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'''聖書無謬説'''(ちくごてきむびゅうせつ)は、'''逐語無謬説'''(ちくごむびゅうせつ)、無誤無謬説、などとも表現され、「[[聖書]]」は[[無謬]]であることを絶対的要件とする概念。キリスト教関連用語として、[[神学者]]、[[聖書学者]]、キリスト信仰者が用いる用語。神学書の中では各論があり普遍的に概念規定はできず、むしろ[[キリスト教]]関係者の間で用いられる専門的な慣用句であると理解。この用語は、キリスト者が「聖書」をどのように信仰の中で、あるいは神学、あるいは聖書学のなかで位置づけるかにも大きく関連する教義の基本にかかわる教説。また、聖書の読み方の基本的な姿勢を規定している用語。なお、聖書無謬説を信仰の絶対的な要件としている教派、信者も多数をしめていることから、これを批判することは、信仰をまで否定するものとして、受け取る側で大きく感情を害する言葉でもあるので、この用語を用いることは慎重をきして、自らの論説を明確にして使用しなければならぬ。要は、知的な概念規定が難しい、個人の信仰の自由における信念的な用語である。 |
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==概説== |
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*[[正典]]としての聖書を第一義的にすることを教義とする多数のキリスト教派、教会が主張するキリスト教関連用語であることを前提として、以下、説明。 |
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*聖書に書かれていることは一言一句にわたって全く誤りがないと説き、しかも聖書をそのままに「文言を鵜呑みにする」ように読むべきであるという教義を、「逐語的無謬説」であると定義する神学者と教派が多数存在することから、キリスト教関係のキリスト教関連用語として使用されているのである。 |
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*これに相対して、聖書を自由に読もうと主張する神学者もいる。その論説の要旨は、聖書を書いた「[[聖書記者]]」自身が人間であり、人間とは、聖書においてが強く語られているように、「愚か」で、絶対ではなく相対で、「限りのある有限な存在」であり、そして、聖書を書いた多数の聖書記者もこの愚かさと、有限を超越できないものだとすれば、神の啓示を受けた「聖書」ですら、「神の筆先」ではなく、人間の主観というフィルターを拭い去ることができずに聖書記者は書いている。しかも、聖書を正典としたのは愚かな人間が開催した会議で、人間が決定したものである。したがって、いたるところに説の違いがあるということを強調しつつ、聖書を歴史的批判的に読むべきだと主張する神学者もいる。 |
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==補足説明== |
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*補足説明;この言葉は、キリスト教信者により様々な言い方がなされているので絶対的な概念規定も困難である。つまり、[[日本国憲法]]で保障される[[信仰の自由]]という常識的な観点からすれば、信者が信仰に入る原点的なる信仰告白に帰属する用語であることからして、正典である聖書の位置づけ方、かかわり方、姿勢によって、各々違っているのが現実である。したがって、その表現の方法において、各人各様、信仰の自由に基づいて使用されるので、各論があり、総論的に概念規定できないのが、いまの神学の現実である。よって、言葉の概念の機能にまどわされず、個人の信条により理解することが肝要。 |
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*聖書無謬説と言われる場合が多いとの説も有力だが、すべての信者の話を調査していないので断定は不可能。ここでは、他のページ(出所;[[バプテスト教会]]の頁)でこの言葉が未だ説明されていなく、「赤字」で表現されていたことから、その補足説明を加えるがために、逐語的無謬説という頁に一括して説明したに過ぎない。 |
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==関連する事柄== |
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*[[逐語的霊感説]]と同時に表現されるケースが多い。 |
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*[[アメリカバプテスト連盟]] |
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*[[キリスト教原理主義]] |
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*[[マルティン・ルター]] |
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*[[カルヴァン]] |
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*[[宗教改革]] |
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*[[メソジスト]] |
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*[[バプテスト教会]] |
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*[[日本バプテスト連盟]] |
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2006年12月16日 (土) 11:33時点における版
聖書無謬説(ちくごてきむびゅうせつ)は、逐語無謬説(ちくごむびゅうせつ)、無誤無謬説、などとも表現され、「聖書」は無謬であることを絶対的要件とする概念。キリスト教関連用語として、神学者、聖書学者、キリスト信仰者が用いる用語。神学書の中では各論があり普遍的に概念規定はできず、むしろキリスト教関係者の間で用いられる専門的な慣用句であると理解。この用語は、キリスト者が「聖書」をどのように信仰の中で、あるいは神学、あるいは聖書学のなかで位置づけるかにも大きく関連する教義の基本にかかわる教説。また、聖書の読み方の基本的な姿勢を規定している用語。なお、聖書無謬説を信仰の絶対的な要件としている教派、信者も多数をしめていることから、これを批判することは、信仰をまで否定するものとして、受け取る側で大きく感情を害する言葉でもあるので、この用語を用いることは慎重をきして、自らの論説を明確にして使用しなければならぬ。要は、知的な概念規定が難しい、個人の信仰の自由における信念的な用語である。
概説
- 正典としての聖書を第一義的にすることを教義とする多数のキリスト教派、教会が主張するキリスト教関連用語であることを前提として、以下、説明。
- 聖書に書かれていることは一言一句にわたって全く誤りがないと説き、しかも聖書をそのままに「文言を鵜呑みにする」ように読むべきであるという教義を、「逐語的無謬説」であると定義する神学者と教派が多数存在することから、キリスト教関係のキリスト教関連用語として使用されているのである。
- これに相対して、聖書を自由に読もうと主張する神学者もいる。その論説の要旨は、聖書を書いた「聖書記者」自身が人間であり、人間とは、聖書においてが強く語られているように、「愚か」で、絶対ではなく相対で、「限りのある有限な存在」であり、そして、聖書を書いた多数の聖書記者もこの愚かさと、有限を超越できないものだとすれば、神の啓示を受けた「聖書」ですら、「神の筆先」ではなく、人間の主観というフィルターを拭い去ることができずに聖書記者は書いている。しかも、聖書を正典としたのは愚かな人間が開催した会議で、人間が決定したものである。したがって、いたるところに説の違いがあるということを強調しつつ、聖書を歴史的批判的に読むべきだと主張する神学者もいる。
補足説明
- 補足説明;この言葉は、キリスト教信者により様々な言い方がなされているので絶対的な概念規定も困難である。つまり、日本国憲法で保障される信仰の自由という常識的な観点からすれば、信者が信仰に入る原点的なる信仰告白に帰属する用語であることからして、正典である聖書の位置づけ方、かかわり方、姿勢によって、各々違っているのが現実である。したがって、その表現の方法において、各人各様、信仰の自由に基づいて使用されるので、各論があり、総論的に概念規定できないのが、いまの神学の現実である。よって、言葉の概念の機能にまどわされず、個人の信条により理解することが肝要。
- 聖書無謬説と言われる場合が多いとの説も有力だが、すべての信者の話を調査していないので断定は不可能。ここでは、他のページ(出所;バプテスト教会の頁)でこの言葉が未だ説明されていなく、「赤字」で表現されていたことから、その補足説明を加えるがために、逐語的無謬説という頁に一括して説明したに過ぎない。