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[[乾寧]]3年([[896年]])、[[杭州]][[余杭県]]にて生誕。俗姓は劉氏であると伝わる。初め儒者を志したが、杭州開元寺で出家した後、[[越州 (浙江省)|越州]]の鏡清道怤に就いた。その後[[襄州]]華厳院の宝応禅院南院に移り、守廓次いでその師の[[南院慧顒]]に薫陶を受けてその法を継ぐ。[[長興]]2年([[931年]])、[[汝州]]の風穴山に住したが、[[天福 (後晋)|天福]]2年([[937年]])には[[刺史|州牧]]の李史君に請われて[[郢州]]へ移った。[[乾祐 (五代後漢)|乾祐]]2年([[949年]])、汝州大師の依頼によりその邸宅を寺に改めた。[[広順]]元年([[951年]])、郢州の新寺に広恵寺の額を賜り20年間住持として大衆を指導した。 |
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[[開宝]]6年([[973年]])[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]、78歳で病没。『[[景徳 |
[[開宝]]6年([[973年]])[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]、78歳で病没。『[[景徳伝灯録]]』巻13がその事績を伝える。法嗣として[[首山省念]]がいる。 |
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== 参考文献 == |
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2023年9月19日 (火) 23:13時点における版
風穴延沼 | |
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乾寧3年 - 開宝6年8月15日 (896年 - 973年9月14日) | |
生地 | 杭州余杭県 |
宗派 | 臨済宗 |
寺院 | 汝州風穴山、郢州広恵寺 |
師 | 南院慧顒 |
弟子 | 首山省念 |
風穴延沼(ふけつ えんしょう)は、晩唐から宋代にかけて活動した臨済宗の禅伯。臨済下4世。
乾寧3年(896年)、杭州余杭県にて生誕。俗姓は劉氏であると伝わる。初め儒者を志したが、杭州開元寺で出家した後、越州の鏡清道怤に就いた。その後襄州華厳院の宝応禅院南院に移り、守廓次いでその師の南院慧顒に薫陶を受けてその法を継ぐ。長興2年(931年)、汝州の風穴山に住したが、天福2年(937年)には州牧の李史君に請われて郢州へ移った。乾祐2年(949年)、汝州大師の依頼によりその邸宅を寺に改めた。広順元年(951年)、郢州の新寺に広恵寺の額を賜り20年間住持として大衆を指導した。
開宝6年(973年)8月15日、78歳で病没。『景徳伝灯録』巻13がその事績を伝える。法嗣として首山省念がいる。
参考文献
- 禅学大辞典編纂所 編 『新版 禅学大辞典』p112 1985年
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