrian Identity in Post-Empire Times". Journal of Assyrian Academic Studies (JAAS) 18 (2): pp. 19. Similarly: Parpola, Simo. "Assyrians after Assyria". University of Helsinki, The Neo-Assyrian Text Corpus Project (State Archives of Assyria).<br /> |
(『筆記者:古代近東史の研究』(編:マンフィールド・ディートリッヒ、オスワルド・ロレッツ、ウガリット出版(ドイツ・ミュンスター)、1998年、p.245-261)に収録されている『ナボニドゥスの祖先』(著:ウォルター・メイヤー)。なお、「Dubsar anta-men」の、anta-menの部分のみ、翻訳保留中。Dubsarは、シュメール語で「筆記者」の意味。)</ref><ref>Parpola, Simo (2004). "National and Ethnic Identity in the Neo-Assyrian Empire and Assyrian Identity in Post-Empire Times". Journal of Assyrian Academic Studies (JAAS) 18 (2): pp. 19. Similarly: Parpola, Simo. "Assyrians after Assyria". University of Helsinki, The Neo-Assyrian Text Corpus Project (State Archives of Assyria).<br /> |
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(シモ・パラポラ(フィンランドの考古学者)の学術論文 『新アッシリア帝国における国家・民族アイデンティティと帝国終焉後の時代におけるアッシリア人のアイデンティティ』(アッシリア学術研究誌 2004年 第18巻第2号 第19段落より。同様に、シモ・パラポラ『アッシリア帝国後のアッシリア人』(ヘルシンキ大学、新アッシリア文書全集プロジェクト(アッシリア公文書)より))</ref>。だが、この説には難点がある。ナボニドゥスのプロパガンダは、彼以前の王たちのものとほとんど違わない上に、彼の跡を継いだ[[ペルシア帝国]]の[[キュロス2世|キュロス大王]]もまた、[[キュロス・シリンダー|キュロスの円筒形碑文]]の中で[[アッシュールバニパル]]に言及するからである<ref name="Kuhrt">A. Kuhrt, "'Ex oriente lux': How we may widen our perspectives on ancient history", in R. Rollinger, A. Luther and J. Wiesehofer (eds.), Getrennte Wege? Kommunikation, Raum und Wahrnehmung in der alten Welt (Frankfurt am Main: Verlag Antike 2007), 617-32.<br> |
(シモ・パラポラ(フィンランドの考古学者)の学術論文 『新アッシリア帝国における国家・民族アイデンティティと帝国終焉後の時代におけるアッシリア人のアイデンティティ』(アッシリア学術研究誌 2004年 第18巻第2号 第19段落より。同様に、シモ・パラポラ『アッシリア帝国後のアッシリア人』(ヘルシンキ大学、新アッシリア文書全集プロジェクト(アッシリア公文書)より))</ref>。だが、この説には難点がある。ナボニドゥスのプロパガンダは、彼以前の王たちのものとほとんど違わない上に、彼の跡を継いだ[[ペルシア帝国]]の[[キュロス2世|キュロス大王]]もまた、[[キュロス・シリンダー|キュロスの円筒形碑文]]の中で[[アッシュールバニパル]]に言及するからである<ref name="Kuhrt">A. Kuhrt, "'Ex oriente lux': How we may widen our perspectives on ancient history", in R. Rollinger, A. Luther and J. Wiesehofer (eds.), Getrennte Wege? Kommunikation, Raum und Wahrnehmung in der alten Welt (Frankfurt am Main: Verlag Antike 2007), 617-32.<br> |
2023年12月4日 (月) 21:52時点における最新版
ナボニドゥス | |
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バビロン王 | |
月の神に祈るナボニドゥスの像 | |
在位 | 紀元前555年 - 紀元前539年 |
死去 |
紀元前539年 |
子女 | ベルシャザル |
母親 | アッダ・グッピ |
ナボニドゥス(Nabonidus, ? - 紀元前539年)は、新バビロニア最後の王(在位:紀元前555年 - 紀元前539年)。アラム系であると言われ、アッカド語では名前はナブー・ナイド(Nabû-nā'id)と表記される。
歴史
[編集]現代のナボニドゥスの治世への認識は、彼のバビロンの王としての治世よりもはるかに後代の、特にペルシア人とギリシア人による記述に負うところが大きい。その結果、ナボニドゥスは近代・現代の学問では否定的な意味で描かれることが多い。しかしながら、証拠の蓄積と現存する史料の再評価により、ナボニドゥスや彼の治世における出来事に対する評価は、この数十年で著しく変わってきた [1]。
出自
[編集]ナボニドゥスの経歴は明らかではない。彼は自らの碑文の中で、自分は取るに足らない出自だと述べている[2]。同様に、長生きした彼の母アッダ・グッピは、おそらくハランにある月神シンの神殿と関係があるが、彼女の碑文の中でも彼女の家の経歴を語らない。彼がアッシリア人の血を引くのではないかとする論点が2つある。1つは、ナボニドゥスの王としてのプロパガンダの中で、新アッシリア帝国の最後の偉大な王、アッシュールバニパルへ繰り返し言及することである。もう1つは、彼がハランの出身であることと、ハランに対する彼の特別な関心である。ハランはアッシリアの都市であるとともに、新アッシリア帝国の首都ニネヴェ陥落後は、最後の拠点となった[3][4]。だが、この説には難点がある。ナボニドゥスのプロパガンダは、彼以前の王たちのものとほとんど違わない上に、彼の跡を継いだペルシア帝国のキュロス大王もまた、キュロスの円筒形碑文の中でアッシュールバニパルに言及するからである[5]。ナボニドゥスは明らかに、彼以前の王家カルデア王朝(ネブカドネザル2世が有名)に属していなかった。彼は紀元前556年、前任の若い王、ラバシ・マルドゥク政権を覆して王位に就いた。
治世
[編集]相次いで王位が変わる新バビロニアの混乱状態を収めて新バビロニアの王座についた。特に勢力を増していた神官達に対抗するために神殿の人事に介入し、監督官を派遣してこれの統制を図った。また月神シンを祭る神殿を多数建造したが、マルドゥクを主神とするバビロニア人の反応は悪かったようである。ナボニドゥスはバビロンの過去に興味を持ち、古代の建築物を発掘し、彼の考古学上の発見を博物館に展示した。最も古い記述では、彼は王家の変人として表現されている。ナボニドゥスはおそらく、他の全ての神々に優先して月神シンを崇拝し、ハランにあるシンの神殿に特別な奉納を払った。その神殿は彼の母が神官であったところで、このように彼はバビロニアの主神マルドゥクを軽んじた。これらの宗教改革が生み出した緊張により、彼はその治世の初期の頃に首都を去り、アラビアにある砂漠のオアシス、タイマへと逃れた。彼は紀元前553年にシリアへ遠征を行い、次いで紀元前552年(異説あり)タイマへと遠征し、以後10年前後にわたってそこに残留した。彼が戻ってきたのは何年も後になってのことである。長期間本国を留守にしていたためその間の国内統治は皇太子ベルシャザルに一任された。ただしベルシャザルはバビロニア王を名乗る事は許されず、神殿への奉納はナボニドゥスの名で行われ、祭礼に関しても独断で行う権限を持たないなど、ナボニドゥスの影響力はかなりの程度確保された。短命王が多い新バビロニアにあって、長期間の在位に成功した王であったが、この時期に急拡大を遂げていたアケメネス朝ペルシアとの戦いによって王座を追われる事になる。
功績
[編集]ナボニドゥスは史上初の考古学者として知られ、かつ敬意を払われている[6]。彼はメソポタミアの太陽神シャマシュの神殿、戦いの女神アヌニトゥの神殿(ともにシッパルにある)の埋もれた基礎や、ハランにある月神ナラム・シンの聖所など、史上初の発掘を指揮しただけでなく、それらをかつての状態に修復することすらやってのけた[7]。彼はまた、ナラム・シンの神殿を発掘する中でその年代を特定することを試み、考古学的遺跡の年代推定をした最初の人物でもある[8]。彼の年代推定は1500年ほどずれているが、当時の年代推定技術にすれば、かなり良い水準であると言えよう[8]。
宗教的信条
[編集]ナボニドゥスが個人的には、月神シンの方を好んで崇拝していたのは明らかだが、月神シンへの傾倒の度合いについては学者の間でも意見が分かれる。彼の碑文から、彼がほぼ唯一、月神シンに対する信仰へ傾斜したのは明らかだという主張がある一方で[9]、彼が他の神々や宗教にも敬意を払ったことから、ナボニドゥスが他のバビロニアの支配者と同様だったという意見もある[10]。彼のネガティブなイメージは、ナボニドゥスがタイマに滞在して長期にわたりバビロンを不在にし、マルドゥク神に係る重要な新年祭を催すことができなかったことや、彼が月神シンを重要視したことに憤慨したマルドゥク神の祭司団によるところが大きい。だがいずれにせよ、彼の治世において、市民の動揺・混乱を示す証拠は見あたらない。
マルドゥク祭司団とキュロスの両方によるプロパガンダの一つとして、ナボニドゥスがメソポタミア南部の最も重要な神像を取り上げ、バビロンに人質としてかき集めたという話がある。これはおそらく正しい。実に多くの碑文は、これらの神像がペルシア帝国軍の進軍の直前にバビロンに運び込まれたことを示している。
しかしながら、現代の学者はこの行動に対して別の説明をする。メソポタミアでは、神はその像のなかに宿り、その都市を守るものと考えられてきた。ただしこの加護は、その神像が適切に取り扱われた場合にのみ、受けられる。そこでナボニドゥスはこれらの神像を特別に扱い、これらの神々が確実に彼と共にあるようにした[12]。この行動(考え方)は、メソポタミアにおける伝統的な考え方でもある。
古代メソポタミアにおける偶像崇拝の強さと信念を示すもっとも強力な実例としては、戦時における偶像の扱いが挙げられる。紀元前一千年紀におけるアッシリアとバビロニアの史料は、都市の征服の結果、神殿から神像が撤去された例について、頻繁に言及している。強奪された神像は通常、勝利者の土地へ運び去られる(この行為は、アッシリアでとりわけ顕著である)。神像は、奇跡的にもとの都市の神殿に戻されるまで、ずっとそこで捕らわれの身となるのである。(中略)彼らの神が捕らわれ、その悪影響を受けるという憂き目を見るくらいなら - 言い換えれば、その神が彼らの都市を見捨てて破滅を招くくらいなら、多くの都市は、彼らの神像が敵国に渡るのを阻止しようとした。なぜなら神像を守ることは、困難な時期においてもなお、彼らの神々がその住民と土地を守護しているということを意味するからである。(中略)紀元前539年のペルシア帝国によるバビロニアの征服の直前の数ヶ月間、ナボニドゥスはシュメールとアッカドの大勢の神々を、首都へ集めるよう命じた。それ以前の試みとは異なり、ナボニドゥスによる召集命令は文書により保存されている。(この後、ボーリュー(カナダの歴史学者)はこの史料を詳細に議論している)
— P.A.ボーリュー 1993:241-2
だがこの行為により、ナボニドゥスは彼の政敵、とりわけキュロスによる非難にさらされることになった。キュロスはなぜ彼がナボニドゥスよりも良い王なのかを示そうとし、この出来事をナボニドゥスの王としての欠陥の例として用いた[13]。再びボーリューの文章から引用する:
神像を彼らの聖域へ戻すことは、キュロスにとってナボニドゥスのイメージを下げる政策の1つであった。神々を戻すことだけでは満足せず、彼は、廃位されていた王たちを、彼らの意思に反して彼らの都市に戻すことまでした。
— P.A.ボーリュー 1993:243
そしてバビロンで1879年に発見された、キュロスの円筒形碑文に記録されているキュロス自身の言葉から。
このことは、バビロニア年代誌によっても裏付けられる。
ナボニドゥスのタイマ滞在
[編集]なぜナボニドゥスが、それほど長きにわたってタイマに滞在したのか、その理由は明らかではない。彼がそこに行った理由は明らかである。タイマは重要なオアシスで、そこからは経済的な利益を生み出すアラビアの通商路を押さえることができた。彼よりもはるか以前、アッシリア帝国が同じことを試みたことがある[14]。しかしながら、なぜナボニドゥスがそれほど長く(おそらく約10年。紀元前553〜紀元前543年か)滞在し、そしてなぜバビロンに戻ったのか、その理由・目的は未解明の謎として残る。彼が月神シンへ傾斜し、それに抵抗・反対したバビロンにいても落ち着かなかったからだという理由が提案されてきた。ナボニドゥスの帰還については、キュロスの脅威の増大や、ナボニドゥスと息子ベルシャザルとの意見の食い違いが目立つようになってきたことが関係しているかもしれない。ナボニドゥスがバビロンに戻ると、ベルシャザルと大勢の行政官たちは、ただちに解任された[14]。タイマへの滞在中、ナボニドゥスは手の込んだ建築物をタイマに建設した。最近の発掘により、その多くが明らかになりつつある[15]。
ペルシアによるバビロニア征服
[編集]バビロニアの陥落については異なる記述が残っている。キュロスの円筒形碑文によれば、バビロンの住民はキュロスのために門を開き、解放者として歓迎した、としている。イザヤ書第40章〜第55章では、ペルシア軍がバビロニアの女性たちと神像を略奪するであろうと預言している。ヘロドトスはキュロスがバビロニア人を街の外で打ち負かし、その後、包囲戦が始まったとしている。包囲戦が長引くと、キュロスはユーフラテス川を迂回させ、部隊が河床から街の中へ侵入できるようにした(以上、ヘロドトスによる)
[16]。
クセノフォンは同様の見方をしているが、彼は戦いには言及していない。
[17]
ベロッソス(紀元前3世紀の著述家)は、キュロスがバビロニア軍を打ち破ったのだが、このとき、ナボニドゥスは近くのボルシッパへ逃れたのであろうと主張している。ナボニドゥスはそこに隠れ、その間にキュロスがバビロンを占領し、その外壁を破壊した。キュロスがボルシッパに向かうと、ナボニドゥスはすぐに投降した。
[18]
これらの記述(例えばキュロスの円筒形碑文とイザヤ書。後者についてはCyrus in the Judeo-Christian traditionを参照)、伝承(ヘロドトスとクセノフォン)、記録(ベロッソス)は互いに矛盾するため、非常に混乱させられる。ナボニドゥスの年代誌はもっと有益である。ナボニドゥスの年代誌はバビロニア年代誌の一部であり、歴史的出来事を正確に、事実に基づいて記述している。そのため、情報量は限られるが非常に信頼できると考えられている。キュロスによるバビロンの占領に関しては、この文書は以下のように記している:
タシュリトウの月にキュロスがティグリス川沿いのオピスにいるアッカド軍[19] を攻撃した。アッカドの住民が蜂起したが[キュロス? ナボニドゥス?]が混乱した住民を虐殺した。15日(現代の暦の10月12日に相当)、シッパルが戦わずして占領された。ナボニドゥスは逃げた。16日、グティウムの総督ゴブリュアスとキュロスの軍が、戦わずしてバビロンに入城した。後に、ナボニドゥスはバビロンに戻ってきたところを捕らえられた。その月の終わりまで、盾を持ったグティ人がエサギラの中に滞在したが、エサギラとその建物の中では誰も武器は携行しなかった。時機を逸せずして祝典が開かれた。アラハサムナの月の3日(現代の暦の10月29日に相当)、緑の小枝が敷きつめられた中を進み、キュロスはバビロンに入城した。平和が街に訪れた。キュロスは全てのバビロニア市民に挨拶した。総督ゴブリュアスは、副総督をバビロンに置いた。
- バビロニア年代誌、ナボニドゥスの治世第17年より
補足すると、占領のすぐ後になされた、バビロンのエンリル門の修復について言及する建物の碑文が発見されている。この情報に基づき、以下の仮説が提案されている。
[20]
:キュロスがメソポタミア南部への進軍を試みたとき、オピス付近でバビロニア軍に遭遇している。それに続く戦闘で、ペルシア軍は彼らに勝利した。続いて、付近の都市シッパルが投降した。一方で、キュロスのそれ以上の進軍を阻止するため、バビロニア軍はユーフラテス川付近に防衛線を築こうとして南へ撤退した。しかしながら、キュロスはバビロニア軍に戦いを挑まなかった。むしろ、首都の急襲を試みるため、彼は小規模な軍隊をティグリス川沿いに南へ送った。このアイディアはうまくいった。ペルシア軍の部隊は、気付かれることなくバビロンに到達した。門の付近で小さな抵抗に遭っただけであった。このようにして彼らはバビロンを占領しただけでなく、ナボニドゥスも捕らえた。
これによりバビロニア軍は基盤を失った状態に置かれ、まもなく投降した。一方、バビロンを占領したペルシア軍の指揮官ウグバル
[21]
は、配下の兵士が略奪または都市を害する行為をしないよう、よく気を配った。彼はバビロンの神殿の儀式が行われ続けるよう、計らうことさえした。それにもかかわらず、キュロスが入城するまで約1か月を要した。バビロニアの官僚や行政組織が政権移行後も残ったので、この期間は都市代表との交渉に費やされたものと推測されている。
[22]
これは、新アッシリア王サルゴン2世やアレキサンダー大王がバビロンを占領したときの状況とよく似ている。
[5]
なお、従前の日本語版記事では、アケメネス朝との戦いについて、以下のように説明している : アケメネス朝との戦いのうち最初の記録は紀元前548年にキュロス2世がアルベラ地方へ侵攻した事によって発生した。その後長期に渡って戦いが続いたが、紀元前539年9月、アケメネス朝の侵攻を受けオピスでのオピスの戦いでナボニドゥスは敗北した。更に10月、シッパルが陥落するとナボニドゥスはバビロンへ逃れたが、配下であったウグバルの裏切り(異説あり)によって捕らえられたため、バビロンはペルシア軍に無血占領され新バビロニアは滅亡した。
その死
[編集]ナボニドゥスの最期については、明らかではない。キュロスは、彼自身が打ち負かした幾人かの王の命に情けをかけたことで知られる。例えばリュディアのクロイソスである。彼は敗北ののち、キュロスの宮廷で助言者として生きることを許されている。この情報はヘロドトスによるものである。ヘロドトスによれば、クロイソスは当初、火刑を宣告されたが、彼の知見をキュロスに示した結果、処刑を免れたとされている[23]。バッキュリデースは、炎がクロイソスを捕らえる直前にアポロン神がクロイソスを救出し、(北方の)常春の国へと連れていった[24]としている。ナボニドゥスの年代誌における(おそらく)紀元前547年のキュロスの軍事行動の記述の中では、国が奪われその王が殺されたとしている。粘土板の文章におけるその国の名前は損傷しているが、おそらくはウラルトゥではないかと考えられている[25]。ベロッソス(前出)による記述と、ヘレニズム時代のバビロニア王朝の回顧的預言の中では、ナボニドゥスはカルマニア(現:イラン領ケルマーン州)で生きることを許されたとしている(従前の日本語版の記事では、カルマニアへ追放されたとしている)。
参考文献
[編集]- The Ancients in Their Own Words - (Michael Kerrigan、Natascha Spargo、Joe Conngally、Michael Spilling, 2010)
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ See for example in W. von Soden, “Kyros und Nabonid: Propaganda und Gegenpropaganda”, in H. Koch and D.N. MacKenzie (eds.), Kunst, Kultur und Geschichte der Achämenidenzeit und ihr Fortleben (Berlin: Dietrich Reimer 1983), 61-8; P.-A. Beaulieu, The reign of Nabonidus king of Babylon 556-539 B.C. (New Haven CT: Yale University Press 1989); A. Kuhrt, “Nabonidus and the Babylonian priesthood”, in M. Beard and J. North (eds.), Pagan priests: Religion and power in the ancient world (London: Duckworth), 117-55; F. Grant, “Nabonidus, Nabû-šarra-uṣur, and the Eanna temple”, in Zeitschrift für Assyriologie 81 (1991:37-86); T.G. Lee, “The jasper cylinder seal of Aššurbanipal and Nabonidus’ making of Sîn’s statue”, in Revue d’Assyriologie 87 (1993:131-6); P. Machinist and H. Tadmor, “Heavenly wisdom”, in M.E. Cohen, D.C. Snell and D.B. Weisberg (eds.), The tablet and the scroll: Near Eastern studies in honour of William W. Hallo (Bethesda MD: CDL Press 1993), 146-51; H. Schaudig, Die Inschriften Nabonids von Babylon und Kyros’ des Großen samt den in ihrem Umfeld entstandenen Tendezschriften: Textausgabe und Grammatik (Münster: Ugarit-Verlag 2001); P.-A. Beaulieu, “Nabonidus the mad king: A reconsideration of his steles from Harran and Babylon”, in M. Heinz and M.H. Feldman (eds.), Representations of political power: Case histories from times of change and dissolving order in the ancient Near East (Winona Lake IN: Eisenbrauns 2007), 137-66.
(例えば、「キュロスとナボニドゥス:プロパガンダと反プロパガンダ」(W. フォン・ゾデン(著)、『アケメネス朝時代の芸術、文化および歴史』(H. コッホ、D.N. マッケンジー(編))、ディートリヒ・ライマー(ベルリン)、1983年、pp. 61 - 68) ; 『バビロンの王ナボニドゥスの治世 紀元前556 - 539年』(ポール・アレン・ボーリュー、イェール大学出版、1989年) ; 『多神教徒の祭司たち:古代世界における宗教と権力』の中の「ナボニドゥスとバビロニアの祭司団」pp. 117 - 155(メアリー・ビアード(著)、ジョーン・ノース(編)、書籍中のこの記事の著者はアミリー・クアート) ; 『ナボニドゥスとエアンナ神殿』 (F.グラント(著)、Zeitschrift für Assyriologie 81 (1991:37-86)) ; 『アッシュールバニパルの碧玉の円筒印章とナボニドゥスのシンの神像』(トーマス・G・リー(著)、Revue d’Assyriologie 第87号、1993年 pp. 131 - 136) ; 『粘土板と巻物-近東の研究 ウィリアム・W・ハロー博士に敬意を表して』収録の「すばらしい知恵」(P.マチニスト、H.タッドモア(1993年)、メリーランド大学出版(CDL Press)) ; 『バビロンのナボニドゥスとキュロス大王、それぞれの碑文と、その周囲に描かれた巻きひげ:文書と文法』(ハンスペッター・シャウディグ、ウガリット出版(ドイツ・ミュンスター)、2001年) ; 『政治権力の表現:古代近東における変化の時代と溶解する秩序の中の個人史』(マーリーズ・ハインツ、マリアン・H・フレッドマン(編)、アイゼンブラウン社(米国)、2007年)のpp. 137 - 166収録の『ナボニドゥス-狂気の王:ハランとバビロンの石柱の再考』(ポール・アレン・ボーリュー(著)) - ^ ボーリュー(カナダの歴史学者)が1989年に論考している
- ^ W. Mayer, "Nabonidus Herkunft", in M. Dietrich and O. Loretz (eds.), Dubsar anta-men: Studien zur Altorientalistik (Munster: Ugarit-Verlag 1998), 245-61
(『筆記者:古代近東史の研究』(編:マンフィールド・ディートリッヒ、オスワルド・ロレッツ、ウガリット出版(ドイツ・ミュンスター)、1998年、p.245-261)に収録されている『ナボニドゥスの祖先』(著:ウォルター・メイヤー)。なお、「Dubsar anta-men」の、anta-menの部分のみ、翻訳保留中。Dubsarは、シュメール語で「筆記者」の意味。) - ^ Parpola, Simo (2004). "National and Ethnic Identity in the Neo-Assyrian Empire and Assyrian Identity in Post-Empire Times". Journal of Assyrian Academic Studies (JAAS) 18 (2): pp. 19. Similarly: Parpola, Simo. "Assyrians after Assyria". University of Helsinki, The Neo-Assyrian Text Corpus Project (State Archives of Assyria).
(シモ・パラポラ(フィンランドの考古学者)の学術論文 『新アッシリア帝国における国家・民族アイデンティティと帝国終焉後の時代におけるアッシリア人のアイデンティティ』(アッシリア学術研究誌 2004年 第18巻第2号 第19段落より。同様に、シモ・パラポラ『アッシリア帝国後のアッシリア人』(ヘルシンキ大学、新アッシリア文書全集プロジェクト(アッシリア公文書)より)) - ^ a b A. Kuhrt, "'Ex oriente lux': How we may widen our perspectives on ancient history", in R. Rollinger, A. Luther and J. Wiesehofer (eds.), Getrennte Wege? Kommunikation, Raum und Wahrnehmung in der alten Welt (Frankfurt am Main: Verlag Antike 2007), 617-32.
(『別の手法:古代世界におけるコミュニケーション、空間、知覚』(編:ロバート・ローリンジャー、アンドレアス・ルーサー、ジョセフ・ヴィーゼヘーファー、アンティーク出版(ドイツ、フランクフルト市)、2007年)p.617-632に収録されている『“東から昇る光” いかにして古代史への視野を広げるか』(著:アミリー・クアート)) - ^ Watrall, Ethan. >. "ANP203-History-of-Archaeology-Lecture-2". Anthropology.msu.edu.
(「ANP203 考古学の歴史 第2講義」(イーサン・ワットロール(ミシガン州立大学人類学部助教授))(同大学人類学部 講義資料)) - ^ Lendering, Jona. > "Nabonidus Cylinder from Sippar". Livius.org. Retrieved 7 April 2014.
(ジョナ・レンダリング(オランダの歴史学者) 『シッパル出土のナボニドスの円筒形碑文』(Livius.org : ジョナ・レンダリングによる、歴史を扱うホームページ)) - ^ a b Hurst, K. Kris. "The History of Archaeology Part 1". About.com.
(キャサリン・クリス・ハースト(アメリカ?の考古学者)『考古学の歴史 第1部』 About.comに記載の記事より) - ^ Beaulieu 1989:46-65; Machinist/Tadmor 1993.
(ポール・アレン・ボーリュー 1989年(著作は不明、46〜65ページ?)/(おそらくは)P.マチニスト、H.タッドモア(1993年)“The tablet and the scroll. Near Eastern studies in honor of William W. Hallo.”「粘土板と巻物-近東の研究 ウィリアム・W・ハロー博士に敬意を表して」収録の“Heavenly wisdom”「すばらしい知恵」) - ^ Kuhrt 1990.(アミリー・クアート、1990年)
- ^ Hursagkalamaの暫定訳。キシュと密接に関連する場所?
- ^ P.-A. Beaulieu, "An episode in the fall of Babylon to the Persians", Journal of Near Eastern Studies 52 (1993:241-61)
(ポール・アレン・ボーリュー 『ペルシアによるバビロン陥落のエピソード』(近東研究誌 第52巻、1993年 p.241〜261)) - ^ Beaulieu 1993; A. Kuhrt, "The Cyrus cylinder and Achaemenid imperial policy", Journal for the Study of the Old Testament 25 (1983:83-97)
(ポール・アレン・ボーリュー 1993年 ; 『キュロスの円筒形碑文とアケメネス朝の帝国政策』(アミリー・クアート、『旧約聖書の研究誌 第25巻』1983年 p.83〜97に収録)) - ^ a b Beaulieu 1989:149-205. On Tayma's importance for trade: C. Edens and G. Bawden, "History of Tayma' and Hejazi trade during the first millennium B.C.", Journal of the Economic and Social History of the Orient 32 (1989:48-103).
(『タイマの交易上の重要性』(ボーリュー、1989年) ; 『紀元前一千年紀におけるタイマ及びヒジャーズ(地方)の貿易の歴史』(クリストファー・エデン及びガース・ボーデン共著、「オリエントの経済史・社会史研究誌」第32巻、1989年)) - ^ An overview of the history of Tayma, current archaeological work, as well as bibliographical references, are given in "Deutsches Archaologisches Institut: Tayma". Retrieved 2007-10-16. Also: H. Hayajneh, "First evidence of Nabonidus in the Ancient North Arabian inscriptions from the region of Tayma", Proceedings of the Seminar for Arabian Studies 31 (2001:81-95).
(タイマの歴史の概観、現在の考古学の成果、書誌学の参考文献は『ドイツ考古学研究所:タイマ』2007年10月16日再版(?)で得られる。または、『古代北アラビア、タイマ地方の碑文におけるナボニドゥスの最初の証言』 (ハニ・ハヤネ(ヨルダンのヤルムーク大学の学者)著、アラビア研究セミナー会報第31号、2001年)) - ^ ヘロドトス「歴史」第1巻第188節〜第191節
- ^ クセノフォン「キュロスの教育」7.5.1〜36
- ^ From the Babyloniaca: Fragmente der griechischen Historiker 680F9a = Flavius Josephus, Against Apion 1.149-153.
- ^ ここでは、新バビロニア軍のことを意味する
- ^ P. Briant, From Cyrus to Alexander: A history of the Persian Empire (Winona Lake IN: Eisenbrauns 2002), 50-5, 80-7; Gauthier Tolini, "Quelques elements concernant la prise de Babylon par Cyrus (octobre 539 av. J.-C.)", Arta (2005/03); A. Kuhrt, "Ancient Near Eastern history: The case of Cyrus the Great of Persia", in H.G.M. Williamson (ed.), "Understanding the history of ancient Israel". (Oxford: Oxford University Press 2007), 107-27.
(『キュロスからアレクサンダーまで:ペルシア帝国の歴史』(ピエール・ブライアン(著)、アイゼンブラウン社(米国インディアナ州)、2002年)p.50〜55、p.80〜87より ;『キュロスによるバビロン占領に関する事実(紀元前539年10月)』(ゴーチェ・トラニ、2005年3月) ; アミリー・クアート 『古代近東史:ペルシアのキュロス大王の事例』 ; 『古代イスラエル史の理解』(ヒュー・ガッドフリー・マテュラン・ウィリアムソン(著)、オックスフォード大学出版、2007年、p.107〜127) - ^ Ugbaruの暫定訳
- ^ Josef. Wiesehofer, "Kontinuitat oder Zasur? Babylon under den Achaimeniden", in Johannes. Renger (ed.), Babylon: Focus Mesopotamischer Geschichte, Wiege fruher Gelehrsamheit, Mythos in der Moderne (Saarbrucken: SDV 1999), 167-88; M. Jursa, "The transition of Babylonia from the Neo-Babylonian empire to Achaemenid rule", in H. Crawford (ed.), Regime change in the ancient Near East and Egypt: From Sargon of Agade to Saddam Hussein (New York: Oxford University Press 2007), 73-94.
(『バビロン:メソポタミアの歴史・学問の発祥・現代の神話に焦点を当てる』(編:ジョハネス・レンジャー、ザールブリュッケン出版社(ドイツ)、1999年)p.167-188に収録されている『連続か刷新か アケメネス朝支配下のバビロン』(著:ジョセフ・ヴィーゼヘーファー); 『新バビロニア帝国からアケメネス朝支配までの期間におけるバビロニアの変遷』 ミカエル・ジューサ(著)、『古代近東及びエジプトにおける政治形態の変化:アッカドのサルゴンからサダム・フセインまで』 ハリアット・クロフォード(著)、オックスフォード大学出版 2007年、p.73〜94) - ^ 『歴史』第1巻第86〜88節
- ^ took him to the Hyperboreanの暫定訳
- ^ Joachim Oelsner, "Review of R. Rollinger, Herodots babylonischer logos: Eine kritische Untersuchung der Glaubwurdigkeitsdiskussion (Innsbruck: Institut fur Sprachwissenschaft 1993)", Archiv fur Orientforschung 46/47 (1999/2000:378-80); R. Rollinger, "The Median "empire", the end of Urartu and Cyrus' the Great campaign in 547 B.C. (Nabonidus Chronicle II 16)", Ancient West & East 7 (2008:49-63)
(『R・ローリンジャーの「ヘロドトスの、バビロニアに対する思想 : 信頼性の議論について、批判的な考察」についてのレビュー』(著:ジョアキム・オーズナー、インスブルック(大学?)言語学科(オーストリア)、1993年、東洋学アーカイブ 46/47(号?)); 『メディア人の「帝国」、ウラルトゥの終焉と紀元前547年のキュロス大王の軍事行動(ナボニドゥスの年代記II 16)』(R・ローリンジャー(著)、古代東西誌 第7巻、2008年 収録))
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