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|出典の明記=2020年10月9日 (金) 21:43 (UTC) |
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|ソートキー=人1171年没 |
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{{Expand English|al-Adid|date=2023年6月|fa=yes}} |
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{{基礎情報 君主 |
{{基礎情報 君主 |
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| 人名 = アーディド |
| 人名 = アーディド |
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| 各国語表記 = |
| 各国語表記 = العاضد لدين الله |
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| 君主号 = |
| 君主号 = ファーティマ朝第14代カリフ |
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| 画像 = |
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| 画像説明 = |
| 画像説明 = |
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| 在位 = [[1160年]] - [[1171年]] |
| 在位 = [[1160年]][[7月23日]] - [[1171年]][[9月13日]] |
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| 戴冠日 = |
| 戴冠日 = |
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| 別号 = |
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| 配偶号 = |
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| 在位2 = |
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| 戴冠日2 = |
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| 生地 = [[ファイル:Rectangular_green_flag.svg|border|25px]] [[ファーティマ朝]]、[[カイロ]] |
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| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1151|5|9|1171|9|13}} |
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| 出生日 = [[1151年]][[5月9日]]<br>[[ヒジュラ暦]]546年[[ムハッラム]]月20日 |
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| 生地 = [[カイロ]] |
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| 死亡日 = 1171年9月13日<br>ヒジュラ暦567年ムハッラム月10日 |
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| 没地 = カイロ |
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| 埋葬日 = |
| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = |
| 埋葬地 = |
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| 配偶者9 = |
| 配偶者9 = |
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| 配偶者10 = |
| 配偶者10 = |
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| 子女 = {{仮リンク|ダーウード・ブン・アル=アーディド|label=ダーウード|en|Daoud ibn al-Adid}}<br>アブル=フトゥーフ<br>イスマーイール |
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| 子女 = |
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| 王家 = [[ファーティマ朝]] |
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| 王朝 = [[ファーティマ朝]] |
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| 王朝 = |
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| 王室歌 = |
| 王室歌 = |
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| 父親 = ユースフ |
| 父親 = ユースフ・ブン・アル=ハーフィズ |
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| 母親 = |
| 母親 = |
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| 宗教 = [[イスラム教]][[イスマーイール派]] |
| 宗教 = [[イスラーム教]][[イスマーイール派]] |
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| サイン = |
| サイン = |
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'''アー |
'''アブー・ムハンマド・アブドゥッラー・ブン・ユースフ'''({{rtl翻字併記|ar|أبو محمد عبد الله بن يوسف|Abū Muḥammad ʿAbd Allāh b. Yūsuf}}, [[1151年]][[5月9日]] - [[1171年]][[9月13日]])、または[[ラカブ]](尊称)で'''アル=アーディド・リッ=ディーニッラーフ'''({{rtl翻字併記|ar|العاضد لدين الله|al-ʿĀḍid li-Dīn Allāh}},「神の信仰を強固にする者」の意)は、第14代で最後の[[ファーティマ朝]]の[[カリフ]]である(在位:[[1160年]][[7月23日]] - 1171年9月13日)。 |
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アーディドは二人の前任者たちと同様に幼くしてカリフに即位し、[[ワズィール]](宰相)の地位を占めるさまざまな有力者の傀儡としてその治世を過ごした。アーディドを即位させたワズィールの{{仮リンク|タラーイー・ブン・ルッズィーク|en|Tala'i ibn Ruzzik}}は1161年に宮廷の陰謀の犠牲になり、息子の{{仮リンク|ルッズィーク・ブン・タラーイー|en|Ruzzik ibn Tala'i}}が後任となった。しかし、1163年に[[上エジプト]]で総督を務めていた[[シャーワル]]の手で打倒され、そのシャーワルも数か月後には配下の{{仮リンク|ディルガーム|en|Dirgham}}によって追放された。 |
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== 生涯 == |
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第11代カリフだった[[ハーフィズ]]の孫で、1160年に11歳で即位した。この頃のファーティマ朝はすでに末期的状況にあり、国内では政治的実力の無い幼君のもとで実権をめぐって[[シャーワル]]と[[ディルガーム]]が抗争し、国外では肥沃かつ戦略的重要地であるエジプトをめぐって[[エルサレム王国]]をはじめとする[[十字軍]]や[[ザンギー朝]]などの[[イスラム王朝]]が虎視眈々と機会をうかがっていた。シャーワルとディルガームの抗争は[[1163年]]になると激化し、不利な状況に陥ったシャーワルはザンギー朝に救援を要請する。ザンギー朝の[[ヌールッディーン]]は配下の猛将・[[シール・クーフ]]とその甥の[[サラーフッディーン]](サラディン)を派遣し、[[1164年]]にディルガームは討たれた。 |
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[[カイロ]]における絶え間ない権力闘争はファーティマ朝政権を弱体化させ、[[第1回十字軍|十字軍]]が建国した[[エルサレム王国]]と[[スンナ派]]を信奉する[[ザンギー朝]]の支配者の[[ヌールッディーン]]は[[エジプト]]の征服を目指すようになった。十字軍が何度かにわたってエジプトへ侵攻する一方でヌールッディーンはワズィールの地位の奪還を試みるシャーワルを支援し、将軍の[[シールクーフ]]とともにエジプトへ送り返した。そのシャーワルはディルガームの打倒に成功したものの、すぐにシールクーフと対立し、1169年1月にシールクーフの陣内で殺害された。シールクーフはカイロを占領してワズィールとなったが、まもなく死去し、シールクーフの甥の[[サラーフッディーン]](サラディン)が後を継いだ。 |
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ところがその後、シール・クーフの勢力がファーティマ朝で絶大になったため、シャーワルはシール・クーフの排斥を目論んで[[1168年]]にエルサレム王国の[[アモーリー1世 (エルサレム王)|アモーリー]]の軍をエジプトに誘引した。これに激怒したシール・クーフはサラーフッディーンと共にエルサレム軍を破り、[[1169年]]には裏切ったシャーワルを殺害した。これによりシール・クーフが完全なる権力者として君臨することとなり、アーディドもシール・クーフを宰相に任命せざるを得なくなったのである。 |
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当初サラーフッディーンはアーディドに融和的な態度を示したが、徐々にファーティマ朝の体制を解体していった。これに反発したファーティマ朝の黒人軍団は反乱を起こした末に追放され、サラーフッディーンの一族が地方総督に任命された。文民官僚もサラーフッディーンの新体制の下に組み込まれ、アーディドは儀礼的な役割からも遠ざけられた。政権内の人事をスンナ派の人物で固め、宗教儀礼もファーティマ朝が信奉する[[イスマーイール派]]の様式からスンナ派の様式へ置き換えていったサラーフッディーンは、1171年9月10日に[[アッバース朝]]の宗主権を公に宣言し、ファーティマ朝を廃絶した。アーディドはその数日後に死去し、政権を失ったイスマーイール派の共同体はサラーフッディーンが築いた[[アイユーブ朝]]政権から迫害を受け、およそ1世紀後にエジプトから姿を消した。 |
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だが、シール・クーフは1169年3月に急死し、その軍は甥のサラーフッディーンが継ぐこととなった。アーディドはサラーフッディーンを新たな宰相に任命したが、ファーティマ朝の黒人宦官で権勢を誇っていた[[ムータミン・アルヒラーファ]]は、シール・クーフならまだしも30歳前後のサラーフッディーンなら排斥できると誤解し、黒人奴隷兵を集めて挙兵しようとした。だが8月の[[カイロ]]市街で行なわれた[[バイナルカスラインの戦い]]で黒人奴隷兵の軍勢は壊滅してムータミンも殺され、ファーティマ朝は完全にサラーフッディーンの支配下に入った。 |
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== 出自と背景 == |
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1171年9月に22歳で死去した。アーディドの死により、ファーティマ朝は名実共に断絶し、サラーフッディーンの[[アイユーブ朝]]の時代に入ることになる。 |
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13世紀の歴史家の{{仮リンク|イブン・ハッリカーン|en|Ibn Khallikan}}による一般的に受け入れられている記録に基づくならば、将来アーディドの名でカリフとなるアブドゥッラーは[[ヒジュラ暦]]546年[[ムハッラム]]月20日([[西暦]]1151年5月9日)に生まれた{{sfn|Wiet|1960|p=196}}{{sfn|Saleh|2009}}。しかし、それ以前の1145年や1149年の生まれとしている著述家の記録も存在する{{sfn|Sajjadi|Daftary|Umar|2008|p=69}}。アーディドの父親は[[ファーティマ朝]]第11代[[カリフ]]の[[ハーフィズ (ファーティマ朝カリフ)|アル=ハーフィズ・リッ=ディーニッラーフ]](在位:1132年 - 1149年)の息子のユースフである{{sfn|Wiet|1960|p=196}}{{sfn|Saleh|2009}}{{sfn|Halm|2014|pp=237, 247}}。ユースフはハーフィズが死去した時点で生き残っていた息子たちの中では最年長の一人であったが、ハーフィズの遺詔によってカリフとなったのはユースフではなく16歳の末子のイスマーイールだった。イスマーイールは{{仮リンク|ザーフィル|label=アッ=ザーフィル・ビ=アムルッラーフ|en|al-Zafir}}(在位:1149年 - 1154年)の[[ラカブ]]を名乗り、実力者の{{仮リンク|イブン・マサール|en|Ibn Masal}}を[[ワズィール]](宰相)に任命した{{sfn|Halm|2014|pp=223, 237}}{{sfn|Daftary|2007|p=250}}{{sfn|菟原|1982|p=134}}。そのザーフィルはイブン・マサールを打倒してワズィールとなった{{仮リンク|アッバース・ブン・アビル=フトゥーフ|en|Abbas ibn Abi al-Futuh}}によって1154年に暗殺された。アッバースはザーフィルの5歳の息子のイーサーを{{仮リンク|ファーイズ|label=アル=ファーイズ・ビ=ナスルッラーフ|en|al-Fa'iz bi-Nasr Allah}}(在位:1154年 - 1160年)の名でカリフに即位させ、さらにユースフとザーフィルのもう一人の兄であるジブリールにカリフ暗殺の嫌疑をかけてファーイズの即位と同じ日に両者を処刑させた{{sfn|Saleh|2009}}{{sfn|Daftary|2007|p=250}}{{sfn|Halm|2014|pp=236–237}}{{sfn|菟原|1982|p=135}}{{efn2|ザーフィルの暗殺とファーイズの即位は容易に傀儡化することが可能な幼児を擁立して独裁権を振るおうとしたアッバースの意図があったと考えられているが、ザーフィルの兄弟まで殺害した理由はカリフ位の継承を主張する可能性のある年長者を排除するためであったとみられている{{sfn|菟原|1982|p=135}}。}}。 |
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[[File:Nur ad-Din Zangi2.jpg|thumb|right|220px|13世紀の歴史書の挿絵に描かれた[[ヌールッディーン]]]] |
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この時期のファーティマ朝は衰退の中にあった。ファーティマ朝の公的な教義である[[イスマーイール派]]は求心力を失い、後継者争いや教派の分裂によって弱体化し、エジプトでは[[スンナ派]]の復活によって王朝の正統性がますます疑われるようになっていた{{sfn|Şeşen|1988|p=374}}{{sfn|Brett|2017|pp=277, 280}}。ザーフィルの運命が示すように、ファーティマ朝のカリフ自身も強力な大臣たちの手の中にある実質的な操り人形と化していた。ワズィールは王室の称号である[[スルターン]]の称号も合わせ持ち、その名前はカリフと並んで{{仮リンク|フトバ|en|Khutbah}}([[金曜礼拝]]の説教)で読み上げられ{{efn2|フトバで支配者の名前を読み上げることは近代以前の中東地域において支配者が持っていた二つの特権のうちの一つであった(もう一つは硬貨を鋳造する権利)。フトバにおける名前の言及は支配者の統治権と宗主権を受け入れることを意味し、イスラーム世界の支配者にとってこれらの権利を示す最も重要な指標と見なされていた{{sfn|Mernissi|1993|p=71}}。反対にフトバで支配者の名前を省くことは公に独立を宣言することを意味していた。また、重要な情報伝達の手段でもあるフトバは、支配者の退位と即位、後継者の指名、そして戦争の開始と終結を宣言する役割も担っていた{{sfn|Lewis|2004|p=82–5}}。}}、貨幣にも刻まれた{{sfn|Şeşen|1988|p=374}}{{sfn|Daftary|2007|p=248}}。歴史家のヤーコフ・レフは、この時期のエジプトを「[[ナイル]]の病人」と表現している{{sfn|Lev|1999|p=53}}。イスマーイール派を信奉するファーティマ朝政権の弱体化はスンナ派の対抗勢力である[[バグダード]]の[[アッバース朝]]政権の目からも明らかであった。アッバース朝のカリフの[[ムクタフィー (12世紀)|ムクタフィー]](在位:1136年 - 1160年)は、1154年に[[ダマスクス]]の[[ザンギー朝]]の支配者である[[ヌールッディーン]](在位:1146年 - 1174年)をエジプトの名目上の統治者に任命する証書を交付した{{sfn|Lev|1999|p=53}}。 |
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== 治世 == |
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アーディドは幼年で即位したという不幸もあるが、自身が才能に恵まれず政治にも無関心だったため、有力者の傀儡として宮中に籠もりきる人生を過ごした。ただ、サラーフッディーンに対する黒人奴隷兵の反乱はアーディドによる謀略ともいわれており、これが事実ならかえってアーディドはサラーフッディーンに新王朝創設の好機を与えてしまったことになる。なお、アーディドがサラーフッディーンと対立していたことを示す傍証がある。アーディドが亡くなる3日前、サラーフッディーンは第1金曜日のフトバ(説教)を[[アッバース朝]]の[[カリフ]]・[[ムスタディー]]の名のもとに行なってエジプトにスンナ派を復活させると(ファーティマ朝は[[イスマーイール派]]でスンナ派を弾圧していた)、第2金曜日のフトバからはアーディドの名を削除させている。これは事実上、サラーフッディーンによってアーディドはカリフ位を剥奪されたようなものであった。 |
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カリフのファーイズは病弱であり、1160年7月22日にわずか11歳で死去した。直系の後継者を欠いていたことから、全権を握っていたワズィールの{{仮リンク|タラーイー・ブン・ルッズィーク|en|Tala'i ibn Ruzzik}}が翌日の1160年7月23日にユースフの息子で9歳のアブドゥッラーをアル=アーディド・リッ=ディーニッラーフの名でカリフに即位させた。タラーイーはカリフに対する統制をより強化するため、自分の娘の一人をアーディドと結婚させた{{sfn|Wiet|1960|p=196}}{{sfn|Şeşen|1988|p=374}}{{sfn|Halm|2014|pp=247–248}}{{sfn|菟原|1982|p=136}}。アーディドはその治世を通じて名目上の統治者であったに過ぎず、揺らぐファーティマ朝政権の利権をめぐって互いに争う廷臣たちや有力者たちの事実上の傀儡として過ごした{{sfn|Wiet|1960|p=196}}{{sfn|Saleh|2009}}。フランスの東洋学者の{{仮リンク|ガストン・ヴィート|en|Gaston Wiet}}は、アーディドの置かれた状況について、「アラブの著述家たちは確信がないように見え、時にはカリフの迷走的な反抗への衝動に原因を求めているが、このようなカリフの反抗はほとんど成功に結び付かなかった… 大抵においてカリフは最終的に自分自身が犠牲となった一連の深刻な悲劇的事件をどうすることもできずに傍観していた」と述べている{{sfn|Wiet|1960|p=196}}。 |
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アーディド自身に関する情報が不足しているため、アーディドの人物像はよく分かっていない。イブン・ハッリカーンはアーディドが極めて[[シーア派]]寄りの人物であったと記録している{{sfn|Saleh|2009}}。一方でアーディドの唯一の身体的な特徴に関する説明は、[[十字軍]]時代の歴史家の[[ギヨーム・ド・ティール]]が十字軍の指導者たちとともにアーディドに謁見した時の様子を記録したものである。顔は[[ベール]]に包まれていたものの、ギヨームは「非常に寛大な気質の若者で、ひげが生え始めたばかりであった。また、背が高く、浅黒い肌の色で、良い体格をしていた」と記している{{sfn|Saleh|2009}}{{sfn|Wiet|1960|p=197}}。 |
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=== カイロにおける権力闘争 === |
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{{Location map+ | Nile Delta |
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| caption = [[ナイルデルタ]]の地図 |
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| relief = 1 |
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| places = |
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{{Location map~ | Nile Delta |
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{{Location map~ | Nile Delta |
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}} |
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{{Location map~ | Nile Delta |
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{{Location map~ | Nile Delta |
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}} |
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}} |
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独裁権を振るい、さらにシーア派の一派である[[十二イマーム派]]に傾倒していたことで宮廷内の憎悪を買っていたタラーイー・ブン・ルッズィークは1161年9月11日に暗殺された{{sfn|菟原|1982|p=136}}{{sfn|Halm|2014|pp=244–245}}{{sfn|Sajjadi|Daftary|Umar|2008|p=70}}。この暗殺はアーディドの叔母の一人である{{仮リンク|シット・アル=クスール|en|Sitt al-Qusur}}が扇動していたと言われており、恐らく若いカリフもこのことを知っていた{{sfn|Wiet|1960|p=196}}{{sfn|Halm|2014|pp=248–249}}{{sfn|Daftary|2007|p=251}}。それでもなお、すぐにタラーイーの息子の{{仮リンク|ルッズィーク・ブン・タラーイー|en|Ruzzik ibn Tala'i}}が後任のワズィールに就任し、ルッズィークも同じようにカリフにいかなる権力も与えなかった{{sfn|Wiet|1960|pp=196–197}}{{sfn|Halm|2014|p=249}}。新しいワズィールはシット・アル=クスールを絞殺させた一方でアーディドを別の叔母の保護下に置いたが、この叔母はタラーイーの暗殺計画に関与していないことを宣誓しなければならなかった{{sfn|Halm|2014|p=249}}。それから間もなくルッズィークはかつてファーティマ朝政権と対立した王族である{{仮リンク|ニザール・ブン・アル=ムスタンスィル|label=ニザール|en|Nizar ibn al-Mustansir}}の家系に属する権利主張者による最後の反乱を鎮圧した。反乱を起こしたムハンマド・ブン・アル=フサイン・ブン・ニザールは[[マグリブ]]([[北アフリカ]]西部)から到来し、[[キレナイカ]]と[[アレクサンドリア]]を反乱に巻き込もうとしたが、捕らえられて1162年8月に処刑された{{sfn|Sajjadi|Daftary|Umar|2008|p=70}}{{sfn|Halm|2014|pp=249, 384 (note 69)}}。 |
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アーディド(より厳密に言うならばアーディドを通じて行動していた宮廷内の一派)は、ルッズィークを失脚させるための支援を[[上エジプト]]の総督の[[シャーワル]]に求めた。これに対し[[ベドウィン]]の軍団の支援を得たシャーワルは1162年12月末にカイロを占領することに成功し、ルッズィークを処刑させた{{sfn|Saleh|2009}}{{sfn|Halm|2014|pp=249–250, 261}}。しかしながら、シャーワルもまたカリフを公務から排除し、政府を完全に掌握した{{sfn|Wiet|1960|p=197}}。同時代の詩人の{{仮リンク|ウマーラ・ブン・アビー・アル=ハサン・アル=ヤマニー|en|Umara ibn Abi al-Hasan al-Yamani}}は、「ルッズィーク家の終焉とともにエジプトの王朝も終焉を迎えた」と記している{{sfn|Halm|2014|p=250}} 。 |
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そのシャーワルは自分に仕えていた軍司令官の{{仮リンク|ディルガーム|en|Dirgham}}によって1163年8月にカイロから追放されたが、ベドウィンの支持者のもとに逃げ込み、その後ヌールッディーンの支援を求めてダマスクスに向かった{{sfn|Halm|2014|pp=262–264}}{{sfn|Brett|2017|pp=288–289}}{{sfn|菟原|1982|p=137}}{{sfn|佐藤|2011|pp=69–70}}。これはファーティマ朝にとって不吉な展開だった。歴史家の{{仮リンク|ファルハード・ダフタリー|en|Farhad Daftary}}が「熱烈なスンナ派」と形容するヌールッディーンにとって、シャーワルの到着はイスマーイール派のファーティマ朝政権を打倒し、エジプトをスンナ派のアッバース朝の宗主権下に戻すだけでなく、イスラーム世界の中核地帯を自らの支配の下で統一する可能性を開くものだった{{sfn|Wiet|1960|p=197}}{{sfn|Daftary|2007|p=252}}{{sfn|Lev|1999|p=58}}。 |
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=== 国外からの干渉とディルガームの失脚 === |
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{{Further|{{仮リンク|十字軍のエジプト侵攻|en|Crusader invasions of Egypt}}}} |
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[[File:Amalrich1.jpg|thumb|right|220px|13世紀の歴史書の挿絵に描かれた[[アモーリー1世 (エルサレム王)|アモーリー1世]]。アモーリー1世は数度にわたりエジプトへ侵攻し、ザンギー朝のシリア軍やファーティマ朝の軍勢と戦った。]] |
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その間にもエジプトのディルガームの政権はアレクサンドリア総督の処刑を含む失政によって大きく評判を落とし、軍の支持を急速に失った{{sfn|Brett|2017|p=289}}。それに加えてエジプトの混乱は[[十字軍国家]]の[[エルサレム王国]]による介入の可能性を開いた。十字軍がエジプトを強く欲したのはその富のためだけでなく、もしヌールッディーンがエジプトを占領した場合、二方面からの挟撃につながる可能性が高いためでもあった{{sfn|Halm|2014|p=263}}。タラーイー・ブン・ルッズィークがワズィールだった時代にはすでに[[エルサレム王]][[ボードゥアン3世 (エルサレム王)|ボードゥアン3世]](在位:1143年 - 1163年)の侵攻を毎年貢納金を支払うことによって食い止めざるを得ない事態となっていた{{sfn|Daftary|2007|p=251}}。ボードゥアン3世の後継者の[[アモーリー1世 (エルサレム王)|アモーリー1世]](在位:1163 - 1174年)はエジプトの征服を真剣に検討した。そして1163年9月にエジプトへ侵攻したものの、ファーティマ朝が増水期にあったナイル川の氾濫をせき止める堤防を破壊し、[[ナイルデルタ]]の平野を水浸しにしたために撤退を余儀なくされた{{sfn|Daftary|2007|p=251}}{{sfn|Halm|2014|p=263}}{{sfn|佐藤|2011|p=69}}。 |
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エジプトが十字軍に対して見せた明白な弱さはシャーワルに対する援助の提供をヌールッディーンへ促すことになり、シャーワルは支援の見返りにエジプトの歳入の3分の1を貢納金としてヌールッディーンへ送り、ヌールッディーンの臣下になることを約束した。また、残りの3分の2はアーディドとシャーワルの間で分割されることになった{{sfn|Lev|1999|p=57}}{{sfn|Sajjadi|Daftary|Umar|2008|pp=70–71}}{{sfn|Halm|2014|pp=263–264}}。シャーワルは[[クルド人]]の将軍の[[シールクーフ]]に率いられたわずか1,000人の小規模な遠征軍とともにエジプトへ送り返された。また、この遠征軍にはシールクーフの甥の[[サラーフッディーン]](サラディンの呼び名でも知られる)も同行していた{{sfn|Wiet|1960|p=197}}{{sfn|Daftary|2007|p=251}}{{sfn|Halm|2014|p=264}}。 |
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これらの二重の国外からの介入はファーティマ朝政権とエジプトの歴史に大きな影響を与える断裂点となった。絶え間ない混乱によって弱体化したエジプトは依然として活気のある経済と莫大な資源を有していたものの、今やダマスクスと[[エルサレム]]の間のより広範囲な抗争における標的となった。双方の勢力はエジプトの征服を目指す一方で他方による征服の阻止を狙い、その争いは最終的にファーティマ朝の滅亡へつながることになった{{sfn|Sajjadi|Daftary|Umar|2008|p=70}}{{sfn|Brett|2017|p=289}}{{sfn|Lev|1999|pp=57–58}}。 |
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ディルガームはアモーリー1世にシャーワルとシールクーフが率いるシリア軍に対する助力を訴えたが、エルサレム王の介入は間に合わなかった。シリア軍は1164年4月下旬に{{仮リンク|ビルバイス|en|Bilbeis}}でディルガームの兄弟を奇襲して破り、カイロへの道を開いた{{sfn|Halm|2014|p=264}}{{sfn|Brett|2017|pp=289–290}}。この戦いの報に接したカイロではパニックが起きた。兵士たちに支払う報酬の資金を必死に求めていたディルガームは孤児の財産すら没収したが、軍隊はディルガームを見捨て始めた{{sfn|Halm|2014|p=265}}。自分の下に留まっていたわずか500騎の騎兵とともにカリフの宮殿の前の広場に現れたディルガームはアーディドが現れるように要求したが、すでにシャーワルとの交渉を始めていたカリフはディルガームを相手にせず、ディルガームに対し自分の命を守るように忠告した。自身の部隊の離反が続く中、ディルガームはカイロを脱出したが、最終的にシャーワルの兵の一人に殺害された{{sfn|Halm|2014|p=265}}。 |
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=== シャーワルの二度目のワズィール政権 === |
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[[File:Map Crusader states 1165-en.svg|thumb|250px|right|1165年頃の[[レバント]]地方の勢力図]] |
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シャーワルは1164年5月26日にワズィールの地位に復帰したが、シールクーフの威勢を恐れてシリア軍の撤退を要求したためにシールクーフと対立し、シリア軍はカイロを攻撃した。これに対してシャーワルはシリア軍をエジプトから追い出すために直ちにアモーリー1世に支援を要請した{{sfn|Wiet|1960|p=197}}{{sfn|Halm|2014|pp=266–267}}{{sfn|佐藤|2011|p=71}}。シールクーフとサラーフッディーンはビルバイスで3か月にわたり十字軍と対峙したが、その間にヌールッディーンがシリアの{{仮リンク|ハーリム (シリア)|label=ハーリム|en|Harem, Syria}}を占領したためにアモーリー1世の率いる十字軍は1164年11月に北へ撤退せざるを得なくなった。一方のシールクーフも危険なほど物資の不足に陥り、シャーワルから50,000[[ディナール]]を受け取ることと引き換えに撤退を余儀なくされた{{sfn|Halm|2014|p=268}}{{sfn|Brett|2017|p=290}}。 |
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十字軍とシリア軍が撤退したことで、しばらくの間シャーワルは自分の立場を維持することができた。しかし、エジプトを体験し、その富と体制の脆弱さを知ったシールクーフはヌールッディーンを説得して1167年1月に再び軍隊とともに南方へ向かった{{sfn|Halm|2014|p=269}}。この動きを知ったシャーワルはアモーリー1世に援軍を求めたが{{sfn|佐藤|2011|p=72}}、アモーリー1世はファーティマ朝と正式な同盟を結ぶ前から軍を招集して自らエジプトに向かった{{sfn|Halm|2014|p=269}}。その一方で[[カイサリア・マリティマ|カエサリア]]領主の{{仮リンク|ユーグ・グラニエ|en|Hugh Grenier}}がカイロに入り、アーディドから直接同盟の同意を得た。この時のカリフの謁見に関するユーグの記録はファーティマ朝の宮殿について言及されている数少ない現存する記録のひとつである{{sfn|Halm|2014|pp=269–272}}。カイロの城壁には十字軍の守備隊が据えられ、ファーティマ朝と十字軍は共同でシリア軍に立ち向かった。1167年3月18日に起きた{{仮リンク|バーバインの戦い|en|Battle of al-Babein}}ではシリア軍が勝利を収めたが、その直後にサラーフッディーンがアレクサンドリアで包囲された。このためシールクーフは妥協を迫られ、1167年8月にシリア軍と十字軍の両者は再びエジプトを去った。しかし、カイロには十字軍の守備隊とエルサレム王へ支払われることになった年間100,000ディナールの貢納金を徴収するための役人が残された{{sfn|Brett|2017|p=290}}{{sfn|Halm|2014|pp=272–276}}。 |
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この事実上の十字軍への服従はシャーワルの息子のアル=カーミル・シュジャーを含むファーティマ朝の宮廷の多くの者から不満を買い、アル=カーミルは密かにヌールッディーンと連絡を取って支援を求めた{{sfn|Halm|2014|p=276}}。しかし、十字軍の指導者間で国内が割拠された状態だったにもかかわらず、1168年10月にエジプトの征服に乗り出したアモーリー1世によってシリア軍は先手を打たれた{{sfn|Halm|2014|p=276}}。十字軍はエジプトに入ると1168年11月5日にビルバイスの住民を虐殺し、アル=カーミルはアーディドに対しヌールッディーンへ助けを求めるように説得した。シャーワルはこれに猛反対し、もしシリア軍が最終的に勝利するようなことになれば、カリフ自身が悲惨な結末を迎えることになると警告した{{sfn|Halm|2014|p=277}}。それでもなお、ビルバイスでの恐ろしい虐殺の知らせは十字軍の侵攻に反発する人々を結集させることになった{{sfn|Lev|1999|pp=59–60}}。最終的にアーディドは支援の嘆願を密かにヌールッディーンへ送ったと伝えられているが{{sfn|Halm|2014|p=277}}{{sfn|佐藤|2011|p=74}}、この話はサラーフッディーンの台頭を熱心に正当化しようとする後世の年代記作家たちによる創作の可能性もある{{sfn|Brett|2017|p=291}}。 |
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これらの出来事の間にも十字軍はカイロの城門の前に到達して都市の包囲を開始し、一方でシャーワルは敵に物資を渡さないためにカイロに隣接する商都である[[フスタート]]に住民を避難させた上で火を放った{{sfn|Lev|1999|pp=60–61}}{{sfn|Halm|2014|pp=277–278}}{{sfn|佐藤|2011|p=75}}。火は54日間にわたって燃え続けたと伝えられているが{{sfn|佐藤|2011|p=75}}、歴史家の{{仮リンク|ハインツ・ハルム|en|Heinz Halm}}は、この時のフスタートの破壊の規模に関する記録は相当誇張されている可能性が高いと指摘している{{sfn|Halm|2014|pp=278–279}}。カイロに対する包囲は1169年1月2日まで続いたものの、シリア軍が接近したために十字軍は[[パレスチナ]]へ撤退した。その後、シールクーフに率いられた6,000人の部隊が1月8日にカイロの前に到着した{{sfn|Halm|2014|pp=277, 279}}。カイロに入城したシールクーフは住民から熱烈な歓迎を受け、アーディドはシールクーフに{{仮リンク|ヒルア|en|Robe of honour}}(名誉の[[ガウン]])を与えた{{sfn|佐藤|2011|p=75}}。 |
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アーディドとシールクーフの接近に危機感を覚えたシャーワルは1169年1月18日にシリア軍の陣営を訪れてシールクーフとの会見を求めたが、兵士によって拘束された。アーディドはシャーワルの処刑を促したか、少なくとも処刑に同意したと伝えられており、処刑は同日に実行された{{sfn|Halm|2014|p=280}}{{sfn|Lev|1999|pp=47–48, 62–65}}{{sfn|佐藤|2011|pp=78–79}}。その2日後にシールクーフはワズィールに任命され、アル=マーリク・アル=マンスール(勝利の王)の称号を与えられた{{sfn|Daftary|2007|p=252}}{{sfn|Halm|2014|pp=280–281}}。シールクーフの突然の就任は十字軍を驚かせるとともにヌールッディーンの不興を買い、ヌールッディーンは部下の意図に不信感を抱いた。そしてアーディドに書簡を送り、シリア軍とその司令官を帰還させるように求めた{{sfn|Halm|2014|p=281}}。これに対しアーディドは返事をせず、新しいワズィールに満足したとみられている。これはシールクーフが政権の役人をそのまま残し、ファーティマ朝の制度を尊重しているように見えたためである{{sfn|Halm|2014|pp=281–282}}。 |
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=== サラーフッディーンのワズィール政権 === |
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{{Further|{{仮リンク|エジプトにおけるサラーフッディーン|en|Saladin in Egypt}}}} |
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[[File:Dirham Saladin.jpg|thumb|right|250px|ヒジュラ暦586年(西暦1215/6年)に{{仮リンク|シルヴァン|label=マイヤーファーリキーン|en|Silvan, Diyarbakır}}で鋳造されたとみられる[[サラーフッディーン]]の名が刻まれた[[ディルハム]]銀貨。サラーフッディーンは1169年3月にワズィールに就任すると徐々にファーティマ朝の体制を解体し、最終的にファーティマ朝を廃絶した。]] |
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しかしながら、シールクーフは1169年3月23日に飽食による肥満が原因となって死去した{{sfn|佐藤|2011|p=79}}。シールクーフの突然の死はファーティマ朝政府にもシリアの遠征軍にも[[権力の空白]]をもたらした。ファーティマ朝の支配者層はカリフの宮殿で対応を協議した。会議ではサラーフッディーンをワズィールに任命することを提案する者もいれば、宮廷を統括していた黒人[[宦官]]であるムウタミン・アル=ヒラーファ・ジャウハルを筆頭にナイルデルタに軍の領地([[イクター]])を与えてシリア軍をカイロから引き離し、ワズィールを任命せずに王朝の初期のカリフたちのようにアーディドが親政を開始することを提案する者もいた{{sfn|Halm|2014|p=282}}。一方のシリア軍の司令官たちも指導者の地位をめぐって争ったが、最終的にサラーフッディーンが有力な候補として浮上した{{sfn|Halm|2014|pp=282–283}}{{sfn|佐藤|2011|p=80}}。結局、1169年3月26日にサラーフッディーンがカリフの宮殿に迎えられ、アル=マーリク・アル=ナースィル(勝利をもたらす王)の称号とともにワズィールに任命された{{sfn|Şeşen|1988|p=374}}{{sfn|Daftary|2007|p=252}}{{sfn|Halm|2014|p=283}}。13世紀の歴史家の{{仮リンク|イブン・ワースィル|en|Ibn Wasil}}は、カリフがサラーフッディーンの就任を認めた理由について、サラーフッディーンが直属の軍隊を持たず、有力な補佐役を欠いていたために最終的にはエジプト側の有利に働くであろうという思惑があったと記している{{sfn|佐藤|2011|p=81}}。同時にサラーフッディーンはアーディドに奉仕する者であるという建前が確認されたが、権力の実際の力関係は任命状において初めてワズィールの職位の世襲が宣言されたという事実に表れていた{{sfn|Lev|1999|pp=66–69}}。 |
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サラーフッディーンはワズィールに就任するとシリア軍からクルド人とトルコ人の奴隷兵([[マムルーク]])を選抜してサラーヒーヤと呼ばれる直属の軍隊を編成したが、その立場は安泰とは言い難かった{{sfn|佐藤|2011|p=87}}。サラーフッディーンの軍隊は数千人程度の規模に過ぎず、戦闘能力では勝っていたものの、ファーティマ朝の軍隊とは圧倒的に規模で劣っていた{{sfn|Ehrenkreutz|1972|p=70}}{{sfn|Lev|1999|pp=61–62}}。さらにサラーフッディーンは配下の司令官たちの忠誠に完全には依存することができなかった{{sfn|Ehrenkreutz|1972|p=70}}。そしてファーティマ朝におけるサラーフッディーンの役割も矛盾を孕んでいた。サラーフッディーン自身はスンナ派であり、スンナ派の軍隊を率いてエジプトに入り、ヌールッディーンの好戦的なスンナ派政権に依然として忠誠を誓っていた。その一方ではファーティマ朝のワズィールとしての立場上、イスマーイール派の国家、さらにはイスマーイール派の宗教指導者層({{仮リンク|ダアワ|en|Dawah}})の名目上の監督者でもあった。エジプトの政権を解体しようとするサラーフッディーンの試みに対してファーティマ朝の宮廷と軍隊の支配者層が反発するのは必至であり、一方でヌールッディーンはかつての部下の意図に不信感を抱いていた{{sfn|Ehrenkreutz|1972|pp=70–71}}{{sfn|Halm|2014|p=284}}。このため、当初サラーフッディーンは慎重に行動せざるを得ず、アーディドと良好な関係を築き、カイロの市中をカリフと並んで行進してみせるなど、両者の協調的な関係を世間にアピールしようとした{{sfn|Halm|2014|p=284}}{{sfn|Ehrenkreutz|1972|p=72}}{{sfn|佐藤|2011|p=88}}。 |
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しかし、サラーフッディーンの兄の{{仮リンク|トゥーラーン・シャー (サラーフッディーンの兄)|label=トゥーラーン・シャー|en|Turan-Shah}}に率いられたシリア軍の追加部隊が到着するとサラーフッディーンはファーティマ朝政権から次第に距離を置くようになり、まずフトバにおいてアーディドの名前に続けてヌールッディーンの名前を読み上げ始めた。アーディドは儀礼的な役割へ追いやられ、サラーフッディーンが騎乗したまま宮殿に入ることで公然とした辱めさえ受けた(それまでこの行為はカリフの特権であった)。さらにサラーフッディーンはシリア軍をあからさまに優遇し始め、軍隊の維持のために兵士に領地を与える一方でファーティマ朝の軍司令官から同様の領地を取り上げた{{sfn|Halm|2014|pp=284–285}}{{sfn|Lev|1999|p=82}}{{sfn|Ehrenkreutz|1972|pp=72–75}}。また、ヤーコフ・レフは、この頃までにスンナ派が文民官僚の中で多数を占めるようになっていたものの、多くの者は政権から疎外されていたと指摘している。このような状況の中で、[[アル=カーディー・アル=ファーディル]]を始めとする文民官僚の多くはサラーフッディーンと協力する道を選び、サラーフッディーンがファーティマ朝政権を効率的に弱体化させる手助けをした{{sfn|Lev|1999|pp=66, 76–78}}。 |
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サラーフッディーンとシリア軍が優位に立つ状況に反発したファーティマ朝の支持派はムウタミン・アル=ヒラーファ・ジャウハルの下に結集した。そして新たな十字軍の侵攻によってサラーフッディーンをカイロから引き離し、再び首都の支配を取り戻すことを期待して躊躇することなく十字軍の支援を求めた{{sfn|Şeşen|1988|p=374}}{{sfn|Brett|2017|p=292}}。しかし、支援を求める書簡はサラーフッディーンの手に落ち、サラーフッディーンはカイロの敵対者たちを容赦なく迅速に粛清する機会をつかんだ。ムウタミンは殺害され、1169年8月21日にはこの殺害に激しく反発したアフリカ系黒人軍団が反乱を起こした。サラーフッディーンは2日間にわたる市街戦({{仮リンク|バイナル・カスラインの戦い|en|Battle of the Blacks}})の末に黒人軍団を打ち破り、カイロから放逐した。さらに黒人軍団はトゥーラーン・シャーによる追撃を受けて敗走し、郊外のアル=マンスーリーヤに存在した黒人軍団の兵舎は焼き払われた{{sfn|Brett|2017|p=292}}{{sfn|Şeşen|1988|p=375}}{{sfn|Halm|2014|pp=285–286}}。この反乱の余波の中でサラーフッディーンは腹心の{{仮リンク|バハールッディーン・カラークーシュ|en|Baha al-Din Qaraqush}}をムウタミンの後任に指名し、カリフとその宮廷に対する支配力を確保した{{sfn|Ehrenkreutz|1972|p=77}}{{sfn|Halm|2014|p=286}}{{sfn|Lev|1999|p=84}}{{sfn|佐藤|2011|p=93}}。 |
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[[File:Drawing of the Fatimid caliph Al-ʿĀḍid li-Dīn Allāh (retouched).jpg|thumb|right|220px|日傘を持つ召使いを伴って乗馬しているアーディドが描かれた挿絵。アーディドはサラーフッディーンの従属下に置かれて政権を徐々に解体され、最終的にその死によってファーティマ朝は滅亡した。]] |
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忠実な軍隊を奪われ、自分の宮殿でカラークーシュに厳重に監視されていたアーディドは、今や完全にサラーフッディーンの言いなりとなっていた{{sfn|Ehrenkreutz|1972|pp=79, 85}}{{sfn|Lev|1999|pp=84–85}}。1169年10月から12月にかけて[[ビザンツ帝国]]と十字軍が共同でダミエッタに攻撃を仕掛けたとき、アーディドは侵略者に対抗する遠征軍の資金として1,000,000ディナールを拠出した{{sfn|Brett|2017|p=292}}{{sfn|Lev|1999|p=84}}。歴史家のマイケル・ブレットは、この行為についてカリフが新しい状況に適応するための方策であったとする見解を示しているが{{sfn|Brett|2017|p=292}}、ヤーコフ・レフは、サラーフッディーンによるアーディドへのあからさまな「恐喝」であったと述べ、カリフは実質的な軟禁状態にあり、このような莫大な資金の拠出はアーディドの立場を弱めるだけであったと指摘している{{sfn|Lev|1999|p=84}}。1170年3月にサラーフッディーンの父親である[[ナジムッディーン・アイユーブ|ナジュムッディーン・アイユーブ]]がカイロに到着すると、カリフは直々にサラーフッディーンを伴って出迎え、前例のないアル=マーリク・アル=アウハド(唯一の王)の称号を与えた{{sfn|Halm|2014|p=288}}。 |
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自分の地位が安定したサラーフッディーンは、あらゆる公職にエジプト人に代えてシリア人を任命することでエジプトの行政機構に対する支配を固めた{{sfn|Daftary|2007|p=252}}。また、この方針の一環としてサラーフッディーンの近親者が大部分の地方の総督に任命された{{sfn|Halm|2014|pp=288–289}}。同時にサラーフッディーンはファーティマ朝政権のイデオロギー的基盤に対してゆっくりと、しかし容赦のない攻撃を開始した。1170年8月25日に[[アザーン]](礼拝の呼びかけ)がシーア派の様式からスンナ派の様式に変更され、[[正統カリフ]]の最初の三人の名前もアザーンの中に含められるようになったが、これはシーア派の教義に反する侮辱的な行為であった{{sfn|Lev|1999|p=85}}{{sfn|Halm|2014|pp=289–290}}。さらにアーディドの名前さえも「神の信仰を強固にする者」から神の加護を求める定型句に置き換えることで巧妙に排除した。歴史家のハインツ・ハルムが指摘するように、これはアーディドの即位名だけでなく、「バグダードのスンナ派のカリフをも含むあらゆる敬虔なイスラーム教徒」を指すことが可能な文言であった{{sfn|Halm|2014|p=289}}。1170年の中頃にアーディドは公式行事のフトバや祭事の礼拝に出席することを禁じられた{{sfn|Şeşen|1988|p=375}}。1170年9月には旧都のフスタートにスンナ派の[[マドラサ]]が設立され{{sfn|Halm|2014|pp=289–290}}、すべての法官職は大半がシリア人かクルド人からなるスンナ派の[[シャーフィイー学派]]の人物で占められた{{sfn|Brett|2017|p=293}}{{sfn|Lev|1999|p=86}}。そして1171年2月に司法長官([[カーディー]]の長官)までもがスンナ派の人物に置き換えられ、続いて{{仮リンク|アル=アズハル・モスク|en|Al-Azhar Mosque}}で行われていたイスマーイール派の教義の公開講座が最終的に停止された{{sfn|Lev|1999|p=85}}{{sfn|Halm|2014|p=290}}。スンナ派の法学者たちはサラーフッディーンがアーディドを異端者として合法的に処刑することを認める法的判断([[ファトワー]])すら出した{{sfn|Lev|1999|p=82}}。 |
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=== 死とファーティマ朝の終焉 === |
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サラーフッディーンによるファーティマ朝政権の解体は1171年9月10日に頂点を迎えた。この日、シャーフィイー学派の法学者の{{仮リンク|ナジュムッディーン・アル=ハブーシャーニー|en|Najm al-Din al-Khabushani}}がアーディドに代えてスンナ派のアッバース朝のカリフである[[ムスタディー]](在位:1170年 - 1180年)の名をフトバにおいて公に宣言し、ファーティマ朝の罪の一覧を読み上げた{{sfn|Daftary|2007|p=252}}{{sfn|Şeşen|1988|p=375}}。この象徴的な行為によってエジプトは2世紀に及んだイスマーイール派のファーティマ朝による支配を経てアッバース朝の宗主権下に戻ったものの、エジプトの民衆はこの宣言には全般的に無関心であった{{sfn|Wiet|1960|p=197}}{{sfn|Daftary|2007|p=252}}。その一方でアーディドはこの時すでに重病で死の床にあり、アーディドがこの出来事を知ることは全くなかったとみられている。そのアーディドは1171年9月13日に20歳の若さで死去し、ファーティマ朝の滅亡は決定的となった{{sfn|Saleh|2009}}{{sfn|Daftary|2007|pp=252–253}}{{sfn|Halm|2014|pp=290–291}}{{sfn|佐藤|2011|pp=96–97}}。中世の史料の中にはアーディドの死因について自殺、毒殺、あるいは財宝の隠し場所を明かさなかったためにトゥーラーン・シャーに殺害されたと主張しているものもあるが{{sfn|Lev|1999|p=83}}{{sfn|Sajjadi|Daftary|Umar|2008|p=72}}、ハインツ・ハルムは、カリフが「暴力的に抹殺されたことを示す決定的な証拠はない」と述べている{{sfn|Halm|2014|p=291}}。また、サラーフッディーンもカリフの死を自然死と考えていたことはサラーフッディーン自身の発言からも窺い知ることができる{{sfn|Sajjadi|Daftary|Umar|2008|p=72}}。 |
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アーディドの死に対するサラーフッディーンの対応は慎重だった。サラーフッディーンはアーディドの葬儀に直接参列したが{{sfn|Halm|2014|p=291}}、依然として残っているファーティマ朝を支持する人々の心情に対する示威行為として軍事パレードも挙行した{{sfn|Brett|2017|p=294}}。そして公にはアーディドが長男の{{仮リンク|ダーウード・ブン・アル=アーディド|label=ダーウード|en|Daoud ibn al-Adid}}を後継者に指名しなかったため、カリフ位が空位になったとだけ述べた{{sfn|Brett|2017|p=294}}。サラーフッディーンは公の場では悲しむ姿を演出したが、アーディドの死とファーティマ朝の終焉はサラーフッディーンを取り巻くスンナ派の支持者たちの間にあからさまな歓喜をもたらした。サラーフッディーンの書記官の[[イマードゥッディーン・アル=イスファハーニー]]は、アーディドを[[ファラオ]]に、サラーフッディーンを{{仮リンク|イスラームにおけるヨセフ|label=ヨセフ|en|Joseph in Islam}}(アラビア語では[[ユースフ]]、サラーフッディーンの出生名)になぞらえ、アーディドを出来損ないの異端者と呼ぶ祝いの詩を書いた{{sfn|Halm|2014|p=291}}。ファーティマ朝の消滅の知らせがバグダードに届くと街はアッバース朝の色である黒の花綱で飾り付けられ、カリフのムスタディーはサラーフッディーンとヌールッディーンにヒルアを送った{{sfn|Sajjadi|Daftary|Umar|2008|p=72}}。 |
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アーディドの死後、まだ規模の大きかったイスマーイール派の共同体はサラーフッディーンの新しい[[アイユーブ朝]]政権から迫害を受けた。また、ファーティマ朝の一族は宮殿で事実上の軟禁状態に置かれた。アーディドの後継者のダーウード・アル=ハーミド・リッラーフ([[イマーム]]位:1171年 - 1208年)はイスマーイール派の一派である{{仮リンク|ハーフィズ派|en|Hafizi Isma'ilism}}([[ハーフィズ (ファーティマ朝カリフ)|ハーフィズ]]の子孫をイマームと認める一派)の信徒たちから正当なイマームとして認められたが、ダーウードの息子でその後継者の{{仮リンク|スライマーン・ブン・ダーウード|label=スライマーン・バドルッディーン|en|Sulayman ibn Daoud}}(イマーム位:1208年 - 1248年)と同様に捕らわれの身のまま死去した。1170年代にはファーティマ朝の支持者や僭称者たちによる一連の陰謀や反乱が起きたが、これらの運動は失敗に終わった。その後は同様の運動が12世紀末まで散発的に続いたものの、イスマーイール派の影響力は急速に衰えていった。そして13世紀末までにイスマーイール派はエジプトから事実上一掃された{{sfn|Daftary|2007|pp=253–255}}{{sfn|Halm|2014|pp=292, 294–299}}。 |
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1262年に[[マムルーク朝]]の支配者の[[バイバルス]](在位:1260年 - 1277年)が没収されたファーティマ朝の財産の目録を作成するように命じたが、その目録の中に王朝の最後の三人の生き残りについての証言が残されている。その三人はアーディドの息子の一人のカマールッディーン・イスマーイールと二人の孫のアブル=カースィム・ブン・アビル=フトゥーフ・ブン・アル=アーディドとアブドゥルワッハーブ・ブン・イスマーイール・ブン・アル=アーディドである。この三人について名前以外に知られていることはなく、恐らく三人ともカイロの城塞({{仮リンク|シタデル (カイロ)|label=シタデル|en|Cairo Citadel}})で幽閉されたまま死去したとみられている{{sfn|Halm|2014|pp=237, 300}}。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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=== 日本語文献 === |
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* 佐藤次高 『イスラームの「英雄」サラディン-十字軍と戦った男』 講談社学術文庫、2011年 |
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*{{Cite journal|和書|author=菟原卓|title=エジプトにおけるファーティマ朝後半期のワズィール職|journal=東洋史研究|issn=0386-9059|publisher=東洋史研究會|year=1982-09-30|volume=41|issue=2|pages=321-362|naid=|doi=10.14989/153856|url=https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/153856/1/jor041_2_321.pdf|accessdate=2023-6-8|ref={{SfnRef|菟原|1982}}}} |
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* 大塚和夫 他 『岩波イスラーム事典』 岩波書店、2002年 |
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*{{Cite book|和書|author=佐藤次高|authorlink=佐藤次高|title=イスラームの「英雄」サラディン ― 十字軍と戦った男|date=2011-10|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社学術文庫]]|isbn=978-4-06-292083-4|ref={{SfnRef|佐藤|2011}}}} |
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=== 外国語文献 === |
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{{先代次代|[[ファーティマ朝#ファーティマ朝の歴代カリフ|ファーティマ朝]]<br>14代|1160年 - 1171年|{{仮リンク|ファーイズ|en|al-Fa'iz bi-Nasr Allah}}|滅亡}} |
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*{{cite book|last=Brett|first=Michael|title=The Fatimid Empire|series=The Edinburgh History of the Islamic Empires|publisher=Edinburgh University Press|location=Edinburgh|year=2017|url=https://books.google.com/books?vid=ISBN9780748640768|isbn=978-0-7486-4076-8|language=en|ref=harv}} |
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*{{cite book|last=Daftary|first=Farhad|author-link=:en:Farhad Daftary|title=The Ismāʿı̄lı̄s: Their History and Doctrines|edition=Second|publisher=[[Cambridge University Press]]|location=Cambridge|year=2007|url=https://books.google.com/books?id=cSO9zh61AGEC|isbn=978-0-521-61636-2|language=en|ref=harv}} |
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*{{cite book|last=Ehrenkreutz|first=Andrew S.|title=Saladin|publisher=State University of New York Press|location=Albany|year=1972|url=https://books.google.com/books?vid=ISBN087395095X|isbn=0-87395-095-X|language=en|ref=harv}} |
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*{{cite book|last=Halm|first=Heinz|author-link=:en:Heinz Halm|title=Kalifen und Assassinen: Ägypten und der vordere Orient zur Zeit der ersten Kreuzzüge, 1074–1171|language=de|publisher=C. H. Beck|location=Munich|year=2014|url=https://books.google.com/books?id=AtfNAgAAQBAJ|isbn=978-3-406-66163-1|doi=10.17104/9783406661648-1|ref=harv}} |
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*{{cite book|last=Lev|first=Yaacov|title=Saladin in Egypt|publisher=Brill|location=Leiden|year=1999|url=https://books.google.com/books?id=v22DckibeIUC|isbn=90-04-11221-9|language=en|ref=harv}} |
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*{{cite book|last=Lewis|first=Bernard|authorlink=バーナード・ルイス|title=From Babel to dragomans : interpreting the Middle East|year=2004|page=82-5|location=Oxford|publisher=[[Oxford University Press]]|url=|isbn=978-0195173369|language=en|ref=harv}} |
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*{{cite book|last=Mernissi|first=Fatima|author-link=ファーティマ・メルニーシー|title=The Forgotten Queens of Islam|translator=Mary Jo Lakeland|publisher=[[:en:University of Minnesota Press|University of Minnesota Press]]|location=Minneapolis|year=1993|page=71|isbn=978-0816624386|url={{Google Books|Jo2YQgAACAAJ|plainurl=y}}|language=en|ref=harv}} |
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*{{cite encyclopedia|encyclopedia=Encyclopaedia Islamica, Volume 3 (Adab – al-Bāb al-Ḥādī ͑ashar)|editor1-first=Wilferd|editor1-last=Madelung|editor1-link=:en:Wilferd Madelung|editor2-first=Farhad|editor2-last=Daftary|editor2-link=:en:Farhad Daftary|last1=Sajjadi|first1=Sadeq|last2=Daftary|first2=Farhad|last3=Umar|first3=Suheyl|title=Al-ʿĀḍid|pages=69–73|location=Leiden-Boston|publisher=Brill|year=2008|isbn=978-90-04-16860-2|language=en|ref=harv}} |
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*{{cite book|last=Saleh|first=Marlis J.|authorlink=|others=[https://dx.doi.org/10.1163/1573-3912_ei3_COM_22734 "al-ʿĀḍid li-Dīn Allāh"] {{Subscription required}}. In Fleet, Kate; Krämer, Gudrun; Matringe, Denis; Nawas, John & Rowson, Everett (eds.). ''Encyclopaedia of Islam, THREE''|chapter=|title=|location=|publisher=Brill Online|pages=|year=2009|issn=1873-9830|url=|language=en|ref=harv}} |
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*{{cite book|last=Şeşen|first=Ramazan|authorlink=|others=[https://islamansiklopedisi.org.tr/adid-lidinillah "Âdıd-Lidînillâh"]. ''TDV Encyclopedia of Islam, Vol. 1 (Âb-ı Hayat – El-ahkâmü'ş-şer'i̇yye)''|chapter=|title=|location=Istanbul|publisher=[[:en:Directorate of Religious Affairs|Turkiye Diyanet Foundation]], Centre for Islamic Studies|pages=374–375|year=1988|isbn=978-975-954-801-8|url=|language=tr|ref=harv}} |
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*{{cite book|last=Wiet|first=Gaston|authorlink=:en:Gaston Wiet|others=[https://dx.doi.org/10.1163/1573-3912_islam_SIM_0311 "al-ʿĀḍid li-Dīn Allāh"] {{Subscription required}}. In [[ハミルトン・ギブ|Gibb, H. A. R.]]; [[:en:Johannes Hendrik Kramers|Kramers, J. H.]]; [[:en:Évariste Lévi-Provençal|Lévi-Provençal, E.]]; [[バーナード・ルイス|Lewis, B.]]; [[:en:Charles Pellat|Pellat, Ch.]] & [[:en:Joseph Schacht|Schacht, J.]] (eds.). ''The Encyclopaedia of Islam, Second Edition. Volume I: A–B''|chapter=|title=|location=Leiden|publisher=E. J. Brill|pages=196–197|year=1960|oclc=495469456|doi=|language=en|ref=harv}} |
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2023年7月28日 (金) 14:00時点における版
アーディド العاضد لدين الله | |
---|---|
ファーティマ朝第14代カリフ | |
在位 | 1160年7月23日 - 1171年9月13日 |
出生 |
1151年5月9日 ヒジュラ暦546年ムハッラム月20日 カイロ |
死去 |
1171年9月13日 ヒジュラ暦567年ムハッラム月10日 カイロ |
子女 |
ダーウード アブル=フトゥーフ イスマーイール |
王朝 | ファーティマ朝 |
父親 | ユースフ・ブン・アル=ハーフィズ |
宗教 | イスラーム教イスマーイール派 |
アブー・ムハンマド・アブドゥッラー・ブン・ユースフ(アラビア語: أبو محمد عبد الله بن يوسف, ラテン文字転写: Abū Muḥammad ʿAbd Allāh b. Yūsuf, 1151年5月9日 - 1171年9月13日)、またはラカブ(尊称)でアル=アーディド・リッ=ディーニッラーフ(アラビア語: العاضد لدين الله, ラテン文字転写: al-ʿĀḍid li-Dīn Allāh,「神の信仰を強固にする者」の意)は、第14代で最後のファーティマ朝のカリフである(在位:1160年7月23日 - 1171年9月13日)。
アーディドは二人の前任者たちと同様に幼くしてカリフに即位し、ワズィール(宰相)の地位を占めるさまざまな有力者の傀儡としてその治世を過ごした。アーディドを即位させたワズィールのタラーイー・ブン・ルッズィークは1161年に宮廷の陰謀の犠牲になり、息子のルッズィーク・ブン・タラーイーが後任となった。しかし、1163年に上エジプトで総督を務めていたシャーワルの手で打倒され、そのシャーワルも数か月後には配下のディルガームによって追放された。
カイロにおける絶え間ない権力闘争はファーティマ朝政権を弱体化させ、十字軍が建国したエルサレム王国とスンナ派を信奉するザンギー朝の支配者のヌールッディーンはエジプトの征服を目指すようになった。十字軍が何度かにわたってエジプトへ侵攻する一方でヌールッディーンはワズィールの地位の奪還を試みるシャーワルを支援し、将軍のシールクーフとともにエジプトへ送り返した。そのシャーワルはディルガームの打倒に成功したものの、すぐにシールクーフと対立し、1169年1月にシールクーフの陣内で殺害された。シールクーフはカイロを占領してワズィールとなったが、まもなく死去し、シールクーフの甥のサラーフッディーン(サラディン)が後を継いだ。
当初サラーフッディーンはアーディドに融和的な態度を示したが、徐々にファーティマ朝の体制を解体していった。これに反発したファーティマ朝の黒人軍団は反乱を起こした末に追放され、サラーフッディーンの一族が地方総督に任命された。文民官僚もサラーフッディーンの新体制の下に組み込まれ、アーディドは儀礼的な役割からも遠ざけられた。政権内の人事をスンナ派の人物で固め、宗教儀礼もファーティマ朝が信奉するイスマーイール派の様式からスンナ派の様式へ置き換えていったサラーフッディーンは、1171年9月10日にアッバース朝の宗主権を公に宣言し、ファーティマ朝を廃絶した。アーディドはその数日後に死去し、政権を失ったイスマーイール派の共同体はサラーフッディーンが築いたアイユーブ朝政権から迫害を受け、およそ1世紀後にエジプトから姿を消した。
出自と背景
13世紀の歴史家のイブン・ハッリカーンによる一般的に受け入れられている記録に基づくならば、将来アーディドの名でカリフとなるアブドゥッラーはヒジュラ暦546年ムハッラム月20日(西暦1151年5月9日)に生まれた[1][2]。しかし、それ以前の1145年や1149年の生まれとしている著述家の記録も存在する[3]。アーディドの父親はファーティマ朝第11代カリフのアル=ハーフィズ・リッ=ディーニッラーフ(在位:1132年 - 1149年)の息子のユースフである[1][2][4]。ユースフはハーフィズが死去した時点で生き残っていた息子たちの中では最年長の一人であったが、ハーフィズの遺詔によってカリフとなったのはユースフではなく16歳の末子のイスマーイールだった。イスマーイールはアッ=ザーフィル・ビ=アムルッラーフ(在位:1149年 - 1154年)のラカブを名乗り、実力者のイブン・マサールをワズィール(宰相)に任命した[5][6][7]。そのザーフィルはイブン・マサールを打倒してワズィールとなったアッバース・ブン・アビル=フトゥーフによって1154年に暗殺された。アッバースはザーフィルの5歳の息子のイーサーをアル=ファーイズ・ビ=ナスルッラーフ(在位:1154年 - 1160年)の名でカリフに即位させ、さらにユースフとザーフィルのもう一人の兄であるジブリールにカリフ暗殺の嫌疑をかけてファーイズの即位と同じ日に両者を処刑させた[2][6][8][9][注 1]。
この時期のファーティマ朝は衰退の中にあった。ファーティマ朝の公的な教義であるイスマーイール派は求心力を失い、後継者争いや教派の分裂によって弱体化し、エジプトではスンナ派の復活によって王朝の正統性がますます疑われるようになっていた[10][11]。ザーフィルの運命が示すように、ファーティマ朝のカリフ自身も強力な大臣たちの手の中にある実質的な操り人形と化していた。ワズィールは王室の称号であるスルターンの称号も合わせ持ち、その名前はカリフと並んでフトバ(金曜礼拝の説教)で読み上げられ[注 2]、貨幣にも刻まれた[10][14]。歴史家のヤーコフ・レフは、この時期のエジプトを「ナイルの病人」と表現している[15]。イスマーイール派を信奉するファーティマ朝政権の弱体化はスンナ派の対抗勢力であるバグダードのアッバース朝政権の目からも明らかであった。アッバース朝のカリフのムクタフィー(在位:1136年 - 1160年)は、1154年にダマスクスのザンギー朝の支配者であるヌールッディーン(在位:1146年 - 1174年)をエジプトの名目上の統治者に任命する証書を交付した[15]。
治世
カリフのファーイズは病弱であり、1160年7月22日にわずか11歳で死去した。直系の後継者を欠いていたことから、全権を握っていたワズィールのタラーイー・ブン・ルッズィークが翌日の1160年7月23日にユースフの息子で9歳のアブドゥッラーをアル=アーディド・リッ=ディーニッラーフの名でカリフに即位させた。タラーイーはカリフに対する統制をより強化するため、自分の娘の一人をアーディドと結婚させた[1][10][16][17]。アーディドはその治世を通じて名目上の統治者であったに過ぎず、揺らぐファーティマ朝政権の利権をめぐって互いに争う廷臣たちや有力者たちの事実上の傀儡として過ごした[1][2]。フランスの東洋学者のガストン・ヴィートは、アーディドの置かれた状況について、「アラブの著述家たちは確信がないように見え、時にはカリフの迷走的な反抗への衝動に原因を求めているが、このようなカリフの反抗はほとんど成功に結び付かなかった… 大抵においてカリフは最終的に自分自身が犠牲となった一連の深刻な悲劇的事件をどうすることもできずに傍観していた」と述べている[1]。
アーディド自身に関する情報が不足しているため、アーディドの人物像はよく分かっていない。イブン・ハッリカーンはアーディドが極めてシーア派寄りの人物であったと記録している[2]。一方でアーディドの唯一の身体的な特徴に関する説明は、十字軍時代の歴史家のギヨーム・ド・ティールが十字軍の指導者たちとともにアーディドに謁見した時の様子を記録したものである。顔はベールに包まれていたものの、ギヨームは「非常に寛大な気質の若者で、ひげが生え始めたばかりであった。また、背が高く、浅黒い肌の色で、良い体格をしていた」と記している[2][18]。
カイロにおける権力闘争
独裁権を振るい、さらにシーア派の一派である十二イマーム派に傾倒していたことで宮廷内の憎悪を買っていたタラーイー・ブン・ルッズィークは1161年9月11日に暗殺された[17][19][20]。この暗殺はアーディドの叔母の一人であるシット・アル=クスールが扇動していたと言われており、恐らく若いカリフもこのことを知っていた[1][21][22]。それでもなお、すぐにタラーイーの息子のルッズィーク・ブン・タラーイーが後任のワズィールに就任し、ルッズィークも同じようにカリフにいかなる権力も与えなかった[23][24]。新しいワズィールはシット・アル=クスールを絞殺させた一方でアーディドを別の叔母の保護下に置いたが、この叔母はタラーイーの暗殺計画に関与していないことを宣誓しなければならなかった[24]。それから間もなくルッズィークはかつてファーティマ朝政権と対立した王族であるニザールの家系に属する権利主張者による最後の反乱を鎮圧した。反乱を起こしたムハンマド・ブン・アル=フサイン・ブン・ニザールはマグリブ(北アフリカ西部)から到来し、キレナイカとアレクサンドリアを反乱に巻き込もうとしたが、捕らえられて1162年8月に処刑された[20][25]。
アーディド(より厳密に言うならばアーディドを通じて行動していた宮廷内の一派)は、ルッズィークを失脚させるための支援を上エジプトの総督のシャーワルに求めた。これに対しベドウィンの軍団の支援を得たシャーワルは1162年12月末にカイロを占領することに成功し、ルッズィークを処刑させた[2][26]。しかしながら、シャーワルもまたカリフを公務から排除し、政府を完全に掌握した[18]。同時代の詩人のウマーラ・ブン・アビー・アル=ハサン・アル=ヤマニーは、「ルッズィーク家の終焉とともにエジプトの王朝も終焉を迎えた」と記している[27] 。
そのシャーワルは自分に仕えていた軍司令官のディルガームによって1163年8月にカイロから追放されたが、ベドウィンの支持者のもとに逃げ込み、その後ヌールッディーンの支援を求めてダマスクスに向かった[28][29][30][31]。これはファーティマ朝にとって不吉な展開だった。歴史家のファルハード・ダフタリーが「熱烈なスンナ派」と形容するヌールッディーンにとって、シャーワルの到着はイスマーイール派のファーティマ朝政権を打倒し、エジプトをスンナ派のアッバース朝の宗主権下に戻すだけでなく、イスラーム世界の中核地帯を自らの支配の下で統一する可能性を開くものだった[18][32][33]。
国外からの干渉とディルガームの失脚
その間にもエジプトのディルガームの政権はアレクサンドリア総督の処刑を含む失政によって大きく評判を落とし、軍の支持を急速に失った[34]。それに加えてエジプトの混乱は十字軍国家のエルサレム王国による介入の可能性を開いた。十字軍がエジプトを強く欲したのはその富のためだけでなく、もしヌールッディーンがエジプトを占領した場合、二方面からの挟撃につながる可能性が高いためでもあった[35]。タラーイー・ブン・ルッズィークがワズィールだった時代にはすでにエルサレム王ボードゥアン3世(在位:1143年 - 1163年)の侵攻を毎年貢納金を支払うことによって食い止めざるを得ない事態となっていた[22]。ボードゥアン3世の後継者のアモーリー1世(在位:1163 - 1174年)はエジプトの征服を真剣に検討した。そして1163年9月にエジプトへ侵攻したものの、ファーティマ朝が増水期にあったナイル川の氾濫をせき止める堤防を破壊し、ナイルデルタの平野を水浸しにしたために撤退を余儀なくされた[22][35][36]。
エジプトが十字軍に対して見せた明白な弱さはシャーワルに対する援助の提供をヌールッディーンへ促すことになり、シャーワルは支援の見返りにエジプトの歳入の3分の1を貢納金としてヌールッディーンへ送り、ヌールッディーンの臣下になることを約束した。また、残りの3分の2はアーディドとシャーワルの間で分割されることになった[37][38][39]。シャーワルはクルド人の将軍のシールクーフに率いられたわずか1,000人の小規模な遠征軍とともにエジプトへ送り返された。また、この遠征軍にはシールクーフの甥のサラーフッディーン(サラディンの呼び名でも知られる)も同行していた[18][22][40]。
これらの二重の国外からの介入はファーティマ朝政権とエジプトの歴史に大きな影響を与える断裂点となった。絶え間ない混乱によって弱体化したエジプトは依然として活気のある経済と莫大な資源を有していたものの、今やダマスクスとエルサレムの間のより広範囲な抗争における標的となった。双方の勢力はエジプトの征服を目指す一方で他方による征服の阻止を狙い、その争いは最終的にファーティマ朝の滅亡へつながることになった[20][34][41]。
ディルガームはアモーリー1世にシャーワルとシールクーフが率いるシリア軍に対する助力を訴えたが、エルサレム王の介入は間に合わなかった。シリア軍は1164年4月下旬にビルバイスでディルガームの兄弟を奇襲して破り、カイロへの道を開いた[40][42]。この戦いの報に接したカイロではパニックが起きた。兵士たちに支払う報酬の資金を必死に求めていたディルガームは孤児の財産すら没収したが、軍隊はディルガームを見捨て始めた[43]。自分の下に留まっていたわずか500騎の騎兵とともにカリフの宮殿の前の広場に現れたディルガームはアーディドが現れるように要求したが、すでにシャーワルとの交渉を始めていたカリフはディルガームを相手にせず、ディルガームに対し自分の命を守るように忠告した。自身の部隊の離反が続く中、ディルガームはカイロを脱出したが、最終的にシャーワルの兵の一人に殺害された[43]。
シャーワルの二度目のワズィール政権
シャーワルは1164年5月26日にワズィールの地位に復帰したが、シールクーフの威勢を恐れてシリア軍の撤退を要求したためにシールクーフと対立し、シリア軍はカイロを攻撃した。これに対してシャーワルはシリア軍をエジプトから追い出すために直ちにアモーリー1世に支援を要請した[18][44][45]。シールクーフとサラーフッディーンはビルバイスで3か月にわたり十字軍と対峙したが、その間にヌールッディーンがシリアのハーリムを占領したためにアモーリー1世の率いる十字軍は1164年11月に北へ撤退せざるを得なくなった。一方のシールクーフも危険なほど物資の不足に陥り、シャーワルから50,000ディナールを受け取ることと引き換えに撤退を余儀なくされた[46][47]。
十字軍とシリア軍が撤退したことで、しばらくの間シャーワルは自分の立場を維持することができた。しかし、エジプトを体験し、その富と体制の脆弱さを知ったシールクーフはヌールッディーンを説得して1167年1月に再び軍隊とともに南方へ向かった[48]。この動きを知ったシャーワルはアモーリー1世に援軍を求めたが[49]、アモーリー1世はファーティマ朝と正式な同盟を結ぶ前から軍を招集して自らエジプトに向かった[48]。その一方でカエサリア領主のユーグ・グラニエがカイロに入り、アーディドから直接同盟の同意を得た。この時のカリフの謁見に関するユーグの記録はファーティマ朝の宮殿について言及されている数少ない現存する記録のひとつである[50]。カイロの城壁には十字軍の守備隊が据えられ、ファーティマ朝と十字軍は共同でシリア軍に立ち向かった。1167年3月18日に起きたバーバインの戦いではシリア軍が勝利を収めたが、その直後にサラーフッディーンがアレクサンドリアで包囲された。このためシールクーフは妥協を迫られ、1167年8月にシリア軍と十字軍の両者は再びエジプトを去った。しかし、カイロには十字軍の守備隊とエルサレム王へ支払われることになった年間100,000ディナールの貢納金を徴収するための役人が残された[47][51]。
この事実上の十字軍への服従はシャーワルの息子のアル=カーミル・シュジャーを含むファーティマ朝の宮廷の多くの者から不満を買い、アル=カーミルは密かにヌールッディーンと連絡を取って支援を求めた[52]。しかし、十字軍の指導者間で国内が割拠された状態だったにもかかわらず、1168年10月にエジプトの征服に乗り出したアモーリー1世によってシリア軍は先手を打たれた[52]。十字軍はエジプトに入ると1168年11月5日にビルバイスの住民を虐殺し、アル=カーミルはアーディドに対しヌールッディーンへ助けを求めるように説得した。シャーワルはこれに猛反対し、もしシリア軍が最終的に勝利するようなことになれば、カリフ自身が悲惨な結末を迎えることになると警告した[53]。それでもなお、ビルバイスでの恐ろしい虐殺の知らせは十字軍の侵攻に反発する人々を結集させることになった[54]。最終的にアーディドは支援の嘆願を密かにヌールッディーンへ送ったと伝えられているが[53][55]、この話はサラーフッディーンの台頭を熱心に正当化しようとする後世の年代記作家たちによる創作の可能性もある[56]。
これらの出来事の間にも十字軍はカイロの城門の前に到達して都市の包囲を開始し、一方でシャーワルは敵に物資を渡さないためにカイロに隣接する商都であるフスタートに住民を避難させた上で火を放った[57][58][59]。火は54日間にわたって燃え続けたと伝えられているが[59]、歴史家のハインツ・ハルムは、この時のフスタートの破壊の規模に関する記録は相当誇張されている可能性が高いと指摘している[60]。カイロに対する包囲は1169年1月2日まで続いたものの、シリア軍が接近したために十字軍はパレスチナへ撤退した。その後、シールクーフに率いられた6,000人の部隊が1月8日にカイロの前に到着した[61]。カイロに入城したシールクーフは住民から熱烈な歓迎を受け、アーディドはシールクーフにヒルア(名誉のガウン)を与えた[59]。
アーディドとシールクーフの接近に危機感を覚えたシャーワルは1169年1月18日にシリア軍の陣営を訪れてシールクーフとの会見を求めたが、兵士によって拘束された。アーディドはシャーワルの処刑を促したか、少なくとも処刑に同意したと伝えられており、処刑は同日に実行された[62][63][64]。その2日後にシールクーフはワズィールに任命され、アル=マーリク・アル=マンスール(勝利の王)の称号を与えられた[32][65]。シールクーフの突然の就任は十字軍を驚かせるとともにヌールッディーンの不興を買い、ヌールッディーンは部下の意図に不信感を抱いた。そしてアーディドに書簡を送り、シリア軍とその司令官を帰還させるように求めた[66]。これに対しアーディドは返事をせず、新しいワズィールに満足したとみられている。これはシールクーフが政権の役人をそのまま残し、ファーティマ朝の制度を尊重しているように見えたためである[67]。
サラーフッディーンのワズィール政権
しかしながら、シールクーフは1169年3月23日に飽食による肥満が原因となって死去した[68]。シールクーフの突然の死はファーティマ朝政府にもシリアの遠征軍にも権力の空白をもたらした。ファーティマ朝の支配者層はカリフの宮殿で対応を協議した。会議ではサラーフッディーンをワズィールに任命することを提案する者もいれば、宮廷を統括していた黒人宦官であるムウタミン・アル=ヒラーファ・ジャウハルを筆頭にナイルデルタに軍の領地(イクター)を与えてシリア軍をカイロから引き離し、ワズィールを任命せずに王朝の初期のカリフたちのようにアーディドが親政を開始することを提案する者もいた[69]。一方のシリア軍の司令官たちも指導者の地位をめぐって争ったが、最終的にサラーフッディーンが有力な候補として浮上した[70][71]。結局、1169年3月26日にサラーフッディーンがカリフの宮殿に迎えられ、アル=マーリク・アル=ナースィル(勝利をもたらす王)の称号とともにワズィールに任命された[10][32][72]。13世紀の歴史家のイブン・ワースィルは、カリフがサラーフッディーンの就任を認めた理由について、サラーフッディーンが直属の軍隊を持たず、有力な補佐役を欠いていたために最終的にはエジプト側の有利に働くであろうという思惑があったと記している[73]。同時にサラーフッディーンはアーディドに奉仕する者であるという建前が確認されたが、権力の実際の力関係は任命状において初めてワズィールの職位の世襲が宣言されたという事実に表れていた[74]。
サラーフッディーンはワズィールに就任するとシリア軍からクルド人とトルコ人の奴隷兵(マムルーク)を選抜してサラーヒーヤと呼ばれる直属の軍隊を編成したが、その立場は安泰とは言い難かった[75]。サラーフッディーンの軍隊は数千人程度の規模に過ぎず、戦闘能力では勝っていたものの、ファーティマ朝の軍隊とは圧倒的に規模で劣っていた[76][77]。さらにサラーフッディーンは配下の司令官たちの忠誠に完全には依存することができなかった[76]。そしてファーティマ朝におけるサラーフッディーンの役割も矛盾を孕んでいた。サラーフッディーン自身はスンナ派であり、スンナ派の軍隊を率いてエジプトに入り、ヌールッディーンの好戦的なスンナ派政権に依然として忠誠を誓っていた。その一方ではファーティマ朝のワズィールとしての立場上、イスマーイール派の国家、さらにはイスマーイール派の宗教指導者層(ダアワ)の名目上の監督者でもあった。エジプトの政権を解体しようとするサラーフッディーンの試みに対してファーティマ朝の宮廷と軍隊の支配者層が反発するのは必至であり、一方でヌールッディーンはかつての部下の意図に不信感を抱いていた[78][79]。このため、当初サラーフッディーンは慎重に行動せざるを得ず、アーディドと良好な関係を築き、カイロの市中をカリフと並んで行進してみせるなど、両者の協調的な関係を世間にアピールしようとした[79][80][81]。
しかし、サラーフッディーンの兄のトゥーラーン・シャーに率いられたシリア軍の追加部隊が到着するとサラーフッディーンはファーティマ朝政権から次第に距離を置くようになり、まずフトバにおいてアーディドの名前に続けてヌールッディーンの名前を読み上げ始めた。アーディドは儀礼的な役割へ追いやられ、サラーフッディーンが騎乗したまま宮殿に入ることで公然とした辱めさえ受けた(それまでこの行為はカリフの特権であった)。さらにサラーフッディーンはシリア軍をあからさまに優遇し始め、軍隊の維持のために兵士に領地を与える一方でファーティマ朝の軍司令官から同様の領地を取り上げた[82][83][84]。また、ヤーコフ・レフは、この頃までにスンナ派が文民官僚の中で多数を占めるようになっていたものの、多くの者は政権から疎外されていたと指摘している。このような状況の中で、アル=カーディー・アル=ファーディルを始めとする文民官僚の多くはサラーフッディーンと協力する道を選び、サラーフッディーンがファーティマ朝政権を効率的に弱体化させる手助けをした[85]。
サラーフッディーンとシリア軍が優位に立つ状況に反発したファーティマ朝の支持派はムウタミン・アル=ヒラーファ・ジャウハルの下に結集した。そして新たな十字軍の侵攻によってサラーフッディーンをカイロから引き離し、再び首都の支配を取り戻すことを期待して躊躇することなく十字軍の支援を求めた[10][86]。しかし、支援を求める書簡はサラーフッディーンの手に落ち、サラーフッディーンはカイロの敵対者たちを容赦なく迅速に粛清する機会をつかんだ。ムウタミンは殺害され、1169年8月21日にはこの殺害に激しく反発したアフリカ系黒人軍団が反乱を起こした。サラーフッディーンは2日間にわたる市街戦(バイナル・カスラインの戦い)の末に黒人軍団を打ち破り、カイロから放逐した。さらに黒人軍団はトゥーラーン・シャーによる追撃を受けて敗走し、郊外のアル=マンスーリーヤに存在した黒人軍団の兵舎は焼き払われた[86][87][88]。この反乱の余波の中でサラーフッディーンは腹心のバハールッディーン・カラークーシュをムウタミンの後任に指名し、カリフとその宮廷に対する支配力を確保した[89][90][91][92]。
忠実な軍隊を奪われ、自分の宮殿でカラークーシュに厳重に監視されていたアーディドは、今や完全にサラーフッディーンの言いなりとなっていた[93][94]。1169年10月から12月にかけてビザンツ帝国と十字軍が共同でダミエッタに攻撃を仕掛けたとき、アーディドは侵略者に対抗する遠征軍の資金として1,000,000ディナールを拠出した[86][91]。歴史家のマイケル・ブレットは、この行為についてカリフが新しい状況に適応するための方策であったとする見解を示しているが[86]、ヤーコフ・レフは、サラーフッディーンによるアーディドへのあからさまな「恐喝」であったと述べ、カリフは実質的な軟禁状態にあり、このような莫大な資金の拠出はアーディドの立場を弱めるだけであったと指摘している[91]。1170年3月にサラーフッディーンの父親であるナジュムッディーン・アイユーブがカイロに到着すると、カリフは直々にサラーフッディーンを伴って出迎え、前例のないアル=マーリク・アル=アウハド(唯一の王)の称号を与えた[95]。
自分の地位が安定したサラーフッディーンは、あらゆる公職にエジプト人に代えてシリア人を任命することでエジプトの行政機構に対する支配を固めた[32]。また、この方針の一環としてサラーフッディーンの近親者が大部分の地方の総督に任命された[96]。同時にサラーフッディーンはファーティマ朝政権のイデオロギー的基盤に対してゆっくりと、しかし容赦のない攻撃を開始した。1170年8月25日にアザーン(礼拝の呼びかけ)がシーア派の様式からスンナ派の様式に変更され、正統カリフの最初の三人の名前もアザーンの中に含められるようになったが、これはシーア派の教義に反する侮辱的な行為であった[97][98]。さらにアーディドの名前さえも「神の信仰を強固にする者」から神の加護を求める定型句に置き換えることで巧妙に排除した。歴史家のハインツ・ハルムが指摘するように、これはアーディドの即位名だけでなく、「バグダードのスンナ派のカリフをも含むあらゆる敬虔なイスラーム教徒」を指すことが可能な文言であった[99]。1170年の中頃にアーディドは公式行事のフトバや祭事の礼拝に出席することを禁じられた[87]。1170年9月には旧都のフスタートにスンナ派のマドラサが設立され[98]、すべての法官職は大半がシリア人かクルド人からなるスンナ派のシャーフィイー学派の人物で占められた[100][101]。そして1171年2月に司法長官(カーディーの長官)までもがスンナ派の人物に置き換えられ、続いてアル=アズハル・モスクで行われていたイスマーイール派の教義の公開講座が最終的に停止された[97][102]。スンナ派の法学者たちはサラーフッディーンがアーディドを異端者として合法的に処刑することを認める法的判断(ファトワー)すら出した[83]。
死とファーティマ朝の終焉
サラーフッディーンによるファーティマ朝政権の解体は1171年9月10日に頂点を迎えた。この日、シャーフィイー学派の法学者のナジュムッディーン・アル=ハブーシャーニーがアーディドに代えてスンナ派のアッバース朝のカリフであるムスタディー(在位:1170年 - 1180年)の名をフトバにおいて公に宣言し、ファーティマ朝の罪の一覧を読み上げた[32][87]。この象徴的な行為によってエジプトは2世紀に及んだイスマーイール派のファーティマ朝による支配を経てアッバース朝の宗主権下に戻ったものの、エジプトの民衆はこの宣言には全般的に無関心であった[18][32]。その一方でアーディドはこの時すでに重病で死の床にあり、アーディドがこの出来事を知ることは全くなかったとみられている。そのアーディドは1171年9月13日に20歳の若さで死去し、ファーティマ朝の滅亡は決定的となった[2][103][104][105]。中世の史料の中にはアーディドの死因について自殺、毒殺、あるいは財宝の隠し場所を明かさなかったためにトゥーラーン・シャーに殺害されたと主張しているものもあるが[106][107]、ハインツ・ハルムは、カリフが「暴力的に抹殺されたことを示す決定的な証拠はない」と述べている[108]。また、サラーフッディーンもカリフの死を自然死と考えていたことはサラーフッディーン自身の発言からも窺い知ることができる[107]。
アーディドの死に対するサラーフッディーンの対応は慎重だった。サラーフッディーンはアーディドの葬儀に直接参列したが[108]、依然として残っているファーティマ朝を支持する人々の心情に対する示威行為として軍事パレードも挙行した[109]。そして公にはアーディドが長男のダーウードを後継者に指名しなかったため、カリフ位が空位になったとだけ述べた[109]。サラーフッディーンは公の場では悲しむ姿を演出したが、アーディドの死とファーティマ朝の終焉はサラーフッディーンを取り巻くスンナ派の支持者たちの間にあからさまな歓喜をもたらした。サラーフッディーンの書記官のイマードゥッディーン・アル=イスファハーニーは、アーディドをファラオに、サラーフッディーンをヨセフ(アラビア語ではユースフ、サラーフッディーンの出生名)になぞらえ、アーディドを出来損ないの異端者と呼ぶ祝いの詩を書いた[108]。ファーティマ朝の消滅の知らせがバグダードに届くと街はアッバース朝の色である黒の花綱で飾り付けられ、カリフのムスタディーはサラーフッディーンとヌールッディーンにヒルアを送った[107]。
アーディドの死後、まだ規模の大きかったイスマーイール派の共同体はサラーフッディーンの新しいアイユーブ朝政権から迫害を受けた。また、ファーティマ朝の一族は宮殿で事実上の軟禁状態に置かれた。アーディドの後継者のダーウード・アル=ハーミド・リッラーフ(イマーム位:1171年 - 1208年)はイスマーイール派の一派であるハーフィズ派(ハーフィズの子孫をイマームと認める一派)の信徒たちから正当なイマームとして認められたが、ダーウードの息子でその後継者のスライマーン・バドルッディーン(イマーム位:1208年 - 1248年)と同様に捕らわれの身のまま死去した。1170年代にはファーティマ朝の支持者や僭称者たちによる一連の陰謀や反乱が起きたが、これらの運動は失敗に終わった。その後は同様の運動が12世紀末まで散発的に続いたものの、イスマーイール派の影響力は急速に衰えていった。そして13世紀末までにイスマーイール派はエジプトから事実上一掃された[110][111]。
1262年にマムルーク朝の支配者のバイバルス(在位:1260年 - 1277年)が没収されたファーティマ朝の財産の目録を作成するように命じたが、その目録の中に王朝の最後の三人の生き残りについての証言が残されている。その三人はアーディドの息子の一人のカマールッディーン・イスマーイールと二人の孫のアブル=カースィム・ブン・アビル=フトゥーフ・ブン・アル=アーディドとアブドゥルワッハーブ・ブン・イスマーイール・ブン・アル=アーディドである。この三人について名前以外に知られていることはなく、恐らく三人ともカイロの城塞(シタデル)で幽閉されたまま死去したとみられている[112]。
脚注
注釈
- ^ ザーフィルの暗殺とファーイズの即位は容易に傀儡化することが可能な幼児を擁立して独裁権を振るおうとしたアッバースの意図があったと考えられているが、ザーフィルの兄弟まで殺害した理由はカリフ位の継承を主張する可能性のある年長者を排除するためであったとみられている[9]。
- ^ フトバで支配者の名前を読み上げることは近代以前の中東地域において支配者が持っていた二つの特権のうちの一つであった(もう一つは硬貨を鋳造する権利)。フトバにおける名前の言及は支配者の統治権と宗主権を受け入れることを意味し、イスラーム世界の支配者にとってこれらの権利を示す最も重要な指標と見なされていた[12]。反対にフトバで支配者の名前を省くことは公に独立を宣言することを意味していた。また、重要な情報伝達の手段でもあるフトバは、支配者の退位と即位、後継者の指名、そして戦争の開始と終結を宣言する役割も担っていた[13]。
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- Şeşen, Ramazan (1988) (トルコ語). "Âdıd-Lidînillâh". TDV Encyclopedia of Islam, Vol. 1 (Âb-ı Hayat – El-ahkâmü'ş-şer'i̇yye). Istanbul: Turkiye Diyanet Foundation, Centre for Islamic Studies. pp. 374–375. ISBN 978-975-954-801-8
- Wiet, Gaston (1960) (英語). "al-ʿĀḍid li-Dīn Allāh" (要購読契約). In Gibb, H. A. R.; Kramers, J. H.; Lévi-Provençal, E.; Lewis, B.; Pellat, Ch. & Schacht, J. (eds.). The Encyclopaedia of Islam, Second Edition. Volume I: A–B. Leiden: E. J. Brill. pp. 196–197. OCLC 495469456
アーディド
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先代 ファーイズ |
カリフ 1160年7月23日 - 1171年9月13日 |
次代 滅亡 |
先代 ファーイズ |
ハーフィズ派イマーム 1160年7月23日 - 1171年9月13日 |
次代 ハーミド |