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2022年10月7日 (金) 19:30時点における版
米子市立就将小学校 | |
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北緯35度25分16秒 東経133度19分51秒 / 北緯35.421139度 東経133.330806度座標: 北緯35度25分16秒 東経133度19分51秒 / 北緯35.421139度 東経133.330806度 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 米子市 |
校訓 | 至誠・進取・勤労 |
設立年月日 | 1909年(明治42年)4月1日 |
共学・別学 | 男女共学 |
分校 | 鳥取大学医学部附属病院院内学級 |
学期 | 3学期制 |
学校コード | B131210000281 |
所在地 | 〒683-0046 |
鳥取県米子市愛宕町94番地 | |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
米子市立就将小学校(よなごしりつ しゅうしょうしょうがっこう)は、鳥取県米子市愛宕町にある公立小学校。
概要
1927年の市制を施行時(旧市内)に市役所を中心に有った小学校(明道、義方、啓成、就将)[1]。 校名の由来は、明治41年(1908年)に渙発された戊申詔書冒頭にある(朕オモウニ方今人文日ニ 就リ月ニ将ミ……)に基づいて命名されたといわれている[2]。日就月将の出典は中国の古典『詩経』の頌「敬之」の中の一節と思われる[2]。
- 明治42年(1909年)3月20日、米子町長渡辺駛水、新設尋常小学校に就将と命名すべき案を提出し、町会の賛成を経、3月23日鳥取知事 告森良に申請す[2]。3月29日知事これを認可す[2]。……(学校沿革史より)
- 校訓・めざす児童像
- 豊かな情操
- 親切で仲よく、礼儀正しく心の美しい子【至誠】
- すぐれた知性
- すすんで学び、よく考え、正しく行動する子【進取】
- あふれる活気
- からだをきたえ、すすんで働くたくましい子【勤労】
沿革
- 1909年(明治42年)4月1日 - 米子町立就将尋常高等小学校創立[3]。
- 1909年(明治42年)10月1日 - 新校舎落成。
- 1924年(大正13年) - 女子技芸学校設立のため男子全員明道校へ転出させ、女子校となる。
- 1927年(昭和2年) - 女子技芸学校を分離し、再び男女共学となる。
- 1928年(昭和3年) - 高等科を明道校へ併置。
- 1930年(昭和5年) - 就将尋常小学校と改称。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 就将国民学校と改称。
- 1945年(昭和20年) - 角盤国民学校高等科廃止により就将校に併置される。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 米子市立就将小学校と改称。
- 1953年(昭和27年) - 新校舎が建てられる。
- 1962年(昭和37年) - 愛宕町の現在地に新築移転、2・5・6年生が新校舎へ移る。
- 1964年(昭和39年) - 校舎落成により全学年が移る。
学校行事
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通学区域
平成17年4月1日現在の校区の町名[4]。
進学先中学校
学区内の主な施設
著名な関係者
- 出身者
- 岩宮武二(写真家・元プロ野球選手)
- 野坂康夫(政治家・前米子市長)
- 菊池大介(サッカー選手)- 柏レイソル
- 住田貴彦(サッカー選手)- ガイナーレ鳥取
- 釜田佳吾(サッカー選手)- 元SC鳥取ドリームス