「満願寺 (京都市左京区)」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
Shinji Enoki (会話 | 投稿記録) m →歴史: ウィキ内リンクを追加/削除 |
m Cewbot: ウィキ文法修正 2: <br/>タグの違反 |
||
46行目: | 46行目: | ||
; 京都市指定文化財<ref>[https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005733.html 京都市指定・登録文化財-建造物-左京区] - 京都市情報館</ref> |
; 京都市指定文化財<ref>[https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005733.html 京都市指定・登録文化財-建造物-左京区] - 京都市情報館</ref> |
||
*本堂< |
*本堂<br />桁行3間、梁行1間の身舎となっている。身舎の周囲には裳階を回し、背面には内陣部を突き出し、さらに後方に土蔵造りの奥陣を設けた複合建築となっている。宝永元年(1704年)。<ref name=“Kenchiku1”>総覧 日本の建築 第6-1巻/滋賀・京都 p.66-67 編者:社団法人 日本建築学会 発行日:2000年2月1日</ref> |
||
*鐘楼< |
*鐘楼<br />切妻造、本瓦葺き。元禄16年。<ref name=“Kenchiku1”/> |
||
*手水舎< |
*手水舎<br />切妻造、桟瓦葺き。元禄15年。<ref name=“Kenchiku1”/> |
||
*表門< |
*表門<br />高麗門、本瓦葺き。元禄15年。<ref name=“Kenchiku1”/> |
||
*文子天満宮拝殿及び本殿< |
*文子天満宮拝殿及び本殿<br />本殿は三間社流造、檜皮葺き。同拝殿は入母屋造、銅板葺き。ともに元禄15年。<ref name=“Kenchiku1”/> |
||
== 俊寛の井 == |
== 俊寛の井 == |
2023年3月29日 (水) 00:01時点における最新版
満願寺 | |
---|---|
所在地 | 京都府京都市左京区岡崎法勝寺町130 |
位置 | 北緯35度0分53.75秒 東経135度47分12.2秒 / 北緯35.0149306度 東経135.786722度座標: 北緯35度0分53.75秒 東経135度47分12.2秒 / 北緯35.0149306度 東経135.786722度 |
山号 | 示現山 |
宗派 | 日蓮宗 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 天慶3年(940年) |
開山 | 多治比文子 |
別称 | 岡崎の妙見さん |
札所等 | 洛陽十二支妙見めぐり(辰) |
文化財 | 満願寺 6棟(市指定文化財) |
法人番号 | 4130005002132 |
満願寺(まんがんじ)は、京都府京都市左京区にある日蓮宗の寺院。山号は示現山(じげんざん)。
歴史
[編集]天慶3年(940年)、菅原道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)が道真を追悼するため西ノ京に建立した堂宇が起源とされる。道真自作の天満自在天像を安置し、当初は真言宗だった。
元禄10年(1697年)、宗遍が遠沾院日享(おんでんいんにっこう)に帰依し、日蓮宗に改宗した。
元禄15年(1702年)、現在地に移転した。現在の堂宇は宝永元年(1704年)までに建立されたものである。
旧末寺
[編集]日蓮宗は昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。
文化財
[編集]- 京都市指定文化財[1]
- 本堂
桁行3間、梁行1間の身舎となっている。身舎の周囲には裳階を回し、背面には内陣部を突き出し、さらに後方に土蔵造りの奥陣を設けた複合建築となっている。宝永元年(1704年)。[2] - 鐘楼
切妻造、本瓦葺き。元禄16年。[2] - 手水舎
切妻造、桟瓦葺き。元禄15年。[2] - 表門
高麗門、本瓦葺き。元禄15年。[2] - 文子天満宮拝殿及び本殿
本殿は三間社流造、檜皮葺き。同拝殿は入母屋造、銅板葺き。ともに元禄15年。[2]
俊寛の井
[編集]境内に現存する名水。飲料不可[3]。深い井戸ではない。後方には、「閼伽(あか)井天」という名称の社があり、俊寛の守り本尊と伝わる[4]。
ギャラリー
[編集]参考資料
[編集]脚注
[編集]- ^ 京都市指定・登録文化財-建造物-左京区 - 京都市情報館
- ^ a b c d e 総覧 日本の建築 第6-1巻/滋賀・京都 p.66-67 編者:社団法人 日本建築学会 発行日:2000年2月1日
- ^ 小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書) PHP研究所、2001年 p.206 ISBN 9784569616186
- ^ 井上頼寿著『京都民俗志 改訂』平凡社、1977年、p.80