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「DAF・ターボツイン」の版間の差分

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1987年にはアップデートを施し「ターボツインII」と改名。ヤン・デ・ルーイ/イヴォ・ジューネンス/テオ・ファン・デ・リアト組が遂にカミオンクラスでDAF初となる悲願の優勝(四輪部門総合11位。当時の四輪カミオンは乗用車と同部門であった)を果たしている。
1987年にはアップデートを施し「ターボツインII」と改名。ヤン・デ・ルーイ/イヴォ・ジューネンス/テオ・ファン・デ・リアト組が遂にカミオンクラスでDAF初となる悲願の優勝(四輪部門総合11位。当時の四輪カミオンは乗用車と同部門であった)を果たしている。


1988年はベース車が95シリーズへフルモデルチェンジしたため、キャブやリアカウルの形状が一新され、「95ターボツインX1/95ターボツインX2」と名称を変更している。この型が最も強力かつ、最も知られるターボツインである。このうち「X2」で参戦していたテオ・ファン・デ・リアト/キース・ファン・レーベジン/クリス・ロス組のターボツインが200km/h超えの超高速走行中にクラッシュして何回転もし、安全規則遵守の不徹底も相俟ってファン・レーベジンがシートごと外に投げ出されて死亡、残り二人も重傷を負うという事故が発生した。これに意気消沈したデ・ルーイは即時イベントから撤退し、2002年までダカールから去ることとなった。この年のラリーのルートは非常に難しかったため、運営も非難にさらされ、1989年の一年間はカミオンでの競技を禁止、1990年以降はプロトタイプトラックの禁止など、[[ラリーレイド]]の高速化に歯止めをかける一因となった<ref>[https://archive.commercialmotor.com/article/14th-january-1988/6/daf-rally-team-pulls-out-following-a-fatal-crash Daf rally team pulls out following a fatal crash]</ref><ref>[http://a011w.broada.jp/bigoffroadclub/paridaka-report-2004.htm 2004年 パリダカールラリー参戦レポート ビックオフロードクラブの皆様へ(第1話)]</ref><ref>[http://www.j-r-m.co.jp/rep101029_02.html
1988年はベース車が95シリーズへフルモデルチェンジしたため、キャブやリアカウルの形状が一新され、「95ターボツインX1/95ターボツインX2」と名称を変更している。この型が最も強力かつ、最も知られるターボツインである。このうち「X2」で参戦していたテオ・ファン・デ・リアト/キース・ファン・レーベジン/クリス・ロス組のターボツインが200km/h超えの超高速走行中にクラッシュして何回転もし、安全規則遵守の不徹底も相俟ってファン・レーベジンがシートごと外に投げ出されて死亡、残り二人も重傷を負うという事故が発生した。これに意気消沈したデ・ルーイは即時イベントから撤退し、2002年までダカールから去ることとなった。この年のラリーのルートは非常に難しかったため、運営も非難にさらされ、1989年の一年間はカミオンでの競技を禁止、1990年以降はプロトタイプトラックの禁止など、[[ラリーレイド]]の高速化に歯止めをかける一因となった<ref>[https://archive.commercialmotor.com/article/14th-january-1988/6/daf-rally-team-pulls-out-following-a-fatal-crash Daf rally team pulls out following a fatal crash]</ref><ref>[http://a011w.broada.jp/bigoffroadclub/paridaka-report-2004.htm 2004年 パリダカールラリー参戦レポート ビックオフロードクラブの皆様へ(第1話)]</ref><ref>[http://www.j-r-m.co.jp/rep101029_02.html パリダカのカミオン部門]</ref>。
パリダカのカミオン部門]</ref>。


それ以来ヤンは本業に専念し、長らくダカールから遠ざかったが、息子の{{仮リンク|ジェラルド・デ・ルーイ|en|Gerard de Rooy}}(1980-、Gerard de Rooy)の熱心な働きかけに応じ、2002年〜2007年にジェラルドのナビとして復帰。ジェラルドは[[イヴェコ]]を駆り、2012・2017年に2度優勝を果たすこととなる。また[[2007年]]大会で[[MAN]]のトラックで優勝したラリードライバーの{{仮リンク|ハンス・ステイシー|en|Hans Stacey}}(1958-、Hans Stacey)はヤンの甥っ子にあたる。
それ以来ヤンは本業に専念し、長らくダカールから遠ざかったが、息子の{{仮リンク|ジェラルド・デ・ルーイ|en|Gerard de Rooy}}(1980-、Gerard de Rooy)の熱心な働きかけに応じ、2002年〜2007年にジェラルドのナビとして復帰。ジェラルドは[[イヴェコ]]を駆り、2012・2017年に2度優勝を果たすこととなる。また[[2007年]]大会で[[MAN]]のトラックで優勝したラリードライバーの{{仮リンク|ハンス・ステイシー|en|Hans Stacey}}(1958-、Hans Stacey)はヤンの甥っ子にあたる。

2023年4月11日 (火) 01:26時点における版

DAF・ターボツインII (1987)

ターボツインTurboTwin )は、オランダの商用車メーカーDAFトラックスの市販トラックをベースに開発された、カミオン(トラック)クラスのクロスカントリーカーである。ツインエンジンを採用し、四輪乗用車よりも速く走ったことで知られる。

活動期間は1986年から1988年の3年間。

前史

DAF・マイティマック
DAF・The Bullのミニカー

ターボツインが生まれる以前まで、DAF車は遅いというイメージがついてた。DAFはロンドン・シドニー・マラソン英語版を始めとするモータースポーツに参加することでこのイメージを払拭しようとしていた[要出典]。パリ・ダカールラリー(現:ダカールラリー、以下パリダカ)への参戦が本格化したのは1980年代に入ってからで、1981年にマイティマックが参戦した。

翌1982年にはオランダの運送会社経営者でパリダカにおいて夢を抱いていたヤン・デ・ルーイドイツ語版が200馬力で二輪駆動のNTT 2800で参戦。翌1983年には四輪駆動のF3300に乗り換えたが性能不足を感じており、デ・ルーイは自らプロトタイプトラックを開発することを決意した[1]

1984年にデ・ルーイは車体前後にキャビン部を備え、それぞれの下部にエンジンを搭載し、それぞれが駆動するというという特殊な四輪駆動構造を持つ、「Tweekoppige Monster(双頭怪獣)」を投入。後部キャビンは中古車のもので、本来なら不要であったが、開発時間が限られていたため外装はそのままに内装は改造され、休憩用ベッドを2つ備えていた。ベース車両はF3300で800馬力を発生(ダイナモメーターを破壊したため、トルクは計測されなかった)。このツインエンジン車が、ターボツインの原型となった。1984年は首位を快走していたが、絶対の信頼性があると考えていたためスペア部品を持っていなかったホイールベアリングを運悪く破損し、リタイアに終わった[2]

1985年には車体構造はそのまま、後部キャビン取っ払って軽量化した「The Bull(雄牛)」が参戦。違法な修理を行ったため15時間ものタイムペナルティを受けたにも関わらず、総合2位という好成績を収めた[3]

戦史

1986年パリ-ダカール・ラリーに参戦。この年は単に「ターボツイン」と名乗った。ヤン・デ・ルーイの駆るターボツインはすでに四輪乗用車勢と同等の速さを示していたが、終盤のモーリタニアでフロントアクスルを破損し、リタイアに終わった[4]

1987年にはアップデートを施し「ターボツインII」と改名。ヤン・デ・ルーイ/イヴォ・ジューネンス/テオ・ファン・デ・リアト組が遂にカミオンクラスでDAF初となる悲願の優勝(四輪部門総合11位。当時の四輪カミオンは乗用車と同部門であった)を果たしている。

1988年はベース車が95シリーズへフルモデルチェンジしたため、キャブやリアカウルの形状が一新され、「95ターボツインX1/95ターボツインX2」と名称を変更している。この型が最も強力かつ、最も知られるターボツインである。このうち「X2」で参戦していたテオ・ファン・デ・リアト/キース・ファン・レーベジン/クリス・ロス組のターボツインが200km/h超えの超高速走行中にクラッシュして何回転もし、安全規則遵守の不徹底も相俟ってファン・レーベジンがシートごと外に投げ出されて死亡、残り二人も重傷を負うという事故が発生した。これに意気消沈したデ・ルーイは即時イベントから撤退し、2002年までダカールから去ることとなった。この年のラリーのルートは非常に難しかったため、運営も非難にさらされ、1989年の一年間はカミオンでの競技を禁止、1990年以降はプロトタイプトラックの禁止など、ラリーレイドの高速化に歯止めをかける一因となった[5][6][7]

それ以来ヤンは本業に専念し、長らくダカールから遠ざかったが、息子のジェラルド・デ・ルーイ(1980-、Gerard de Rooy)の熱心な働きかけに応じ、2002年〜2007年にジェラルドのナビとして復帰。ジェラルドはイヴェコを駆り、2012・2017年に2度優勝を果たすこととなる。また2007年大会でMANのトラックで優勝したラリードライバーのハンス・ステイシー英語版(1958-、Hans Stacey)はヤンの甥っ子にあたる。

車体

最大の特徴は11.6リッターディーゼルエンジン2基、ターボ6基をミッドシップに搭載し、前輪と後輪にそれぞれ動力を分担させた四輪駆動にしていることで、これにより最高出力990馬力を獲得してる。X1/X2はさらに1,220馬力/4,700Nmに増強され、トンあたり115馬力を達成。最高速度は220km/h(一説には240km/h)で、10トン強の車重でありながら0-100km/hを7.8秒で到達できるポテンシャルを秘めていた。最終年にはグループBプジョー・405 T16 GRを直線で追い抜き、ステージタイムでもしばし上回るほどの性能で、アリ・バタネンがハンドルを殴りつけて悔しがったといわれるほどの性能を示し、二輪や車を破って真の総合1位を獲得するというデ・ルーイの野望を果たさんばかりであったが、それゆえに前述の悲劇に見舞われた[8]

ターボツインのシャーシやホイールは当初スチール製を採用していたが、ターボツインII以降アルミ製のリム、スペースフレーム、アルミホイールを採用。これにより大幅な軽量化、高速化を実現している。車体重量は10,500kg。燃料タンク容量はターボツインX1で940L。

現在

ターボツインIIとターボツインX1の2台はオランダアイントホーフェンにあるDAFミュージアムオランダ語版で動態保存されている。

祖先に当たるTweekoppig Monsterは2022年ダカール・クラシックへ参戦し、72位だった(同ラリーは速さではなく設定された平均速度にどれだけ近いかを競うルール)。

ギャラリー

脚注

関連項目