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{{Infobox royalty |
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{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=人1209年没___世界史}} |
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| name =ギヨーム1世・ド・シャンリット<br/>Guillaume Ier de Champlitte |
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{{基礎情報 君主 |
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| title ={{仮リンク|アカイア公|en|Prince of Achaea}} |
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| 人名 = ギヨーム1世・ド・シャンリット |
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| image= Blason famille de Champlitte.svg |
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| caption = ギヨーム1世・ド・シャンリットの紋章 |
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| 君主号 = 初代[[アカイア公国|アカイア公]] |
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| reign =1205年-1209年 |
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| 画像 = Blason de la ville de Pontailler-sur-Saône (21).svg |
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| successor =[[ジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアン|ジョフロワ1世]] |
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| 画像サイズ = 160px |
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| spouse =アリックス・ド・ムルソー<br>エリザベト・ド・モン=サン=ジャン |
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| 画像説明 = ギヨーム1世・ド・シャンリットの紋章 |
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| father ={{仮リンク|ウード1世・ド・シャンリット|en|Odo I of Champlitte}} |
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| 在位 = [[1205年]] - [[1208年]] |
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| mother =シビーユ |
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| dynasty =シャンリット朝 |
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| birth_date =1160年代 |
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| 祝祷式 = |
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| death_date =1209年 |
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| 即位式 = |
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| 別号 = |
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| 配偶号 = |
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| 在位2 = |
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| 戴冠日2 = |
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| 配偶別号 = |
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| 全名 = |
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| 出生日 = 1160年頃 |
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| 生地 = |
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| 死亡日 = [[1209年]] |
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| 没地 = [[シチリア王国]]、[[プッリャ]] |
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| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = |
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| 継承者 = |
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| 継承形式 = |
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| 配偶者1 = アリックス・ド・ムルソー |
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| 配偶者2 = エリザベト・ド・モン=サン=ジャン |
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| 配偶者3 = ウスタシー・ド・クルトネー |
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| 子女 = ギヨーム2世<br>ウード3世<br>エリザベト |
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| 王家 = シャンリット家 |
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| 王朝 = |
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| 王室歌 = |
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| 父親 = ウード1世・ド・シャンリット |
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| 母親 = シビーユ・ド・ラ・フェルテ=シュル=オーブ |
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| 宗教 = [[キリスト教]][[カトリック教会|カトリック]] |
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| サイン = |
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'''ギヨーム1世・ド・シャンリット'''(Guillaume I Champlitte, 1160年頃 - [[1209年]])は、[[フランス]]・[[ブルゴーニュ]]出身の[[騎士]]。[[第4回十字軍]]に参加し、のちに初代[[アカイア公国|アカイア公]](在位:[[1205年]] - [[1208年]])となった。[[ブロワ家]]の[[ディジョン]]子爵ウード1世([[シャンパーニュ伯]][[ユーグ (シャンパーニュ伯)|ユーグ]]の息子)と妻シビーユの息子である<ref name="Evergates 220">Evergates 2007, p. 220.</ref>。 |
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'''ギヨーム1世・ド・シャンリット'''({{lang-fr|Guillaume de Champlitte}}、1160年代~1209年)とは、[[第4回十字軍]]に参加した[[フランス人]][[騎士]]である。十字軍の後にギリシャ半島に領地を獲得して初代{{仮リンク|アカイア公|en|Prince of Achaea}}(在位1205年~1209年)に就任したことで知られる<ref>Runciman 1951, p. 126.</ref><ref name="Longnon 239">Longnon 1969, p. 239.</ref><ref name="Evergates 220">Evergates 2007, p. 220.</ref>。 |
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== 生涯 == |
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兄ウードと共に第4回十字軍に参加、[[モンフェッラート侯]][[ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)|ボニファーチョ1世]]に従う。1205年、[[テッサロニキ王国|テッサロニキ]]王となったボニファーチョの中央[[ギリシア]]遠征に参加した際、[[ペロポネソス半島|ペロポニソス半島]]に上陸し征服活動を開始した[[ジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアン|ジョフロワ・ド・ヴィラルドゥアン]]の要請を受け、ボニファーチョの許可を得て半島征服に乗り出す。[[パトラ]]、[[メソニ]]、[[コロニ]]など沿岸の要塞を次々に攻略し、南西部[[メッシニア]]地方に侵攻、同年夏、クンドゥラの会戦に於いて殆ど唯一の地元勢力の抵抗を打ち破る。同1205年[[11月9日]]、[[教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]は書簡の中でギヨームを「全アカイア公」と呼び、以後、これが正式な君主号となる。 |
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== 若年期と第4回十字軍== |
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ギヨームはアカイアを出身地フランスのような[[封建]]国家に作り上げた。ニヴレ家、ニューイ家など付き従ってきた騎士に領地を与え、12の[[男爵]]領を創設した。 |
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ギヨームは[[ディジョン]]副伯ウード1世・ド・シャンリット([[ユーグ (シャンパーニュ伯)|シャンパーニュ伯ユーグ]]の息子)と妻シビーユの次男として1160年代に生まれた<ref name="Evergates 220"/>。彼は[[ムルソー]]出身のアリックスという名の女性と結婚した。ギヨームは妻アリックスの同意のうえで、亡き弟ユーグの冥福を祈るために1196年に[[オブリーヴ]]の大修道院に対して寄進を行ったという<ref>Bouchard 1987, p. 121.</ref>。ギヨームはのちにエリザベト・ド・モン=サン=ジャンとも結婚したが、1199年に離婚した。 |
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[[1208年]]頃、一足先に本国に帰っていた兄ウードが死去したとの報せを受け、領地を相続する為、後事をヴィルアルドゥアンに委ねて帰国の途に就く。しかし翌1209年頃、その途上、[[南イタリア]]の[[プッリャ]]にて客死した。 |
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1200年9月、ギヨームは兄{{仮リンク|ウード2世・ド・シャンリット|en|Odo II of Champlitte}}と共に{{仮リンク|シトー大修道院|en|Cîteaux Abbey|Cîteaux}}にて第4回十字軍の遠征軍に参加した。ギヨームは1203年4月に[[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|フランドル伯ボードゥアン4世]]・[[ルイ1世 (ブロワ伯)|シャルトル=ブロワ伯ルイ1世]]らが[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|ローマ教皇インノケンティウス3世]]に対して送付した書状に指揮官として名を連ねている<ref>Runciman 1951, p. 115.</ref><ref>Andrea 2000, pp. 54-56.</ref>。(第4回十字軍が[[ザラ包囲戦|クロアチアの都市ザラを包囲占領]]したことに激怒したインノケンティウス3世は遠征軍全体に破門宣告を告知していた。)ギヨームを含む指揮官たちは教皇に対してこの手紙を送り、遠征軍総司令官[[ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)|モンフェッラート候ボニファーチョ1世]]への懲罰を取りやめるよう懇願し、この軍事遠征の大義を保とうと試みた<ref>Runciman 1951, p. 111.</ref><ref>Andrea 2000, p. 55.</ref>。 |
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== 脚注 == |
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{{Reflist}} |
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そして1204年4月13日、ギヨームらの率いる十字軍は[[東ローマ帝国]]の帝都[[コンスタンティノープル]]を[[コンスタンティノープル包囲戦 (1204年)|占領]]した<ref>Fine 1994, p. 62.</ref>。十字軍戦士たちはフランドル伯ボードゥアン4世を皇帝に推戴し、ボードゥアンは同年5月16日に盛大な戴冠式を挙行して[[ラテン皇帝]]の座に就いた<ref>Runciman 1951, pp. 124-125.</ref>。ギヨームは新皇帝のもとには残らず、ボードゥアン皇帝の権威の下で[[テッサロニキ王国|テッサロニキ王]]に即位したボニファーチョと行動を共にした<ref name="Runciman 125">Runciman 1951, p. 125.</ref><ref>Setton 1976, p. 16.</ref>。コンスタンティノープル占領後、十字軍戦士の間で取り決められた東ローマ帝国領土の分割条約([[:en:Partitio Romaniae]])によると、遠征に協力した[[ヴェネツィア共和国]]は[[ペロポネソス半島]]のすべての地域とその他の地域を領する称号を獲得したという<ref name="Runciman 125"/>。 |
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== 参考文献 == |
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* Evergates, Theodore (2007). ''The Aristocracy in the County of Champagne, 1100-1300''. University of Pennsylvania Press. {{ISBN2|978-0-8122-4019-1}}. |
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==アカイア公国の創設== |
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{{先代次代|[[アカイア公国|アカイア公]]|初代:1205年 - 1208年|―|[[ジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアン|ジョフロワ1世]]}} |
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1205年前半、ギヨームの旧知のフランス人騎士[[ジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアン]]がテッサロニキ王ボニファーチョの[[ナフプリオ]]の野営地を訪ねた<ref name="Fine 69">Fine 1994, p. 69.</ref>。ジョフロワは既に[[メッシニア県|メッシニア]]の一部地域を占領しており、ボニファーチョ王に対して、ギリシャ征服に際して北ペロポネソス半島で抵抗が成されたとしても、その他の半島地域の征服は容易なものになると説得を試みたという<ref name="Fine 69"/>。またジョフロワは征服後に領地をギヨームと折半することを進めたという<ref name="Longnon 237">Longnon 1969, p. 237.</ref>。ジョフロワからの提案を受けたボニファーチョ王は、ギヨームをペロポネソス半島の領主に任命した<ref name="Fine 69"/>。その後ジョフロワはギヨームに[[臣従儀礼|臣従]]したのち、ギヨームとジョフロワはボニファーチョ王から派遣された100人の騎士と自身の従者たちと共に、残された半島の諸地域の征服を開始した<ref name="Fine 69"/>。 |
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{{Normdaten}} |
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{{DEFAULTSORT:きよむ1}} |
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ナフプリオを発ったギヨームとジョフロワは、[[コリントス]]に向けて北進したのち湾に沿って[[パトラ]]に向けて進軍した。そしてパトラの町と要塞を獲得した<ref name="Setton 25">Setton 1976, p. 25.</ref>。彼らは沿岸部に沿って{{仮リンク|アンドラヴィダ|en|Andravida}}まで進み、その地で彼らは地元領主や民衆と相対した。地元の司教はこの面会の際に十字架とイコンを掲げたという<ref name="Setton 25"/>。地元のギリシャ人はギヨームを新たな領主として歓迎し敬意を表したという<ref name="Setton 25"/>。アンドラヴィダのあっけない陥落は中世エリス地域が如何にたやすく征服できる地域であったのかをも示している<ref name="Setton 25"/>。ギヨームは征服の際にギヨームに対して抵抗しなかった地域に対しては、地元ギリシャ人の土地の保有権や文化、その他特権を認めたという<ref name="Setton 25"/>。 |
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[[Category:アカイア公]] |
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[[Image:Peloponnese Middle Ages map-en.svg|thumb|left|250px|中世のペロポネソス半島]] |
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ギヨームらが初めて遭遇した抵抗はアルカディア地方の征服の際に発生した。彼らはこの地域を征服する準備がこの時はまだ整っていなかったのである<ref name="Setton 25"/>。ギヨーム・ジョフロワの率いる十字軍は{{仮リンク|メソニ (メッシニア県)|label=メソニ|en|Methoni, Messenia}}まで進軍を続けたが、ニクリ・[[:en:Veligosti]]・[[スパルタ]]地域の現地民や[[タイゲトス山脈]]を勢力とするスラブ系Melingoi族や[[マニ半島]]を勢力とする山岳民族の連合軍による抵抗に遭遇したのである<ref name="Setton 25"/>。これらの軍勢はミカエルと呼ばれる人物が率いていたとされる。このミカエルという指導者は現在の多くの歴史家たちによって[[ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス]]というエピルス地方を領有していた貴族ではないかと比定されている<ref name="Setton 25"/><ref name="Fine 70">Fine 1994, p. 70.</ref>。現地軍の抵抗を察知したギヨームはメソニをすぐさま要塞化してミカエル率いる現地軍を迎え撃つ体制を整えた<ref name="Setton 25"/>。その後1205年夏、アカイア地方の命運をかける両者の戦いは{{仮リンク|クンドゥラスのオリーブ畑の戦い|label=クンドゥラスのオリーブ畑|en|Battle of the Olive Grove of Koundouros}}で行われた<ref name="Setton 25"/>。重武装で規律が整っていたギヨーム率いる十字軍は数的に不利であったにもかかわらず、大軍であった現地抵抗軍を打ち破った<ref name="Setton 25"/>。ミカエルは戦場から逃亡し、戦後短期間のうちに{{仮リンク|コロニ|label=コロン|en|Koroni}}・[[カラマタ]]・Kyparissiaを制圧した<ref name="Setton 25"/>。 |
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[[Image:Methoni castle Burtzi.jpg|thumb|right|250px|メソニの砦]] |
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ミカエル軍の撃破後もペロポネソス半島は完全に支配下に置かれたわけではなかったが、1205年秋までにギヨームは''『アカイア公』''の称号を名乗り始めた<ref name="Setton 25"/><ref name="Fine 70"/>。アカイアの名称は十字軍が最初に征服した半島北部の[[アカエア|アカイア]]地域から派生した名称であった<ref name="Fine 70"/>が、公爵位としてのアカイアは半島全体を指していた。1205年11月19日、ローマ教皇インノケンティウス3世は初代{{仮リンク|コンスタンティノープルのラテン総主教区|label=コンスタンティノープル総主教|en|Latin Patriarch of Constantinople}}{{仮リンク|トーマス・モロジーニ|en|Thomas Morosini}}に対する書状の中で、ギヨームを''princeps totius Achaiae provinciae''(''全アカイア地域の公爵'')と言及している<ref>Runciman 1951, p. 124.</ref><ref>Setton 1976, p. 26.</ref>。 |
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着実にペロポネソス半島の支配体制を固めつつあったアカイア公国に対して、イタリアーコンスタンティノープル間に位置するギリシャ地域における要港の統治権を欲していたヴェネツィア共和国は、1204年に締結された先述の東ローマ領分割条約で承認されていた自身の権利を認めるようアカイア公国側に要求した<ref name="Fine 71">Fine 1994, p. 71.</ref>。そして1206年前半にはアミドンとコロンの両都市を征服しフランク人守備兵を追放したという<ref name="Fine 71"/>。 |
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1208年、ギヨームは兄のルイが[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]]で亡くなったとの知らせを聞き、一族の領地の領有権を求めるためにフランスへの帰国を決意した<ref name="Fine 71"/><ref>Setton 1976, p. 33.</ref>。彼はジョフロワを自身の代理統治者としてアカイア公国に残してフランスに帰国した。ジョフロワはギヨームの甥ユーグが公国に馳せ参じるまでの間、公国の統治を任せられたのであった<ref name="Fine 71"/>。ギヨームはアカイアを発ってフランスに向けて帰国の途についたものの、途中の[[プーリャ]]で亡くなった<ref name="Fine 71"/><ref>Setton 1976, p. 34.</ref>。 |
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==関連項目== |
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* [[第4回十字軍]] |
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* [[アカイア公国]] |
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* {{仮リンク|クンドゥラスのオリーブ畑の戦い|en|Battle of the Olive Grove of Koundouros}} |
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*[[フランコクラティア]] |
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==参考文献== |
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{{Reflist|3}} |
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==文献== |
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* Andrea, Alfred J. (2000). ''Contemporary Sources for the Fourth Crusade''. Brill. {{ISBN|90-04-11740-7}}. |
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* {{La Morée franque}} |
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* Bouchard, Constance Brittain (1987). ''Sword, Miter, and Cloister: Nobility and the Church in Burgundy, 980-1198''. Cornell University Press. {{ISBN|0-8014-1974-3}}. |
|||
* Evergates, Theodore (2007). ''The Aristocracy in the County of Champagne, 1100-1300''. University of Pennsylvania Press. {{ISBN|978-0-8122-4019-1}}. |
|||
* {{The Late Medieval Balkans}} |
|||
* [[John of Joinville|Joinville, Jean de]]; [[Geoffrey of Villehardouin|Villehardouin, Geoffroi de]]; Shaw, Margaret R. B. (1963). ''Chronicles of the Crusades''. Penguin Books. {{ISBN|0-14-044124-7}}. |
|||
* {{Setton-A History of the Crusades | volume = 2 | chapter = The Frankish States in Greece, 1204–1311 | pages = 234–275 | last = Longnon | first = Jean | chapter-url=http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/History/History-idx?type=article&did=History.CrusTwo.i0021&id=History.CrusTwo }} |
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* {{Runciman-A History of the Crusades | volume = 3}} |
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* {{The Papacy and the Levant | volume = 1}} |
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== 関連文献 == |
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* Finley Jr, John H. "[https://www.jstor.org/stable/2850425 Corinth in the Middle Ages.]" ''Speculum'', Vol. 7, No. 4. (Oct., 1932), pp. 477–499. |
|||
* Tozer, H. F. "[https://www.jstor.org/stable/623369 The Franks in the Peloponnese.]" ''The Journal of Hellenic Studies'', Vol. 4. (1883), pp. 165–236. |
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{{DEFAULTSORT:ぎよーむいつせいとしやんりつと}} |
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[[Category:1160年代生]] |
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[[Category:1209年没]] |
[[Category:1209年没]] |
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[[Category:第4回十字軍]] |
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[[Category:アカイア公国]] |
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[[Category:ブロワ家]] |
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[[Category:中世フランスの騎士]] |
2023年9月29日 (金) 13:10時点における版
ギヨーム1世・ド・シャンリット Guillaume Ier de Champlitte | |
---|---|
アカイア公 | |
ギヨーム1世・ド・シャンリットの紋章 | |
在位期間 1205年-1209年 | |
次代 | ジョフロワ1世 |
出生 | 1160年代 |
死亡 | 1209年 |
父親 | ウード1世・ド・シャンリット |
母親 | シビーユ |
配偶者 |
アリックス・ド・ムルソー エリザベト・ド・モン=サン=ジャン |
ギヨーム1世・ド・シャンリット(フランス語: Guillaume de Champlitte、1160年代~1209年)とは、第4回十字軍に参加したフランス人騎士である。十字軍の後にギリシャ半島に領地を獲得して初代アカイア公(在位1205年~1209年)に就任したことで知られる[1][2][3]。
若年期と第4回十字軍
ギヨームはディジョン副伯ウード1世・ド・シャンリット(シャンパーニュ伯ユーグの息子)と妻シビーユの次男として1160年代に生まれた[3]。彼はムルソー出身のアリックスという名の女性と結婚した。ギヨームは妻アリックスの同意のうえで、亡き弟ユーグの冥福を祈るために1196年にオブリーヴの大修道院に対して寄進を行ったという[4]。ギヨームはのちにエリザベト・ド・モン=サン=ジャンとも結婚したが、1199年に離婚した。
1200年9月、ギヨームは兄ウード2世・ド・シャンリットと共にシトー大修道院にて第4回十字軍の遠征軍に参加した。ギヨームは1203年4月にフランドル伯ボードゥアン4世・シャルトル=ブロワ伯ルイ1世らがローマ教皇インノケンティウス3世に対して送付した書状に指揮官として名を連ねている[5][6]。(第4回十字軍がクロアチアの都市ザラを包囲占領したことに激怒したインノケンティウス3世は遠征軍全体に破門宣告を告知していた。)ギヨームを含む指揮官たちは教皇に対してこの手紙を送り、遠征軍総司令官モンフェッラート候ボニファーチョ1世への懲罰を取りやめるよう懇願し、この軍事遠征の大義を保とうと試みた[7][8]。
そして1204年4月13日、ギヨームらの率いる十字軍は東ローマ帝国の帝都コンスタンティノープルを占領した[9]。十字軍戦士たちはフランドル伯ボードゥアン4世を皇帝に推戴し、ボードゥアンは同年5月16日に盛大な戴冠式を挙行してラテン皇帝の座に就いた[10]。ギヨームは新皇帝のもとには残らず、ボードゥアン皇帝の権威の下でテッサロニキ王に即位したボニファーチョと行動を共にした[11][12]。コンスタンティノープル占領後、十字軍戦士の間で取り決められた東ローマ帝国領土の分割条約(en:Partitio Romaniae)によると、遠征に協力したヴェネツィア共和国はペロポネソス半島のすべての地域とその他の地域を領する称号を獲得したという[11]。
アカイア公国の創設
1205年前半、ギヨームの旧知のフランス人騎士ジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアンがテッサロニキ王ボニファーチョのナフプリオの野営地を訪ねた[13]。ジョフロワは既にメッシニアの一部地域を占領しており、ボニファーチョ王に対して、ギリシャ征服に際して北ペロポネソス半島で抵抗が成されたとしても、その他の半島地域の征服は容易なものになると説得を試みたという[13]。またジョフロワは征服後に領地をギヨームと折半することを進めたという[14]。ジョフロワからの提案を受けたボニファーチョ王は、ギヨームをペロポネソス半島の領主に任命した[13]。その後ジョフロワはギヨームに臣従したのち、ギヨームとジョフロワはボニファーチョ王から派遣された100人の騎士と自身の従者たちと共に、残された半島の諸地域の征服を開始した[13]。
ナフプリオを発ったギヨームとジョフロワは、コリントスに向けて北進したのち湾に沿ってパトラに向けて進軍した。そしてパトラの町と要塞を獲得した[15]。彼らは沿岸部に沿ってアンドラヴィダまで進み、その地で彼らは地元領主や民衆と相対した。地元の司教はこの面会の際に十字架とイコンを掲げたという[15]。地元のギリシャ人はギヨームを新たな領主として歓迎し敬意を表したという[15]。アンドラヴィダのあっけない陥落は中世エリス地域が如何にたやすく征服できる地域であったのかをも示している[15]。ギヨームは征服の際にギヨームに対して抵抗しなかった地域に対しては、地元ギリシャ人の土地の保有権や文化、その他特権を認めたという[15]。
ギヨームらが初めて遭遇した抵抗はアルカディア地方の征服の際に発生した。彼らはこの地域を征服する準備がこの時はまだ整っていなかったのである[15]。ギヨーム・ジョフロワの率いる十字軍はメソニまで進軍を続けたが、ニクリ・en:Veligosti・スパルタ地域の現地民やタイゲトス山脈を勢力とするスラブ系Melingoi族やマニ半島を勢力とする山岳民族の連合軍による抵抗に遭遇したのである[15]。これらの軍勢はミカエルと呼ばれる人物が率いていたとされる。このミカエルという指導者は現在の多くの歴史家たちによってミカエル1世コムネノス・ドゥーカスというエピルス地方を領有していた貴族ではないかと比定されている[15][16]。現地軍の抵抗を察知したギヨームはメソニをすぐさま要塞化してミカエル率いる現地軍を迎え撃つ体制を整えた[15]。その後1205年夏、アカイア地方の命運をかける両者の戦いはクンドゥラスのオリーブ畑で行われた[15]。重武装で規律が整っていたギヨーム率いる十字軍は数的に不利であったにもかかわらず、大軍であった現地抵抗軍を打ち破った[15]。ミカエルは戦場から逃亡し、戦後短期間のうちにコロン・カラマタ・Kyparissiaを制圧した[15]。
ミカエル軍の撃破後もペロポネソス半島は完全に支配下に置かれたわけではなかったが、1205年秋までにギヨームは『アカイア公』の称号を名乗り始めた[15][16]。アカイアの名称は十字軍が最初に征服した半島北部のアカイア地域から派生した名称であった[16]が、公爵位としてのアカイアは半島全体を指していた。1205年11月19日、ローマ教皇インノケンティウス3世は初代コンスタンティノープル総主教トーマス・モロジーニに対する書状の中で、ギヨームをprinceps totius Achaiae provinciae(全アカイア地域の公爵)と言及している[17][18]。
着実にペロポネソス半島の支配体制を固めつつあったアカイア公国に対して、イタリアーコンスタンティノープル間に位置するギリシャ地域における要港の統治権を欲していたヴェネツィア共和国は、1204年に締結された先述の東ローマ領分割条約で承認されていた自身の権利を認めるようアカイア公国側に要求した[19]。そして1206年前半にはアミドンとコロンの両都市を征服しフランク人守備兵を追放したという[19]。
1208年、ギヨームは兄のルイがブルゴーニュで亡くなったとの知らせを聞き、一族の領地の領有権を求めるためにフランスへの帰国を決意した[19][20]。彼はジョフロワを自身の代理統治者としてアカイア公国に残してフランスに帰国した。ジョフロワはギヨームの甥ユーグが公国に馳せ参じるまでの間、公国の統治を任せられたのであった[19]。ギヨームはアカイアを発ってフランスに向けて帰国の途についたものの、途中のプーリャで亡くなった[19][21]。
関連項目
参考文献
- ^ Runciman 1951, p. 126.
- ^ Longnon 1969, p. 239.
- ^ a b Evergates 2007, p. 220.
- ^ Bouchard 1987, p. 121.
- ^ Runciman 1951, p. 115.
- ^ Andrea 2000, pp. 54-56.
- ^ Runciman 1951, p. 111.
- ^ Andrea 2000, p. 55.
- ^ Fine 1994, p. 62.
- ^ Runciman 1951, pp. 124-125.
- ^ a b Runciman 1951, p. 125.
- ^ Setton 1976, p. 16.
- ^ a b c d Fine 1994, p. 69.
- ^ Longnon 1969, p. 237.
- ^ a b c d e f g h i j k l m Setton 1976, p. 25.
- ^ a b c Fine 1994, p. 70.
- ^ Runciman 1951, p. 124.
- ^ Setton 1976, p. 26.
- ^ a b c d e Fine 1994, p. 71.
- ^ Setton 1976, p. 33.
- ^ Setton 1976, p. 34.
文献
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