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* [https://manba.co.jp/genba/98175 高速スライダー 幸運な男・伊藤智仁] - 長谷川晶一の『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』を原案とした漫画作品。マンバにて連載中。 |
* [https://manba.co.jp/genba/98175 高速スライダー 幸運な男・伊藤智仁] - 長谷川晶一の『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』を原案とした漫画作品。マンバにて連載中。 |
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2023年1月27日 (金) 04:49時点における版
東京ヤクルトスワローズ 投手コーチ #89 | |
---|---|
楽天コーチ時代 (2019年、ZOZOマリンスタジアムにて) | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 京都府京都市中京区 |
生年月日 | 1970年10月30日(54歳) |
身長 体重 |
183 cm 76 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1992年 ドラフト1位 |
初出場 | 1993年4月20日 |
最終出場 | 2001年4月10日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
| |
国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
五輪 | 1992年 |
この表について
|
オリンピック | ||
---|---|---|
男子 野球 | ||
銅 | 1992 | 野球 |
伊藤 智仁(いとう ともひと、1970年10月30日 - )は、京都府京都市中京区出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・監督。現在は東京ヤクルトスワローズ一軍投手コーチ。
バルセロナオリンピック野球の銅メダリスト。
来歴・人物
プロ入り前
読売ジャイアンツのファンで、子供の頃年1で連れて行ってもらう甲子園の巨人戦が楽しみだった[1]。
京都市立中京中学校から花園高に進学。花園高校の1987年秋季近畿大会に進むが、1回戦で元木大介、種田仁らのいた上宮高に敗退。卒業後は地元の三菱自動車京都に入社。
1992年のバルセロナオリンピック野球日本代表に選出され、1大会27奪三振のギネス記録を作る。アメリカとの3位決定戦でも先発し、日本の銅メダル獲得に貢献した。同年のドラフト会議ではヤクルトスワローズ、広島東洋カープ、オリックス・ブルーウェーブの3球団が1位指名、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得し入団契約を交わす。ちなみに、当初は松井秀喜を一位指名する予定だったが、スカウト会議の際野村が伊藤の獲得を強く希望し指名に至った。野村とスカウト陣は松井か伊藤のどちらかを指名するのか揉めたという(逆に巨人も松井と伊藤のどちらかで揉めたという[2])。入団時の背番号は20。同音異字の苗字の投手である伊東昭光と区別するため、背ネーム表記は「T.ITOH」となった。
現役時代
1993年4月10日のイースタン・リーグ開幕戦(高知・春野)では同年ドラフト1位で巨人入りした松井秀喜から本塁打を打たれて敗戦投手。一軍昇格後の4月20日に先発で初登板し7回を10奪三振2失点で勝利投手となる[3]。150km/hを超えるストレートと真横に滑るような高速スライダーを武器に投球回を上回る三振を奪い、前半戦だけで7勝2敗・防御率0.91の成績を挙げる。6月9日の石川県立野球場での対巨人戦では8回まで無失点、更にセ・リーグタイ記録である16奪三振を挙げるが、0-0で迎えた9回裏の二死から篠塚和典にソロ本塁打を打たれサヨナラ負けを喫する[注 1][4][5][6]。ベンチに引き上げる際、あまりの悔しさに自軍ベンチに向かって自分のグラブを投げ感情を露にした。この日は調子が悪く、5回あたりで既にバテていたことを後のインタビューで明かしている[7]。なお「負け試合における」1試合16奪三振はこのケースが初めてである[8]。 7月4日の登板を最後に戦線離脱(この試合で捕手だった古田敦也は9回に先頭の緒方耕一をピッチャーゴロに討ち取った際に異変を感じ、伊藤を交替させるべきだったと語っている[1])。シーズン終了まで復帰することはなかったが、新人王を受賞。規定投球回には届かなかったが、防御率0点台の新人王は伊藤と栗林良吏(広島、2021年)のみ。当時、伊藤は中5日ローテーションで投げていた上に1回の登板ごとに150球以上、2か月半で全投球数1733球を費やすという登板過多であったため、野村克也監督は後年本人に直接謝罪している[9]。
1994年、春季キャンプでブルペン入りをした矢先、肩に激痛が走った。その後帰国して病院で診断された結果、開幕は絶望であることが判明した[10]。手術とリハビリのため一軍登板は無かった[11]。
1996年5月19日の巨人戦(東京ドーム)で1050日ぶりに一軍登板を果たした[12]。この年は全て救援で14試合に登板したが、7月28日の登板を最後に二軍落ちし、その後の一軍登板はなかった。
1997年は抑えの高津臣吾が不調に陥ったため一時的に代理を務めた。7勝2敗19セーブを記録しカムバック賞を受賞し、復活を果たした[13]。
1998年2年連続で二桁勝利を挙げていた吉井理人がFAでメジャー移籍するも、野村監督は吉井の穴は伊藤が埋めると話し、再び先発に転向する[14]。開幕からローテーションに入ったものの、途中から中継ぎに戻り再び先発に戻る。最終的に6勝11敗と負け越すが初めて規定投球回数をクリアし、リーグ3位の防御率2.72を記録する。
1999年から背番号を21に変更。登板回数は少ないものの先発ローテーションに入り2年連続自己最多の8勝を挙げるが、肘痛・肩痛は癒えておらず同年オフに2度目の右肩の手術を受けている[15]。
2000年もほぼ前年と同じ登板数だったが、8勝7敗・防御率3.14とやや成績を落とした。
2001年に肘痛・肩痛が再発、チームはリーグ優勝・日本一になるも本人は1試合の登板に終わる。オフに3度目となる右肩の手術を受ける。
2002年の秋季コスモスリーグに登板するも9球目に右肩を亜脱臼しリハビリに残りシーズンを費やす。同年オフに球団から引退勧告とヤクルト本社への入社を勧められるが現役続行を志願、過去最大となる88%減の年俸で契約した[16]。
2003年10月25日、秋季コスモスリーグの対巨人戦に登板し、打者3人を相手に内野ゴロ・四球・四球という投球内容で降板。最速は僅か109キロだった[17]。晩年は肩の疲労の少ないナックルボーラーとして再起を目指し、最後の試合は全てナックルを投げていたという。10月29日、球団の引退勧告を受け現役引退を表明。
現役引退後
2004年からヤクルトの二軍投手コーチに就任、背番号は84。
2008年に荒木大輔と共に一軍投手コーチに就任。2014年からは投手コーチに就任した高津臣吾と共に投手陣を指導した。
2017年はベンチを担当したが、同年シーズン終了後退団を申し入れ、受理された[18]。
2017年12月1日、翌シーズンよりベースボール・チャレンジ・リーグの富山GRNサンダーバーズ監督に就任することが発表された[19]。背番号はヤクルトコーチ時代と変わらず84。
2018年4月13日、ホーム開幕戦で滋賀ユナイテッドを3-0で下し監督初勝利を挙げた。試合は元広島のデュアンテ・ヒースら4投手の継投によるノーヒットノーランリレーだった[20]。6月2日の試合前には元巨人の篠塚和典をゲストに招いた「1打席対決」のイベントが企画され25年越しの再戦が実現した。結果は伊藤の5球目を篠塚がレフト前へ流し打ち篠塚に軍配が上がった[21]。このシーズンは西地区の後期優勝を達成したが[22]、地区チャンピオンシップで前期優勝の福井ミラクルエレファンツに敗退した[23]。また、この年のプロ野球ドラフト会議では富山から湯浅京己(阪神タイガース6位)と海老原一佳(北海道日本ハムファイターズ育成1位)の2人の指名者を輩出し[24]、古村徹の横浜DeNAベイスターズ復帰もあった。
2018年11月1日付で、東北楽天ゴールデンイーグルス一軍投手チーフコーチに就任した[25]。背番号は変わらず84。
2020年1月、長谷川晶一の『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』を原案とする、自身の半生を描いた漫画『高速スライダー 幸運な男・伊藤智仁』(作画: 渡辺保裕)が発売された[26][27]。
2020年はチーム防御率がリーグ5位の4.19。継投ミスで終盤に失点する試合が多く、32回の逆転負けはリーグワーストだった[28]。シーズン終了後の11月12日にコーチ契約満了に伴い、退団した[29]。
2020年11月25日、2021年シーズンよりヤクルト一軍投手コーチに就任することが発表された[30]。背番号は89。また、近藤弘樹が楽天から戦力外通告を受けた際、ヤクルト球団に近藤の獲得を進言した[31]。
2021年、前年チーム防御率4.61を3.48に大幅に改善し、6年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献した[32]。
選手としての特徴
可動域の広い右肩と[33]、大きく反り返ることの出来る右肘ゆえに投じることが出来た高速スライダーはプロ野球史上最高とも評される[34][35][36]。その他にも150km/hを超えるストレートも武器だった。野村監督はカーブにも注目していた[37]。変化球は高速スライダーの他にフォーク、カーブ、カットボール、縦に落ちるスライダーを投げていた[38]。1997年5月23日の復帰登板である巨人戦では150km/hオーバーのストレートと高速スライダーを遺憾無く発揮し、解説者をして「打てる球が無い」と言わしめた。八重樫幸雄は伊藤の投げる球を捕球した際、命の危険を感じたという[39]。投球フォームも美しく、野村監督からは「投球美人」と評された[40]。
野村克也とのエピソード
野村は「稲尾和久か伊藤智仁。こういうのを天才って言うんだよ。プロ野球史上最高の投手」[9]と評価しており、野村は監督退任後に「積極的に登板させた事によって彼の選手生命を縮めてしまった。申し訳なく思っている。」とコメントしたが、伊藤自身は「当時の主戦投手は200球近く投げていた[注 2][注 3]。僕も198球を投げたことがある。先発は白黒つくまで投げようという時代。野村克也監督を恨むことなんてないです。むしろチャンスをもらえた。気にもかけてくれた」と語っている[34]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1993 | ヤクルト | 14 | 12 | 5 | 4 | 0 | 7 | 2 | 0 | -- | .778 | 426 | 109.0 | 70 | 3 | 35 | 1 | 2 | 126 | 5 | 0 | 11 | 11 | 0.91 | 0.96 |
1996 | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 3 | -- | .333 | 77 | 15.0 | 16 | 3 | 14 | 1 | 3 | 15 | 1 | 0 | 9 | 9 | 5.40 | 2.00 | |
1997 | 34 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 2 | 19 | -- | .778 | 172 | 47.2 | 23 | 3 | 10 | 3 | 1 | 53 | 0 | 0 | 8 | 8 | 1.51 | 0.69 | |
1998 | 29 | 22 | 6 | 1 | 0 | 6 | 11 | 3 | -- | .353 | 648 | 158.2 | 114 | 14 | 57 | 3 | 9 | 154 | 8 | 3 | 53 | 48 | 2.72 | 1.08 | |
1999 | 17 | 17 | 2 | 1 | 1 | 8 | 3 | 0 | -- | .727 | 455 | 114.2 | 92 | 6 | 30 | 0 | 6 | 91 | 4 | 0 | 31 | 29 | 2.28 | 1.06 | |
2000 | 18 | 18 | 2 | 1 | 1 | 8 | 7 | 0 | -- | .533 | 449 | 109.0 | 102 | 10 | 30 | 1 | 2 | 107 | 6 | 0 | 38 | 38 | 3.14 | 1.21 | |
2001 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 15 | 4.0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.00 | |
通算:7年 | 127 | 70 | 15 | 7 | 2 | 37 | 27 | 25 | -- | .578 | 2242 | 558.0 | 421 | 39 | 176 | 9 | 23 | 548 | 24 | 3 | 150 | 143 | 2.31 | 1.07 |
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
- 新人王(1993年)
- カムバック賞(1997年)
- 月間MVP:1回(投手部門:1993年6月)
- JA全農Go・Go賞:1回(最多奪三振賞:1993年5月)
記録
- 初記録
- 初登板・初先発・初勝利:1993年4月20日、対阪神タイガース4回戦(明治神宮野球場)、7回2失点
- 初奪三振:同上、1回表にトーマス・オマリーから
- 初完投勝利・初完封勝利:1993年6月3日、対阪神タイガース7回戦(阪神甲子園球場)
- 初セーブ:1996年5月29日、対読売ジャイアンツ10回戦(明治神宮野球場)、9回表一死に救援登板・完了、2/3回無失点
背番号
- 20(1993年 - 1998年)
- 21(1999年 - 2003年)
- 84(2004年 - 2020年)
- 89(2021年 - )
関連情報
関連書籍
- 『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』(長谷川晶一著、インプレス、2017年11月、ISBN 4295002429)
- 『高速スライダー 幸運な男・伊藤智仁』(原案:長谷川晶一、作画: 渡辺保裕、インプレス、2020年1月、ISBN 9784295008224)
脚注
注釈
- ^ なお、この試合は当時6歳だったダルビッシュ有が初めて見た野球の試合だった。勝った巨人の選手が喜ぶ姿を見て興味を持ったのが野球を始めるきっかけになったことを、試合から28年後の2021年2月5日付のツイッター投稿で明かしたことが、中日スポーツの記事で報道された。
- ^ 実際に、1993年5月11日に、当時38歳の佐藤義則が延長12回を1人で投げ切り、218球で完投勝利を挙げている。
- ^ 当時は先発・抑えと一部のリリーフ投手(例:ワンポイント用の左投手)以外は役割分担が進んでいなかった。先発投手は中6日ローテーションの導入が始まっていたが、まだ中5日ローテーションが主流の時代であり、さらにリードしている試合では球数に関係なく7 - 8回までは続投していた。抑え投手も試合展開によっては7・8回から登板しイニングをまたいで試合終了まで投げるのが当たり前で、シーズンの勝負どころになると本来先発だった投手が急遽中継ぎに回されることや中継ぎ投手が休養なしで何試合も連投させられることも珍しくなかった。
事実、前年の1992年は、セ・リーグでは中継ぎ投手の盛田幸妃が、パ・リーグでは抑え投手の赤堀元之が規定投球回数に到達し、最優秀防御率のタイトルを獲得している。
現在のようなセットアッパー・クローザーも含めたリリーフ投手の役割分担やコンディション維持のための連投防止という考え方が確立するのは2000年代に入ってからである。
出典
- ^ a b “『高速スライダー 幸運な男・伊藤智仁(連載版)』 第1話 日本一のピッチャー”. マンバ. 2022年1月9日閲覧。
- ^ 特集 松井秀喜【4】第二次長嶋政権の中心選手へ. 時事ドットコム(2009年11月3日付)
- ^ “伊藤智仁「喜びも希望もなかった」。圧巻デビュー戦でのまさかの真実|プロ野球|集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva”. 集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “ダルビッシュ、野球を始めたきっかけはあの伝説の試合「サヨナラで選手が喜んでいるのを見て楽しそうだと思ったのが…」”. 中日スポーツ (2021年2月5日). 2022年10月26日閲覧。
- ^ “篠塚和典氏が明かす”真実” 伊藤智仁氏を打ち砕いた「伝説のサヨナラ本塁打」”. Full-Count (2018年9月19日). 2021年5月12日閲覧。
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2021年7月9日). “【記録の泉】巨人戦初登板16Kのセ記録直後に悪夢…1993年ヤクルト・伊藤智仁”. サンスポ. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “Mr.高速スライダー伊藤智仁が語る、1993年6月9日、伝説の巨人戦の真実。(松本宣昭)”. Number Web - ナンバー. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “高速スライダーで16K 伊藤智仁、悲劇は150球目”. スポーツニッポン (2008年6月5日). 2008年6月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月12日閲覧。
- ^ a b “ノムさん「俺が2か月半で潰した史上最高の投手」伊藤智仁さんに25年目の謝罪「申し訳ない」”. スポーツ報知 (2018年1月3日). 2021年5月12日閲覧。
- ^ “『高速スライダー 幸運な男・伊藤智仁(連載版)』 第3話 あれからもう…一年”. マンバ. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “『高速スライダー 幸運な男・伊藤智仁(連載版)』 第4話 調子どう?”. マンバ. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “『高速スライダー 幸運な男・伊藤智仁(連載版)』 第5話 異常の正常”. マンバ. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “『高速スライダー 幸運な男・伊藤智仁(連載版)』 第6話 復活の97年”. マンバ. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “『高速スライダー 幸運な男・伊藤智仁(連載版)』 第8話 見えない敵”. マンバ. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “『高速スライダー 幸運な男・伊藤智仁(連載版)』 第9話 8876球目”. マンバ. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “ガラスの右腕〜伊藤智仁 再起への闘い〜”. 京都新聞. 2002年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月12日閲覧。
- ^ “伊藤智仁のような投手は「二度と出ない」。八重樫幸雄が見た「悲運のエース」の野球人生|プロ野球|集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva”. 集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “コーチ退団のお知らせ”. 東京ヤクルトスワローズ公式サイト (2017年10月5日). 2021年5月12日閲覧。
- ^ “ヤクルト退団の伊藤智仁氏 来季富山GRNサンダーバーズ監督に”. スポーツニッポン. (2017年12月1日) 2017年12月2日閲覧。
- ^ “【BCリーグ】富山・伊藤智仁監督、継投ノーヒッターで初勝利!元広島ヒース締めた”. スポーツ報知 (2018年4月13日). 2021年5月12日閲覧。
- ^ “プロ野球・元ヤクルト投手の伊藤智仁さんと、元巨人内野手の篠塚和典さんが演じた名場面…”. 毎日新聞 (2018年6月3日). 2021年5月12日閲覧。
- ^ “サンダーバーズ後期優勝”. 北國新聞. (2018年9月3日). オリジナルの2018年9月3日時点におけるアーカイブ。 2018年11月8日閲覧。
- ^ “エレファンツが3年ぶり地区優勝 西地区CS、富山に2連勝”. 福井新聞. (2018年9月17日). オリジナルの2018年9月17日時点におけるアーカイブ。 2018年11月8日閲覧。
- ^ “富山)ドラフト指名のBC富山2選手が会見”. 朝日新聞. (2018年10月27日) 2018年11月8日閲覧。
- ^ “【楽天】BC富山・伊藤前監督がコーチ就任”. スポーツ報知. (2018年11月3日) 2018年11月8日閲覧。
- ^ “伝説のピッチャーの半生をマンガ化!『高速スライダー 幸運な男・伊藤智仁』発売記念トーク&サイン会レポート”. マンバ (2020年1月31日). 2020年5月22日閲覧。
- ^ “『高速スライダー 幸運な男・伊藤智仁(連載版)』 第1話 日本一のピッチャー”. マンバ. 2020年5月22日閲覧。
- ^ “楽天・伊藤智仁1軍投手チーフコーチが退団 後任は石井貴2軍投手コーチ”. スポーツニッポン. (2020年11月12日) 2020年11月12日閲覧。
- ^ “コーチ契約に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス. (2020年11月12日) 2020年11月12日閲覧。
- ^ “コーチの就任について”. 東京ヤクルトスワローズ (2020年11月25日). 2020年12月2日閲覧。
- ^ “ヤクルト 近藤弘樹「終わるわけにいかない」 どん底からの復活”. NHKスポーツ. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “ヤクルト・伊藤智仁投手コーチが涙 救援陣変えた智仁流チェンジ&チャレンジ - スポニチ Sponichi Annex 野球”. スポニチ Sponichi Annex. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “『高速スライダー 幸運な男・伊藤智仁(連載版)』 第2話 ルーキーイヤー 最後の一球”. マンバ. 2022年1月9日閲覧。
- ^ a b “燕・伊藤智仁コーチ、太く、短い野球人生「野村監督を恨むことなんてない」/球界ここだけの話(113)”. サンケイスポーツ (2015年3月12日). 2015年3月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月17日閲覧。
- ^ “悲運のエース、伊藤智仁は「幸運な男」だった”. 東洋経済オンライン (2017年12月20日). 2021年5月12日閲覧。
- ^ “伊藤智仁のスライダーは「考えられないくらい曲がった」”. NEWSポストセブン (2016年8月20日). 2021年5月12日閲覧。
- ^ “わずか7勝で新人王に――伊藤智仁の伝説となった高速スライダー【プロ野球回顧録】 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “わかっていても打てなかった魔球。伊藤智仁「右打者の背中を見て投げていた」”. web Sportiva (2021年1月11日). 2021年5月27日閲覧。
- ^ “新人・伊藤智仁の高速スライダーに「命の危険を感じた」。八重樫幸雄がそのすごさと伝説の試合を振り返る|プロ野球|集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva”. 集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “ドラ1伊藤智仁は「投球美人」名言を生む“非野球人”の発想|名将・野村克也 ボヤキの内幕”. 日刊ゲンダイDIGITAL. 2022年1月9日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 伊藤智仁 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 高速スライダー 幸運な男・伊藤智仁 - 長谷川晶一の『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』を原案とした漫画作品。マンバにて連載中。