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[[ファイル:Japan China Peace Treaty 17 April 1895.jpg|thumb|西暦[[1895年]]に締結された[[下関条約]]の調印書。見開き右頁の最後に記された締結日は、既にグレゴリオ暦を導入していた日本の日付が「[[明治]]二十八年四月十七日」となっているのに対し、[[太陰太陽暦]]の[[時憲暦]]を使用していた[[清国]]の日付は「[[光緒]]二十一年三月二十三日」となっている。]] |
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'''明治改暦'''(めいじかいれき)とは[[明治]]時代に日本で実施された[[改暦]]のこと。[[太陽暦]]の導入及び[[グレゴリオ暦]]の導入が行われた。 |
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==概要== |
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日本では、ほぼ[[西暦]][[1872年]]に当たる[[明治]]5年、「'''[[s:太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス|太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス]]'''」とする'''[[太政官布告・太政官達#現行法令としての効力があると解されることがあるもの|改暦ノ布告]]'''(明治5年[[太政官布告]]第337号)を布告した。 |
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この布告では、明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって[[太陰太陽暦]]([[天保暦]])を廃止し、翌・明治6年(1873年)から太陽暦を採用すること、「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として、グレゴリオ暦[[1873年]]1月1日に当たる明治5年12月3日を改めて明治6年1月1日とすることなどを定めた。したがって、明治5年まで使用されていた[[天保暦]]は、明治6年以降は[[旧暦]]となった。 |
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改暦ノ布告は年も押し迫った明治5年11月9日(グレゴリオ暦1872年12月9日)に公布され、社会的な混乱をきたした。暦の販売権をもつ弘暦者(明治5年には[[頒暦商社]]が結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていた。急な改暦によって従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害をこうむることになった。 |
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一方、[[福澤諭吉]]は、太陽暦改暦の決定を聞くと直ちに『[[改暦弁]]』を著して、改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時の[[1873年]](明治6年)1月1日付けで[[慶應義塾]]蔵版で刊行されたこの書は大いに売れて、内務官僚の[[松田道之]]に宛てた福澤の書簡([[1879年]](明治12年)3月4日付)には、この出来事を回想して「忽ち10万部が売れた」と記している<ref>{{Cite book |和書 |author=福澤諭吉 |authorlink=福澤諭吉 |year=2001-03-23 |title=福澤諭吉書簡集 |volume=第2巻 |publisher=岩波書店 |pages=173-175 |isbn=4-00-092422-2 |ref=福澤2001}}に収録。 |
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{{Quotation|其後改暦の令あり。此時も同様、唯一片の詔にて更に諭告文を見ず。余り難堪存候に付、生は私に改暦弁と申小冊子を出版して、一時に十万部計り国内に分布し、此出版にては聊か行政の便を助けたること、今日も私に自負の意あり。|[[福澤諭吉]]|[[松田道之]]宛て書簡([[1879年]](明治12年)3月4日付)}}</ref><ref>福澤は『[[福澤全集緒言]]』の中で、「『[[改暦弁]]』は風邪で寝込んでいるときに6時間で書き上げたもので、発売後ベストセラーになり、2・3箇月で売上額が700円に達した」、「その後の2・3箇月も同じように売れ続けたので、売上額は合計1000~1500円に達したようだ」と記している。{{Quotation|以上の公文を見れば古来の太陰暦を廃し{{読み仮名|大|〔太〕}}陽暦に改むることにして{{読み仮名|甚|はなは}}だ妙なり。{{読み仮名|吾々|われわれ}}の本願は{{読み仮名|唯|ただ}}旧を{{読み仮名|棄|す}}てゝ新に{{読み仮名|就|つ}}かんとするの一事のみなれば、何は{{読み仮名|扨|さて}}置き{{読み仮名|先|ま}}ず大賛成を表したりと{{読み仮名|雖|いえど}}も、{{読み仮名|抑|そ}}も一国の暦日を変するが{{読み仮名|如|ごと}}きは無上の大事件にして、{{読み仮名|之|これ}}を断行するには国民一般にその理由を知らしめて丁寧反覆、新旧両暦の{{読み仮名|相異|あいこと}}なる由縁を説き、双方得失の在る所を示して心の底より{{読み仮名|合点|がてん}}せしむこそ大切なれ。{{読み仮名|欧羅巴|ヨーロツパ}}の{{読み仮名|耶蘇|ヤソ}}教陽暦国にて、露国の暦は他に{{読み仮名|異|こと}}なること{{読み仮名|僅|わず}}かに十二日なれども、古来の慣行にて今日{{読み仮名|尚|な}}お{{読み仮名|之|これ}}を改むるを得ず。{{読み仮名|然|しか}}るに日本に{{読み仮名|於|おい}}ては陰陽暦を一時に変化して{{読み仮名|凡|およ}}そ一箇月の劇変を断行しながら、政府の布告文を見れば簡単{{読み仮名|至極|しごく}}にしてその{{読み仮名|詳|つまびらか}}なるを知るに{{読み仮名|由|よし}}なし、{{読み仮名|畢竟|ひつきよう}}{{読み仮名|官辺|かんぺん}}にその注意なくして{{読み仮名|且|か}}つは筆{{読み仮名|執|と}}る人の乏しきが{{読み仮名|為|た}}めなりと推察せざるを得ず。{{読み仮名|左|さ}}れば民間の私に之を説明して{{読み仮名|余処|よそ}}ながら新政府の{{読み仮名|盛事|せいじ}}を助けんものをと{{読み仮名|思付|おもいつ}}き、{{読み仮名|匆々|そうそう}}{{読み仮名|書綴|かきつづ}}りたるは[[改暦弁]]なり。その起草は発令の月か翌十二月か、日は忘れたり、少々風邪に犯され{{読み仮名|床|とこ}}の上にて筆を{{読み仮名|執|と}}り、朝より午後に至るまで{{読み仮名|凡|およ}}そ六時間にて脱稿したり。{{読み仮名|固|もと}}より{{読み仮名|木葉|このは}}同様の小冊子にて何の苦労もなかりしが、{{読み仮名|扨|さて}}これを木版にして発売を試みたるに何千何万の際限あることなし。三版も五版も同時に彫刻して製本を{{読み仮名|書林|しよりん}}に渡しさえすれば{{読み仮名|直|ただち}}に売れ行くその{{読み仮名|有様|ありさま}}は之を見ても面白し。一冊何銭とて{{読み仮名|高|たか}}の知れたる定価なれども、{{読み仮名|塵|ちり}}も積れば山と{{読み仮名|為|な}}るの{{読み仮名|諺|ことわざ}}に{{読み仮名|洩|も}}れず、発売後二、三箇月にして何かの{{読み仮名|序|ついで}}に改暦弁より生じたる純益の金高を調べたるに七百円余に{{読み仮名|上|のぼ}}りたることあり。その時、著者は{{読み仮名|独|ひと}}り心に笑い、この書を綴りたるは{{読み仮名|僅|わずか}}に六時間の労なり、六時間の報酬に七百円とは実に驚き入る、学者の身に{{読み仮名|斯|かか}}る利益を{{読み仮名|収領|しゆうりよう}}しても{{読み仮名|宜|よろ}}しかるべきやと、{{読み仮名|恰|あたか}}も半信半疑に{{読み仮名|自|みず}}から感じたるは、旧藩士族根性の{{読み仮名|然|しか}}らしむる所にして{{読み仮名|今尚|な}}お{{読み仮名|之|これ}}を記憶す。二、三箇月の後も{{読み仮名|売捌|うりさばき}}は依然として{{読み仮名|止|や}}まず、利益の全額は千円も千五百円も得たることならん。{{読み仮名|畢竟|ひつきよう}}余が今日に至るまで何に一つの商売もせず、工業もせず、家富みて{{読み仮名|余|あまり}}あるには{{読み仮名|非|あら}}ざれども、大勢の家族と共に心配なく生活して{{読み仮名|静|しずか}}に老余を楽しむは、改暦弁のみならず他の著訳書より得たる利益の多かりしが故なり。|-|{{Cite book |和書 |author=福澤諭吉 |year=1897 |title=福澤全集緒言 |publisher=時事新報社 |pages=102-104 |url=http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=114&PAGE=108|ref={{Harvid|福澤|1897}} }}}}</ref>。 |
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==== 改暦の理由 ==== |
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これほど急な新暦導入が行われた理由として、明治政府の財政状況が逼迫していたことが挙げられる。 |
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当時[[参議]]であった[[大隈重信]]の回顧録『大隈伯昔日譚』によれば、旧暦のままでは明治6年は[[閏月]]があるため、13か月となる。すると、当時支払いが月給制に移行したばかりの[[官吏]]への報酬を、1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり、12か月分の支給で済む{{Efn|太政官布告第359号では、旧暦の11月が29日までであったものを30日・31日を追加してそのまま新暦の明治6年1月1日としていたが、発表翌日に取り消された。太政官布告第372号で、2日しかない12月については月給を給付しない、とした。}}。また、明治5年12月は2日しかないことを理由に支給を免れ、結局月給の支給は11か月分で済ますことができる。 |
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当時は1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これに[[節句]]などの休業を加えると年間の約4割は休業日となる計算であったが、新暦導入を機に[[週休制]]に改めることで、休業日を年間50日余りに減らすことができる<ref>{{Cite book|和書|author=円城寺清|authorlink=円城寺清|title=大隈伯昔日譚|publisher=立憲改進党々報局|year=1895|page=601|url={{NDLDC|781144/316}}}}</ref>。 |
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==== 置閏法の不備と修正 ==== |
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改暦ノ布告は、施行まで1か月に満たない期間の中で慌てて布告されたためか、置閏法に不備があった。それはグレゴリオ暦の肝心な要素である「西暦年数が100で割り切れるが400で割り切れない年(400年間に3回ある。)を、閏年としない」旨の規定が欠落していたことである。また、厳密に言えば、4年毎に閏年を置くとしても、どの年が閏年になるのかは、布告からは読み取れない。 |
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このままでは導入された「新しい太陽暦」はグレゴリオ暦ではなく、さりとて日付が12日ずれているためユリウス暦そのものでもなく、「ユリウス暦と同じ置閏法を採用した日本独自の暦」となってしまう。また、布告の前文にある文面もおかしく、グレゴリオ暦で実際に1日の誤差が蓄積されるのに要する年数は約3200年であるにもかかわらず、「七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス」としていた。これは、起草者が参考にした天文書『遠西観象図説』の誤りと考えられている。 |
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そこで、西暦[[1898年]](皇紀2558年・明治31年)[[5月11日]]に、改めて勅令「[[s:閏年ニ關スル件|閏年ニ關スル件]]」(明治31年[[勅令]]第90号)を出して、置閏法をグレゴリオ暦に合わせたものに改めた。 |
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: '''閏年ニ關スル件'''(明治31年勅令第90号) |
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: 神武天皇即位紀元年數ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス |
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: 但シ紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス |
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この勅令では、[[神武天皇即位紀元]](皇紀)年数を用いて閏年か平年かを判別している。ただし皇紀自体から660を引いた値、すなわち同年のキリスト紀元と全く同じ数を引数として計算するため、グレゴリオ暦と全く同じ置閏法を実現できる。この置閏法の誤りを修正する勅令が公布された時には、日本で太陽暦を導入してから初めての「紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年」である皇紀2560年、すなわち西暦1900年(明治33年)は1年半後に迫っていた。 |
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もっとも、以上の経過説明に対しては、布告に先立き明治5年11月5日付けで[[市川斎宮]]による建白書が政府に提出されているところ、その暦法の提案内容は、神武天皇即位紀元年数が100で割れる年を閏年とするが400で割りきれない年は平年とするものであった(この暦法では、グレゴリオ暦と異なり、西暦1900年は閏年になるのに対し、[[神武天皇即位紀元]]2600年である西暦1940年が平年となる。)ことから、政府はグレゴリオ暦の置閏法を正確に把握していなかったのではなく、特別の平年をいつにすべきかの議論を先延ばししたのではないかとの指摘がある<ref>{{Cite book|和書|author=[[青木信仰]]|year=1982|month=9|title=時と暦|publisher=東京大学出版会|page=p.30|isbn=4-13-002026-9|ref=青木1982}} </ref>。 |
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==== <span id="明治改暦経緯"></span>導入の経過 ==== |
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[[国立天文台]]暦計算室の暦Wikiの記事[https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CEF2BBCB2FCCC0BCA3B0CAB9DFA4CECAD4CEF1.html 「明治以降の編暦」]も参照のこと。 |
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* 明治5年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]](1872年11月1日):例年どおり、弘暦者([[頒暦商社]])により翌年の暦(旧暦)が全国で発売される。 |
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** 11月初旬(12月初旬):太政官権大外史[[塚本明毅]]により建議される<ref>{{Cite web |author=内閣記録局 |title=法規分類大全. 〔第2〕 |publisher=内閣記録局 |date=1889—1891 |url={{NDLDC|994174/131}} |accessdate=2019-02-14}}</ref>。 |
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** [[11月9日 (旧暦)|11月9日]](12月9日):「'''[[s:太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス|太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス]]'''」(明治5年[[太政官布告]]第337号、'''[[太政官布告・太政官達#現行法令としての効力があると解されることがあるもの|改暦ノ布告]]''')を公布。突如として明治5年は12月2日で終了することが定められる。 |
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** [[11月23日 (旧暦)|11月23日]](12月23日):太政官布告第359号で「来ル十二月朔日二日ノ両日今十一月卅日卅一日ト被定候」(12月1日および2日を11月30日および31日と定めた)とする。翌[[11月24日 (旧暦)|24日]]付け太政官達書で取り消す。 |
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** [[11月27日 (旧暦)|11月27日]](12月27日):太政官布達第374号により、「当十二月ノ分ハ朔日二日別段月給ハ不賜」(この12月の分は、1日・2日の2日あるが、別段月給を支給しない。)と、12月分の月給不支給が各省に通告される<ref>{{Cite book|和書|year=1912|title=法令全書 明治5年|volume=第7冊|publisher=内閣官報局|page=358|id={{近代デジタルライブラリー|787952/236}}|ref=内閣官報局1912}}漢字は新字体にあらためた。</ref>。 |
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** [[12月2日 (旧暦)|12月2日]]:[[天保暦]]を廃止。 |
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* 1873年1月1日に当たる明治5年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]](旧暦)を明治6年[[1月1日]](新暦)とする太陽暦への改暦('''明治改暦''')。 |
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* 1873年(明治6年)[[1月12日]]:頒暦商社の損失補填のため、向こう3年間の暦販売権を認める。 |
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* 1875年(明治8年)[[1月12日]]:頒暦商社の暦販売権を、1882年(明治15年)まで延長する。 |
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* 1883年(明治16年):本暦と略本暦が[[伊勢神宮]]から頒布される。 |
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* 1898年(明治31年)[[5月11日]]:明治5年の改暦における[[置閏法]]の問題(明治33年(西暦1900年)がグレゴリオ暦と異なり閏年となってしまう)を修正した勅令「[[s:閏年ニ關スル件|閏年ニ關スル件]]」(明治31年勅令第90号)が公布される。 |
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* 1910年(明治43年):官暦の旧暦併記が消滅。 |
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<!-- * 2010年(平成22年):この年をもって、海上保安庁[[海洋情報部]]による非公式な新暦旧暦の対照表の公表が終了した<ref>海洋情報部による暦関連の業務は[[水路部 (日本海軍)|旧海軍水路部]]の明治以来のもので、[[天測航法|天測暦]]他の必要性によるものである。</ref>。--> |
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* 2033年:[[旧暦2033年問題]](2033年の秋から翌2034年の春にかけて、旧暦の月名および閏月の配置が、[[天保暦]]本来のルールでは決定できない問題) |
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ただし、国立天文台は、毎年2月に「暦要項」を[[官報]]に[[告示]]し、翌年の「二十四節気および雑節」、「朔弦望」を計算・提示しているため、[[旧暦]]の「30日の大月、29日の小月」の設定、置閏の基準である「[[中気]]」の提示に相当するものが「公的」に行われていることになる{{Efn|2015年(平成27年)の場合、2月2日(月)に発行された第6463号の25~26ページに「平成28年(2016)暦要項」が「告示」(掲載)されている。}}。 |
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== 脚注 == |
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==関連項目== |
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* [[改暦]] |
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* [[太陽暦]] - [[グレゴリオ暦]] |
2023年6月16日 (金) 13:34時点における版
明治改暦(めいじかいれき)とは明治時代に日本で実施された改暦のこと。太陽暦の導入及びグレゴリオ暦の導入が行われた。
概要
日本では、ほぼ西暦1872年に当たる明治5年、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」とする改暦ノ布告(明治5年太政官布告第337号)を布告した。
この布告では、明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって太陰太陽暦(天保暦)を廃止し、翌・明治6年(1873年)から太陽暦を採用すること、「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として、グレゴリオ暦1873年1月1日に当たる明治5年12月3日を改めて明治6年1月1日とすることなどを定めた。したがって、明治5年まで使用されていた天保暦は、明治6年以降は旧暦となった。
改暦ノ布告は年も押し迫った明治5年11月9日(グレゴリオ暦1872年12月9日)に公布され、社会的な混乱をきたした。暦の販売権をもつ弘暦者(明治5年には頒暦商社が結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていた。急な改暦によって従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害をこうむることになった。
一方、福澤諭吉は、太陽暦改暦の決定を聞くと直ちに『改暦弁』を著して、改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時の1873年(明治6年)1月1日付けで慶應義塾蔵版で刊行されたこの書は大いに売れて、内務官僚の松田道之に宛てた福澤の書簡(1879年(明治12年)3月4日付)には、この出来事を回想して「忽ち10万部が売れた」と記している[1][2]。
改暦の理由
これほど急な新暦導入が行われた理由として、明治政府の財政状況が逼迫していたことが挙げられる。
当時参議であった大隈重信の回顧録『大隈伯昔日譚』によれば、旧暦のままでは明治6年は閏月があるため、13か月となる。すると、当時支払いが月給制に移行したばかりの官吏への報酬を、1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり、12か月分の支給で済む[注釈 1]。また、明治5年12月は2日しかないことを理由に支給を免れ、結局月給の支給は11か月分で済ますことができる。
当時は1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これに節句などの休業を加えると年間の約4割は休業日となる計算であったが、新暦導入を機に週休制に改めることで、休業日を年間50日余りに減らすことができる[3]。
置閏法の不備と修正
改暦ノ布告は、施行まで1か月に満たない期間の中で慌てて布告されたためか、置閏法に不備があった。それはグレゴリオ暦の肝心な要素である「西暦年数が100で割り切れるが400で割り切れない年(400年間に3回ある。)を、閏年としない」旨の規定が欠落していたことである。また、厳密に言えば、4年毎に閏年を置くとしても、どの年が閏年になるのかは、布告からは読み取れない。
このままでは導入された「新しい太陽暦」はグレゴリオ暦ではなく、さりとて日付が12日ずれているためユリウス暦そのものでもなく、「ユリウス暦と同じ置閏法を採用した日本独自の暦」となってしまう。また、布告の前文にある文面もおかしく、グレゴリオ暦で実際に1日の誤差が蓄積されるのに要する年数は約3200年であるにもかかわらず、「七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス」としていた。これは、起草者が参考にした天文書『遠西観象図説』の誤りと考えられている。
そこで、西暦1898年(皇紀2558年・明治31年)5月11日に、改めて勅令「閏年ニ關スル件」(明治31年勅令第90号)を出して、置閏法をグレゴリオ暦に合わせたものに改めた。
- 閏年ニ關スル件(明治31年勅令第90号)
- 神武天皇即位紀元年數ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス
- 但シ紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス
この勅令では、神武天皇即位紀元(皇紀)年数を用いて閏年か平年かを判別している。ただし皇紀自体から660を引いた値、すなわち同年のキリスト紀元と全く同じ数を引数として計算するため、グレゴリオ暦と全く同じ置閏法を実現できる。この置閏法の誤りを修正する勅令が公布された時には、日本で太陽暦を導入してから初めての「紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年」である皇紀2560年、すなわち西暦1900年(明治33年)は1年半後に迫っていた。
もっとも、以上の経過説明に対しては、布告に先立き明治5年11月5日付けで市川斎宮による建白書が政府に提出されているところ、その暦法の提案内容は、神武天皇即位紀元年数が100で割れる年を閏年とするが400で割りきれない年は平年とするものであった(この暦法では、グレゴリオ暦と異なり、西暦1900年は閏年になるのに対し、神武天皇即位紀元2600年である西暦1940年が平年となる。)ことから、政府はグレゴリオ暦の置閏法を正確に把握していなかったのではなく、特別の平年をいつにすべきかの議論を先延ばししたのではないかとの指摘がある[4]。
導入の経過
国立天文台暦計算室の暦Wikiの記事「明治以降の編暦」も参照のこと。
- 明治5年10月1日(1872年11月1日):例年どおり、弘暦者(頒暦商社)により翌年の暦(旧暦)が全国で発売される。
- 11月初旬(12月初旬):太政官権大外史塚本明毅により建議される[5]。
- 11月9日(12月9日):「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337号、改暦ノ布告)を公布。突如として明治5年は12月2日で終了することが定められる。
- 11月23日(12月23日):太政官布告第359号で「来ル十二月朔日二日ノ両日今十一月卅日卅一日ト被定候」(12月1日および2日を11月30日および31日と定めた)とする。翌24日付け太政官達書で取り消す。
- 11月27日(12月27日):太政官布達第374号により、「当十二月ノ分ハ朔日二日別段月給ハ不賜」(この12月の分は、1日・2日の2日あるが、別段月給を支給しない。)と、12月分の月給不支給が各省に通告される[6]。
- 12月2日:天保暦を廃止。
- 1873年1月1日に当たる明治5年12月3日(旧暦)を明治6年1月1日(新暦)とする太陽暦への改暦(明治改暦)。
- 1873年(明治6年)1月12日:頒暦商社の損失補填のため、向こう3年間の暦販売権を認める。
- 1875年(明治8年)1月12日:頒暦商社の暦販売権を、1882年(明治15年)まで延長する。
- 1883年(明治16年):本暦と略本暦が伊勢神宮から頒布される。
- 1898年(明治31年)5月11日:明治5年の改暦における置閏法の問題(明治33年(西暦1900年)がグレゴリオ暦と異なり閏年となってしまう)を修正した勅令「閏年ニ關スル件」(明治31年勅令第90号)が公布される。
- 1910年(明治43年):官暦の旧暦併記が消滅。
- 2033年:旧暦2033年問題(2033年の秋から翌2034年の春にかけて、旧暦の月名および閏月の配置が、天保暦本来のルールでは決定できない問題)
ただし、国立天文台は、毎年2月に「暦要項」を官報に告示し、翌年の「二十四節気および雑節」、「朔弦望」を計算・提示しているため、旧暦の「30日の大月、29日の小月」の設定、置閏の基準である「中気」の提示に相当するものが「公的」に行われていることになる[注釈 2]。
脚注
注釈
出典
- ^ 福澤諭吉『福澤諭吉書簡集』 第2巻、岩波書店、2001年3月23日、173-175頁。ISBN 4-00-092422-2。に収録。
- ^ 福澤は『福澤全集緒言』の中で、「『改暦弁』は風邪で寝込んでいるときに6時間で書き上げたもので、発売後ベストセラーになり、2・3箇月で売上額が700円に達した」、「その後の2・3箇月も同じように売れ続けたので、売上額は合計1000~1500円に達したようだ」と記している。以上の公文を見れば古来の太陰暦を廃し
大 ()陽暦に改むることにして甚 ()だ妙なり。吾々 ()の本願は唯 ()旧を棄 ()てゝ新に就 ()かんとするの一事のみなれば、何は扨 ()置き先 ()ず大賛成を表したりと雖 ()も、抑 ()も一国の暦日を変するが如 ()きは無上の大事件にして、之 ()を断行するには国民一般にその理由を知らしめて丁寧反覆、新旧両暦の相異 ()なる由縁を説き、双方得失の在る所を示して心の底より合点 ()せしむこそ大切なれ。欧羅巴 ()の耶蘇 ()教陽暦国にて、露国の暦は他に異 ()なること僅 ()かに十二日なれども、古来の慣行にて今日尚 ()お之 ()を改むるを得ず。然 ()るに日本に於 ()ては陰陽暦を一時に変化して凡 ()そ一箇月の劇変を断行しながら、政府の布告文を見れば簡単至極 ()にしてその詳 ()なるを知るに由 ()なし、畢竟 ()官辺 ()にその注意なくして且 ()つは筆執 ()る人の乏しきが為 ()めなりと推察せざるを得ず。左 ()れば民間の私に之を説明して余処 ()ながら新政府の盛事 ()を助けんものをと思付 ()き、匆々 ()書綴 ()りたるは改暦弁なり。その起草は発令の月か翌十二月か、日は忘れたり、少々風邪に犯され床 ()の上にて筆を執 ()り、朝より午後に至るまで凡 ()そ六時間にて脱稿したり。固 ()より木葉 ()同様の小冊子にて何の苦労もなかりしが、扨 ()これを木版にして発売を試みたるに何千何万の際限あることなし。三版も五版も同時に彫刻して製本を書林 ()に渡しさえすれば直 ()に売れ行くその有様 ()は之を見ても面白し。一冊何銭とて高 ()の知れたる定価なれども、塵 ()も積れば山と為 ()るの諺 ()に洩 ()れず、発売後二、三箇月にして何かの序 ()に改暦弁より生じたる純益の金高を調べたるに七百円余に上 ()りたることあり。その時、著者は独 ()り心に笑い、この書を綴りたるは僅 ()に六時間の労なり、六時間の報酬に七百円とは実に驚き入る、学者の身に斯 ()る利益を収領 ()しても宜 ()しかるべきやと、恰 ()も半信半疑に自 ()から感じたるは、旧藩士族根性の然 ()らしむる所にして今尚 ()お之 ()を記憶す。二、三箇月の後も売捌 ()は依然として止 ()まず、利益の全額は千円も千五百円も得たることならん。畢竟 ()余が今日に至るまで何に一つの商売もせず、工業もせず、家富みて余 ()あるには非 ()ざれども、大勢の家族と共に心配なく生活して静 ()に老余を楽しむは、改暦弁のみならず他の著訳書より得たる利益の多かりしが故なり。 — -、福澤諭吉『福澤全集緒言』時事新報社、1897年、102-104頁 。 - ^ 円城寺清『大隈伯昔日譚』立憲改進党々報局、1895年、601頁 。
- ^ 青木信仰『時と暦』東京大学出版会、1982年9月、p.30頁。ISBN 4-13-002026-9。
- ^ 内閣記録局 (1889—1891). “法規分類大全. 〔第2〕”. 内閣記録局. 2019年2月14日閲覧。
- ^ 『法令全書 明治5年』 第7冊、内閣官報局、1912年、358頁。NDLJP:787952/236。漢字は新字体にあらためた。