「ボストン虐殺事件」の版間の差分
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{{Infobox civil conflict |
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{{出典の明記|date=2013年1月}} |
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| title = ボストン虐殺事件<br>Boston Massacre |
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{{Infobox civilian attack |
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| image = Boston Massacre |
| image = The Boston Massacre MET DT2086.jpg |
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| caption = ボストン虐殺事件を描いた版画。地元ボストンの画家[[ヘンリー・ペラム]]の原画をもとに[[ポール・リビア]]が制作した<ref name="ReferenceA">Fischer, ''Paul Revere's Ride'', 24.</ref>。 |
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| caption = 『血まみれの虐殺(The Bloody Massacre)』と題された[[ポール・リビア]]による1770年の版画(クリスチャン・レミックによる手彩色版)。 |
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| date =1770年3月5日 |
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| date = 1770年3月5日 |
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| place = [[ボストン]] |
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| perpetrators = [[イギリス陸軍]] |
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| causes = {{unordered list|[[タウンゼンド諸法]]|イギリス軍のボストン駐屯|クリストファー・サイダー殺害と犯人への恩赦}} |
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| location = [[マサチューセッツ湾直轄植民地]][[ボストン]] |
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| result = 植民地人5名を殺害{{Infobox event |
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| accused = {{unordered list|{{仮リンク|トマス・プレストン|en|Thomas Preston}}|ウィリアム・ウェムズ|{{仮リンク|ヒュー・モンゴメリー|en|Hugh Montgomery}}|ジョン・キャロル|ウィリアム・マッコーリー|ウィリアム・ウォーレン|{{仮リンク|マシュー・キルロイ|en|Matthew Kilroy}}|市民4名}} |
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| convicted = モンゴメリー、キルロイ |
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| charges = [[殺人罪]] |
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| verdict = モンゴメリーとキルロイの2名については故殺罪で有罪とし、残りの者については無罪 |
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| sentence = モンゴメリーとキルロイの2名に対して親指への烙印 |
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| status = |
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'''ボストン虐殺事件'''(ボストンぎゃくさつじけん、'''Boston Massacre''','''Incident on King Street'''<ref name= "Refxx">Antal, "7 Leadership Lessons of the American Revolution", 40.</ref>)とは、[[1770年]][[3月5日]]に[[マサチューセッツ湾直轄植民地]]、[[アメリカ]]の[[ボストン]]で[[トマス・プレストン大尉]]率いる[[イギリス]]軍が民間人5人を発砲により射殺した事件のことである。<ref>世界全史 1994年11月15日 講談社</ref>この頃、既に植民地の住民はその3年前、[[1767年]]に成立した[[タウンゼンド諸法]]に強い不満を持っていた。イギリス軍と植民地の民間人との間の緊張は高まり、暴動を引き起こした。その最中、イギリス軍が民間人暴徒に銃を向け、射殺したのである。のちに[[アメリカ独立戦争|独立戦争]]を引き起こすきっかけともなった事件の1つでもある。 |
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| combatants_header = |
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| side1 = 第29連隊 |
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| side2 = 植民地人の暴徒 |
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| leadfigures1= トマス・プレストン大尉 |
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| leadfigures2= なし |
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| howmany1 = 8人 |
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| howmany2 = 300-400人 |
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| casualties1 = 軽傷 |
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| casualties2 = 11名負傷(うち5名死亡) |
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| campaignbox = |
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'''ボストン虐殺事件'''(ボストンぎゃくさつじけん、英:Boston Massacre)は、1770年3月5日に[[イギリス|イギリス領]][[マサチューセッツ湾直轄植民地]](現[[アメリカ合衆国]][[マサチューセッツ州]])の[[ボストン]]において[[イギリス軍|イギリス駐屯軍]]の部隊8名と、約300名から400名になる市民が衝突し、群衆側の投石などに対してイギリス兵が発砲して市民5名を射殺した事件。この一件を[[ポール・リビア]]や[[サミュエル・アダムズ]]といった植民地の自治権を求める者たち([[パトリオット (アメリカ革命)|パトリオット]])が「虐殺(massacre)」と呼称して大きく報じたため、この名前で呼ばれる。イギリス側は事件が発生した地名から'''キング・ストリート事件'''(キング・ストリートじけん、英:Incident on King Street)と呼ぶ<ref>{{cite web |url=https://stmuscholars.org/the-incident-on-king-street/#marker-70431-1 |title=The Incident on King Street: the Boston Massacre of 1770 |last=Zavala |first=Cesar |date=24 March 2017 |website=StMU Research Scholars |publisher=St. Mary's University of San Antonio, Texas |quote=The shooting became known as the Boston Massacre to all people in the colonies and as The Incident on King Street to the people of Great Britain.|accessdate=2023/1/18}}</ref>。 |
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1767年に[[イギリス議会|イギリス本国議会]]({{仮リンク|グレートブリテン議会|en|Parliament of Great Britain}})で制定された[[タウンゼンド諸法]]はアメリカ植民地で自治権を侵害するものとして強い反発を招き、これに対してイギリスは1768年よりマサチューセッツ湾直轄植民地に王室から任命された政府役人の警護や、同法の執行支援のため、イギリス軍を駐屯させていた。このため市民と駐屯兵の関係が緊迫する中で、些細な諍いをきっかけに、暴徒化した群衆が数人の兵士を取り囲み、罵倒したり、石や氷塊を投げつけた。トマス・プレストン大尉率いる6名の兵士が救援にかけつけたが、事態は収拾せず、そのうち、1名の兵士による不意の発砲により、プレストンの発砲命令なく他の兵士たちも次々に群衆に発砲した。この銃撃で3名が即死、8名が負傷し、うち2人がその後亡くなった。 |
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==事件概要== |
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代理総督の[[トマス・ハッチンソン]]が捜査を約束したことで群衆は解散し、翌朝にはプレストンと8名の兵士が逮捕されたが反イギリス感情の高まりから、最終的に軍は[[キャッスル・アイランド (マサチューセッツ州)|キャッスル島]]に退避せざるを得なかった。その後、プレストンら9名と民間人4名が殺人罪で起訴されたが、裁判は時間による沈静化を狙ったハッチンソンにより、半年以上経ってから行われた。この裁判では後の合衆国大統領[[ジョン・アダムズ]]が被告人の弁護を担い、プレストンと兵士6名は無罪、兵士2名は{{仮リンク|故殺罪|en|Manslaughter}}で有罪となった。また、有罪となった2名は本来は死刑であったが、当時の法慣習によって減刑され、親指への烙印の罰となった。 |
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事件はキングストリートで始まった。かつら製造業の若い弟子エドワード・ガーリックが、イギリス軍の士官ジョン・ゴールドフィンチ大尉に散髪代の支払いが遅れていると訴えた。ゴールドフィンチ大尉はその日に支払いを済ませていたのだが、ガーリックに返事をしようとしなかった。ガーリックは1時間後にも苦情を大きな声で訴えていたので、税関の外で歩哨に立っていた兵士ヒュー・ホワイトがガーリックを呼びつけて頭を殴った。ガーリックの仲間が叫びだしたので、イギリス軍の軍曹が彼らを追い払った。弟子達は近くにいた者達を集めて戻ってくると、歩哨に侮蔑の言葉を浴びせ雪玉やくずを投げ始めた。 |
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ホワイトは警衛部隊に応援を頼む知らせを走らせた。その日の当直トーマス・プレストン大尉は第29歩兵連隊から伍長1人と兵士6人を出動させ、自身も直ぐに現場に向かった。暴徒は数が増え、石、棒、氷の塊を投げ続けていた。一団の水夫と造船所の職工が大きな薪を持って現れ群衆の前面に出て兵士達に向き合った。周りの教会の鐘が鳴り、ボストン市民の群衆が更に大きくなり、威嚇的になった。 |
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騒動の最中にヒュー・モントゴメリー兵士が氷の礫を受けて倒れた。彼はマスケット銃を空に向けて威嚇弾を放った。彼が後に弁護士に語ったところでは、その時「撃て!」と叫んだという。1人を除いた兵士が群衆に向けて発砲した。無差別の銃撃で11人が被弾した。即死は3人、数時間後に1人、また2週間後に1人が死亡した。他の6人は命を取り留めた。死者:ロープ製造業サミュエル・グレイ、水夫ジェームズ・コールドウェル、混血の水夫クリスパス・アタックス、17歳のサミュエル・メイブリック(群衆の後ろにいたが跳ね返り弾を受けて翌日死亡)、30歳のアイルランド移民パトリック・カー(2週間後に死亡)。事態の収拾のために翌日イギリス軍当局はすべての軍人を町の中心部からボストン港のキャッスル・アイランド砦に移した。{{要出典|date=2022年12月}} |
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この事件は自治独立を志向する著名な愛国派(パトリオット)が、「虐殺(massacre)」という言葉を用いるなど、時に誇張も伴って植民地社会に喧伝され、イギリス本国と[[13植民地]]全体との緊張を高めた。特にリビアが制作した色刷りの版画が知られる。事件の結果、タウンゼンド諸法が一部撤廃されるなどしたが、本国と植民地の溝は埋まらず、その後も{{仮リンク|ガスピー号事件|en|Gaspee Affair}}や[[ボストン茶会事件]]などが起こり、最終的に1775年の[[アメリカ独立戦争]]に至ることになる。 |
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==イギリス軍人の裁判== |
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事件後、プレストンと兵士たちは逮捕され、[[サフォーク郡 (マサチューセッツ州)|サフォーク郡]]地方裁判所で裁判が行われた。[[ジョン・アダムズ|ジョン・アダムス]]、ジョシア・クインシー2世([[w:Josiah Quincy II|Josiah Quincy II]])、ロバート・オークミュティ(Robert Auchmuty)の3人が[[弁護士|弁護]]側についた。サンプソン・サルター・ブロウワーズ([[w:Sampson Salter Blowers|Sampson Salter Blowers]])は[[陪審制|陪審員]]の選定を行った。そしてマサチューセッツ植民地の首席[[検事]]、サミュエル・クインシー(Samuel Quincy)と私立弁護士[[ロバート・トリート・ペイン]]はボストンの町当局に雇われる形で検察側についた。陪審員全員をボストン町外の者から選んだため、裁判は1ヶ月遅れて始まった。 |
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== 背景 == |
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まず、陪審員はこの事件における射殺はプレストンの命令によって行われたものではないと判断し、プレストンを無罪とした。次いで1人の兵士が銃を全く撃たなかったという事実があったため、検察側は兵士各人の罪を証明しなければならなかった。この段階で、陪審員は6人の兵士を無罪とし、モントゴメリーとマシュー・キルロイ(Matthew Killroy)の2人の二等兵を[[殺人]]で有罪とした。本来ならば[[死刑]]に処せられるはずであったが、「聖職者の特権」([[w:benefit of the clergy|benefit of the clergy]])というイギリス法の規定により減刑され、親指への烙印だけで終わった。 |
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{{main|アメリカ合衆国の独立}} |
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[[イギリス|イギリス領]][[マサチューセッツ湾直轄植民地]]の首都である[[ボストン]]は、アメリカ植民地([[13植民地]])における重要な海運都市であると同時に、1760年代には[[イギリス議会|イギリス本国議会]]による課税に対する抵抗運動([[代表なくして課税なし]])の中心地でもあった。 |
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==歴史的意味== |
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1768年、イギリス本国議会はイギリスからアメリカ植民地に輸入される様々な物品に対して関税を掛ける[[タウンゼンド諸法]]を可決した。これに対し、植民地人たちは、イギリス臣民としての自然権、植民地憲章、憲法上の権利を侵害するものとして反発した<ref name=K54/>。 |
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[[Image:Boston_massacre_grave_20040930_105414_1.627x1068.jpg|right|thumb|200px|[[グラナリー墓地]]にある、事件の犠牲者の墓碑。碑にはこの事件で死去した5人の名が彫られている。]] |
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マサチューセッツ植民地議会は、国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]にタウンゼンド諸法の1つである歳入法の停止を求める請願書を送付し、反対運動を開始した。また議会は他の植民地議会にも「{{仮リンク|マサチューセッツ回状|en|Massachusetts Circular Letter}}」と呼ばれる書簡を送って抗議活動への参加を求め<ref name=K54>Knollenberg, ''Growth'', p. 54.</ref>、特に対象輸入品を扱う輸入商のボイコットを呼びかけた<ref>Ross and McCaughey, ''From Loyalist to Founding Father'', p. 94.</ref>。 |
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新設されたばかりの[[植民地大臣]]に任用された[[ウィルズ・ヒル (初代ダウンシャー侯爵)|ヒルズバラ伯爵]]は、マサチューセッツの行動を危険視した。1768年4月、彼はアメリカの植民地総督らに手紙を送り、マサチューセッツ回状に応じた植民地議会を解散させるよう指示した。また、マサチューセッツ植民地総督の[[フランシス・バーナード (初代準男爵)|フランシス・バーナード]]には、議会に回状の撤回を命じるよう指示した。しかし議会はこれに応じることを拒否した<ref>Knollenberg, ''Growth'', p. 56.</ref>。 |
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一方、[[サミュエル・アダムズ]]ら独立派は、この事件を「ボストン虐殺」と呼び、反イギリスの[[プロパガンダ]]として用いた。彼らはこの事件によって浮かび上がった問題は犠牲者の数の多少ではなく、イギリス政府が軍隊を常駐させ、イギリス議会によって制定された、植民地の法制度に真っ向から反する法律を軍隊の力によって施行しようとする政策にあると主張した。カーを除く4人の合同葬は、その当時の[[北アメリカ]]では最大の群集の集まりとなった。翌1771年から1783年にかけては、ボストン町当局はこの事件を忘れないために毎年この事件が起こった日に式典を行った。[[アメリカ独立宣言]]の文中にもボストン虐殺事件に対する不満が述べられている。しかし、この事件の裁判で弁護を務め、のちに第2代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]となったジョン・アダムスは、その弁護について、「私の人生の中で、最も勇敢で、寛容で、人間的で、公平無私な行動であり、また国に対して行った最善の行いのひとつであった」と述べた。しかし同時に、アダムスはこの事件の歴史的重要性についても認識しており、「アメリカ独立の礎となった」と述べている。 |
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ボストン税関長のチャールズ・パクストンは「[[1765年印紙法|印紙法]]の時と同様に政府は国民の手に委ねられている」として、ヒルズバラ卿に軍事支援を求める手紙を出した<ref>Triber, ''A True Republican'', p. 66.</ref>。 |
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今日では、この事件が起こった場所は、「ボストン虐殺地跡」として[[フリーダムトレイル]]沿いの名所になっている。ボストン虐殺地跡はデボンシャー通り(Devonshire Street)とステート通り(State Street)の交差点付近、[[マサチューセッツ州会議事堂#旧州会議事堂|旧州会議事堂]]の真向かいに位置している。 |
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[[サミュエル・フッド (初代フッド子爵)|サミュエル・フッド]]提督は、50門の大砲を備えた軍艦ロムニー号を派遣し、これは1768年5月にボストン港に到着してパクストンの要請に応えた<ref>Knollenberg, ''Growth'', p. 63.</ref>。 |
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6月10日、税関は、密輸に関与していたとして、ボストンの有力商人[[ジョン・ハンコック]]が所有していたスループ船リバティ号を押収した。元よりロムニー号の艦長が地元の船員たちを抑圧していたことも手伝って、ボストン市民の怒りは限界に達して暴動が起こり<ref>Triber, ''A True Republican'', p. 63.</ref>、税関職員はマサチューセッツ湾上にある[[キャッスル・アイランド (マサチューセッツ州)|キャッスル島]]の要塞[[フォート・インディペンデンス (マサチューセッツ州)|キャッスル・ウィリアム]]に避難した<ref>Ross and McCaughey, ''From Loyalist to Founding Father'', p. 93.</ref>。 |
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こうしたマサチューセッツの情勢不安に対し、ヒルズバラ卿は{{仮リンク|北アメリカ最高司令官|en|Commander-in-Chief, North America}}[[トマス・ゲイジ]]将軍に「ボストンに必要と思われる軍隊」を送るよう指示して4個連隊が派遣されることが決定し<ref>Knollenberg, ''Growth'', 75.</ref>、その最初の部隊は1768年10月1日にボストンに到着した<ref>Knollenberg, ''Growth'', p. 76.</ref>。 |
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==参考文献== |
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1769年に2個連隊はボストンから撤兵したが、第14連隊と第29連隊はそのまま駐屯することとなった<ref name=K76_8/>。 |
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『{{仮リンク|ジャーナル・オブ・アカーランス|en|Journal of Occurrences}}』は、ボストン市民と兵士の衝突を記録した一連の新聞の匿名記事において、時に誇張された内容で緊張を煽ったが、1770年2月22日に発生した「約11歳の若者」{{仮リンク|クリストファー・サイダー|en|Christopher Seider}}が税関職員に殺されたという報道の後は、さらに顕著に緊張が高まった<ref name=K76_8>Knollenberg, ''Growth'', pp. 76–78.</ref>。 |
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==外部リンク== |
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サイダーの死は『{{仮リンク|ボストン・ガゼット|en|Boston Gazette}}』紙で取り上げられ、彼の葬儀は、ボストンで当時最大規模で行われたとある。この事件とその後の報道は緊張を煽り、植民地主義者は嫌がらせ目的で兵士を探し、兵士の方も対立を求めていた<ref>Middlekauff, ''Glorious Cause'', pp. 208–210.</ref>。 |
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*[http://maps.yahoo.com/maps_result?addr=Devonshire+St+at+State+St&csz=Boston%2C+MA&country=us&new=1&name=&qty= ボストン虐殺地跡(Yahoo!Map地図)] |
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== 事件 == |
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[[File:2009 BostonMassacre site 3658174192.jpg|thumb|right|1713年から1776年まで使用されていた[[旧マサチューセッツ州会議事堂]]の正面写真。手前下の円形の石畳部分には「ボストン虐殺事件跡地」と書かれているが、実際に事件が起きたのは、この近くの通りである。]] |
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3月5日の晩、キング・ストリート(現在のステート・ストリート)にある{{仮リンク|ボストン税関|en|Boston Custom House}}で、屋外警備にあたっていたジョン・ゴールドフィンチ大尉とヒュー・ホワイト一等兵は、{{仮リンク|エドワード・ギャリック|en|Edward Garrick}}という名の13歳のかつら屋の見習い少年からちょっかいを掛けられた。それはゴールドフィンチがギャリックが雇われている店への代金を踏み倒そうとしているという批難であったが<ref>{{Cite web|url=https://www.history.com/news/the-boston-massacre-245-years-ago|title=Remembering the Boston Massacre|last=Andrews|first=Evan|website=HISTORY|language=en|access-date=2020-02-20}}</ref>、実際には前日に支払いを済ませており、ゴールドフィンチはこの侮辱を無視した<ref name=Allison11>Allison, ''The Boston Massacre'', 11.</ref>。 |
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見かねたホワイトがギャリックに将校にはもっと敬意を払うべきだと呼びかけたところ、2人は互いに侮辱しあって口論となった。そしてギャリックは指でゴールドフィンチの胸を突き始めた。ここでホワイトは持ち場を離れると少年を挑発し、マスケット銃で彼の側頭部を殴打した。ギャリックが痛みに叫び声を挙げると、彼の仲間バーソロミュー・ブローダーズが介入し、ホワイトと口論となってますます群衆の注目を集めた<ref>Zobel, ''The Boston Massacre'', pp. 185–186.</ref>。 |
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現場に出くわした当時19歳の書店員[[ヘンリー・ノックス]](後の独立戦争で将軍として活躍し、初代合衆国陸軍長官を務めた)は、ホワイトに「もし発砲すれば、お前は死ぬぞ」と警告した<ref name=Allison11/>。 |
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夜が更けるにつれ、ホワイトの周りに集まる群衆の数は増え、騒がしくなっていった。通常、火事の発生を意味する教会の鐘が鳴り響き、さらに多くの人々を集めた。{{仮リンク|クリスパス・アタックス|en|Crispus Attucks}}という名の混血の元奴隷([[ムラート|自由ムラート]])を筆頭に、50人以上のボストン市民がホワイトに押しかけ、物を投げつけたり、銃を撃つように挑発した。ホワイトは、税関の階段というやや安全な場所を確保すると救援を求めた。税関職員は近くにあった兵舎の当直士官であった{{仮リンク|トマス・プレストン|en|Thomas Preston}}大尉に助けを求めた<ref>Allison, ''The Boston Massacre'', p. 12.</ref><ref>Archer, ''As if an Enemy's Country'', p. 190.</ref>。 |
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彼の報告によれば、フット第29連隊の擲弾兵中隊から下士官1名と一等兵6名を抽出し、固定式銃剣を携帯していたホワイトの下へ駆けつけたという<ref>Zobel, ''Boston Massacre'', p. 194.</ref><ref>Archer, ''As if an Enemy's Country'', p. 191.</ref>。 |
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この部下たちの名はそれぞれ、ウィリアム・ウェムズ伍長以下、{{仮リンク|ヒュー・モンゴメリー|en|Hugh Montgomery}}、ジョン・キャロル、ウィリアム・マッコーリー、ウィリアム・ウォーレン、{{仮リンク|マシュー・キルロイ|en|Matthew Kilroy}}である。彼らが群衆を分け入って進む中で、ノックスはプレストンのコートを掴むと彼に「どうか頼むから(For God's sake)、部下には注意しろよ。もし彼らが撃ってみろ、あんたは死ぬからな」と警告した<ref>{{Cite web|url=http://law2.umkc.edu/faculty/projects/ftrials/bostonmassacre/prestontrialexcerpts.html|title=Account of the trial of Captain Preston|website=law2.umkc.edu|access-date=2020-04-23}}</ref>{{clarify|date=December 2013}}。 |
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これにプレストンは「わかっている」と答えた<ref>Zobel, ''Boston Massacre'', 195.</ref>。 |
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税関の階段の所にいたホワイトの下に辿り着くと兵士たちはマスケット銃を装填して半円形状に整列した。そして、プレストンは300から400人はいると推定される群衆に向かって解散するように叫んだ<ref name=Z196>Zobel, ''Boston Massacre'', p. 196.</ref>。 |
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群衆は兵士の周りに押し寄せて「撃ってみろ!」と叫んだり、ツバを吐きつけたり、雪玉やその他、小さな物を投げつけて彼らを挑発し続けた<ref name=Z197>Zobel, ''Boston Massacre'', p. 197.</ref>。 |
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宿屋の主人リチャード・パルメスは棍棒を手にした状態でプレストンに近づき、彼に兵士たちの武器に弾が込められているか確認した。プレストンは装填はされているが、自分の許可なしには発砲しないと断言した。後の彼の証言によれば、自分が部下たちの前に立っていたがために、発砲する可能性は低かったとしている。その後、投擲物が直撃したモンゴメリ一等兵が倒れ、マスケット銃を落とした。怒った彼は銃を拾い直すと「ちくしょうめ、撃ってやる!」と叫び、未だ発砲許可がない中で群衆に向かって発砲した。パルメスは、まずモンゴメリに棍棒を振り下ろして、その腕を打ち、次にプレストンに振り下ろした。棍棒はプレストンの頭部をかろうじてかすめ、代わりに腕に命中した<ref name=Z197/>。 |
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その後、正確な時間は不明だが一時小康状態になった後(目撃者の推定では、数秒から2分)、兵士が群衆に向かって発砲した。プレストンの命令によるものではなかったため、それは統制の取れたものではなかった。不規則な連射の末に11名の男性が被弾した<ref>Zobel, ''Boston Massacre'', 198–200.</ref><ref>[https://www.britannica.com/event/Boston-Massacre#ref329397 "Boston Massacre"], ''Encyclopaedia Britannica''. Retrieved April 28, 2020</ref>。 |
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この内、3名のアメリカ人、クリスパス・アタックス、ロープ職人のサミュエル・グレイ、船員のジェームズ・コールドウェルが即死した<ref name=ShortNarrative11>''A Short Narrative'', 11.</ref>。 |
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17歳の象牙加工職人見習いのサミュエル・マーヴェリックは、群衆の後方にいたが跳弾を受けて翌朝未明に亡くなった<ref>Zobel, ''Boston Massacre'', 191.</ref>。腹部に命中したアイルランド移民のパトリック・カーは、当時の医療技術では致命傷であり、2週間後に死亡した<ref name=ShortNarrative11/>。 |
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見習い職人のクリストファー・モンクは重傷を負い、不具者となった<ref>Archer, ''As If an Enemy's Country'', 196.</ref>。彼は1780年に亡くなったが、死因は10年前に負った、この時の傷が原因とされる<ref>Allison, ''The Boston Massacre'', x.</ref><ref name=Miller395/>。 |
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群衆は税関の建物からは離れたが、通りには人が増え続けた<ref>Zobel, ''Boston Massacre'', p. 201.</ref>。 |
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プレストンは直ちに第29連隊の大部分を召集し、[[旧マサチューセッツ州会議事堂|議事堂]]前に防御陣地を敷いた<ref>York, "Rival Truths", p. 61.</ref>。 |
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現場に駆けつけた代理総督の[[トマス・ハッチンソン]]は群衆に圧迫され、議事堂内に入らざるを得なかった。そのバルコニーより、彼は最小限の秩序を回復し、群衆が解散すれば、発砲に対する公正な捜査を行うと約束した<ref name=Bailyn158>Bailyn, ''Ordeal'', p. 158.</ref>。 |
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{{Gallery |
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| File:The Fruits of Arbitrary Power, or The Bloody Massacre by Henry Pelham.jpg|有名な[[ポール・リビア]]の版画の元となったヘンリー・ペラムの版画。このオリジナルでは「Butcher's Hall」の文字はない。 |
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| File:Boston Massacre.jpg|リビアの版画の着色版の1つ。このバージョンでは被害者の中に黒人がいない。 |
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| File:Boston Massacre, 03-05-1770 - NARA - 518262.jpg|リビアの版画をアレンジして作成された{{仮リンク|ジョン・バフォード|en|John Henry Bufford}}による1856年の作品。中央に黒人のクリスパス・アタックスが描かれて強調されており、奴隷制廃止派の重要なシンボルとなった<ref>O'Connor, ''The Hub'', p. 56.</ref>。 |
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| File:BostonMassacre byAlonzoChappel1878.png|{{仮リンク|アロンゾ・チャペル|en|Alonzo Chappel}}による1868年製作の版画。それ以前の作品よりも、より混沌とした様子で描かれている。 |
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== 事件後 == |
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{{quote box|width=35%|align=right|quote=ダニエル・カルフェ(Daniel Calfe)による説明。3月3日土曜日の夕方、第29軍の擲弾兵ジェイムス・マクディードの妻である野営婦(camp-woman)が、父の店を訪れた。人々が縄製造場での騒動について会話し、兵士が関与したことについて非難していると、その女性は「兵士たちは正しい」と言い、「火曜日か水曜日の夜までに、彼らの剣や銃剣はニューイングランド人の血で濡れるだろう」と付け加えたという。|source=『A Short Narrative(短い物語)』に掲載されている、兵士たちが植民地人に対して暴力を振るうことを厭わなかったことを示す記述を抜粋<ref>''A Short Narrative'', p. 17.</ref>。}} |
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{{quote box|width=35%|align=right |
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|quote=ジョン・ギレスピー氏の宣誓供述書(第104号)によれば、彼は友人たちとパブで会うため町の南端に向かった際、通りで、彼の見立てでは40人から50人の集団に出会った。そして彼が友人とそこに座り、別の知人何人かがばらばらにやってくる間、先述のように通りで見かけた人たちが(棍棒で)武装していることに気がついた・・・。8時30分過ぎに鐘が鳴り、ギレスピー氏と彼の仲間たちは火事だと思った。しかし、パプの主人から、これは暴徒を集めるためのものだと言われた。ギレスピー氏は帰宅を決意し、その帰路で、多くの人々が棍棒や棒、あるいは別の武器を持って走っていく人たちと出会った。同時に町で火事があったかのように、2台の消防車もすれ違って行った。しかし、すぐに火事ではなく、民衆が兵隊と戦おうとしていることを告げられ、彼らは消防車を止めて助けに向かうことを決めた。この出来事はすべて税関近くの兵士たちがマスケット銃を発砲する前の話で、9時30分過ぎのことだった。このことは住民たちがその晩に兵士たちを襲撃する計画を立て、その実行の準備をしていたことを示している。 |
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|source=『A Fair Account(公正な説明)』に掲載されている、植民地の急進派が兵士への攻撃を意図していたことを示唆する記述を抜粋<ref>''A Fair Account'', pp. 14–15</ref>。}} |
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=== 容疑者の逮捕・起訴とイギリス軍への退去命令 === |
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ハッチンソンは直ちに事件の捜査を開始し、翌朝にはプレストンと8人の兵士が逮捕された<ref>Zobel, ''Boston Massacre'', p. 205.</ref>。 |
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ボストン議会は軍隊を[[キャッスル・アイランド (マサチューセッツ州)|キャッスル島]]にある要塞[[フォート・インディペンデンス (マサチューセッツ州)|キャッスル・ウィリアム]]に撤退させるようハッチンソンに命じ<ref name=Bailyn158/>、植民地人たちは[[ファニエル・ホール]]で市民会議を開き、この事件を議論した。 |
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総督評議会は当初、軍隊の撤退命令に反対し、ハッチンソンには軍に対する移動命令の権限はないと説明した。部隊の指揮官は{{仮リンク|ウィリアム・ダルリンプル|en|William Dalrymple (British Army officer)}}中佐であったが、彼は部隊を移動させることを申し出なかった<ref>York, "Rival Truths", p. 63.</ref>。 |
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これを知った市民会議はさらに反発を強め、彼らは立場を変えて全会一致で(ハッチンソンの報告書によれば「強要されて」)軍隊の撤収を要請することが可決された<ref name=Bailyn159>Bailyn, ''Ordeal'', p. 159.</ref>。 |
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総務長官{{仮リンク|アンドリュー・オリバー|en|Andrew Oliver}}は部隊を撤収させなかった場合について「おそらく民衆により壊滅させられていただろう―― それが反乱と呼ばれるべきか、我々は憲章を失うことになるだろうか、その結果がなんであれ」と報告している<ref name=Bailyn161>Bailyn, ''Ordeal'', p. 161.</ref>。 |
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約1週間後に、第14連隊は何事もなくキャッスル島に移動し、第29連隊もその直後に移動したが<ref>York, "Rival Truths", p. 64.</ref>、総督が町を統治する有効な手段を失った<ref name=Bailyn161/>。 |
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犠牲者のうち、先に亡くなった4名は3月8日にボストン最古の埋葬地の1つである[[グラナリー墓地]]に式典を伴って埋葬された。その後、3月14日に亡くなった5人目の犠牲者パトリック・カーは、3月17日に彼らと同じ場所に埋葬された<ref>York, "Rival Truths", p. 66.</ref>。 |
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3月27日に、プレストン大尉と8名の兵士、また4名の民間人が殺人罪で起訴された。この4人の民間人は税関にいた者たちであり、彼らも発砲したとされていた<ref>York, "Rival Truths", pp. 59–60.</ref>。 |
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ボストンの市民たちは軍隊とその家族に対し、敵愾心を持ち続けた。ゲイジ将軍は軍の駐屯について現状は利より害が勝るとして、5月に第29連隊のマサチューセッツ植民地からの撤退を命じた<ref>Zobel, ''Boston Massacre'', p. 228.</ref>。 |
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ハッチンソンは、現状の緊張状態を利用して、裁判を(年内の間で)なるべく遅らせようと画策した<ref>Zobel, ''Boston Massacre'', p. 229.</ref>。 |
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=== プロパガンダ合戦 === |
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事件発生から数週間、ボストンの愛国派([[パトリオット (アメリカ革命)|パトリオット]])と忠誠派([[ロイヤリスト]])の間でプロパガンダ合戦が繰り広げられた。両者は双方で全く異なる内容の小冊子を発行し、これは主に[[ロンドン]]で出版され、ロンドンの世論に影響を及ぼそうと試みられたものであった。 |
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特に急進的な愛国派は、これを「虐殺(massacre)」と呼称した<ref>The Boston Massacre</ref><ref>Joseph Conlin, ''The American Past: A Survey of American History'', p. 133</ref><ref>Martin J. Manning, ''Historical Dictionary of American Propaganda'', p. 33</ref>。 |
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例えば、『ボストン・ガゼット』誌は、この虐殺は「自由の精神を鎮圧するため」に現在進行中の計画の一部であると述べ、市内に軍隊を駐屯させることへのネガティブな結果について強調した<ref>York, "Rival Truths", p. 68.</ref>。 |
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ボストン虐殺事件を描いた版画でよく知られるものに銀細工師で版画家の[[ポール・リビア]]による作品がある(正確には著名な肖像画家[[ジョン・シングルトン・コプリー]]の異母兄弟で、自身は彫版工であった{{仮リンク|ヘンリー・ペラム (版画家)|label=ヘンリー・ペラム|en|Henry Pelham (engraver)}}の版画を、リビアが忠実に模写した作品であるが、今日においてはリビアがオリジナルの作者と思われている)。この版画は、いくつか軍に批判的な内容が含まれている。プレストン大尉は部下に一斉射撃を命じており、彼らの背後の税関の窓には「Butcher's Hall(ブッチャーズ・ホール)」(注:ブッチャーは肉屋の意味で転じて虐殺者を意味する)と書かれている<ref>Triber, ''A True Republican'', p. 80.</ref>。 |
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画家のクリスチャン・レミックはいくつかのバージョンに手彩色を施した<ref name="ReferenceA">Fischer, ''Paul Revere's Ride'', 24.</ref>。 |
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これら版画のいくつかのバージョンにはアタックスの描写と一致する、胸に2つの傷がある浅黒い顔の男が描かれているが、一般には黒人の犠牲者は示されていなかった。この絵は『ボストン・ガゼット』に掲載されて広く知られ、効果的な反イギリスの声明となった。真っ赤な「ロブスターの背中」の絵と、赤い血を流した負傷者の絵はニューイングランド中の農家に掲げられた<ref>{{cite journal|last=Ross|first=Jane|title=Paul Revere – Patriot Engraver|journal=Early American Life|pages=34–37|date=April 1975}}</ref>。 |
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また、この事件を様々な視点から説明した匿名の小冊子も出版された。『A Short Narrative of the Horrid Massacre(恐ろしい虐殺についての短い物語)』はボストン市議会の後援を受けて出版されたものであり、主に総督評議会のメンバーで、イギリスの植民地政策を声高に批判する[[ジェイムズ・ボーディン]]がサミュエル・ペンバートンやジョセフ・ウォレンとともに執筆した<ref>Walett, pp. 330–333.</ref>。 |
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この小冊子は、発砲事件と、他にその前日に起こった小さな事件を、平和で法律を守っている住民に対する謂れのない攻撃とし、歴史家のニール・ラングレー・ヨークによれば、おそらくこの出来事について説明した最も影響力のある文章であった<ref>York, "Rival Truths", p. 70.</ref>。 |
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それら説明は事件後に行われた90以上の供述書が基になっており、この中にはプレストン大尉が、危害を加える意図を持って部下を配備したという非難も含んでいた<ref>York, "Rival Truths", p. 72.</ref>。 |
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市の指導者たちは、陪審員団への影響を最小限にするために地元への小冊子の配布は差し控えていたが、他の植民地や、あるいはハッチンソンがロンドンに供述書を送ろうと画策していることを察知して、同地には先んじてコピーを送っていた<ref>York, "Rival Truths", pp. 73–74.</ref>。 |
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『Additional Observations on the Short Narrative(短い物語についての追加見解)』と題された2つめの小冊子では、税関職員が危険のため職務を行えないという名目で職場放棄していると主張し、王室の役人への攻撃をさらに助長した。 |
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ある税関職員は、ハッチンソンの集めた供述書をロンドンに運ぶためボストンを出発した<ref>York, "Rival Truths", p. 77.</ref>。 |
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ハッチンソンの証言は、主に兵士たちの証言が収められた『A Fair Account of the Late Unhappy Disturbance in Boston(ボストンにおける最近起こった不幸な騒動についての公正な説明)』と題する小冊子に掲載された<ref name="York74"/>。 |
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その内容はボストン市民が議会法の正当性を否定していることを非難するものであった。また、この騒動に先立つ無法状態をボストン市民の責任とし、彼らが兵士を付け狙っていたと主張していた<ref>York, "Rival Truths", p. 75.</ref>。 |
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ただ、この小冊子が発行されたのは最初の小冊子がロンドンに到着したよりも、かなり後のことであったため、ロンドン世論に与えた影響はかなり小さかった<ref name="York74">York, "Rival Truths", p. 74.</ref>。 |
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=== 裁判 === |
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[[File:Johnadamsvp.flipped.jpg|thumb| 兵士らの弁護を担当した[[ジョン・アダムズ]]。]] |
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[[File:Boston_Massacre,_Boston_Gazette_newspaper_clipping,_1770-03-12.png|thumb|葬儀の4日後にあたる1770年3月12日付のボストン・ガゼット紙の報道。イラストは4人の犠牲者の棺を表し、それぞれのイニシャルが入っている。]] |
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{{Quotation| |
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プレストン大尉と兵士らを守るために行った行動は、私に対する不安と非難をもたらした。しかし、それは私の人生の中でも最も勇敢で、寛容で、男らしく、無私の行動であり、国に行った最高の奉仕の1つであった。彼ら兵士たちに対する死の判決は、かつてのクエーカー教徒や魔女に対する処刑と同様に{{efn|これはそれぞれ{{仮リンク|ボストン殉教者|en|Boston martyrs}}と[[セイラム魔女裁判]]を指している。}}、この国の汚点となっただろう。証拠がある以上は、陪審員の評決はまさに正しかったのだ。しかし、このことは、この町があの夜の出来事を虐殺と呼称すべきでない理由にはならないし、また、彼らをここに送り込んだ総督や大臣を支持する論拠にもならない。常備軍の危険性を示す最も強力な証拠であるのだ。 |
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|ジョン・アダムズ、虐殺の3周年にあたって<ref>Adams and Butterfield, ''Diary'', p. 79.</ref>}} |
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植民地政府は、イギリス本国からの報復の因縁とならないように、また穏健派が愛国派らから疎外されないように、兵士たちに公正な裁判を受けさせることを決めた。ここで政府は[[ジョン・アダムズ]]にプレストンの弁護を依頼した。アダムズはすでに有力な愛国派として知られ、公職への立候補も考えていたが、公正な裁判を確保するという主旨に同意し、許諾した<ref name=Z220>Zobel, ''Boston Massacre'', p. 220.</ref>。 |
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また愛国派の中でも急進派である「[[自由の息子達]]」が任命に反対しないと保証された後、{{仮リンク|ジョサイア・クインシー2世|en|Josiah Quincy II}}と、ロイヤリストのロバート・オークムティも参加することが決まった<ref>Zobel, ''Boston Massacre'', pp. 220–221.</ref>。 |
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彼らは、陪審員団を調査することを主な任務とする{{仮リンク|サンプソン・ソルター・ブロワーズ|en|Sampson Salter Blowers}}と、裁判で用いられる詳細な遺体図を描いたポール・リビアの支援を受けた<ref>Zobel, ''Boston Massacre'', p. 268.</ref><ref>Cumming, ''The Fate of a Nation'', p. 24.</ref> |
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。 |
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またボストン市は、マサチューセッツ植民地司法長官サミュエル・クインシーと私選弁護士[[ロバート・トリート・ペイン]]を検察役として任命した<ref>York, "Rival Truths", p. 81.</ref>。 |
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1770年10月下旬にプレストンの裁判が先んじて行われ、彼の発砲命令はなかったと陪審員たちは判断したため、無罪判決が下った<ref>Zobel, ''Boston Massacre'', pp. 243–265.</ref>。 |
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8名の兵士に対する裁判は1770年11月27日に開廷した<ref>Zobel, ''Boston Massacre'', p. 269.</ref>。 |
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アダムズは陪審員たちに、兵士たちがイギリス人であるという事実の先を見るように求めた。また彼は兵士らを挑発した群衆を「生意気な小僧、[[ニグロ]]、[[ムラート]]、アイルランドのティーグ、ジャック・ターからなる雑多な暴徒共(rabble)」{{efn|ここで用いられている語はすべて侮蔑語であり、それぞれ「ニグロ(negro)」は黒人、「ムラート(mulatto)は白人と黒人の混血、「ティーグ(teague)」はアイルランド人、「ジャック・ター(jack tar)」は水夫を指している。}}と呼んでいた<ref>Zinn, ''A People's History of the United States'', p. 67.</ref>。そして「なぜ、そのような者共の一団を暴徒(mob)と呼ぶことを躊躇しなければならないのか、その呼び名が彼らにとってあまりにも立派ならともかく、私には想像がつかない。3月5日に暴徒らが兵士らを襲った(と認めた)からといって、太陽が止まったり消えたり、川が干上がることはない」と続けた<ref name=":0">{{Cite web|url=https://theamericanscholar.org/black-lives-and-the-boston-massacre/|title=Black Lives and the Boston Massacre|date=2018-12-03|website=The American Scholar|language=en-US|access-date=2020-04-23}}</ref>。 |
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アダムズは「おそらく、あの夜の恐ろしい惨事の主な原因」は元奴隷のクリスパス・アタックスの外見や挙動にあったとし、「彼の外見そのものが、何人をも恐怖させるに十分」であり、「片手で銃剣を掴み、もう片方の手で相手を打ち倒した」と陳述した<ref name=":1">{{Cite book|last=Harvey, Robert|url=https://books.google.com/books?id=YMWSDwAAQBAJ&q=had+hardiness+enough+to+fall+in+upon+them,+and+with+one+hand+took+hold+of+a+bayonet,+and+with+the+other+knocked+the+man+down.&pg=PT130|title="A few bloody noses" : the realities and mythologies of the American Revolution|date=2003|publisher=Overlook Press|isbn=1-58567-414-1|oclc=54927034}}</ref>。その上で、兵士らは暴徒に反撃する法的権利を持ち、したがって無実であると主張した。また、もし仮に挑発はされたが危険には晒されていなかったとしても、その場合でもせいぜいが{{仮リンク|故殺罪|en|manslaughter}}が適切だと指摘した<ref>Zobel, ''Boston Massacre'', p. 291.</ref>。 |
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しかし、この中の銃剣を掴んだという発言は証人2人の証言と矛盾しており、兵士が発砲し始めたとき、アタックスは{{convert|12|–|15|ft}}離れており、銃剣を手に取るには遠すぎた<ref name=":0" />。 |
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『The American Scholar』の著者ファラ・ピーターソンは、裁判におけるアダムズのスピーチは、彼の法廷戦略が「被告人が黒人とその取り巻きを殺したに過ぎず、それゆえに絞首刑には値しないと陪審員を納得させることにあった」と指摘している<ref name=":0" />。 |
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陪審員はアダムズの主張に同意し、2時間半にわたる審議の末、兵士のうち6名を無罪とし、残り2名を故殺罪で有罪とした。この2名には彼らが群衆に向かって直接発砲したという明白な証拠があったためであった。この陪審員らの決定は、兵士が群衆に脅威を感じていたとしても、発砲の判断は遅らせるべきであったと考えていたことを示唆している<ref>Zobel, ''Boston Massacre'', p. 294.</ref>。 |
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また、有罪判決を受けた兵士は{{仮リンク|聖職者の特権|en|Benefit of clergy}}{{efn|従犯の場合に減刑を認めるというローマ時代由来の法規定のこと。元はキリスト教司祭が世俗の裁判所の対象にならないという権利を与えるものであったため、この名前で呼ばれるが、当時は既に形骸化しており、聖職者に関係はない。}}を訴えることによって減刑され、死刑判決から公開の場での親指への烙印となった<ref>Zobel, ''Boston Massacre'', pp. 285–286, 298.</ref>。 |
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パトリック・カーの死の床での証言も、8人の兵士の殺人容疑を晴らすのに一役買った。以下は、彼を看取った医師[[ジョン・ジェフリーズ]]に対する法廷での尋問内容である<ref>{{Cite web|url=http://www.bostonmassacre.net/trial/trial-summary4.htm|title=Boston Massacre Historical Society|website=www.bostonmassacre.net|access-date=2020-04-25}}</ref>。 |
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{{poemquote| |
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Q:あなたはパトリック・カーを担当した医者ですか? |
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A:そうです。 |
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Q:彼(カー)は危険を感じていましたか? |
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A:彼が言うには、彼はアイルランド出身で、暴動が起きる様や、それを鎮圧するために兵士が出動する様を頻繁に見ていたそうです―― アイルランドでは兵士が民衆に向かって発砲するのをよく見たが、(今回のような)発砲までにここまで耐えたことは見たことがなかったそうです。 |
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Q:彼と最後に会話をしたのはいつでしたか? |
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A:午後4時頃です、その夜に彼は亡くなりました。そこで彼は次のようなことを話しました。自分を撃った男が誰であれ、そいつを許す。彼に悪意はなく、自分を守るために撃ったんだと納得している。 |
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}} |
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{{仮リンク|エドマンド・トローブリッジ|en|Edmund Trowbridge}}と{{仮リンク|ピーター・オリバー|en|Peter Oliver (loyalist)}}の両判事は陪審員らを指導し、特にオリバーは「カーの証言が宣誓に基づいていないのは事実だが、永遠の眠りについて間もない男の、しかも彼が命を落とす原因となった男たちに有利な証言を信じるべきかどうかを、あなた方は判断せねばならないのだ」と言及した。このカーの証言はアメリカ合衆国の法規範における[[伝聞証拠禁止の原則]]における{{仮リンク|死亡宣告時の例外|en|Dying declaration}}について最初期に記録された事例の1つである<ref>Supreme Judicial Court of Massachusetts, Bristol. [https://caselaw.findlaw.com/ma-supreme-judicial-court/1169261.html ''Commonweslth v. Ralph Nesbitt''.] (SJC 9824) 452 Mass. 236 (2008)</ref>。 |
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4人の民間人は12月13日に裁判にかけられた<ref>York, "Rival Truths", p. 84.</ref>。 |
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主な検察側証人は被告人の1人が雇っていた使用人であったが、彼は弁護側証人によって容易に反証される供述をした。被告人は全員が無罪となり、また検察側証人であった使用人は偽証罪で有罪判決を受け、鞭打ちとマサチューセッツ植民地からの追放刑を受けた<ref>York, "Rival Truths", p. 85.</ref>。 |
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== 影響 == |
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[[File:Boston Massacre Memorial - IMG 9560.JPG|thumb|right|upright|[[ボストンコモン]]に建てられた{{仮リンク|ボストン虐殺事件記念碑|en|Boston Massacre Monument}}(1889年、{{仮リンク|アドルフ・ロバート・クラウス|en|Adolph Robert Kraus}}作)。]] |
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[[File:Boston Massacre victims headstone (36128).jpg|thumb|right|upright|[[グラナリー墓地]]にある事件の被害者5名の墓標。1888年に現在の場所へ改葬された。]] |
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=== アメリカ独立戦争への発展 === |
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{{See also|アメリカ独立戦争}} |
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ボストン虐殺事件は国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]とイギリス議会の権威に対する植民地の感情を変えた最も重要な出来事の1つと考えられている。ジョン・アダムズは、1770年3月5日に「アメリカ独立の基礎が築かれた」と書き、サミュエル・アダムズや他の愛国派は毎年の記念行事({{仮リンク|虐殺の日|en|Massacre Day}})を利用して、独立への大衆の感情を煽った<ref>Zobel, ''Boston Massacre'', pp. 301–302.</ref>。 |
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この事件で重傷を負い、1780年に死亡した当時少年のクリストファー・モンクは、イギリスへの敵意を忘れさせないものとして称えられた<ref name=Miller395>Miller, ''Origins of the American Revolution'', p. 395.</ref>。 |
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後に起こる{{仮リンク|ガスピー号事件|en|Gaspee Affair}}や[[ボストン茶会事件]]は、イギリスとその植民地との間に生まれた溝を、さらにさらけ出すものであった。ニール・ヨークは独立戦争の発生までに5年の月日があり、両者の関係性はやや弱いと示唆しているものの、本事件が後の暴力を伴う反乱に繋がっていった重要な出来事と広く認識されている<ref>Woods, ''Exploring American History'', p. 149.</ref><ref>Wheeler et al, ''Discovering the American Past'', pp. 101–102.</ref>。 |
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[[ハワード・ジン]]は、ボストンには「社会階級の怒り」が満ちていたと論じている。彼は、『ボストン・ガゼット』が1763年に報じたものに、「少数の権力者」が「人々を謙虚にさせるため、彼らを貧しい状態に維持する」政治プロジェクトを推進している、とするものがあったと紹介している<ref>{{Harvnb|Zinn|1980}}.</ref>。 |
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=== 記念式典 === |
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{{See also|{{仮リンク|虐殺の日|en|Massacre Day}}|フリーダムトレイル}} |
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この虐殺事件は、1858年に{{仮リンク|ウィリアム・クーパー・ネル|en|William Cooper Nell}}が主催した記念式典で追悼されるようになった。ネルは黒人奴隷解放運動家であり、独立戦争におけるアフリカ系アメリカ人の役割を示す機会としてクリスパス・アタックスの死を引用した<ref name=Nell515>Nell et al, ''William Cooper Nell'', 515.</ref>。 |
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また、同事件を記念して、犠牲者の肌の色を黒に変えてアタックスの死を強調する芸術作品も制作された<ref>{{cite journal|last=Fitz|first=Karsten|title=Commemorating Crispus Attucks: Visual Memory and the Representations of the Boston Massacre, 1770–1857|journal=American Studies|volume=50|issue=3|year=2005|jstor=41158169|pages=463–484}}</ref>。 |
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1888年、[[ボストンコモン]]に同事件の犠牲者を追悼するための{{仮リンク|ボストン虐殺事件記念碑|en|Boston Massacre Monument}}が建てられ、また犠牲者の5名は[[グラナリー墓地]]の目立つ墓へと改葬された<ref name=York46>York, ''The Boston Massacre'', p. 46.</ref>。 |
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毎年3月5日<ref>{{cite web|url=http://www.thefreedomtrail.org/visitor/boston-massacre.html |title=The Boston Massacre |publisher=The Freedom Trail Foundation |access-date=November 21, 2011 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20111125211125/http://www.thefreedomtrail.org/visitor/boston-massacre.html |archive-date=November 25, 2011 }}</ref>、ボストン協会の後援による同事件の再現劇が行われている<ref>{{cite web|url=http://www.bostonhistory.org/?s=osh&p=reenactorreg|title=Massacre Reenactment Registration|publisher=Bostonian Society|access-date=November 21, 2011}}</ref><ref>Young, p. 20</ref>。 |
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旧議事堂、事件現場、グラナリー墓地はボストンの[[フリーダムトレイル]]の経路上にあり、街の歴史上重要な場所を結んでいる<ref name=York46/>。 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Notelist|2}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|20em}} |
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== 参考文献 == |
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* {{cite book|title=A Fair Account of the Late Unhappy Disturbance at Boston|url=https://archive.org/details/fairaccountoflat00unkn|page=[https://archive.org/details/fairaccountoflat00unkn/page/3 3]|publisher=B. White|year=1770|oclc=535966548|location=London}} Original printing of a reply to "A Short Narrative…", supplying several depositions, including that of Lieutenant-Governor Hutchinson, which were left out of the Narrative. |
|||
* {{cite book|title=A Short Narrative of the Horrid Massacre|url=https://books.google.com/books?id=catbAAAAQAAJ&pg=PP2|publisher=W. Bingley|location=London|year=1770|oclc=510892519}} Original printing of the report of a committee of the town of Boston. |
|||
* {{cite book|last=Adams|first=John|editor-last=Butterfield |editor-first=L.H. |title=Diary and Autobiography of John Adams, vol. 2|location=Cambridge, MA|publisher=The Belknap Press of Harvard University Press|year=1962|oclc=19993300}} |
|||
* {{cite book|last=Allison|first=Robert J.|title=The Boston Massacre|publisher=Applewood Books|year=2006|location=Beverly, MA|isbn=978-1-933212-10-4|oclc=66392877}} |
|||
* {{Cite book|date=2013 |publisher= Casemate|title= 7 Leadership Lessons of the American Revolution: The Founding Fathers, Liberty, and the Struggle for Independence | last= Antal |first=John |isbn=9781612002033 |url={{Google books |55jUAgAAQBAJ |page=40 |plainurl=yes}} }} |
|||
* {{cite book|last=Archer|first=Richard|title=As if an Enemy's Country: the British Occupation of Boston and the Origins of Revolution|publisher=Oxford University Press|year=2010|location=Oxford, NY|isbn=978-0-19-538247-1|oclc=313664751|url=https://archive.org/details/asifenemyscountr00arch}} |
|||
* {{cite book|last=Bailyn|first=Bernard|author-link=Bernard Bailyn|title=The Ordeal of Thomas Hutchinson|location=Cambridge, MA|year=1974|publisher=Harvard University Press|isbn=978-0-674-64160-0|oclc=6825524|url=https://archive.org/details/ordealofthomashu00bern}} |
|||
* {{cite book|title=The Fate of a Nation: The American Revolution Through Contemporary Eyes|last1=Cumming|first1=William P.|last2=Rankin|first2=Hugh F.|year=1975|publisher=Phaidon Press|location=New York|isbn=978-0-7148-1644-9|oclc=1510269|url=https://archive.org/details/fateofnationamer0000cumm}} |
|||
* {{cite book|last1=Fischer|first1=David Hackett|author-link=David Hackett Fischer|year=1994|title=Paul Revere's Ride|location=New York|publisher=Oxford University Press|isbn=978-0-19-508847-2|oclc=263430392|url=https://archive.org/details/isbn_9780195088472}} |
|||
* {{cite book|last=Knollenberg|first=Bernhard|title=Growth of the American Revolution, 1766–1775|location=New York|publisher=Free Press|year=1975|isbn=978-0-02-917110-3|oclc=1416300|url=https://archive.org/details/growthofamerican00knol}} |
|||
* {{cite book|last=Middlekauff|first=Robert|author-link=Robert Middlekauff|title=The Glorious Cause: The American Revolution, 1763–1789|publisher=Oxford University Press|year=2007|location=New York and Oxford|isbn=978-0-19-516247-9|oclc=496757346}} |
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* {{cite book|last=Miller|first=John|title=Origins of the American Revolution|url=https://archive.org/details/originsofamerica0000mill|url-access=registration|publisher=Stanford University Press|year=1959|location=Stanford, CA|isbn=9780804705936|oclc=180556929}} |
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* {{cite book|last1=Nell|first1=William Cooper| author1-link = William Cooper Nell|last2=Wesley |first2=Dorothy Porter | author2-link = Dorothy B. Porter|last3=Uzelac |first3=Constance Porter |title=William Cooper Nell, Nineteenth-Century African American Abolitionist, Historian, Integrationist: Selected Writings from 1832–1874|publisher=[[Black Classic Press]]|year=2002|location=Baltimore, MD|isbn=978-1-57478-019-2|oclc=50673509}} |
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* {{cite book|last1=Ross|first1=Betsy McCaughey|last2=McCaughey |first2=Elizabeth P. |title=From Loyalist to Founding Father: the Political Odyssey of William Samuel Johnson|publisher=Columbia University Press|year=1980|location=New York|isbn=978-0-231-04506-3|oclc=479827879}} |
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* {{cite book|last=Zinn|first=Howard| author-link =Howard Zinn|title=A People's History of the United States|publisher=HarperCollins|location=New York|year=1980|isbn=978-0-06-019448-2|oclc=42420960|title-link=A People's History of the United States}} |
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== 関連文献 == |
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* {{cite book |title=Boston's Massacre |first=Eric |last=Hinderaker |publisher=Belknap Press: An Imprint of Harvard University Press |year=2017 |isbn=978-0674048331}} |
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* {{cite journal|last=Ritter|first=Kurt W|title=Confrontation as Moral Drama: the Boston Massacre in Rhetorical Perspective|journal=Southern Speech Communication Journal|year=1977|volume=42|issue=1|pages=114–136|doi=10.1080/10417947709372339|issn=0361-8269}} |
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* {{cite book |last1=Zabin |first1=Serena |title=The Boston Massacre: A Family History |date=2020 |publisher=Houghton Mifflin Harcourt |location=Boston |isbn=9780544911154}} |
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== 外部リンク == |
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{{Commons category |Boston Massacre}} |
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{{Library resources box|onlinebooks=yes}} |
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* {{Wikisource-inline|list= |
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** {{Cite NIE |wstitle=Boston Massacre, The |short=x |noicon=x}} |
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** {{Cite Americana |wstitle=Boston Massacre |short=x |noicon=x}} |
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** {{Cite Collier's |wstitle=Boston Massacre |short=x |noicon=x}} |
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** [[s:An oration delivered April 2d, 1771|An oration delivered April 2d, 1771, at the request of the inhabitants of the town of Boston]] (1771) by [[James Lovell (Continental Congress)|James Lovell]] |
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* [http://www.bostonmassacre.net The Boston Massacre Historical Society] |
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* [http://www.nps.gov/bost/ Boston National Historical Park Official Website] |
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* [https://founders.archives.gov/documents/Adams/05-03-02-0001-0004-0016 Adams’ Argument for the Defense] at the trial of the soldiers, at Founders Online website. (Retrieved 10 December 2017.) |
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* [http://www.masshist.org/revolution/massacre.php Massachusetts Historical Society Massacre Exhibit] |
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* [https://web.archive.org/web/20111012023020/http://www.bostonhistory.org/sub/bostonmassacre/ Boston Massacre investigative game] by the [[Bostonian Society]], stagers of the annual reenactment |
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2023年2月11日 (土) 14:13時点における版
ボストン虐殺事件 Boston Massacre | |||
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『血まみれの虐殺(The Bloody Massacre)』と題されたポール・リビアによる1770年の版画(クリスチャン・レミックによる手彩色版)。 | |||
日時 | 1770年3月5日 | ||
場所 | ボストン | ||
原因 |
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結果 | 植民地人5名を殺害ボストン虐殺事件 | ||
被告 |
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有罪判決を 受けた人 | モンゴメリー、キルロイ | ||
罪状 | 殺人罪 | ||
評決 | モンゴメリーとキルロイの2名については故殺罪で有罪とし、残りの者については無罪 | ||
判決 | モンゴメリーとキルロイの2名に対して親指への烙印 | ||
参加集団 | |||
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指導者 | |||
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人数 | |||
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死傷者数 | |||
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ボストン虐殺事件(ボストンぎゃくさつじけん、英:Boston Massacre)は、1770年3月5日にイギリス領マサチューセッツ湾直轄植民地(現アメリカ合衆国マサチューセッツ州)のボストンにおいてイギリス駐屯軍の部隊8名と、約300名から400名になる市民が衝突し、群衆側の投石などに対してイギリス兵が発砲して市民5名を射殺した事件。この一件をポール・リビアやサミュエル・アダムズといった植民地の自治権を求める者たち(パトリオット)が「虐殺(massacre)」と呼称して大きく報じたため、この名前で呼ばれる。イギリス側は事件が発生した地名からキング・ストリート事件(キング・ストリートじけん、英:Incident on King Street)と呼ぶ[1]。
1767年にイギリス本国議会(グレートブリテン議会)で制定されたタウンゼンド諸法はアメリカ植民地で自治権を侵害するものとして強い反発を招き、これに対してイギリスは1768年よりマサチューセッツ湾直轄植民地に王室から任命された政府役人の警護や、同法の執行支援のため、イギリス軍を駐屯させていた。このため市民と駐屯兵の関係が緊迫する中で、些細な諍いをきっかけに、暴徒化した群衆が数人の兵士を取り囲み、罵倒したり、石や氷塊を投げつけた。トマス・プレストン大尉率いる6名の兵士が救援にかけつけたが、事態は収拾せず、そのうち、1名の兵士による不意の発砲により、プレストンの発砲命令なく他の兵士たちも次々に群衆に発砲した。この銃撃で3名が即死、8名が負傷し、うち2人がその後亡くなった。
代理総督のトマス・ハッチンソンが捜査を約束したことで群衆は解散し、翌朝にはプレストンと8名の兵士が逮捕されたが反イギリス感情の高まりから、最終的に軍はキャッスル島に退避せざるを得なかった。その後、プレストンら9名と民間人4名が殺人罪で起訴されたが、裁判は時間による沈静化を狙ったハッチンソンにより、半年以上経ってから行われた。この裁判では後の合衆国大統領ジョン・アダムズが被告人の弁護を担い、プレストンと兵士6名は無罪、兵士2名は故殺罪で有罪となった。また、有罪となった2名は本来は死刑であったが、当時の法慣習によって減刑され、親指への烙印の罰となった。
この事件は自治独立を志向する著名な愛国派(パトリオット)が、「虐殺(massacre)」という言葉を用いるなど、時に誇張も伴って植民地社会に喧伝され、イギリス本国と13植民地全体との緊張を高めた。特にリビアが制作した色刷りの版画が知られる。事件の結果、タウンゼンド諸法が一部撤廃されるなどしたが、本国と植民地の溝は埋まらず、その後もガスピー号事件やボストン茶会事件などが起こり、最終的に1775年のアメリカ独立戦争に至ることになる。
背景
イギリス領マサチューセッツ湾直轄植民地の首都であるボストンは、アメリカ植民地(13植民地)における重要な海運都市であると同時に、1760年代にはイギリス本国議会による課税に対する抵抗運動(代表なくして課税なし)の中心地でもあった。 1768年、イギリス本国議会はイギリスからアメリカ植民地に輸入される様々な物品に対して関税を掛けるタウンゼンド諸法を可決した。これに対し、植民地人たちは、イギリス臣民としての自然権、植民地憲章、憲法上の権利を侵害するものとして反発した[2]。 マサチューセッツ植民地議会は、国王ジョージ3世にタウンゼンド諸法の1つである歳入法の停止を求める請願書を送付し、反対運動を開始した。また議会は他の植民地議会にも「マサチューセッツ回状」と呼ばれる書簡を送って抗議活動への参加を求め[2]、特に対象輸入品を扱う輸入商のボイコットを呼びかけた[3]。
新設されたばかりの植民地大臣に任用されたヒルズバラ伯爵は、マサチューセッツの行動を危険視した。1768年4月、彼はアメリカの植民地総督らに手紙を送り、マサチューセッツ回状に応じた植民地議会を解散させるよう指示した。また、マサチューセッツ植民地総督のフランシス・バーナードには、議会に回状の撤回を命じるよう指示した。しかし議会はこれに応じることを拒否した[4]。
ボストン税関長のチャールズ・パクストンは「印紙法の時と同様に政府は国民の手に委ねられている」として、ヒルズバラ卿に軍事支援を求める手紙を出した[5]。 サミュエル・フッド提督は、50門の大砲を備えた軍艦ロムニー号を派遣し、これは1768年5月にボストン港に到着してパクストンの要請に応えた[6]。 6月10日、税関は、密輸に関与していたとして、ボストンの有力商人ジョン・ハンコックが所有していたスループ船リバティ号を押収した。元よりロムニー号の艦長が地元の船員たちを抑圧していたことも手伝って、ボストン市民の怒りは限界に達して暴動が起こり[7]、税関職員はマサチューセッツ湾上にあるキャッスル島の要塞キャッスル・ウィリアムに避難した[8]。
こうしたマサチューセッツの情勢不安に対し、ヒルズバラ卿は北アメリカ最高司令官トマス・ゲイジ将軍に「ボストンに必要と思われる軍隊」を送るよう指示して4個連隊が派遣されることが決定し[9]、その最初の部隊は1768年10月1日にボストンに到着した[10]。 1769年に2個連隊はボストンから撤兵したが、第14連隊と第29連隊はそのまま駐屯することとなった[11]。
『ジャーナル・オブ・アカーランス』は、ボストン市民と兵士の衝突を記録した一連の新聞の匿名記事において、時に誇張された内容で緊張を煽ったが、1770年2月22日に発生した「約11歳の若者」クリストファー・サイダーが税関職員に殺されたという報道の後は、さらに顕著に緊張が高まった[11]。 サイダーの死は『ボストン・ガゼット』紙で取り上げられ、彼の葬儀は、ボストンで当時最大規模で行われたとある。この事件とその後の報道は緊張を煽り、植民地主義者は嫌がらせ目的で兵士を探し、兵士の方も対立を求めていた[12]。
事件
3月5日の晩、キング・ストリート(現在のステート・ストリート)にあるボストン税関で、屋外警備にあたっていたジョン・ゴールドフィンチ大尉とヒュー・ホワイト一等兵は、エドワード・ギャリックという名の13歳のかつら屋の見習い少年からちょっかいを掛けられた。それはゴールドフィンチがギャリックが雇われている店への代金を踏み倒そうとしているという批難であったが[13]、実際には前日に支払いを済ませており、ゴールドフィンチはこの侮辱を無視した[14]。 見かねたホワイトがギャリックに将校にはもっと敬意を払うべきだと呼びかけたところ、2人は互いに侮辱しあって口論となった。そしてギャリックは指でゴールドフィンチの胸を突き始めた。ここでホワイトは持ち場を離れると少年を挑発し、マスケット銃で彼の側頭部を殴打した。ギャリックが痛みに叫び声を挙げると、彼の仲間バーソロミュー・ブローダーズが介入し、ホワイトと口論となってますます群衆の注目を集めた[15]。 現場に出くわした当時19歳の書店員ヘンリー・ノックス(後の独立戦争で将軍として活躍し、初代合衆国陸軍長官を務めた)は、ホワイトに「もし発砲すれば、お前は死ぬぞ」と警告した[14]。
夜が更けるにつれ、ホワイトの周りに集まる群衆の数は増え、騒がしくなっていった。通常、火事の発生を意味する教会の鐘が鳴り響き、さらに多くの人々を集めた。クリスパス・アタックスという名の混血の元奴隷(自由ムラート)を筆頭に、50人以上のボストン市民がホワイトに押しかけ、物を投げつけたり、銃を撃つように挑発した。ホワイトは、税関の階段というやや安全な場所を確保すると救援を求めた。税関職員は近くにあった兵舎の当直士官であったトマス・プレストン大尉に助けを求めた[16][17]。 彼の報告によれば、フット第29連隊の擲弾兵中隊から下士官1名と一等兵6名を抽出し、固定式銃剣を携帯していたホワイトの下へ駆けつけたという[18][19]。 この部下たちの名はそれぞれ、ウィリアム・ウェムズ伍長以下、ヒュー・モンゴメリー、ジョン・キャロル、ウィリアム・マッコーリー、ウィリアム・ウォーレン、マシュー・キルロイである。彼らが群衆を分け入って進む中で、ノックスはプレストンのコートを掴むと彼に「どうか頼むから(For God's sake)、部下には注意しろよ。もし彼らが撃ってみろ、あんたは死ぬからな」と警告した[20][要説明]。 これにプレストンは「わかっている」と答えた[21]。 税関の階段の所にいたホワイトの下に辿り着くと兵士たちはマスケット銃を装填して半円形状に整列した。そして、プレストンは300から400人はいると推定される群衆に向かって解散するように叫んだ[22]。
群衆は兵士の周りに押し寄せて「撃ってみろ!」と叫んだり、ツバを吐きつけたり、雪玉やその他、小さな物を投げつけて彼らを挑発し続けた[23]。 宿屋の主人リチャード・パルメスは棍棒を手にした状態でプレストンに近づき、彼に兵士たちの武器に弾が込められているか確認した。プレストンは装填はされているが、自分の許可なしには発砲しないと断言した。後の彼の証言によれば、自分が部下たちの前に立っていたがために、発砲する可能性は低かったとしている。その後、投擲物が直撃したモンゴメリ一等兵が倒れ、マスケット銃を落とした。怒った彼は銃を拾い直すと「ちくしょうめ、撃ってやる!」と叫び、未だ発砲許可がない中で群衆に向かって発砲した。パルメスは、まずモンゴメリに棍棒を振り下ろして、その腕を打ち、次にプレストンに振り下ろした。棍棒はプレストンの頭部をかろうじてかすめ、代わりに腕に命中した[23]。
その後、正確な時間は不明だが一時小康状態になった後(目撃者の推定では、数秒から2分)、兵士が群衆に向かって発砲した。プレストンの命令によるものではなかったため、それは統制の取れたものではなかった。不規則な連射の末に11名の男性が被弾した[24][25]。 この内、3名のアメリカ人、クリスパス・アタックス、ロープ職人のサミュエル・グレイ、船員のジェームズ・コールドウェルが即死した[26]。 17歳の象牙加工職人見習いのサミュエル・マーヴェリックは、群衆の後方にいたが跳弾を受けて翌朝未明に亡くなった[27]。腹部に命中したアイルランド移民のパトリック・カーは、当時の医療技術では致命傷であり、2週間後に死亡した[26]。 見習い職人のクリストファー・モンクは重傷を負い、不具者となった[28]。彼は1780年に亡くなったが、死因は10年前に負った、この時の傷が原因とされる[29][30]。
群衆は税関の建物からは離れたが、通りには人が増え続けた[31]。 プレストンは直ちに第29連隊の大部分を召集し、議事堂前に防御陣地を敷いた[32]。 現場に駆けつけた代理総督のトマス・ハッチンソンは群衆に圧迫され、議事堂内に入らざるを得なかった。そのバルコニーより、彼は最小限の秩序を回復し、群衆が解散すれば、発砲に対する公正な捜査を行うと約束した[33]。
事件後
容疑者の逮捕・起訴とイギリス軍への退去命令
ハッチンソンは直ちに事件の捜査を開始し、翌朝にはプレストンと8人の兵士が逮捕された[37]。 ボストン議会は軍隊をキャッスル島にある要塞キャッスル・ウィリアムに撤退させるようハッチンソンに命じ[33]、植民地人たちはファニエル・ホールで市民会議を開き、この事件を議論した。 総督評議会は当初、軍隊の撤退命令に反対し、ハッチンソンには軍に対する移動命令の権限はないと説明した。部隊の指揮官はウィリアム・ダルリンプル中佐であったが、彼は部隊を移動させることを申し出なかった[38]。 これを知った市民会議はさらに反発を強め、彼らは立場を変えて全会一致で(ハッチンソンの報告書によれば「強要されて」)軍隊の撤収を要請することが可決された[39]。 総務長官アンドリュー・オリバーは部隊を撤収させなかった場合について「おそらく民衆により壊滅させられていただろう―― それが反乱と呼ばれるべきか、我々は憲章を失うことになるだろうか、その結果がなんであれ」と報告している[40]。 約1週間後に、第14連隊は何事もなくキャッスル島に移動し、第29連隊もその直後に移動したが[41]、総督が町を統治する有効な手段を失った[40]。 犠牲者のうち、先に亡くなった4名は3月8日にボストン最古の埋葬地の1つであるグラナリー墓地に式典を伴って埋葬された。その後、3月14日に亡くなった5人目の犠牲者パトリック・カーは、3月17日に彼らと同じ場所に埋葬された[42]。
3月27日に、プレストン大尉と8名の兵士、また4名の民間人が殺人罪で起訴された。この4人の民間人は税関にいた者たちであり、彼らも発砲したとされていた[43]。 ボストンの市民たちは軍隊とその家族に対し、敵愾心を持ち続けた。ゲイジ将軍は軍の駐屯について現状は利より害が勝るとして、5月に第29連隊のマサチューセッツ植民地からの撤退を命じた[44]。 ハッチンソンは、現状の緊張状態を利用して、裁判を(年内の間で)なるべく遅らせようと画策した[45]。
プロパガンダ合戦
事件発生から数週間、ボストンの愛国派(パトリオット)と忠誠派(ロイヤリスト)の間でプロパガンダ合戦が繰り広げられた。両者は双方で全く異なる内容の小冊子を発行し、これは主にロンドンで出版され、ロンドンの世論に影響を及ぼそうと試みられたものであった。 特に急進的な愛国派は、これを「虐殺(massacre)」と呼称した[46][47][48]。 例えば、『ボストン・ガゼット』誌は、この虐殺は「自由の精神を鎮圧するため」に現在進行中の計画の一部であると述べ、市内に軍隊を駐屯させることへのネガティブな結果について強調した[49]。
ボストン虐殺事件を描いた版画でよく知られるものに銀細工師で版画家のポール・リビアによる作品がある(正確には著名な肖像画家ジョン・シングルトン・コプリーの異母兄弟で、自身は彫版工であったヘンリー・ペラムの版画を、リビアが忠実に模写した作品であるが、今日においてはリビアがオリジナルの作者と思われている)。この版画は、いくつか軍に批判的な内容が含まれている。プレストン大尉は部下に一斉射撃を命じており、彼らの背後の税関の窓には「Butcher's Hall(ブッチャーズ・ホール)」(注:ブッチャーは肉屋の意味で転じて虐殺者を意味する)と書かれている[50]。 画家のクリスチャン・レミックはいくつかのバージョンに手彩色を施した[51]。 これら版画のいくつかのバージョンにはアタックスの描写と一致する、胸に2つの傷がある浅黒い顔の男が描かれているが、一般には黒人の犠牲者は示されていなかった。この絵は『ボストン・ガゼット』に掲載されて広く知られ、効果的な反イギリスの声明となった。真っ赤な「ロブスターの背中」の絵と、赤い血を流した負傷者の絵はニューイングランド中の農家に掲げられた[52]。
また、この事件を様々な視点から説明した匿名の小冊子も出版された。『A Short Narrative of the Horrid Massacre(恐ろしい虐殺についての短い物語)』はボストン市議会の後援を受けて出版されたものであり、主に総督評議会のメンバーで、イギリスの植民地政策を声高に批判するジェイムズ・ボーディンがサミュエル・ペンバートンやジョセフ・ウォレンとともに執筆した[53]。 この小冊子は、発砲事件と、他にその前日に起こった小さな事件を、平和で法律を守っている住民に対する謂れのない攻撃とし、歴史家のニール・ラングレー・ヨークによれば、おそらくこの出来事について説明した最も影響力のある文章であった[54]。 それら説明は事件後に行われた90以上の供述書が基になっており、この中にはプレストン大尉が、危害を加える意図を持って部下を配備したという非難も含んでいた[55]。 市の指導者たちは、陪審員団への影響を最小限にするために地元への小冊子の配布は差し控えていたが、他の植民地や、あるいはハッチンソンがロンドンに供述書を送ろうと画策していることを察知して、同地には先んじてコピーを送っていた[56]。 『Additional Observations on the Short Narrative(短い物語についての追加見解)』と題された2つめの小冊子では、税関職員が危険のため職務を行えないという名目で職場放棄していると主張し、王室の役人への攻撃をさらに助長した。 ある税関職員は、ハッチンソンの集めた供述書をロンドンに運ぶためボストンを出発した[57]。
ハッチンソンの証言は、主に兵士たちの証言が収められた『A Fair Account of the Late Unhappy Disturbance in Boston(ボストンにおける最近起こった不幸な騒動についての公正な説明)』と題する小冊子に掲載された[58]。 その内容はボストン市民が議会法の正当性を否定していることを非難するものであった。また、この騒動に先立つ無法状態をボストン市民の責任とし、彼らが兵士を付け狙っていたと主張していた[59]。 ただ、この小冊子が発行されたのは最初の小冊子がロンドンに到着したよりも、かなり後のことであったため、ロンドン世論に与えた影響はかなり小さかった[58]。
裁判
プレストン大尉と兵士らを守るために行った行動は、私に対する不安と非難をもたらした。しかし、それは私の人生の中でも最も勇敢で、寛容で、男らしく、無私の行動であり、国に行った最高の奉仕の1つであった。彼ら兵士たちに対する死の判決は、かつてのクエーカー教徒や魔女に対する処刑と同様に[注釈 1]、この国の汚点となっただろう。証拠がある以上は、陪審員の評決はまさに正しかったのだ。しかし、このことは、この町があの夜の出来事を虐殺と呼称すべきでない理由にはならないし、また、彼らをここに送り込んだ総督や大臣を支持する論拠にもならない。常備軍の危険性を示す最も強力な証拠であるのだ。
— ジョン・アダムズ、虐殺の3周年にあたって[60]
植民地政府は、イギリス本国からの報復の因縁とならないように、また穏健派が愛国派らから疎外されないように、兵士たちに公正な裁判を受けさせることを決めた。ここで政府はジョン・アダムズにプレストンの弁護を依頼した。アダムズはすでに有力な愛国派として知られ、公職への立候補も考えていたが、公正な裁判を確保するという主旨に同意し、許諾した[61]。 また愛国派の中でも急進派である「自由の息子達」が任命に反対しないと保証された後、ジョサイア・クインシー2世と、ロイヤリストのロバート・オークムティも参加することが決まった[62]。 彼らは、陪審員団を調査することを主な任務とするサンプソン・ソルター・ブロワーズと、裁判で用いられる詳細な遺体図を描いたポール・リビアの支援を受けた[63][64] 。 またボストン市は、マサチューセッツ植民地司法長官サミュエル・クインシーと私選弁護士ロバート・トリート・ペインを検察役として任命した[65]。 1770年10月下旬にプレストンの裁判が先んじて行われ、彼の発砲命令はなかったと陪審員たちは判断したため、無罪判決が下った[66]。
8名の兵士に対する裁判は1770年11月27日に開廷した[67]。 アダムズは陪審員たちに、兵士たちがイギリス人であるという事実の先を見るように求めた。また彼は兵士らを挑発した群衆を「生意気な小僧、ニグロ、ムラート、アイルランドのティーグ、ジャック・ターからなる雑多な暴徒共(rabble)」[注釈 2]と呼んでいた[68]。そして「なぜ、そのような者共の一団を暴徒(mob)と呼ぶことを躊躇しなければならないのか、その呼び名が彼らにとってあまりにも立派ならともかく、私には想像がつかない。3月5日に暴徒らが兵士らを襲った(と認めた)からといって、太陽が止まったり消えたり、川が干上がることはない」と続けた[69]。
アダムズは「おそらく、あの夜の恐ろしい惨事の主な原因」は元奴隷のクリスパス・アタックスの外見や挙動にあったとし、「彼の外見そのものが、何人をも恐怖させるに十分」であり、「片手で銃剣を掴み、もう片方の手で相手を打ち倒した」と陳述した[70]。その上で、兵士らは暴徒に反撃する法的権利を持ち、したがって無実であると主張した。また、もし仮に挑発はされたが危険には晒されていなかったとしても、その場合でもせいぜいが故殺罪が適切だと指摘した[71]。 しかし、この中の銃剣を掴んだという発言は証人2人の証言と矛盾しており、兵士が発砲し始めたとき、アタックスは12–15フィート (3.7–4.6 m)離れており、銃剣を手に取るには遠すぎた[69]。 『The American Scholar』の著者ファラ・ピーターソンは、裁判におけるアダムズのスピーチは、彼の法廷戦略が「被告人が黒人とその取り巻きを殺したに過ぎず、それゆえに絞首刑には値しないと陪審員を納得させることにあった」と指摘している[69]。
陪審員はアダムズの主張に同意し、2時間半にわたる審議の末、兵士のうち6名を無罪とし、残り2名を故殺罪で有罪とした。この2名には彼らが群衆に向かって直接発砲したという明白な証拠があったためであった。この陪審員らの決定は、兵士が群衆に脅威を感じていたとしても、発砲の判断は遅らせるべきであったと考えていたことを示唆している[72]。 また、有罪判決を受けた兵士は聖職者の特権[注釈 3]を訴えることによって減刑され、死刑判決から公開の場での親指への烙印となった[73]。
パトリック・カーの死の床での証言も、8人の兵士の殺人容疑を晴らすのに一役買った。以下は、彼を看取った医師ジョン・ジェフリーズに対する法廷での尋問内容である[74]。
Q:あなたはパトリック・カーを担当した医者ですか?
A:そうです。
Q:彼(カー)は危険を感じていましたか?
A:彼が言うには、彼はアイルランド出身で、暴動が起きる様や、それを鎮圧するために兵士が出動する様を頻繁に見ていたそうです―― アイルランドでは兵士が民衆に向かって発砲するのをよく見たが、(今回のような)発砲までにここまで耐えたことは見たことがなかったそうです。
Q:彼と最後に会話をしたのはいつでしたか?
A:午後4時頃です、その夜に彼は亡くなりました。そこで彼は次のようなことを話しました。自分を撃った男が誰であれ、そいつを許す。彼に悪意はなく、自分を守るために撃ったんだと納得している。
エドマンド・トローブリッジとピーター・オリバーの両判事は陪審員らを指導し、特にオリバーは「カーの証言が宣誓に基づいていないのは事実だが、永遠の眠りについて間もない男の、しかも彼が命を落とす原因となった男たちに有利な証言を信じるべきかどうかを、あなた方は判断せねばならないのだ」と言及した。このカーの証言はアメリカ合衆国の法規範における伝聞証拠禁止の原則における死亡宣告時の例外について最初期に記録された事例の1つである[75]。
4人の民間人は12月13日に裁判にかけられた[76]。 主な検察側証人は被告人の1人が雇っていた使用人であったが、彼は弁護側証人によって容易に反証される供述をした。被告人は全員が無罪となり、また検察側証人であった使用人は偽証罪で有罪判決を受け、鞭打ちとマサチューセッツ植民地からの追放刑を受けた[77]。
影響
アメリカ独立戦争への発展
ボストン虐殺事件は国王ジョージ3世とイギリス議会の権威に対する植民地の感情を変えた最も重要な出来事の1つと考えられている。ジョン・アダムズは、1770年3月5日に「アメリカ独立の基礎が築かれた」と書き、サミュエル・アダムズや他の愛国派は毎年の記念行事(虐殺の日)を利用して、独立への大衆の感情を煽った[78]。 この事件で重傷を負い、1780年に死亡した当時少年のクリストファー・モンクは、イギリスへの敵意を忘れさせないものとして称えられた[30]。
後に起こるガスピー号事件やボストン茶会事件は、イギリスとその植民地との間に生まれた溝を、さらにさらけ出すものであった。ニール・ヨークは独立戦争の発生までに5年の月日があり、両者の関係性はやや弱いと示唆しているものの、本事件が後の暴力を伴う反乱に繋がっていった重要な出来事と広く認識されている[79][80]。 ハワード・ジンは、ボストンには「社会階級の怒り」が満ちていたと論じている。彼は、『ボストン・ガゼット』が1763年に報じたものに、「少数の権力者」が「人々を謙虚にさせるため、彼らを貧しい状態に維持する」政治プロジェクトを推進している、とするものがあったと紹介している[81]。
記念式典
この虐殺事件は、1858年にウィリアム・クーパー・ネルが主催した記念式典で追悼されるようになった。ネルは黒人奴隷解放運動家であり、独立戦争におけるアフリカ系アメリカ人の役割を示す機会としてクリスパス・アタックスの死を引用した[82]。 また、同事件を記念して、犠牲者の肌の色を黒に変えてアタックスの死を強調する芸術作品も制作された[83]。 1888年、ボストンコモンに同事件の犠牲者を追悼するためのボストン虐殺事件記念碑が建てられ、また犠牲者の5名はグラナリー墓地の目立つ墓へと改葬された[84]。
毎年3月5日[85]、ボストン協会の後援による同事件の再現劇が行われている[86][87]。 旧議事堂、事件現場、グラナリー墓地はボストンのフリーダムトレイルの経路上にあり、街の歴史上重要な場所を結んでいる[84]。
脚注
注釈
出典
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関連文献
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外部リンク
ボストン虐殺事件に関する 図書館収蔵著作物 |
- ウィキソースに以下の原文があります。
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- Adams’ Argument for the Defense at the trial of the soldiers, at Founders Online website. (Retrieved 10 December 2017.)
- Massachusetts Historical Society Massacre Exhibit
- Boston Massacre investigative game by the Bostonian Society, stagers of the annual reenactment