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| colspan="2" style="font-size: larger; text-align: center;" | '''ルクソール神殿''' |
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{{!}} colspan="2" style="font-size: smaller; text-align: center;" {{!}} [[ファイル:Pylons and obelisk Luxor temple.JPG|250px]]<br>第1塔門とオベリスク |
{{!}} colspan="2" style="font-size: smaller; text-align: center;" {{!}} [[ファイル:Pylons and obelisk Luxor temple.JPG|250px]]<br>第1塔門とオベリスク(2011年) |
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! colspan="2" style="background-color: #d5a474; text-align: center;" | 遺跡 |
! colspan="2" style="background-color: #d5a474; text-align: center;" | 遺跡 |
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! 所在地 |
! 所在地 |
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| {{EGY}} |
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! 地図 |
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|{{Maplink2 |frame=yes |plain=yes |frame-align=center |frame-width=210 |frame-height=200 |zoom=14 |type=shape |fill=#f5fffa|stroke-color=#006400 |stroke-width=1 |type2=point |marker2=park |frame-latitude=25.700000 |frame-longitude=32.639167}} |
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! [[ヒエログリフ|ヒエログリフ名]] |
! [[ヒエログリフ|ヒエログリフ名]] |
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{{!}} <hiero>M17-p:t O45-M24 N21:Z1-X1:O49</hiero> |
{{!}} <hiero>M17-p:t O45-M24 N21:Z1-X1:O49</hiero>{{fontsize|small|(イペト=レスィト)}} |
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''Jpt-rst'' |
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! 主[[祭神]] |
! 主[[祭神]] |
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{{!}} [[アメン]] |
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! colspan="2" style="background-color: #d5a474; text-align: center;" |歴史 |
! colspan="2" style="background-color: #d5a474; text-align: center;" | 歴史 |
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! 着工 |
! 着工 |
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{{!}} [[エジプト第18王朝|第18王朝]]時代<ref name= |
{{!}} [[エジプト第18王朝|第18王朝]]時代<ref name=Wilkinson2002_166>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、166頁</ref> |
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! 増改築 |
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{{!}} ギリシア・ローマ時代まで<ref name= |
{{!}} ギリシア・ローマ時代まで<ref name=Wilkinson2002_166 /> |
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'''ルクソール神殿'''(ルクソールしんでん、{{lang-ar|معبد الأقصر}}、{{lang-en|Luxor Temple}})は、[[エジプト]]の[[ルクソール]](古代の[[テーベ]])東岸にある[[古代エジプト]]時代の[[神殿]]である。 |
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{{Egyptian mythology}} |
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'''ルクソール神殿'''(ルクソールしんでん、{{lang-en|Luxor Temple}})は、[[エジプト]]の[[ルクソール]](古代の[[テーベ]])東岸にある[[古代エジプト]]時代の[[神殿]]複合体である。 |
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古代エジプトにおいてイペト=レスィト(''Ipet-resyt''<ref>{{Cite web |url=https://www.globalegyptianmuseum.org/glossary.aspx?id=227 |title=Luxor |website=The Global Egyptian Museum |language=en |accessdate=2024-02-04}}</ref><ref name=Oakes_&_Gahlin_152>[[#Oakes_&_Gahlin|Oakes & Gahlin (2003)]], p. 152</ref>「南の専用神殿」「南の後宮」)とされた神殿であり、[[アメン]](アメン=カムテフ〈「自らの母親の雄牛なるアメン」〉<ref name=Wilkinson2002_154>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、164頁</ref>)に捧げられた'''アメン=カムテフ神殿'''であった<ref name=Shaw_&_Nicholson_583>[[#Shaw_&_Nicholson|ショー、ニコルソン 『古代エジプト百科事典』 (1997)]]、583頁</ref>。{{仮リンク|カムテフ|de|Kamutef}}(「自らの母親の雄牛」)は、アメンと豊饒神[[ミン]]が[[習合]]した神の形容辞([[形容語句]])として[[エジプト新王国|新王国]]時代([[紀元前16世紀|紀元前1550]]-[[紀元前11世紀|1069年]]<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607>[[#Shaw_&_Nicholson|ショー、ニコルソン「古代エジプト年表」、『古代エジプト百科事典』 (1997)]]、599-607頁</ref>)以降に使われた<ref>[[#Shaw_&_Nicholson|ショー、ニコルソン 『古代エジプト百科事典』 (1997)]]、43・126頁</ref>。この神はアメンエムオペ(「オペトのアメン」)とも称され、神殿は「南のオペト(隔絶された場所)」とされた<ref>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、166・171頁</ref>。 |
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新王国([[エジプト第18王朝|第18王朝]]-[[エジプト第20王朝|第20王朝]])時代には毎年、{{仮リンク|アケト|fr|Akhet}}(氾濫季)の第2月に{{仮リンク|オペト祭|en|Opet Festival}}が約2-4週間にわたり行なわれ、[[カルナック神殿#アメン大神殿|カルナックのアメン大神殿]]より大神アメン(アメン=ラー)の神像が[[ムト]]、[[コンス]]を伴い、儀式用の聖舟([[バーク]])に乗り、{{仮リンク|テーベ三柱神|en|Theban Triad|label=三柱神}}は2キロメートル余り (3km〈2[[マイル|mi]]〉<ref name=Oakes_&_Gahlin_152 />) 離れた南端のルクソールの神殿を往復した<ref>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、55・166-167・171頁</ref>。 |
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[[ファイル:Templo de Luxor, Luxor, Egipto, 2022-04-01, DD 42.jpg|thumb|left|{{仮リンク|スフィンクス参道|en|Avenue of Sphinxes}}({{仮リンク|ドロモス|fr|Dromos}})]] |
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ルクソール神殿とカルナックのアメン大神殿とは{{仮リンク|スフィンクス参道|en|Avenue of Sphinxes}}({{仮リンク|ドロモス|fr|Dromos}}<ref name=Shaw_&_Nicholson_260-261>[[#Shaw_&_Nicholson|ショー、ニコルソン 『古代エジプト百科事典』 (1997)]]、260-261頁</ref>)で結ばれていた。神殿入口となる第1塔門の前には1対の[[ラムセス2世]]の座像(倚像、いぞう)、手前には[[オベリスク]](高さ25.00[[メートル|m]]<ref name=Wilkinson2002_59>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、59頁</ref>)が1本立っている<ref name=Shaw_&_Nicholson_583 />。{{仮リンク|ルクソールのオベリスク|en|Luxor Obelisks}}は本来左右2本あったが、右側の1本(高さ22.55m<ref name=Wilkinson2002_59 />)は[[1819年]]<ref name=Shaw_&_Nicholson_583 />、[[フランス]]に贈られて[[パリ]]に運ばれ、現在[[コンコルド広場]]にある<ref name=Nitta1998_29>[[#Nitta1998|仁田 (1998)]]、29頁</ref>。 |
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{{Egyptian mythology}} |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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神殿域からは[[エジプト中王国]]時代([[紀元前21世紀|紀元前2055]]-[[紀元前17世紀|1650年]]<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)<ref name=Oakes_&_Gahlin_152 />、[[エジプト第13王朝|第13王朝]](紀元前1795-1650年以降<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)の王([[ファラオ]])[[セベクヘテプ2世]]の名を記した石材が後世の遺構の基礎に再利用されていることから、この時代に何らかの建造物が存在したことが示唆される<ref name=Weigall_70>[[#Weigall|Weigall, 1996]], p. 70</ref>。その後、[[エジプト第18王朝|第18王朝]](紀元前1550-1295年<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)の[[ハトシェプスト]](在位[[紀元前15世紀|紀元前1473]]-1458年)による多くの建造物に代えて<ref name=Wilkinson2002_166 />、[[カルナック神殿]]の中心を形成する[[カルナック神殿#アメン大神殿|アメン大神殿]]の付属神殿として<ref>[[#Nitta1998|仁田 (1998)]]、28頁</ref>、[[アメンホテプ3世]](在位[[紀元前14世紀|紀元前1390]]-1352年<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)によって中心部分が建立された<ref name=Wilkinson2002_166 />。 |
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もともと[[カルナック神殿]]の中心を形成する[[カルナック神殿#アメン大神殿|アメン大神殿]]の付属神殿として<ref name="図説古代エジプト2_28">[[#図説古代エジプト2|図説 古代エジプト2 (1998)、28頁]]</ref>、[[エジプト第18王朝]](紀元前1550-1295年頃<ref name="古代エジプト百科事典599-607">[[#古代エジプト百科事典|大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)]]、599-607頁</ref>)ファラオの[[アメンホテプ3世]](紀元前1390-1352年頃<ref name="古代エジプト百科事典599-607"/>)によって中心部分が建立された<ref name="古代エジプト神殿大百科166"/>。 |
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次いでアメン神官団に対抗した息子の[[アクエンアテン]](アメンホテプ4世、在位紀元前1352-1336年<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)の時代に中断したが、アメン崇拝を復興した[[ツタンカーメン]](トゥトアンクアメン、在位紀元前1336-1327年<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)により大列柱廊([[コロネード]])が完成した<ref name=Wilkinson2002_166 /><ref name=Weigall_78>[[#Weigall|Weigall, 1996]], p. 78</ref>。そして[[ホルエムヘブ]](在位紀元前1323-[[紀元前13世紀|1295年]]<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)や[[エジプト第19王朝|第19王朝]](紀元前1295-[[紀元前12世紀|1186年]]<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)の[[セティ1世]](在位紀元前1294-1279年<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)に引き継がれた後<ref>[[#Weigall|Weigall, 1996]], p. 71</ref>、[[ラムセス2世]](在位紀元前1279-1213年<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)の拡張により、アメン大神殿に向かって神殿の軸線が東寄りに変更され、周柱式中庭(第1中庭)や{{仮リンク|塔門|en|:Pylon (architecture)}}(パイロン〈ピュロン<ref>[[#Shaw_&_Nicholson|ショー、ニコルソン 『古代エジプト百科事典』 (1997)]]、361頁</ref>〉)が建設されるとともに、カルナック神殿につながる長大な参道が構築された<ref>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、166-167頁</ref>。 |
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[[エジプト末期王朝|末期王朝]]([[紀元前747年|紀元前747]]-[[紀元前332年|332年]]<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)の時代、[[エジプト第25王朝|第25王朝]](紀元前747-[[紀元前656年|656年]]<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)の[[シャバカ]](在位[[紀元前716年|紀元前716]]-[[紀元前702年|702年]]<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)により列柱を有する[[キオスク]]が建設されたと考えられ、[[エジプト第30王朝|第30王朝]]([[紀元前380年|紀元前380]]-[[紀元前343年|343年]]<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)の[[ネクタネボ1世]](紀元前380-[[紀元前362年|362年]]<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)は塔門前の前庭を造設するとともにカルナックに至る参道を数百体の人頭[[スフィンクス]]({{仮リンク|アンドロスフィンクス|it|Androsfinge}})によって装飾した<ref>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、48・55・167頁</ref>。 |
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神殿の深部には、アメンホテプ3世および後世の[[アレクサンドロス3世]](アレクサンドロス大王、在位紀元前332-[[紀元前323年|323年]]<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)によって構築された祠堂がある<ref name=Shaw_&_Nicholson_583 /><ref>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、170頁</ref>。ローマ時代の[[3世紀]]後半から[[4世紀]]初頭には、神殿およびその周辺は軍の要塞([[カストラ]]〈カストルム〉)となり、その領域はローマ政府の基地であった<ref>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、28・48・167頁</ref>。中世には「[[城]] (The Castles) 」を意味する ''El Uksûr'' として知られるようになり、これが「ルクソール」の名称に転訛した<ref name=Weigall_70 />。 |
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=== 発掘 === |
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神殿の後方には、[[アメンホテプ3世]]および[[アレクサンドロス3世]](紀元前332-323年<ref name="古代エジプト百科事典599-607"/>)によって構築された祠堂がある<ref name="古代エジプト百科事典583">[[#古代エジプト百科事典|大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)]]、583頁</ref><ref name="古代エジプト神殿大百科170">[[#古代エジプト神殿大百科|古代エジプト神殿大百科 (2002)]]、170頁</ref>。ローマ時代には、神殿およびその周辺は軍の要塞となり、その領域はローマ政府の基地であった<ref name="古代エジプト神殿大百科167">[[#古代エジプト神殿大百科|古代エジプト神殿大百科 (2002)]]、167頁</ref>。 |
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中世よりルクソールの[[イスラム教徒]]の集団が、丘の南端、神殿およびその周辺に定住していた<ref name="Science">Science, "Excavation of the Temple of Luxor," Science, 6, no. 6 (1885): 370.</ref>。ルクソールの町の住民がそれまでルクソール神殿の周りやその上に築いた建物によって、何世紀にもわたる瓦礫が、高さおよそ15メートル(48-50フィート)の築山としてその場所に堆積していた<ref name="Science" />。 |
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[[ファイル:Abu el-Haggag R02.jpg|thumb|left|{{仮リンク|アブ・ハッジャージ・モスク|en|Abu Haggag Mosque}}]] |
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アメン大神殿とは[[スフィンクス]]の参道で結ばれていた。神殿入口となる第1塔門の前には1対の[[ラムセス2世]](紀元前1279-1213年頃<ref name="古代エジプト百科事典599-607"/>)の坐像、その手前には[[オベリスク]](高さ25メートル<ref name="古代エジプト神殿大百科59">[[#古代エジプト神殿大百科|古代エジプト神殿大百科 (2002)]]、59頁</ref>)が1本立っている<ref name="古代エジプト百科事典583">[[#古代エジプト百科事典|大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)]]、583頁</ref>。オベリスクは本来左右2本あったが、右側の1本(高さ22.55メートル<ref name="古代エジプト神殿大百科59"/>)は1819年<ref name="古代エジプト百科事典583"/>、[[フランス]]に贈られて[[パリ]]に運ばれ、現在[[コンコルド広場]]にある<ref name="図説古代エジプト2_29">[[#図説古代エジプト2|図説 古代エジプト2 (1998)、29頁]]</ref>。 |
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ルクソール神殿は、[[ガストン・マスペロ]]が作業開始にあたる任務に就いた後、[[1884年]]より発掘が開始された<ref name="Science" />。発掘はその後[[1960年]]まで散発的に行われた。長期にわたって堆積した廃物により、集落として半ばアラビア人の要地となっていた中庭や列柱廊など現在の神殿の4分の3が埋没していた。現在においては、[[13世紀]]ごろの[[イスラーム]]の聖者{{仮リンク|アブ・ハッジャージ|it|Abu al-Hajjaj}} (Abu al-Hajjaj<ref>{{Cite web |url=https://mazaratmisr.org/luxor/sayyidina-abu-al-hajaj-al-luxory/ |title=Sayyidina Abu Al-Hajaj Al-Luxory |website=Mazarat Misr |language=en |accessdate=2024-02-04}}</ref>〈エル・ハガック<ref name=Nitta1998_29 />、el-Haggag〉) のために建立された{{仮リンク|アブ・ハッジャージ・モスク|en|Abu Haggag Mosque}}({{lang-ar|[[:ar:مسجد أبي الحجاج الأقصري |مسجد أبي الحجاج الأقصري]]}} 、{{lang-en|Abu Haggag Mosque}})が<ref name=Shaw_&_Nicholson_583 /><ref>{{Cite journal |last=Chih |first=Rachida |year=1993 |title=Abu-l-Hajjaj al-Uqsuri, saint patron de Louqsor |journal=Égypte monde arabe |issue=14 |pages=67-78 |publisher=[[:fr:CEDEJ|CEDEJ]] |language=fr |eissn=2090-7273 |doi=10.4000/ema.569 |url=https://journals.openedition.org/ema/569 |format=PDF |accessdate=2024-02-04}}</ref>、ラムセス2世の中庭におよび建立されている<ref name=Nitta1998_29 />。 |
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== 神殿の構成 == |
== 神殿の構成 == |
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[[ファイル:Amun Temple in Luxor v2010.svg |
[[ファイル:Amun Temple in Luxor v2010.svg|thumb|200px|ルクソール神殿平面図]] |
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: |
: A. 至聖所 (Sanctuary of Amun) - アメンホテプ3世 |
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: |
: B. 聖舟祠堂 (Barque shrine) - アメンホテプ3世とアレクサンドロス大王 |
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: C. 「誕生の間」 (‘Birth room’) - アメンホテプ3世(中心軸部:第2前室) |
|||
: ''c.'' 三柱神の聖舟祠堂 (Barque stop 〈[[トトメス3世]]と[[ハトシェプスト]]〉 and Shrine of the Theban triade 〈ラムセス2世〉) |
|||
: D. ローマ時代の内陣 (Roman sanctuary) - 第1前室(前廊) |
|||
: ''d.'' 列柱廊 (Colonnade) - [[ツタンカーメン]]と[[ホルエムヘブ]] |
|||
: E. 列柱室 (Hypostyl hall) |
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: ''e.'' ラムセス2世の中庭 (Great Court) - 第1中庭 |
|||
: F. 第3塔門 (3rd pylon) |
|||
: ''f.'' [[キオスク]] (Kiosk) - シャバコ(シャバカ、[[w: Shabaka|Shabaka]]) |
|||
: G. 大列柱廊 (Processional colonnade) - アメンホテプ3世 |
|||
: H. 第2塔門 (2nd pylon) |
|||
; B. 聖舟祠堂 (Barque shrine) - アメンホテプ3世とアレクサンドロス大王 |
|||
: I. 第1塔門 (1st pylon) - ラムセス2世 |
|||
; C. 「誕生の間」 (“Birth room”) - (中心軸:第2前室) |
|||
: K. オベリスク (Obelisks) - ラムセス2世 |
|||
; D. ローマ時代の内陣 (Roman sanctuary) - 第1前室 |
|||
; E. 列柱室 (Hypostyl hall) |
|||
; F. 第3塔門 (3rd pylon) |
|||
; G. 大列柱廊 (Processional colonnade) - アメンホテプ3世 |
|||
; H. 第2塔門 (2nd pylon) |
|||
; I. 第1塔門 (1st pylon) - ラムセス2世 |
|||
; K. オベリスク (Obelisks) - ラムセス2世 |
|||
: a. アメン神殿 (Temple of Amun) - アメンホテプ3世 |
|||
: b. アメンホテプ3世の中庭 (Sun court) - 第2中庭 |
|||
: c. 三柱神の聖舟祠堂 (Barque stop and Shrine of the Theban triade) - ラムセス2世 |
|||
: d. 列柱廊 (Colonnade) - [[ツタンカーメン]]、[[ホルエムヘブ]] |
|||
: e. ラムセス2世の中庭 (Great Court) - 第1中庭 |
|||
: f. [[キオスク]] (Kiosk) - [[シャバカ]] |
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== 構造物 == |
== 構造物 == |
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[[ファイル: |
[[ファイル:Templo de Luxor, Luxor, Egipto, 2022-04-01, DD 02.jpg|thumb|第1塔門とオベリスク、[[ラムセス2世]]の像6体(2022年)]] |
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ルクソール神殿は、エジプト南西部のジェベル・エル=シルシラ |
ルクソール神殿は、エジプト南西部の{{仮リンク|ジェベル・エル=シルシラ|en|Gebel el-Silsila}}地域からの[[砂岩]]で建造された<ref name="Bernd">Bernd Fitzner, Kurt Heinrichs, and Dennis La Bouchardiere, "Weathering damage on Pharaonic sandstone monuments in Luxor-Egypt," Building and Environment, 38 (2003): 1089.</ref>。ジェベル・エル=シルシラ地域からの砂岩は、[[ヌビア]]砂岩と呼ばれる<ref name="Bernd" />。この砂岩は、過去から現在に至る復旧作業ばかりでなく、[[上エジプト]]における記念建造物の建設のために使用された<ref name="Bernd" />。 |
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=== オベリスク === |
=== オベリスク === |
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[[ファイル:Horeau, Hector - Luxor (2) (Zeno Fotografie).jpg|thumb|upright|塔門とラムセス2世のオベリスク(1841年)]] |
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他のエジプト建造物と共通して使われた一般的手法として、象徴的表現すなわち錯視的表現があった<ref name="Alexander"> Alexander Badawy, "Illusionism in Egyptian Architecture," Studies in the Ancient Oriental Civilization, 35 (1969): 23.</ref>。ルクソール神殿の入口に隣接する2本のオベリスク(西側の少し小さい1本は現在[[パリ]]の[[コンコルド広場]]〈Place de la Concorde〉にある)は同じ高さではなかったが、そうであるような錯覚を作り出していた<ref name="Alexander" />。神殿の配置と一体になり、それらは等しい高さであるように見えるが、錯視的表現を用いてそれが後方の壁のため同じ大きさに見えるよう、相対的な距離を増すように形作った。象徴的に、壁からの高さと距離を強調し、すでにあった従来の通路を整備した視覚的かつ空間的効果であった<ref name="Alexander" />。 |
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ほかのエジプト建造物にもよく使われた手法に、象徴的表現すなわち錯視的表現があり<ref name="Alexander"> Alexander Badawy, "Illusionism in Egyptian Architecture," Studies in the Ancient Oriental Civilization, 35 (1969): 23.</ref>、ルクソール神殿の入口に隣接する2本のオベリスク(西側の少し小さい1本は現在[[パリ]]の[[コンコルド広場]]にある)は同じ高さではなかったが、同じであるような錯覚を作り出していた<ref name="Alexander" />。神殿の配置と一体となり、それらは等しい高さであるように見えるが、錯視的表現により2本が後方の壁から同じ大きさに見えるよう、相対的な距離を増すように形成された。象徴的に壁からの高さと距離を強調し、すでにあった従来の通路を整備して生成された視覚的かつ空間的効果であった<ref name="Alexander" />。ラムセス2世の治世のアメン大神官({{lang-en-short|[[w:High Priest of Amun|High Priest of Amun]]}}){{仮リンク|バケンコンス|en|Bakenkhonsu}}によるもので、オベリスクが建立された塔門の前には庭園が設けられていた<ref name=Weigall_71-72>[[#Weigall|Weigall, 1996]], pp. 71-72</ref>。 |
|||
オベリスクの碑文には、ラメセス2世の王名が銘記され、[[父なる神|父なる]]アメン=ラーに捧げて構築したことが記される<ref>[[#Weigall|Weigall, 1996]], p. 82</ref>。パリのコンコルド広場には、このルクソール神殿から運んできたオベリスク({{仮リンク|ルクソールのオベリスク|en|Luxor Obelisks}})が設置されている<ref name=Oakes_&_Gahlin_152 />。 |
|||
[[パリ]]の[[コンコルド広場]]の中心部には、このルクソール神殿から運んできたオベリスク ([[:en:Luxor Obelisk|Luxor Obelisk]]) である「[[クレオパトラの針]]」が置かれている。 |
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<gallery widths="170"> |
<gallery widths="170"> |
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ファイル:Luxor temple entrance.JPG|ルクソール神殿に残るオベリスク(第1塔門 |
ファイル:Luxor temple entrance.JPG|ルクソール神殿に残るオベリスク(第1塔門正面左側) |
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ファイル:Place de la concorde.jpg|[[パリ]] |
ファイル:Place de la concorde.jpg|[[パリ]]、[[コンコルド広場]]のオベリスク |
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</gallery> |
</gallery> |
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== |
=== 第1塔門 === |
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[[ファイル:LuxorTemplePylonBattleR2.jpg|thumb|戦車に乗り[[カデシュ]]を攻撃するラムセス2世<ref>[[#Weigall|Weigall, 1996]], p. 83</ref>]] |
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[[ファイル:Abu el-Haggag R02.jpg|thumb|250px|アブ・エル=ハッジャージのモスク]] |
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ラムセス2世のもとバケンコンスにより建設された<ref name=Weigall_71-72 />高さ24メートル、幅65メートルの大きな塔門が<ref name=explore>{{Cite web |url=https://exploreluxor.org/luxor-temple/ |title=Luxor Temple |website=Explore Luxor |language=en |accessdate=2024-02-04}}</ref>、参道からの入口に構築されている。塔門の内部の詰め石には[[カルナック神殿#アメンホテプ4世の神殿|アテン神殿]]({{仮リンク|ゲム・パ・アテン (カルナック)|de|Gem-pa-Aton (Karnak)|label=ゲム・パ・アテン}})の砂岩ブロック({{仮リンク|タラタート|en|Talatat}})が使用されていた<ref name=Shaw_&_Nicholson_583 />。正面両側には6体のラムセス2世像があり、2体の座像とともに4体の立像が<ref name=Wilkinson2002_168>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、168頁</ref><ref>{{Cite web |url=https://ancientegyptonline.co.uk/luxortemple/ |title=Luxor temple |website=Ancient Egypt Online |last=Hill |first=Jenny |year=2010 |accessdate=2024-02-04}}</ref>、修復されて備えられている<ref>{{Cite news |title=Controversy hits newly restored Ramses II colossus at Luxor Temple |newspaper=[[アルアハラム|ahram online]] |date=2019-04-24 |author=Nevine El-Aref |url=https://english.ahram.org.eg/NewsContent/9/40/330442/Antiquities/Ancient-Egypt/Controversy-hits-newly-restored-Ramses-II-colossus.aspx |language=en |accessdate=2024-02-04}}</ref>。塔門の外壁はラムセス2世と[[ヒッタイト]]との「[[カデシュの戦い]]」(紀元前1274年頃<ref>[[#Shaw_&_Nicholson|ショー、ニコルソン、『古代エジプト百科事典』 (1997)]]、118頁</ref>)の場面を描く[[レリーフ]]により装飾された<ref name=Oakes_&_Gahlin_152 />。また、内壁には第25王朝時代の王[[シャバカ]]による浮き彫りが施された<ref name=Wilkinson2002_168 />。 |
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中世よりルクソールの[[イスラム教徒]]の集団が、丘の南端、神殿およびその周辺に定住していた<ref name="Science">Science, "Excavation of the Temple of Luxor," Science, 6, no. 6 (1885): 370.</ref>。ルクソールの町の住民がそれまでルクソール神殿の周りやその上に築いた建物によって、何世紀にもわたる瓦礫が、高さおよそ15メートル(48-50フィート)の築山としてその場所に堆積していた<ref name="Science" />。ルクソール神殿は、[[ガストン・マスペロ]]教授が、作業を開始する任務を与えられた後、1884年より発掘が始められていった<ref name="Science" />。その発掘は1960年まで散発的に行われた。長期にわたって、長い年月堆積した廃物が、現代集落の半分をアラビア人の実際の中核部分としていた中庭や列柱廊など現在の神殿の4分の3を埋没させていた。現在においては、13世紀頃の[[イスラーム]]の聖者エル=ハッジャージ(エル・ハガック)のために建立されたアブ・エル=ハッジャージ (Abu el-Haggag) のモスクが、ラムセス2世の中庭におよんでいる<ref name="古代エジプト百科事典583"/><ref name="図説古代エジプト2_29"/>。 |
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=== ラムセス2世の中庭 === |
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== 画像 == |
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[[ファイル:Egypt.LuxorTemple.02.jpg|thumb|upright|第1中庭のラムセス2世像]] |
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ファイル:Luxor |
[[ファイル:Templo de Luxor, Luxor, Egipto, 2022-04-01, DD 30.jpg|thumb|ラムセス2世座像と[[アメンホテプ3世]]の大列柱廊]] |
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[[ファイル:Templo de Luxor, Luxor, Egipto, 2022-04-01, DD 52.jpg|thumb|[[ハピ]]が[[スイレン属|ロータス]]と[[カミガヤツリ|パピルス]]を結ぶラムセス2世[[玉座]]側面の[[レリーフ]]]] |
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ファイル:Columns at Luxor Temple.JPG|ラムセス2世の中庭 |
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塔門を通過すると、2重の未開花(閉花)式パピルス柱に囲まれた中庭が広がる。この中庭の第1塔門背面部の一角には同じくラムセス2世により{{仮リンク|テーベ三柱神|en|Theban Triad}}の[[アメン]]、[[ムト]]、[[コンス]]の聖舟祠堂が備えられた。当初、この三柱神の聖舟祠堂の位置には[[ハトシェプスト]]による聖舟「中継所」(祠堂<ref name=Nitta1998_29 />)が、神殿の外部にあった。中庭はパピルス柱に囲まれる反対側の一角には13世紀に建てられた{{仮リンク|アブ・ハッジャージ・モスク|en|Abu Haggag Mosque}}が組み込まれている<ref>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、167-169・171頁</ref>。当時は中庭全体がアラブ人の集落により占拠されていた。 |
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ファイル:Luxor-Tempel 34.jpg|アメンホテプ3世の中庭 |
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ファイル:Luxor Tempel 24.jpg|ローマ時代の壁龕<br/>(塞がれた至聖所に通じる入口) |
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中庭を取り囲む列柱の間にはラムセス2世像が立ち、王妃[[ネフェルタリ]]らの小像が添えられている<ref name=Oakes_&_Gahlin_152 /><ref name=Weigall_81>[[#Weigall|Weigall, 1996]], p. 81</ref>。アメンホテプ3世の大列柱廊の前面(第2塔門)には2体の座像が配置される<ref>[[#Oakes_&_Gahlin|Oakes & Gahlin (2003)]], pp. 152-153</ref>。[[花崗岩]]による2体のラムセス2世のうち東側の[[玉座]]には<ref name=Weigall_81 />、[[ナイル]]の神[[ハピ]]が<ref>[[#Shaw_&_Nicholson|ショー、ニコルソン、『古代エジプト百科事典』 (1997)]]、423-424頁</ref>[[スイレン属|ロータス]](上エジプト)と[[カミガヤツリ|パピルス]](下エジプト)を結び、[[上下エジプト]]の結合を象徴する意匠が装飾されており<ref name=Oakes_&_Gahlin_153>[[#Oakes_&_Gahlin|Oakes & Gahlin (2003)]], p. 153</ref>、それら君主の足元にはネフェルタリの肖像が描出される<ref name=Weigall_81 /><ref name=Wilkinson2002_167>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、167頁</ref>。 |
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ファイル:Templo de Luxor, Luxor, Egipto, 2022-04-01, DD 32.jpg|{{仮リンク|テーベ三柱神|en|Theban Triad|label=三柱神}}の聖舟祠堂 |
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ファイル:Columns at Luxor Temple.JPG|ラムセス2世の周柱式中庭 |
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ファイル:Der Amon Tempel von Karnak bei Luxor. Eg2010 616BEWI.jpg|未開花式パピルス柱 |
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</gallery> |
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=== 大列柱廊 === |
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ラムセス2世の中庭より第2塔門入口を過ぎると、高さ17メートル(19m余り<ref name=Wilkinson2002_168 />)の巨大な開花式パピルス柱14本が2列に並ぶアメンホテプ3世の大列柱廊がある<ref>[[#Nitta1998|仁田 (1998)]]、29・32頁</ref>。カルナック神殿の大列柱室の原型となるもので、装飾は[[ツタンカーメン]]のもとで行われた<ref>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、168-169頁</ref>。入口には王ツタンカーメンと王妃[[アンケセナーメン]](アンクエスエンアメン)<ref>[[#Nitta2005|仁田 (2005)]]、80頁</ref>を模した<ref>[[#Yamahana|山花 (2010)]]、51頁</ref>アメンとムトの座像がある<ref>{{Cite web |和書 |url=https://luxortemple.mused.org/ja/items/149728/amuntomutonoda-kinadaiado |title=アムンとムトの大きなダイアド |website=ルクソール神殿 シカゴ・ハウスにおける碑文調査 |publisher=Chicago House Research Institute |accessdate=2024-02-04}}</ref>。列柱廊の壁面には例年のオペト祭の模様が帯状にレリーフ装飾されており<ref name=Shaw_&_Nicholson_583 /><ref>[[#Kawai|河合 (2017)]]、50-51・61頁</ref>、西壁側からはカルナックからルクソールに向かう往路が描かれ<ref>{{Cite web |和書 |url=https://luxortemple.mused.org/ja/items/149849/karunatsukukararukusoruhenoyi-shi-yong-hashikenoxing-lie-nisui-xing-suruzhu-ji-noren-pureto17noxiang-xi |title=カルナックからルクソールへの儀式用はしけの行列に随行する祝祭の人々: プレート17の詳細 |website=ルクソール神殿 シカゴ・ハウスにおける碑文調査 |publisher=Chicago House Research Institute |accessdate=2024-02-04}}</ref>、東壁には復路の様子が描かれた<ref name=Oakes_&_Gahlin_153 /><ref>{{Cite web |和書 |url=https://luxortemple.mused.org/ja/items/149744/di-7hua-amenxian-zai-hashi-wareteiru-konsu-muto-wang-nofei-esheng-totomonirukusorushen-dian-wochu-fa-suruwang |title=第7話: アメン(現在は失われている)、コンス、ムート、王の吠え声とともにルクソール神殿を出発する王 |website=ルクソール神殿 シカゴ・ハウスにおける碑文調査 |publisher=Chicago House Research Institute |accessdate=2024-02-04}}</ref><ref>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、169頁</ref>。その後[[ホルエムヘブ]]が列柱廊を自身のものとして<ref name=Shaw_&_Nicholson_583 />、以前の王名([[カルトゥーシュ]])を置き換えた<ref name=Weigall_78 /><ref name=explore />。 |
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ファイル:Luxor-Tempel Statuen Amun Mut 04.jpg|[[ツタンカーメン]]と[[アンケセナーメン]]([[アメン]]と[[ムト]])座像 |
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ファイル:Egypte Louxor Temple Cour Ramses 15032012 - panoramio.jpg|王の座像とアメンとムトの小座像<ref>{{Cite web |和書 |url=https://luxortemple.mused.org/ja/items/149778/wang-nozuo-xiang-a-itoamuntomutonoxiao-er-tou-xiang-b |title=王の座像(A-I)とアムンとムトの小二頭像(B) |website=ルクソール神殿 シカゴ・ハウスにおける碑文調査 |publisher=Chicago House Research Institute |accessdate=2024-02-04}}</ref><ref>{{Cite web |和書 |url=https://luxortemple.mused.org/ja/items/149828/amuntomutonoxiao-sanadaiado |title=アムンとムトの小さなダイアド |website=ルクソール神殿 シカゴ・ハウスにおける碑文調査 |publisher=Chicago House Research Institute |accessdate=2024-02-04}}</ref> |
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ファイル:Luxor temple27.JPG|アメンホテプ3世の大列柱廊 |
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</gallery> |
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=== アメンホテプ3世の中庭 === |
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[[ファイル:Luxor-Tempel 34.jpg|thumb|アメンホテプ3世の周柱式中庭]] |
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この中庭はアメンホテプ3世の当初の建設にさかのぼるもので、大列柱廊の追加以前には、中庭の北端に構築されていた門(第3塔門)が神殿の入口であった<ref name=Weigall_74>[[#Weigall|Weigall, 1996]], p. 74</ref>。「太陽の中庭 (Sun Court) 」とも称され、アレクサンドロス大王の時代まで装飾が施された。側壁の一部にかつての彩色が残存する<ref>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、169-170頁</ref>。 |
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[[1989年]]、アメンホテプ3世の周柱式中庭の西側の床下より、多くの彫像の「隠し場」が発見された。発掘された深い埋納坑からは、第18王朝のものを主体に<ref>[[#Shaw_&_Nicholson|ショー、ニコルソン 『古代エジプト百科事典』 (1997)]]、583-584頁</ref>[[プトレマイオス朝]]時代(紀元前332-[[紀元前32年|32年]]<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)にかけての多様な彫像が発見され、約半数の彫像は良好な状態で保存されていた<ref>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、64・170頁</ref>。これらは神官らが彫像を侵略者の略奪から守るために埋めたと捉えられるほか<ref>[[#Shaw_&_Nicholson|ショー、ニコルソン 『古代エジプト百科事典』 (1997)]]、584頁</ref>、[[4世紀]]初頭に[[ローマ皇帝]]崇拝の拠点となった際に不要となった彫像を埋納したとも考えられる<ref>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、64頁</ref>。 |
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=== 列柱室 === |
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中庭の南側には、柱が4列に8本並ぶ<ref name=Weigall_74 />32本の未開花式パピルス柱により構成される列柱室があり<ref name=Oakes_&_Gahlin_153 />、次いで8本の柱を備えた前廊(第1前室)があった。前廊の両側にはムト(東側<ref name=Weigall_75>[[#Weigall|Weigall, 1996]], p. 75</ref>)とコンス(西側<ref name=Weigall_75 />)の礼拝堂があり、小列柱室となる前廊よりさらに神殿奥の聖舟祠堂・至聖所へと通じていた<ref>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、170頁</ref>。 |
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=== ローマ時代の内陣 === |
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[[ファイル:Luxor Tempel 24.jpg|thumb|upright|ローマ支配時代の礼拝堂の[[壁龕]](後陣、[[アプス]])<br />(塞がれた至聖所の入口)]] |
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本来、神殿の奥につながっていた前廊(第1前室)は、[[ローマ軍団]]の駐屯により[[ローマ皇帝]]崇拝の礼拝堂となった<ref name=Wilkinson2002_170>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、170頁</ref>。8本の柱は取り壊され、奥の至聖所に向かう入口は[[壁龕]](後陣、[[アプス]])の構築により塞がれた<ref name=mused_fortress>{{Cite web |url=https://luxortemple.mused.org/en/stories/130/the-roman-occupation-and-fortress-at-luxor-temple |title=The Roman Occupation and Fortress at Luxor Temple |website=Luxor Temple: The Epigraphic Survey at Chicago House |publisher=Chicago House Research Institute |accessdate=2024-02-04}}</ref>。壁龕の両側に2本の花崗岩の<ref name=Weigall_74 />[[コリント式]]円柱が施されている<ref name=Wilkinson2002_167 />。第18王朝の壁面レリーフの上に[[フレスコ画]]による装飾がなされ、フレスコの剥がれた部分にかつてのレリーフ装飾が見られる<ref>{{Cite book |title=Digital Epigraphy |edition=Second Edition |date=2018-09-24 |publisher=[[エジプト博物館 (トリノ)|Museo Egizio]] |language=en |chapter=7 - Ongoing Projects: Luxor Temple - Roman Fresco Studies |chapterurl=https://www.digital-epigraphy.com/publications/digital-epigraphy-second-edition-by-krisztian-vertes-and-the-epigraphic-survey/chapter-7-ongoing-projects/luxor-temple-roman-fresco-studies |accessdate=2024-02-04}}</ref>。奥行き {{convert|1.5|m|ft|0}} の後陣の壁龕上部に描かれたフレスコによる4人の肖像画は、[[ディオクレティアヌス]](在位[[284年|284]]-[[305年]]<ref name=Shaw_&_Nicholson_599-607 />)による四分統治([[テトラルキア]])の4人を描いたものといわれる<ref name=mused_fortress />。塞がれた後陣壁龕部にはその後、王による供物奉献広間<ref name=Wilkinson2002_170-171>[[#Wilkinson2002|ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)]]、170-171頁</ref>に通じる狭い入口が開けられた。 |
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<gallery widths="170"> |
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ファイル:Luxor Tempel 25.jpg|ローマ時代の[[フレスコ画]] |
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ファイル:Luxor Tempel 28.jpg|壁龕上部と4肖像のフレスコ画 |
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</gallery> |
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=== アメンホテプ3世の「誕生の間」 === |
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[[ファイル:Sanctuary of Luxor Temple from inside.jpg|thumb|アメンホテプ3世の「誕生の間」]] |
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聖舟祠堂の東側に位置し、西壁のレリーフ装飾には、神アメンによる王アメンホテプ3世の母[[ムテムウィヤ]]([[トトメス4世]]の妻)の妊娠と王の誕生に続き、生まれた王がアメンに披露され、諸神に養われた神の子として、将来[[ファラオ]]となる場面などが描かれる<ref name=Oakes_&_Gahlin_153 /><ref>[[#Weigall|Weigall, 1996]], pp. 75-76</ref>。オペト祭においては、この「誕生の間」で神(神妻)と王(ファラオ)の「聖婚」儀礼が行われ<ref name=Wilkinson2002_170 />、王は神と融合して大神アメン(アメン=ラー)の子に転生した<ref>{{Cite web |url=https://luxortemple.mused.org/en/stories/127/the-opet-festival-rejuvenation-of-the-gods |title=The Opet Festival: Rejuvenation of the Gods |website=Luxor Temple: The Epigraphic Survey at Chicago House |publisher=Chicago House Research Institute |accessdate=2024-02-04}}</ref>。 |
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=== 聖舟祠堂と至聖所 === |
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[[ファイル:Luxor-Tempel Alexandersanktuar 24.jpg|thumb|upright|[[アレクサンドロス3世]]の祠堂]] |
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例年のオペト祭により到着した三柱神の聖舟は、外側の聖舟祠堂で中継された後、神殿の深部に運ばれて大祭の宗教儀礼が行われていった<ref name=Wilkinson2002_170-171 />。壁面には諸神とともにいるアメンホテプ3世が見られる<ref name=Weigall_76 />。アメンホテプ3世により神殿の最奥部に造られた至聖所には、主神像が中心軸の台座上に安置されていた<ref name=Bosch-Puche_55>[[#Bosch-Puche|Bosch-Puche, 2011]], p. 55</ref>。当初は四角形の広間で、床面に柱の基部が認められるが、その後、内側にアレクサンドロス3世により<ref name=Wilkinson2002_170 />、砂岩の祠堂(もしくはナオス、naos<ref name=Weigall_76>[[#Weigall|Weigall, 1996]], p. 76</ref>〈[[セラ (建築)|セラ]]〉)が建立され<ref name=Bosch-Puche_55 />、壁面に[[ファラオ]]の姿をした大王の一連の装飾が施されている<ref name=Wilkinson2002_170 />。祠堂は7.8×5.2メートルの長方形で南北に入口がある<ref name=Nakamura_89>[[#Nakamura|中村 (2021)]]、89</ref>。 |
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ファイル:Luxor-Tempel-28-Relief-Min beschaedigt-1982-gje.jpg|[[アメン]]の前に立つ[[ファラオ]]の姿の[[アレクサンドロス大王]]<ref name=Wilkinson2002_170 /> |
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ファイル:Tempio di Luxor, Alessandro Magno, accompagnato da Horo (Ra-Horakhty) è condotto al cospetto di Amon.jpg|[[モンチュ]](モンチュ=ラー)に伴われアメン(アメン=ラー)の前に招かれるアレクサンドロス大王<ref name=Nakamura_89 /><ref>[[#Bosch-Puche|Bosch-Puche, 2011]], p. 59</ref> |
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</gallery> |
</gallery> |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書 | |
* {{Cite book |和書 |author1=イアン・ショー |authorlink1=w:Ian Shaw (Egyptologist) |author2=ポール・ニコルソン |translator=内田杉彦 |title=大英博物館 古代エジプト百科事典 |origyear=1995 |year=1997 |publisher=[[原書房]] |isbn=4-562-02922-6 |ref=Shaw_&_Nicholson}} |
||
* {{Cite book|和書 |author=リチャード・H・ウィルキンソン |translator=内田杉彦 |
* {{Cite book |和書 |author=リチャード・H・ウィルキンソン |authorlink1=w:Richard H. Wilkinson |translator=内田杉彦 |title=古代エジプト神殿大百科 |origyear=2000 |year=2002 |publisher=[[東洋書林]] |isbn=4-88721-580-0 |ref=Wilkinson2002}} |
||
* {{Cite book|和書 |author=仁田三夫 | |
* {{Cite book |和書 |author=仁田三夫 |authorlink=仁田三夫 |title=図説 古代エジプト 2 「王家の谷と神々の遺産」篇 |year=1998 |publisher=[[河出書房新社]] |isbn=978-4-309-72578-9|ref=Nitta1998}} |
||
* {{Cite book |和書 |author=仁田三夫 |title=図説 ツタンカーメン王 |year=2005 |publisher=河出書房新社 |isbn=4-309-76058-9|ref=Nitta2005}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=山花京子 |title=古代エジプトの歴史 - 新王国時代からプトレマイオス朝時代まで |year=2010 |publisher=[[慶應義塾大学出版会]] |isbn=978-4-7664-1765-4|ref=Yamahana}} |
|||
* {{Cite journal |和書 |author=河合望 |date=2017-03-13 |title=トゥトアンクアメン(ツタンカーメン)王時代のエジプト |journal=エジプト学研究セミナー |pages=41-62 |publisher=関西大学国際文化財・文化研究センター |isbn=978-4-946421-54-9 |doi=10.32286/0002000386 |url=https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/2000386 |format=PDF |accessdate=2024-02-04 |ref=Kawai}} |
|||
* {{Cite journal |和書 |author=中村友代 |date=2021-03-05 |title=ルクソール神殿の聖舟祠堂における アレクサンドロスの肖像表現に関する一考察 |journal=実践女子大学美學美術史學 |volume=35 |pages=87-95 |publisher=[[実践女子大学]] |issn=09122044 |doi=10.34388/1157.00002180 |url=https://jissen.repo.nii.ac.jp/records/2248 |format=PDF |accessdate=2024-02-04 |ref=Nakamura}} |
|||
* {{Cite book |last=Weigall |first=Arthur E. P. |authorlink=w:Arthur Weigall |title=A Guide to the Antiquities of Upper Egypt |origyear=1910 |year=1996 |publisher=Bracken Books |location=London |isbn=0-09-185047-9 |ref=Weigall}} |
|||
* {{Cite book |last1=Oakes |first1=Lorna |last2=Gahlin |first2=Lucia |title=Ancient Egypt: An Illustrated Reference to the Myths, Religions, Pyramids and Temples of the Land of the Pharaohs |year=2003 |publisher=[[バーンズ・アンド・ノーブル|Barnes & Noble]] |isbn=0-7607-4943-4 |ref=Oakes_&_Gahlin}} |
|||
* {{Cite book |last=Bosch-Puche |first=Francisco |date=2011-11 |title=Alexander the Great's Egyptian Names in the Barque Shrine at Luxor Temple |journal=Alexander the Great and Egypt: History, Art, Tradition |pages=55-87 |url=https://www.academia.edu/3060105/Alexander_the_Great_s_Egyptian_Names_in_the_Barque_Shrine_at_Luxor_Temple |format=PDF |accessdate=2024-02-04 |ref=Bosch-Puche}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[カルナック神殿]] |
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* {{仮リンク|オペト祭|en|Opet Festival}} |
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* [[ルクソール]] |
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* [[オベリスク]] |
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** {{仮リンク|ルクソールのオベリスク|en|Luxor Obelisks}} |
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** [[コンコルド広場]] |
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* [[丁錦昊事件]] |
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== 外部リンク == |
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{{Commonscat|Luxor Temple}} |
{{Commonscat|Luxor Temple}} |
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* {{Citation |和書 |url=https://luxortemple.mused.org/ja/ |title=ルクソール神殿 シカゴ・ハウスにおける碑文調査 |publisher=シカゴハウス研究所}} |
|||
*[[カルナック神殿]] |
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*[[ルクソール]] |
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{{coord|25|42|0|N|32|38|21|E|scale:2500|display=title}} |
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*[[オベリスク]] |
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*[[コンコルド広場]] |
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**[[クレオパトラの針]] |
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*[[丁錦昊事件]] |
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{{古代エジプトの主要建築物}} |
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{{ |
{{デフォルトソート:るくそおるしんてん}} |
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[[Category:ルクソール]] |
[[Category:ルクソール]] |
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[[Category:古代エジプトの信仰]] |
[[Category:古代エジプトの信仰]] |
2024年2月18日 (日) 14:59時点における版
ルクソール神殿 | ||||||||
第1塔門とオベリスク(2011年) | ||||||||
遺跡 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
種類 | 神殿 (Temple) 複合体 | |||||||
所在地 | エジプト ルクソール県ルクソール(東岸) | |||||||
地図 | ||||||||
ヒエログリフ名 |
| |||||||
主祭神 | アメン(アメン=カムテフ) | |||||||
歴史 | ||||||||
着工 | 第18王朝時代[1] | |||||||
増改築 | ギリシア・ローマ時代まで[1] |
ルクソール神殿(ルクソールしんでん、アラビア語: معبد الأقصر、英語: Luxor Temple)は、エジプトのルクソール(古代のテーベ)東岸にある古代エジプト時代の神殿である。
古代エジプトにおいてイペト=レスィト(Ipet-resyt[2][3]「南の専用神殿」「南の後宮」)とされた神殿であり、アメン(アメン=カムテフ〈「自らの母親の雄牛なるアメン」〉[4])に捧げられたアメン=カムテフ神殿であった[5]。カムテフ(「自らの母親の雄牛」)は、アメンと豊饒神ミンが習合した神の形容辞(形容語句)として新王国時代(紀元前1550-1069年[6])以降に使われた[7]。この神はアメンエムオペ(「オペトのアメン」)とも称され、神殿は「南のオペト(隔絶された場所)」とされた[8]。
新王国(第18王朝-第20王朝)時代には毎年、アケト(氾濫季)の第2月にオペト祭が約2-4週間にわたり行なわれ、カルナックのアメン大神殿より大神アメン(アメン=ラー)の神像がムト、コンスを伴い、儀式用の聖舟(バーク)に乗り、三柱神は2キロメートル余り (3km〈2mi〉[3]) 離れた南端のルクソールの神殿を往復した[9]。
ルクソール神殿とカルナックのアメン大神殿とはスフィンクス参道(ドロモス[10])で結ばれていた。神殿入口となる第1塔門の前には1対のラムセス2世の座像(倚像、いぞう)、手前にはオベリスク(高さ25.00m[11])が1本立っている[5]。ルクソールのオベリスクは本来左右2本あったが、右側の1本(高さ22.55m[11])は1819年[5]、フランスに贈られてパリに運ばれ、現在コンコルド広場にある[12]。
エジプト神話 |
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太陽神 |
ラー (ケプリ) アメン(アモン) - アテン |
エネアド (ヘリオポリス) |
ラー (ケプリ) ヌン - アトゥム シュー - テフヌト ゲブ - ヌト オシリス - イシス セト - ネフティス (ホルス - アヌビス) |
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アメン(アモン) - ムト (モンチュ - アテン) |
その他 |
ネイト - クヌム - バステト セベク - レネネト ハトホル - コンス |
主な神殿・史跡 |
タップ・オシリス・マグナ神殿 デンデラ神殿複合体 カルナック神殿 ルクソール神殿 エドフ神殿 コム・オンボ神殿 フィラエ神殿 アブ・シンベル神殿 |
歴史
神殿域からはエジプト中王国時代(紀元前2055-1650年[6])[3]、第13王朝(紀元前1795-1650年以降[6])の王(ファラオ)セベクヘテプ2世の名を記した石材が後世の遺構の基礎に再利用されていることから、この時代に何らかの建造物が存在したことが示唆される[13]。その後、第18王朝(紀元前1550-1295年[6])のハトシェプスト(在位紀元前1473-1458年)による多くの建造物に代えて[1]、カルナック神殿の中心を形成するアメン大神殿の付属神殿として[14]、アメンホテプ3世(在位紀元前1390-1352年[6])によって中心部分が建立された[1]。
次いでアメン神官団に対抗した息子のアクエンアテン(アメンホテプ4世、在位紀元前1352-1336年[6])の時代に中断したが、アメン崇拝を復興したツタンカーメン(トゥトアンクアメン、在位紀元前1336-1327年[6])により大列柱廊(コロネード)が完成した[1][15]。そしてホルエムヘブ(在位紀元前1323-1295年[6])や第19王朝(紀元前1295-1186年[6])のセティ1世(在位紀元前1294-1279年[6])に引き継がれた後[16]、ラムセス2世(在位紀元前1279-1213年[6])の拡張により、アメン大神殿に向かって神殿の軸線が東寄りに変更され、周柱式中庭(第1中庭)や塔門(パイロン〈ピュロン[17]〉)が建設されるとともに、カルナック神殿につながる長大な参道が構築された[18]。
末期王朝(紀元前747-332年[6])の時代、第25王朝(紀元前747-656年[6])のシャバカ(在位紀元前716-702年[6])により列柱を有するキオスクが建設されたと考えられ、第30王朝(紀元前380-343年[6])のネクタネボ1世(紀元前380-362年[6])は塔門前の前庭を造設するとともにカルナックに至る参道を数百体の人頭スフィンクス(アンドロスフィンクス)によって装飾した[19]。
神殿の深部には、アメンホテプ3世および後世のアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王、在位紀元前332-323年[6])によって構築された祠堂がある[5][20]。ローマ時代の3世紀後半から4世紀初頭には、神殿およびその周辺は軍の要塞(カストラ〈カストルム〉)となり、その領域はローマ政府の基地であった[21]。中世には「城 (The Castles) 」を意味する El Uksûr として知られるようになり、これが「ルクソール」の名称に転訛した[13]。
発掘
中世よりルクソールのイスラム教徒の集団が、丘の南端、神殿およびその周辺に定住していた[22]。ルクソールの町の住民がそれまでルクソール神殿の周りやその上に築いた建物によって、何世紀にもわたる瓦礫が、高さおよそ15メートル(48-50フィート)の築山としてその場所に堆積していた[22]。
ルクソール神殿は、ガストン・マスペロが作業開始にあたる任務に就いた後、1884年より発掘が開始された[22]。発掘はその後1960年まで散発的に行われた。長期にわたって堆積した廃物により、集落として半ばアラビア人の要地となっていた中庭や列柱廊など現在の神殿の4分の3が埋没していた。現在においては、13世紀ごろのイスラームの聖者アブ・ハッジャージ (Abu al-Hajjaj[23]〈エル・ハガック[12]、el-Haggag〉) のために建立されたアブ・ハッジャージ・モスク(アラビア語: مسجد أبي الحجاج الأقصري 、英語: Abu Haggag Mosque)が[5][24]、ラムセス2世の中庭におよび建立されている[12]。
神殿の構成
- A. 至聖所 (Sanctuary of Amun) - アメンホテプ3世
- B. 聖舟祠堂 (Barque shrine) - アメンホテプ3世とアレクサンドロス大王
- C. 「誕生の間」 (‘Birth room’) - アメンホテプ3世(中心軸部:第2前室)
- D. ローマ時代の内陣 (Roman sanctuary) - 第1前室(前廊)
- E. 列柱室 (Hypostyl hall)
- F. 第3塔門 (3rd pylon)
- G. 大列柱廊 (Processional colonnade) - アメンホテプ3世
- H. 第2塔門 (2nd pylon)
- I. 第1塔門 (1st pylon) - ラムセス2世
- K. オベリスク (Obelisks) - ラムセス2世
- a. アメン神殿 (Temple of Amun) - アメンホテプ3世
- b. アメンホテプ3世の中庭 (Sun court) - 第2中庭
- c. 三柱神の聖舟祠堂 (Barque stop and Shrine of the Theban triade) - ラムセス2世
- d. 列柱廊 (Colonnade) - ツタンカーメン、ホルエムヘブ
- e. ラムセス2世の中庭 (Great Court) - 第1中庭
- f. キオスク (Kiosk) - シャバカ
構造物
ルクソール神殿は、エジプト南西部のジェベル・エル=シルシラ地域からの砂岩で建造された[25]。ジェベル・エル=シルシラ地域からの砂岩は、ヌビア砂岩と呼ばれる[25]。この砂岩は、過去から現在に至る復旧作業ばかりでなく、上エジプトにおける記念建造物の建設のために使用された[25]。
オベリスク
ほかのエジプト建造物にもよく使われた手法に、象徴的表現すなわち錯視的表現があり[26]、ルクソール神殿の入口に隣接する2本のオベリスク(西側の少し小さい1本は現在パリのコンコルド広場にある)は同じ高さではなかったが、同じであるような錯覚を作り出していた[26]。神殿の配置と一体となり、それらは等しい高さであるように見えるが、錯視的表現により2本が後方の壁から同じ大きさに見えるよう、相対的な距離を増すように形成された。象徴的に壁からの高さと距離を強調し、すでにあった従来の通路を整備して生成された視覚的かつ空間的効果であった[26]。ラムセス2世の治世のアメン大神官(英: High Priest of Amun)バケンコンスによるもので、オベリスクが建立された塔門の前には庭園が設けられていた[27]。
オベリスクの碑文には、ラメセス2世の王名が銘記され、父なるアメン=ラーに捧げて構築したことが記される[28]。パリのコンコルド広場には、このルクソール神殿から運んできたオベリスク(ルクソールのオベリスク)が設置されている[3]。
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ルクソール神殿に残るオベリスク(第1塔門正面左側)
第1塔門
ラムセス2世のもとバケンコンスにより建設された[27]高さ24メートル、幅65メートルの大きな塔門が[30]、参道からの入口に構築されている。塔門の内部の詰め石にはアテン神殿(ゲム・パ・アテン)の砂岩ブロック(タラタート)が使用されていた[5]。正面両側には6体のラムセス2世像があり、2体の座像とともに4体の立像が[31][32]、修復されて備えられている[33]。塔門の外壁はラムセス2世とヒッタイトとの「カデシュの戦い」(紀元前1274年頃[34])の場面を描くレリーフにより装飾された[3]。また、内壁には第25王朝時代の王シャバカによる浮き彫りが施された[31]。
ラムセス2世の中庭
塔門を通過すると、2重の未開花(閉花)式パピルス柱に囲まれた中庭が広がる。この中庭の第1塔門背面部の一角には同じくラムセス2世によりテーベ三柱神のアメン、ムト、コンスの聖舟祠堂が備えられた。当初、この三柱神の聖舟祠堂の位置にはハトシェプストによる聖舟「中継所」(祠堂[12])が、神殿の外部にあった。中庭はパピルス柱に囲まれる反対側の一角には13世紀に建てられたアブ・ハッジャージ・モスクが組み込まれている[35]。当時は中庭全体がアラブ人の集落により占拠されていた。
中庭を取り囲む列柱の間にはラムセス2世像が立ち、王妃ネフェルタリらの小像が添えられている[3][36]。アメンホテプ3世の大列柱廊の前面(第2塔門)には2体の座像が配置される[37]。花崗岩による2体のラムセス2世のうち東側の玉座には[36]、ナイルの神ハピが[38]ロータス(上エジプト)とパピルス(下エジプト)を結び、上下エジプトの結合を象徴する意匠が装飾されており[39]、それら君主の足元にはネフェルタリの肖像が描出される[36][40]。
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三柱神の聖舟祠堂
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ラムセス2世の周柱式中庭
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未開花式パピルス柱
大列柱廊
ラムセス2世の中庭より第2塔門入口を過ぎると、高さ17メートル(19m余り[31])の巨大な開花式パピルス柱14本が2列に並ぶアメンホテプ3世の大列柱廊がある[41]。カルナック神殿の大列柱室の原型となるもので、装飾はツタンカーメンのもとで行われた[42]。入口には王ツタンカーメンと王妃アンケセナーメン(アンクエスエンアメン)[43]を模した[44]アメンとムトの座像がある[45]。列柱廊の壁面には例年のオペト祭の模様が帯状にレリーフ装飾されており[5][46]、西壁側からはカルナックからルクソールに向かう往路が描かれ[47]、東壁には復路の様子が描かれた[39][48][49]。その後ホルエムヘブが列柱廊を自身のものとして[5]、以前の王名(カルトゥーシュ)を置き換えた[15][30]。
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アメンホテプ3世の大列柱廊
アメンホテプ3世の中庭
この中庭はアメンホテプ3世の当初の建設にさかのぼるもので、大列柱廊の追加以前には、中庭の北端に構築されていた門(第3塔門)が神殿の入口であった[52]。「太陽の中庭 (Sun Court) 」とも称され、アレクサンドロス大王の時代まで装飾が施された。側壁の一部にかつての彩色が残存する[53]。
1989年、アメンホテプ3世の周柱式中庭の西側の床下より、多くの彫像の「隠し場」が発見された。発掘された深い埋納坑からは、第18王朝のものを主体に[54]プトレマイオス朝時代(紀元前332-32年[6])にかけての多様な彫像が発見され、約半数の彫像は良好な状態で保存されていた[55]。これらは神官らが彫像を侵略者の略奪から守るために埋めたと捉えられるほか[56]、4世紀初頭にローマ皇帝崇拝の拠点となった際に不要となった彫像を埋納したとも考えられる[57]。
列柱室
中庭の南側には、柱が4列に8本並ぶ[52]32本の未開花式パピルス柱により構成される列柱室があり[39]、次いで8本の柱を備えた前廊(第1前室)があった。前廊の両側にはムト(東側[58])とコンス(西側[58])の礼拝堂があり、小列柱室となる前廊よりさらに神殿奥の聖舟祠堂・至聖所へと通じていた[59]。
ローマ時代の内陣
本来、神殿の奥につながっていた前廊(第1前室)は、ローマ軍団の駐屯によりローマ皇帝崇拝の礼拝堂となった[60]。8本の柱は取り壊され、奥の至聖所に向かう入口は壁龕(後陣、アプス)の構築により塞がれた[61]。壁龕の両側に2本の花崗岩の[52]コリント式円柱が施されている[40]。第18王朝の壁面レリーフの上にフレスコ画による装飾がなされ、フレスコの剥がれた部分にかつてのレリーフ装飾が見られる[62]。奥行き 1.5メートル (5 ft) の後陣の壁龕上部に描かれたフレスコによる4人の肖像画は、ディオクレティアヌス(在位284-305年[6])による四分統治(テトラルキア)の4人を描いたものといわれる[61]。塞がれた後陣壁龕部にはその後、王による供物奉献広間[63]に通じる狭い入口が開けられた。
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ローマ時代のフレスコ画
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壁龕上部と4肖像のフレスコ画
アメンホテプ3世の「誕生の間」
聖舟祠堂の東側に位置し、西壁のレリーフ装飾には、神アメンによる王アメンホテプ3世の母ムテムウィヤ(トトメス4世の妻)の妊娠と王の誕生に続き、生まれた王がアメンに披露され、諸神に養われた神の子として、将来ファラオとなる場面などが描かれる[39][64]。オペト祭においては、この「誕生の間」で神(神妻)と王(ファラオ)の「聖婚」儀礼が行われ[60]、王は神と融合して大神アメン(アメン=ラー)の子に転生した[65]。
聖舟祠堂と至聖所
例年のオペト祭により到着した三柱神の聖舟は、外側の聖舟祠堂で中継された後、神殿の深部に運ばれて大祭の宗教儀礼が行われていった[63]。壁面には諸神とともにいるアメンホテプ3世が見られる[66]。アメンホテプ3世により神殿の最奥部に造られた至聖所には、主神像が中心軸の台座上に安置されていた[67]。当初は四角形の広間で、床面に柱の基部が認められるが、その後、内側にアレクサンドロス3世により[60]、砂岩の祠堂(もしくはナオス、naos[66]〈セラ〉)が建立され[67]、壁面にファラオの姿をした大王の一連の装飾が施されている[60]。祠堂は7.8×5.2メートルの長方形で南北に入口がある[68]。
脚注
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参考文献
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- Weigall, Arthur E. P. (1996) [1910]. A Guide to the Antiquities of Upper Egypt. London: Bracken Books. ISBN 0-09-185047-9
- Oakes, Lorna; Gahlin, Lucia (2003). Ancient Egypt: An Illustrated Reference to the Myths, Religions, Pyramids and Temples of the Land of the Pharaohs. Barnes & Noble. ISBN 0-7607-4943-4
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関連項目
外部リンク
- 『ルクソール神殿 シカゴ・ハウスにおける碑文調査』シカゴハウス研究所 。