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2022年10月30日 (日) 01:16時点における版

白登山の戦い
戦争
年月日紀元前200年
場所:白登山
結果:匈奴の勝利
交戦勢力
匈奴
指導者・指揮官
高帝 冒頓単于
損害
不明 不明

白登山の戦い(はくとさんのたたかい)は、紀元前200年に行われた匈奴の戦いである。

経過

父の頭曼単于を殺して紀元前209年に単于になった冒頓単于は東の東胡・北の丁零・西の月氏などを討ってその地を奪い、勢力を大きく拡大していた[1][2]。一方南では紀元前202年劉邦中原を統一しを建てた[3][4](高帝)。

統一の翌紀元前201年韓王信を代王として晋陽(現在の太原市)を守らせたが、同年に冒頓率いる匈奴の軍が長城を越えて馬邑に攻め込んだ[5][6]。迎撃に向かった韓王信を包囲し、韓王信を降伏させた[5][7]。これに怒った高帝は親征して晋陽を攻め、これを落とした[5][7]が、弱兵を表に出して誘引するという匈奴の策略に引っかかり[5]、さらに追撃して平城(現在の山西省大同市)近くの白登山中国語版(現在の大同市雲州区)で匈奴の大軍に包囲されてしまった[5][7]。高帝は陳平からの献策を受けて、この危機を何とか脱出した[5][7]

この戦いにより匈奴の強さを知った高帝は紀元前198年に劉敬を匈奴に派遣して和約を結んだ[5][7]

  1. 漢と匈奴は兄弟となる。
  2. 漢の公主を匈奴単于の閼氏とする。
  3. 毎年、漢から匈奴へ贈り物をする。

などの条項が取り決められた[5][7]

この和約後に何度か匈奴が漢の領土に侵攻し、再び和睦するということが繰り返された[5][8]。この状況が動くのはおおよそ60年後の武帝の代になる[9]

脚注

出典

  1. ^ 太田 2003, p. 383.
  2. ^ 西嶋 1997, p. 186.
  3. ^ 太田 2003, p. 365.
  4. ^ 西嶋 1997, p. 100.
  5. ^ a b c d e f g h i 太田 2003, p. 384.
  6. ^ 西嶋 1997, pp. 187–188.
  7. ^ a b c d e f 西嶋 1997, p. 188.
  8. ^ 西嶋 1997, pp. 190–191.
  9. ^ 西嶋 1997, pp. 203–204.

参考文献

  • 西嶋定生『秦漢帝国』講談社講談社学術文庫〉、1997年。ISBN 4061592734 
  • 太田幸男「前漢」『中国史 先史〜後漢』。 
  • 沢田勲『匈奴』東方書店