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|団体=[[フェイス (企業)|フェイス]]代表取締役社長<br/>[[日本コロムビア|日本コロムビア]]取締役会長<br/>[[ドリーミュージック|ドリーミュージック]]取締役会長<br/>公益財団法人[[東京交響楽団|東京交響楽団]]副理事長 |
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|出身校=[[大阪芸術大学]] |
|出身校=[[大阪芸術大学]][[芸術学部]]音楽学科 |
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|受賞=特許庁長官表彰(産業財産権制度活用優良企業)<br/> |
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== 経歴 == |
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[[京都府]][[京都市]]に生まれる。母方が教育者で幼稚園を経営。母親の影響で小さいころからピアノを習う。父親の家系は典型的な大阪商人。父方の親戚と話すと「これなんぼ?」とすぐなる。[[京都府立洛北高等学校]]に進学。国立大学の理系志望で、将来は音響関係のエンジニアになろうと思っていた。ところが受験の時、やっていたバンドがオーディションに受かり、音楽の道に進もうと音大を選択し[[大阪芸術大学]][[芸術学部]]音楽学科へ入学。その後、バンドは解散してしまうが、東京の音楽事務所から声がかかりプロデュースの仕事に誘われる。在学中からアルバイトでTV番組の作曲や音楽制作などに関わり、[[ZARD]]・[[WANDS]]・[[大黒摩季]]などを輩出した大手音楽プロダクション・[[ビーイング]]でアルバイトをした。日本の音楽の現状を目の当たりにし、インターネットで音楽が流通する時代が来ると直感したと語っている。大学時代は音楽学科系と美術学科系が同一のキャンパスで互いに刺激を受けていた。平澤は大学近くで下宿生活をしており、他学科の学生も含めたコミュニケーションを深めた。大学のカリキュラムとは別に自主的な音楽活動にも力を入れ、下宿先に集う仲間たちと一緒に当時としては珍しいコンピュータを用いた音楽制作をし、打込みの音楽と映像を組み合わせてライブを企画するなど、新しいことに挑戦したい意欲に溢れていた。 |
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[[京都府]][[京都市]]に生まれる。[[京都府立洛北高等学校]]を卒業した後、[[大阪芸術大学]][[芸術学部]]へ進学する。大学在学中からアルバイトでTV番組の作曲や音楽制作などに関わる。 |
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[[1990年]] 大学卒業後、[[任天堂]]に新卒入社。専門知識を生かしゲーム音楽を担当。世界中の誰もが知る「[[スーパーマリオブラザーズ]]」を開発する部署に配属されゲームサウンド開発を担当。代表作は「[[タイムツイスト]]」「[[スターフォックス]]」。しかし、「このままサラリーマン生活を続けるのはいやだな。何らかの形で大学時代にアルバイトをしていた会社を抜くぐらいの会社を作ろう。」と1年で任天堂を退社。当時はソフトとハードという言葉が一般化しつつあり、コンポなどの音響機器を「ハード」、レコードやCDを「ソフト」と呼んでいたが、平澤はそれを疑問に思い「音楽をデータだけで売るビジネスができないか」と思う。このことを任天堂の同期入社組の中西正人(現[[フェイス (企業)|フェイス]]専務)に話したところ「面白い」となった。中西は任天堂でゲームのライセンスを担当する部署におり、情熱の平澤と相反して中西はビジネスをロジック(論理)と考える人間であり、お互いを補える関係だった。 |
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大学卒業後、[[任天堂]]での勤務を経て、1992年に起業。株式会社[[フェイス (企業)|フェイス]]を設立し、同社の[[代表取締役]][[社長]]に就任。1999年、世界で初めて携帯の「[[着信メロディ]]」をダウンロードする仕組みを創り、世界約100ヵ国、累計約90億台以上の携帯端末に搭載される。2001年、JASDAQ上場。2002年、35歳当時、同社の[[東証一部]]上場を創業社長としては当時史上最年少で果たした。2004年、特許庁長官表彰、同年、[[藍綬褒章]]を史上最年少で受章。 |
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[[1992年]](平成4年)25歳、地元京都のマンションで任天堂時代の同僚の中西と二人でベンチャー企業[[フェイス (企業)|フェイス]]を設立。同社の[[代表取締役]][[社長]]に就任'''(現任)'''。創業資金は平澤の貯金から600万円、残り400万円のうち中西は10万円足りず、大事にしていた[[ロレックス]]の腕時計を売って現金を作った。業務内容は、音楽をデータ変換しコンピュータで配信できるようにする技術の開発・販売。今でこそネットを使った音楽配信は当たり前になっているが、インターネットがない時代に音楽を配信するというのは最先端の取り組みだった。しかしまだ[[ブロードバンド]]もなく回線速度が遅い時代に、データ量が多い音楽を誰もダウンロードせず業績は伸び悩む。そんな時、とんかつ屋でテーブルに置いてあった着メロ本を見つける。着メロ本は90年代後半、毎月30万部売れていた。内容は携帯電話の文字盤を使って数字を打ち込み、オリジナルの着メロを自分で作るというものだった。平澤は、わざわざ数字を打ち込まなくても着メロを携帯でダウンロードできれば受けるに違いないと直感する。 |
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1993年2月21日に任天堂より発売されたスーパーファミコン用3Dシューティングゲーム『[[スターフォックス]]』(Star Fox)の音楽を担当している。 |
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[[1999年]](平成11年)世界で初めての着メロシステム(携帯の「[[着信メロディ]]」をダウンロードする仕組み)が完成し着メロ市場60%シェアを獲得。世界約100ヵ国、累計約100億台以上の携帯端末に搭載される事業に展開。[[2001年]](平成13年)9月4日、[[JASDAQ]]上場。[[2002年]](平成14年)9月10日、35歳、同社の[[東証一部]]上場を創業社長としては当時史上最年少で果たす。創業から10年足らずで上場。[[2003年]](平成15年)株式会社八創代表取締役に就任'''(現任)'''。 |
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*1990年 任天堂株式会社本社勤務 |
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[[2004年]](平成16年)37歳、着メロ配信市場という新しい市場を開拓した功績が認められ、史上最年少かつ初の30代で[[藍綬褒章]](国家褒章)受章。同年、特許庁長官表彰(産業財産権制度活用優良企業)を受賞。株式会社[[パソナグループ]]社外取締役に就任。 |
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*1992年 株式会社フェイス代表取締役社長(創業/現任)(2001年9月4日JASDAQ上場、2002年9月10日東証一部上場) |
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*2010年 日本コロムビア株式会社取締役会長(現任) |
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[[2006年]](平成18年)当時子会社だった株式会社[[ウェブマネー]]をJASDAQ上場させる。 |
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[[2009年]](平成21年)公益財団法人[[東京交響楽団]] 理事に就任。 |
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[[2010年]](平成22年)[[日本コロムビア]]株式会社をフェイス・グループ傘下に収め取締役会長に就任'''(現任)'''。株式会社[[ベネフィット・ワン]]社外取締役に就任。著書『仕事ってこういうことだったのか』出版。[[2011年]](平成23年)著書『仕事は楽しむが勝ち!』出版。 |
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[[2013年]](平成25年)公益財団法人[[東京交響楽団]] 副理事長に就任'''(現任)'''。国立大学法人[[大阪大学]]大学院国際公共政策研究科招聘教授に就任(~2015年3月)。[[2014年]](平成26年)株式会社GENESIS代表取締役に就任。[[2017年]](平成29年)株式会社[[ドリーミュージック]]取締役会長に就任'''(現任)'''、株式会社ワクワクワークス取締役会長に就任'''(現任)'''、フェイス最高経営責任者に就任'''(現任)'''。[[2018年]](平成30年)株式会社フューチャーレコーズ取締役会長に就任'''(現任)'''。[[2019年]](平成31年)株式会社KSRを完全子会社化。[[2020年]](令和2年)株式会社Genesis1代表取締役に就任'''(現任)''' |
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== 人物・エピソード == |
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* 母校の[[大阪芸術大学]]の講演会で'''「あるものを追うな。ないものを創れ。」「ブームではなく文化を。」'''について話をした。<ref>[https://shachomeikan.jp/corporations/22003/intro 社長図鑑「平澤創」]</ref><ref>[https://www.osaka-geidai.ac.jp/interviews/hirasawa_hajime 大阪芸術大学OB・平澤創]</ref> |
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* 「自信はなくても、勢いがあるという直感は信じた方がいい。」というポリシーを持つ。直感にブレーキを踏む人は経験をたくさんしているが、経験や常識が邪魔をすることも多く、世の中のことをあまり信用せず、その時の自身の感覚を大事にして欲しいと語っている。 |
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* 倒産の危機を3回経験した。30歳の頃、銀行にお金を借りに、自分で初めて作った事業計画書を持って行った。あの時お金を貸してくれたから今のフェイス・グループがあるが、当時の事業計画書を今の自分が貸す立場で見たなら絶対に貸さない。しかし、なぜ貸してくれたのかと考えると、自分ができると思ったことを言い通す熱意があったから。本を書けるくらいの失敗談があり、そもそも成功したという自覚は一度もないと語っている。 |
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* 「雇う」という言葉に抵抗がある。「雇う」という言葉を使うと、雇う人と、雇われる人に圧倒的な上下関係が生まれるから。[[フェイス (企業)|フェイス]]は役員や幹部の一部に仲間感覚が残っており、間題が起きたときや業績のアップダウンが激しかった時期であっても利害関係なく仕事ができたと語っている。 |
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* 囲いだけ作って、あとは好きにしてくれという自由放任主義。創造的なことは束縛のないところからしか生まれないと思っている。 |
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* 商談相手が断る理由をいかになくすかがビジネス。パソコン通信の時代に何千曲もの音楽を揃えるのは大変だったが、平澤はデータを持つ音楽会社に行き、彼らに「音楽を預けてくれたらパソコン通信で販売しますよ」と言った。投資リスクなしでデータを手にし在庫リスクもゼロ。音楽会社にとっては、データを預けるだけでおカネが入り「Win-Win」となったと語っている。 |
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* [[特許庁]]長官表彰(産業財産権制度活用優良企業)(2004年) |
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* [[藍綬褒章]](国家褒章)史上最年少受章(2004年) |
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== 趣味・その他 == |
== 趣味・その他 == |
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[[片岡鶴太郎]]に師事し墨彩画を学ぶ |
* [[片岡鶴太郎]]に師事し墨彩画を学ぶ |
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* 幼稚園の教員免許(幼稚園教諭2種免許状) |
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* 中学・高校の教員免許(中学校教諭1種免許状・音楽、高等学校教諭1種免許状・音楽) |
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== 著書 == |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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{{先代次代|フェイス社長|1992年 - |(新設)|(現職)}} |
{{先代次代|フェイス社長|1992年 - |(新設)|(現職)}} |
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{{先代次代|日本コロムビア会長|2010年 - |[[ストラウス・ゼルニック]]|(現職)}} |
{{先代次代|日本コロムビア会長|2010年 - |[[ストラウス・ゼルニック]]|(現職)}} |
2023年2月1日 (水) 00:10時点における版
平澤 創 (ひらさわ はじめ) | |
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生誕 |
1967年3月26日(57歳) 京都府京都市 |
出身校 | 大阪芸術大学芸術学部音楽学科 |
職業 | 実業家 |
団体 |
フェイス代表取締役社長 日本コロムビア取締役会長 ドリーミュージック取締役会長 公益財団法人東京交響楽団副理事長 |
受賞 |
特許庁長官表彰(産業財産権制度活用優良企業) |
平澤 創(ひらさわ はじめ、1967年3月26日 - )は、日本の実業家。大阪芸術大学芸術学部音楽学科卒業。株式会社フェイス代表取締役社長。日本コロムビア株式会社取締役会長。株式会社ドリーミュージック取締役会長。公益財団法人東京交響楽団副理事長。
経歴
京都府京都市に生まれる。母方が教育者で幼稚園を経営。母親の影響で小さいころからピアノを習う。父親の家系は典型的な大阪商人。父方の親戚と話すと「これなんぼ?」とすぐなる。京都府立洛北高等学校に進学。国立大学の理系志望で、将来は音響関係のエンジニアになろうと思っていた。ところが受験の時、やっていたバンドがオーディションに受かり、音楽の道に進もうと音大を選択し大阪芸術大学芸術学部音楽学科へ入学。その後、バンドは解散してしまうが、東京の音楽事務所から声がかかりプロデュースの仕事に誘われる。在学中からアルバイトでTV番組の作曲や音楽制作などに関わり、ZARD・WANDS・大黒摩季などを輩出した大手音楽プロダクション・ビーイングでアルバイトをした。日本の音楽の現状を目の当たりにし、インターネットで音楽が流通する時代が来ると直感したと語っている。大学時代は音楽学科系と美術学科系が同一のキャンパスで互いに刺激を受けていた。平澤は大学近くで下宿生活をしており、他学科の学生も含めたコミュニケーションを深めた。大学のカリキュラムとは別に自主的な音楽活動にも力を入れ、下宿先に集う仲間たちと一緒に当時としては珍しいコンピュータを用いた音楽制作をし、打込みの音楽と映像を組み合わせてライブを企画するなど、新しいことに挑戦したい意欲に溢れていた。
1990年 大学卒業後、任天堂に新卒入社。専門知識を生かしゲーム音楽を担当。世界中の誰もが知る「スーパーマリオブラザーズ」を開発する部署に配属されゲームサウンド開発を担当。代表作は「タイムツイスト」「スターフォックス」。しかし、「このままサラリーマン生活を続けるのはいやだな。何らかの形で大学時代にアルバイトをしていた会社を抜くぐらいの会社を作ろう。」と1年で任天堂を退社。当時はソフトとハードという言葉が一般化しつつあり、コンポなどの音響機器を「ハード」、レコードやCDを「ソフト」と呼んでいたが、平澤はそれを疑問に思い「音楽をデータだけで売るビジネスができないか」と思う。このことを任天堂の同期入社組の中西正人(現フェイス専務)に話したところ「面白い」となった。中西は任天堂でゲームのライセンスを担当する部署におり、情熱の平澤と相反して中西はビジネスをロジック(論理)と考える人間であり、お互いを補える関係だった。
1992年(平成4年)25歳、地元京都のマンションで任天堂時代の同僚の中西と二人でベンチャー企業フェイスを設立。同社の代表取締役社長に就任(現任)。創業資金は平澤の貯金から600万円、残り400万円のうち中西は10万円足りず、大事にしていたロレックスの腕時計を売って現金を作った。業務内容は、音楽をデータ変換しコンピュータで配信できるようにする技術の開発・販売。今でこそネットを使った音楽配信は当たり前になっているが、インターネットがない時代に音楽を配信するというのは最先端の取り組みだった。しかしまだブロードバンドもなく回線速度が遅い時代に、データ量が多い音楽を誰もダウンロードせず業績は伸び悩む。そんな時、とんかつ屋でテーブルに置いてあった着メロ本を見つける。着メロ本は90年代後半、毎月30万部売れていた。内容は携帯電話の文字盤を使って数字を打ち込み、オリジナルの着メロを自分で作るというものだった。平澤は、わざわざ数字を打ち込まなくても着メロを携帯でダウンロードできれば受けるに違いないと直感する。
1999年(平成11年)世界で初めての着メロシステム(携帯の「着信メロディ」をダウンロードする仕組み)が完成し着メロ市場60%シェアを獲得。世界約100ヵ国、累計約100億台以上の携帯端末に搭載される事業に展開。2001年(平成13年)9月4日、JASDAQ上場。2002年(平成14年)9月10日、35歳、同社の東証一部上場を創業社長としては当時史上最年少で果たす。創業から10年足らずで上場。2003年(平成15年)株式会社八創代表取締役に就任(現任)。
2004年(平成16年)37歳、着メロ配信市場という新しい市場を開拓した功績が認められ、史上最年少かつ初の30代で藍綬褒章(国家褒章)受章。同年、特許庁長官表彰(産業財産権制度活用優良企業)を受賞。株式会社パソナグループ社外取締役に就任。
2006年(平成18年)当時子会社だった株式会社ウェブマネーをJASDAQ上場させる。
2009年(平成21年)公益財団法人東京交響楽団 理事に就任。
2010年(平成22年)日本コロムビア株式会社をフェイス・グループ傘下に収め取締役会長に就任(現任)。株式会社ベネフィット・ワン社外取締役に就任。著書『仕事ってこういうことだったのか』出版。2011年(平成23年)著書『仕事は楽しむが勝ち!』出版。
2013年(平成25年)公益財団法人東京交響楽団 副理事長に就任(現任)。国立大学法人大阪大学大学院国際公共政策研究科招聘教授に就任(~2015年3月)。2014年(平成26年)株式会社GENESIS代表取締役に就任。2017年(平成29年)株式会社ドリーミュージック取締役会長に就任(現任)、株式会社ワクワクワークス取締役会長に就任(現任)、フェイス最高経営責任者に就任(現任)。2018年(平成30年)株式会社フューチャーレコーズ取締役会長に就任(現任)。2019年(平成31年)株式会社KSRを完全子会社化。2020年(令和2年)株式会社Genesis1代表取締役に就任(現任)
人物・エピソード
- 母校の大阪芸術大学の講演会で「あるものを追うな。ないものを創れ。」「ブームではなく文化を。」について話をした。[1][2]
- 「自信はなくても、勢いがあるという直感は信じた方がいい。」というポリシーを持つ。直感にブレーキを踏む人は経験をたくさんしているが、経験や常識が邪魔をすることも多く、世の中のことをあまり信用せず、その時の自身の感覚を大事にして欲しいと語っている。
- 倒産の危機を3回経験した。30歳の頃、銀行にお金を借りに、自分で初めて作った事業計画書を持って行った。あの時お金を貸してくれたから今のフェイス・グループがあるが、当時の事業計画書を今の自分が貸す立場で見たなら絶対に貸さない。しかし、なぜ貸してくれたのかと考えると、自分ができると思ったことを言い通す熱意があったから。本を書けるくらいの失敗談があり、そもそも成功したという自覚は一度もないと語っている。
- 「雇う」という言葉に抵抗がある。「雇う」という言葉を使うと、雇う人と、雇われる人に圧倒的な上下関係が生まれるから。フェイスは役員や幹部の一部に仲間感覚が残っており、間題が起きたときや業績のアップダウンが激しかった時期であっても利害関係なく仕事ができたと語っている。
- 囲いだけ作って、あとは好きにしてくれという自由放任主義。創造的なことは束縛のないところからしか生まれないと思っている。
- 商談相手が断る理由をいかになくすかがビジネス。パソコン通信の時代に何千曲もの音楽を揃えるのは大変だったが、平澤はデータを持つ音楽会社に行き、彼らに「音楽を預けてくれたらパソコン通信で販売しますよ」と言った。投資リスクなしでデータを手にし在庫リスクもゼロ。音楽会社にとっては、データを預けるだけでおカネが入り「Win-Win」となったと語っている。
受賞
趣味・その他
- 片岡鶴太郎に師事し墨彩画を学ぶ
- 幼稚園の教員免許(幼稚園教諭2種免許状)
- 中学・高校の教員免許(中学校教諭1種免許状・音楽、高等学校教諭1種免許状・音楽)
著書
- 「仕事は楽しむが勝ち!」 (2011年4月 かんき出版)
- 「仕事ってこういうことだったのか」 (2010年3月 かんき出版)
脚注
参考文献
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