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'''艦砲'''(かんぽう)は艦船に武装として搭載された[[大砲|砲]]のこと。'''艦載砲'''とも呼ばれる。 |
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== 概史 == |
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火砲が艦船に搭載されて艦砲として用いられるようになったのは[[14世紀]]からとされている{{Sfn|青木|1982|pp=73-80}}。[[イギリス海軍]]では、[[1338年]]6月の時点で、「クリストファー・オブ・ザ・タワー」に薬室付き鉄製砲3門、「バーナード・オブ・ザ・タワー」に鉄製砲1門、「メリー・オブ・ザ・タワー」に薬室2個付き鉄製砲1門と薬室1個付き青銅製砲1門を搭載していたほか、王の乗艦のために鉄製砲1門を保管していたことが記録されている{{Sfn|中名生|1996}}。 |
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[[軍艦]]に火砲を搭載することは古くから行われており、14世紀の中頃には欧州で軍艦に大砲を搭載した記録がある。 |
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しかし当時の大砲は決して船を破壊したり沈めたりするものではなく、弓と同じように人間を殺傷することを目的とした兵器であった{{Sfn|青木|1982|pp=73-80}}。[[百年戦争]]中の[[1340年]]に戦われた[[スロイスの海戦]]では、双方ともに火砲を装備していたが、主な戦闘は[[白兵戦]]であった{{Sfn|中名生|1996}}。 |
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[[1571年]]の[[レパントの海戦]]においては[[カトリック教会|カトリック]]国連合軍が[[ガレアス船]]に搭載して[[オスマン帝国]]艦隊を撃破した。[[帆船]]時代における艦載砲は主に[[カノン砲]]で、船の中でも扱いやすいように4つの車輪を持っていた砲車が改良されている。このころの火砲は[[炸薬]]のない実体弾であり、艦砲の威力はさして大きくなく、船体を破壊して敵艦を撃沈することよりは、設備の破壊や人員の殺傷によって戦闘力を奪うことを目的としていた。そのためこの時代の艦砲は数を多数搭載することが優先され、比較的小型の砲が搭載された。また[[マスト]]や索具を切断するための鎖弾など、特徴的な砲弾を使用した。後に[[カロネード砲]]が導入され、接近しての片舷斉射において大きな威力を発揮した。また、[[ケッチ#ボムケッチ|ボムケッチ]]のように対地攻撃のために[[臼砲]]を搭載した艦もあった。なおボムケッチの臼砲で使用されたのは[[榴弾]]である。 |
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当初用いられていた火砲は組立砲{{Enlink|Built-up gun}}と呼ばれる形式で、[[錬鉄]]製の角棒を円筒形に並べたり短い円筒を前後に並べたりして[[銃砲身|砲身]]を作成し、その後尾に[[火薬]]を詰めた[[薬室]]を繋ぐものであった{{Sfn|青木|1982|pp=73-80}}。蛇型長身砲<small>({{Lang|en|serpentine gun}})</small>もこの一種であり、[[1545年]]に沈没した「[[メアリー・ローズ]]」にも搭載されていた{{Sfn|中名生|1996}}{{Sfn|青木|1982|pp=73-80}}。 |
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しかし大砲の威力が発達し、[[装甲艦]]・[[戦艦]]に搭載すると、艦砲で敵艦舷側に命中させ大破孔による急速浸水で撃沈することも可能になった。またこのような状況では、強力な装甲を欠く大面積の舷側、および舷側に穴を開けて多数の艦砲を並べることは、むしろ弱点を晒すこととなった。 |
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=== 鋳造砲の普及 (16-18世紀) === |
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[[戦艦]]は、貫通力を追求した巨砲である[[主砲]](当初は4門)と、砲弾を浴びせて急速に敵艦の戦闘力を奪う多数の[[副砲]]とを備え、強力な装甲により敵艦からの[[主砲]]命中に耐える艦種として発達した。 |
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16世紀には[[鋳造砲]]({{Lang|en|cast gun}})が急速に進歩した{{Sfn|青木|1982|pp=73-80}}。これは[[青銅]]または[[黄銅]]を素材として、砲身・薬室を一体化して[[鋳造]]するもので、火薬と弾丸の装填は砲口から行われた{{Sfn|青木|1982|pp=73-80}}。この鋳造砲は、組立砲よりも大口径・大重量の弾丸にも対応可能で、砲身命数も大きかった{{Sfn|青木|1982|pp=73-80}}。16世紀に実用化されたのち、鋳造砲はおよそ250年間にわたって大きな改良を受けることなく艦砲として用いられ、19世紀初頭まで海軍兵器の主役となった{{Sfn|青木|1982|pp=73-80}}。 |
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16世紀のイギリス海軍では、艦砲を下記のように区分していた{{Sfn|青木|1982|pp=73-80}}。 |
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このように[[主砲]]は一門あたりの威力を高め、数を減らす方向へと変化した。数を減らした艦砲を有効に用いるため、これを装甲で守られた回転[[砲塔]]に納め、甲板上に設置し、防御力を高めるとともに射角を大きくした。[[汽船]]化が進み、上甲板上の帆装が廃されたことも、舷側砲郭から甲板上砲塔への転換を可能にした。 |
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* 砲弾重量{{Convert|50|lb|kg|lk=on}} - [[カノン砲]] |
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* 砲弾重量{{Convert|32|lb|kg}} - [[半カノン砲]] |
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* 砲弾重量{{Convert|17|-|18|lb|kg}} - [[カルバリン砲]] |
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* 砲弾重量{{Convert|9|-|10|lb|kg}} - {{仮リンク|半カルバリン砲|en|Demi-culverin}} |
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* 砲弾重量{{Convert|5|lb|kg}} - [[セーカー砲]] |
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* 砲弾重量{{Convert|4|lb|kg}} - {{仮リンク|ミニオン砲|en|Minion (cannon)}} |
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* 砲弾重量{{Convert|2.5|-|3|lb|kg}} - ファルコン砲 |
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* 砲弾重量{{Convert|1.25|-|2|lb|kg}} - [[ファルコネット砲]] |
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* 砲弾重量{{Convert|0.5|-|1|lb|kg}} - ロビネット砲 |
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一般に艦砲として多用されたのは半カルバリン砲以上のもので、[[1588年]]の[[アルマダの海戦]]の際にイギリス艦隊が搭載していた砲の95パーセントがカルバリン砲であった{{Sfn|青木|1982|pp=73-80}}。カルバリン砲の場合、最大射程は約2キロあったものの、これは盲撃ちの状態の数値であり、狙い撃ちができる射距離は300メートル程度に限られた{{Sfn|青木|1982|pp=73-80}}。これは船体の動揺によって厳密な照準が難しくなるためで、実戦においては、イギリス海軍の提督たちは「{{Convert|50|yd|m}}以内」や「敵艦に乗り込めるくらいの近距離」での発射を指令していた{{Sfn|中名生|1996}}。 |
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当時の大砲は、船体というよりはマストや索具の破壊や、これに伴って生じた破片による人員の殺傷を目的としており、カルバリン砲程度では船体を打ち破ることも難しかった{{Sfn|青木|1982|pp=73-80}}。これに対し、[[イギリス陸軍]]の[[:en:Robert Melvill|メルヴィル将軍]]の着想をもとに[[:en:Carron Company|カロン社]]が開発した[[カロネード砲]]では、砲身を短縮して口径を拡大し、弾丸と砲の口径との遊隙をできるだけ小さくした構造を採用しており、射程を妥協しつつ、破壊力の増大を実現した{{Sfn|青木|1982|pp=73-80}}。イギリス海軍では同砲を[[1780年]]に採用し、[[1782年]]より、[[艦長]]が希望した場合に搭載できることとした{{Sfn|中名生|1996}}。 |
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=== 大艦巨砲主義の到来 === |
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その結果、艦砲の大口径化が進み、[[大艦巨砲主義]]が到来した。大艦巨砲主義の極致のひとつである[[戦艦]]「[[大和 (戦艦)|大和]]」の主砲は、口径46cm、砲弾重量1,460kg、最大飛距離42kmに達していた。砲弾は装甲を貫通できるように[[徹甲弾]]が主体となった。艦砲の巨大化に伴い砲弾が巨大化、それを給弾するために砲塔の下部はエレベータで給弾を行う設備となった。 |
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[[18世紀]]末には[[榴弾]]を発射する[[臼砲]]の艦載化も試みられたが、これは取り付け部分を特に強化する必要があったことから、専用の艦([[臼砲艦]])で運用された{{Sfn|青木|1982|pp=73-80}}。 |
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また、[[第一次世界大戦]]後には対航空機戦闘のために[[高射砲|高角砲]]の搭載が一般的になった。駆逐艦クラスでは対空戦闘および対水上艦戦闘に使える'''両用砲'''の採用が増えた{{Efn2|[[フレッチャー級駆逐艦]]の[[Mk 12 5インチ砲]]や、[[松型駆逐艦]]の[[四十口径八九式十二糎七高角砲]]など}}。 |
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=== 後装式ライフル砲と重砲化 (19・20世紀) === |
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[[File:HMS Warrior 110lb BL.png|thumb|250px|砲車に架されたアームストロング砲のレプリカ]] |
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[[1855年]]、[[ウィリアム・アームストロング (初代アームストロング男爵)|ウィリアム・アームストロング]]は[[後装式]][[ライフル砲]]という新しいタイプの大砲を製作、以後も順次に開発を進めており、[[1859年]]、[[イギリス]]の造兵委員会は、この[[アームストロング砲]]を艦砲として採用することを決定した{{Sfn|青木|1983|pp=69-73}}。しかし同砲には、[[尾栓]]の開放不良や、特に大口径砲では操砲困難となる問題があり、またこの時点では装甲貫徹力や照準精度も[[前装式]]より劣っていた{{Sfn|McNeill|2014|p=41-47}}。当時、[[装甲艦]]の登場に伴って[[対艦兵器]]の[[貫徹力]]が重視されるようになり、砲の大口径化・大重量化が進んでいたことから、これは重大な問題であった{{Sfn|McNeill|2014|p=41-47}}。 |
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このことから、イギリスにおいてはアームストロング砲と前装砲の折衷案にあたる前装式ライフル砲が誕生し、1864年にはこれが艦砲として採用されることになった{{Sfn|青木|1983|pp=69-73}}{{Sfn|McNeill|2014|p=41-47}}。一方、[[プロイセン王国]]や[[フランス]]では後装式のままで重砲化を進めたほか{{Sfn|青木|1983|pp=69-73}}、イギリス海軍も、[[1879年]]には再び後装砲の装備へと転換した{{Sfn|McNeill|2014|pp=97-104}}。これは尾栓の設計改良によって後装砲の実用性が向上したことや、貫徹力向上の要求および装薬(発射薬)の進歩によって長砲身化が進み、前装砲への装填作業などが非実用的になったことによる決定であった{{Sfn|McNeill|2014|pp=97-104}}。また重砲化によって射程と破壊力が向上した一方で発射速度や旋回・俯仰速度が低下し、当時登場し始めていた[[水雷艇]]との交戦が困難になっていることも問題視され{{Sfn|McNeill|2014|pp=97-104}}、[[主砲]]としての重砲のほかに、中・小口径の後装式ライフル砲である[[速射砲]]も用いられるようになった{{Sfn|McNeill|2014|pp=125-126}}。 |
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重砲化は、砲の装備形式にも変革をもたらした{{Sfn|青木|1983|pp=69-73}}。従来、艦砲は木製の[[砲車]]に架されており、発射時の反動は、支持索に取り付いた砲員の人力で抑止されていたが、重砲化とともにこの方法は限界を迎えたことから、1870年頃より、重力や水圧、空気圧を用いた[[駐退機]]が登場し始めた{{Sfn|青木|1983|pp=69-73}}。また帆船の時代には、艦砲は操帆を妨げないように多数の[[舷側砲]]として搭載されていたのに対して{{Sfn|筑土|1992}}、砲の大型化とともに、重量やコストを抑制するため比較的少数の重砲を搭載する方向となったことから、その少数の砲の射界を極力広くとるために[[砲塔]]が用いられるようになった{{Sfn|青木|1983|pp=86-91}}。更に重砲化が進むと、砲の旋回・俯仰や装薬・砲弾の装填などを人力で行うことはもはや不可能となり、機力が用いられるようになったため、これらの動力装置と組み合わせるという面でも砲塔式が優れていた{{Sfn|青木|1983|pp=86-91}}。 |
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[[1890年代]]には数千メートルの射程をもつ長砲身の後装式重砲が実用化され、これを連装砲塔2基におさめて艦の前後に1基ずつ配置するのが標準的な戦艦とみなされた{{Sfn|青木|1983|pp=137-143}}。また[[榴弾|炸裂弾]]が導入されたこともあって、艦砲による破壊力は飛躍的に強化されたが、重砲化に伴って発射間隔が長くなって単位時間あたりの投射火力がかえって低下したことや、射程の延伸に見合った照準方法が間に合わなかったこと、また[[装甲]]の技術も発達したことから、皮肉にも、19世紀後半は、大砲の効果が大きく減殺された時代となった{{Sfn|青木|1983|pp=125-131}}{{Efn2|[[蒸気船]]への移行に伴って、一時的な[[衝角]]の復権にも繋がり、19世紀後半に数多くの衝角攻撃が行われたが、成功したものは極めてわずかであった{{Sfn|青木|1983|pp=125-131}}。}}。 |
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その後、[[1905年]]の[[日本海海戦]]において、艦砲の火力によって装甲艦をも撃破できることが実証され、また[[レンジファインダー|測距儀]]や[[射撃盤]]など各種装置の登場に伴う砲術の発達によりやっと重砲の破壊力を効果的に用いることができるようになると、より大口径・強力な砲を搭載できるように艦を大型化させるという[[大艦巨砲主義]]の時代が到来し、[[第一次世界大戦]]においてその成果が立証されることとなった{{Sfn|青木|1983|pp=137-143}}。これを受けて、[[戦間期]]には各国ともに戦艦・[[巡洋戦艦]]など重砲搭載艦の増備を進めたものの、[[第二次世界大戦]]ではこれらの艦同士が重砲を撃ち交わすような決戦はついに生起せず、わずかに英独間・日米間の局地砲戦だけに終わり、大口径砲は主として対地射撃に用いられた{{Sfn|筑土|1992}}。 |
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=== 対空兵器としての艦砲 (20世紀) === |
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[[File:JS Samidare, 76mm Gun Firing.jpg|thumb|250px|[[オート・メラーラ 76 mm 砲|76mm単装速射砲]]。周囲には空薬莢が散乱している。]] |
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[[航空機]]の発達とともに、20世紀初頭には既に艦載[[対空兵器]]の必要性が認識されており、例えば[[1910年]]版の『[[:en:The Naval Annual|ブラッセー海軍年鑑]]』では[[ヴィッカース]]社の[[:en:QF 3-pounder Vickers|3ポンド高角砲]]などを「対気球砲」({{Lang|en|Anti-baloon guns}})として紹介していた{{Sfn|堤|2006}}。しかしこの時点では、[[飛行船]]にしても[[飛行機]]にしても性能は極めて限定的であり、艦船に対する直接的な脅威としての将来的・潜在的な可能性は認識されていたものの、艦艇への急速な対空兵器の装備には結びつかなかった{{Sfn|堤|2006}}。航空機は第一次世界大戦で大規模に実戦投入されたものの、洋上での運用は限定的で、依然として真剣な脅威とはなかっていなかった{{Sfn|堤|2006}}。大戦中、各国の主要な艦艇には[[高射砲|高角砲]]が搭載されたものの、いずれも3インチ砲クラスの単装高角砲2-4基が標準で、また射撃指揮についても特に措置が講じられることもなく、砲台ごとの各個射撃であった{{Sfn|堤|2006}}。 |
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戦間期には、航空機の性能向上や[[航空母艦]]の登場に伴って、水上艦艇への対空兵器の装備も本格化した{{Sfn|堤|2006}}。[[機関砲]]のほかは3-4インチ級の高角砲が広く用いられていたが、アメリカ海軍では、[[1926年]]起工の[[重巡洋艦]]「[[ペンサコーラ (重巡洋艦)|ペンサコーラ]]」の[[副砲]]を[[Mk 10 5インチ砲|25口径5インチ高角砲]]として両用化を実行、次に[[駆逐艦]]の主砲として[[Mk 12 5インチ砲|38口径5インチ両用砲]]を開発、戦艦・巡洋艦や航空母艦の副砲としても広く搭載した{{Sfn|中名生|1996}}。また[[1930年代]]からは、対空兵器にも専用の[[射撃統制システム|射撃指揮装置]]が装備され始めた{{Sfn|堤|2006}}。 |
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=== 第二次世界大戦後 === |
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[[第二次世界大戦]]後、航空機の発達によって戦艦はその活躍の場を失われ、巨大な艦砲が作られることは無くなった。さらに、ミサイルの発展により戦艦以外の艦載砲も廃されるようになり、[[ミサイル万能論]]が全盛の頃に作られたアメリカの[[ミサイル巡洋艦]]「[[ロングビーチ (原子力ミサイル巡洋艦)|ロングビーチ]]」は、完成当初艦砲を一切有していなかった。 |
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[[第二次世界大戦]]において経空脅威は極めて急激に増大し、これに対抗するため、各国軍艦には各種機関砲・高角砲が次々に増備されるとともに、組織化も進められていった{{Sfn|堤|2006}}。また特に艦砲については、アメリカ海軍が[[1943年]]に[[近接信管]](VT信管)を実戦投入すると、射弾の誤差をカバーできるようになり、有効弾を得る確率は従来の時計信管によるものより一桁上がったといわれている{{Sfn|堤|2006}}。 |
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しかし[[ミサイル]]と比べて1発あたりのコストの面で優れる艦砲は、[[コンピュータ]]制御による精度の向上と速射性を付与されて、小口径のものが近距離戦に限り現在も広く用いられている。近年では[[ロケット]]推進によって射程を延長された地上攻撃用の誘導砲弾も開発されている。対空用艦砲としては、システムを完全自動化した[[ファランクス (火器)|ファランクス]]や[[ゴールキーパー (火器)|ゴールキーパー]]に代表されるような小型艦砲([[CIWS]])が開発されたが、[[対艦ミサイル]]の高性能化によって迎撃が困難になっており[[RAM (ミサイル)|RAM]]([[艦対空ミサイル]])などに代替されつつある。 |
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大戦後に航空機の[[ジェット機]]への移行が進むと、経空脅威も、[[プロペラ機]]時代には多数の低速機によるものであったのに対し、比較的少数の高速機へと様相を変えていった{{Sfn|堤|2006}}。これに伴って近距離用の機関砲の価値は低下し、VT信管に対応するとともに[[火器管制レーダー]]とも連動した3-5インチ砲クラスが対空兵器の主流となっていった{{Sfn|堤|2006}}。その後、[[対艦ミサイル]]の脅威が顕在化すると機関砲を用いた[[CIWS]]が広く普及したが、特にアメリカ海軍のようには[[艦対空ミサイル]]搭載艦をふんだんに保有できない海軍の場合、3-5インチ砲クラスの艦砲についても、全自動速射砲化によって対空射撃能力を向上させて、防空網の一端を担わせることとなった{{Sfn|堤|2006}}。一方、特に[[冷戦]]終結後には[[マルチハザード]]化および[[グローバリゼーション|グローバル化]]に伴って任務の多様化が進んだことから、これらの艦砲は、対空射撃能力とともに対水上・対地能力を併せ持つ多用途性が求められるようにもなった{{Sfn|堤|2006}}。 |
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* {{Cite book|和書|authorlink=ウィリアム・ハーディー・マクニール|first=William Hardy|last=McNeill|others=[[高橋均]] (翻訳)|origyear=1982|year=2014|title=戦争の世界史|volume=下巻|publisher=[[中公文庫]]|isbn=978-4122058989|ref=harv}} |
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* {{Citation|和書|authorlink=青木栄一 (地理学者)|last=青木|first=栄一|year=1982|title=シーパワーの世界史〈1〉海軍の誕生と帆走海軍の発達|publisher=[[出版協同社]]|ncid=BN06116852|ref=harv}} |
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* {{Citation|和書|last=青木|first=栄一|year=1983|title=シーパワーの世界史〈2〉蒸気力海軍の発達|publisher=出版協同社|ncid=BN06117039|ref=harv}} |
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* {{Citation|和書|last=高須|first=廣一|year=1979|month=4|title=「現代の艦砲」理解のために その基本的メカニズムを解明する (特集・最近の艦載砲熕兵器)|journal=[[世界の艦船]]|issue=267|pages=62-69|publisher=[[海人社]]|id={{近代デジタルライブラリー|3292056}}|ref=harv}} |
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* {{Citation|和書|last=筑土|first=龍男|year=1992|month=4|title=大口径砲 その発達を追って (特集・大口径砲)|journal=世界の艦船|issue=449|pages=69-73|publisher=海人社|id={{近代デジタルライブラリー|3292233}}|ref=harv}} |
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* {{Citation|和書|last=堤|first=明夫|year=2006|month=08|title=砲熕兵装 (特集・対空兵装の変遷)|journal=世界の艦船|issue=662|pages=78-83|publisher=海人社|naid=40007357719|ref=harv}} |
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* {{Citation|和書|last=中名生|first=正巳|year=1996|month=12|title=艦砲発達の節目をプロットする (特集・艦砲 昔と今)|journal=世界の艦船|issue=518|pages=69-75|publisher=海人社|id={{近代デジタルライブラリー|3292302}}|ref=harv}} |
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== 関連項目 == |
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2022年10月29日 (土) 03:43時点における版
艦砲(英語: Shipboard gun)は、艦船に搭載された火砲のこと[注 1]。
概史
黎明期
火砲が艦船に搭載されて艦砲として用いられるようになったのは14世紀からとされている[1]。イギリス海軍では、1338年6月の時点で、「クリストファー・オブ・ザ・タワー」に薬室付き鉄製砲3門、「バーナード・オブ・ザ・タワー」に鉄製砲1門、「メリー・オブ・ザ・タワー」に薬室2個付き鉄製砲1門と薬室1個付き青銅製砲1門を搭載していたほか、王の乗艦のために鉄製砲1門を保管していたことが記録されている[2]。
しかし当時の大砲は決して船を破壊したり沈めたりするものではなく、弓と同じように人間を殺傷することを目的とした兵器であった[1]。百年戦争中の1340年に戦われたスロイスの海戦では、双方ともに火砲を装備していたが、主な戦闘は白兵戦であった[2]。
当初用いられていた火砲は組立砲 (Built-up gun) と呼ばれる形式で、錬鉄製の角棒を円筒形に並べたり短い円筒を前後に並べたりして砲身を作成し、その後尾に火薬を詰めた薬室を繋ぐものであった[1]。蛇型長身砲(serpentine gun)もこの一種であり、1545年に沈没した「メアリー・ローズ」にも搭載されていた[2][1]。
鋳造砲の普及 (16-18世紀)
16世紀には鋳造砲(cast gun)が急速に進歩した[1]。これは青銅または黄銅を素材として、砲身・薬室を一体化して鋳造するもので、火薬と弾丸の装填は砲口から行われた[1]。この鋳造砲は、組立砲よりも大口径・大重量の弾丸にも対応可能で、砲身命数も大きかった[1]。16世紀に実用化されたのち、鋳造砲はおよそ250年間にわたって大きな改良を受けることなく艦砲として用いられ、19世紀初頭まで海軍兵器の主役となった[1]。
16世紀のイギリス海軍では、艦砲を下記のように区分していた[1]。
- 砲弾重量50ポンド (23 kg) - カノン砲
- 砲弾重量32ポンド (15 kg) - 半カノン砲
- 砲弾重量17–18ポンド (7.7–8.2 kg) - カルバリン砲
- 砲弾重量9–10ポンド (4.1–4.5 kg) - 半カルバリン砲
- 砲弾重量5ポンド (2.3 kg) - セーカー砲
- 砲弾重量4ポンド (1.8 kg) - ミニオン砲
- 砲弾重量2.5–3ポンド (1.1–1.4 kg) - ファルコン砲
- 砲弾重量1.25–2ポンド (0.57–0.91 kg) - ファルコネット砲
- 砲弾重量0.5–1ポンド (0.23–0.45 kg) - ロビネット砲
一般に艦砲として多用されたのは半カルバリン砲以上のもので、1588年のアルマダの海戦の際にイギリス艦隊が搭載していた砲の95パーセントがカルバリン砲であった[1]。カルバリン砲の場合、最大射程は約2キロあったものの、これは盲撃ちの状態の数値であり、狙い撃ちができる射距離は300メートル程度に限られた[1]。これは船体の動揺によって厳密な照準が難しくなるためで、実戦においては、イギリス海軍の提督たちは「50ヤード (46 m)以内」や「敵艦に乗り込めるくらいの近距離」での発射を指令していた[2]。
当時の大砲は、船体というよりはマストや索具の破壊や、これに伴って生じた破片による人員の殺傷を目的としており、カルバリン砲程度では船体を打ち破ることも難しかった[1]。これに対し、イギリス陸軍のメルヴィル将軍の着想をもとにカロン社が開発したカロネード砲では、砲身を短縮して口径を拡大し、弾丸と砲の口径との遊隙をできるだけ小さくした構造を採用しており、射程を妥協しつつ、破壊力の増大を実現した[1]。イギリス海軍では同砲を1780年に採用し、1782年より、艦長が希望した場合に搭載できることとした[2]。
18世紀末には榴弾を発射する臼砲の艦載化も試みられたが、これは取り付け部分を特に強化する必要があったことから、専用の艦(臼砲艦)で運用された[1]。
後装式ライフル砲と重砲化 (19・20世紀)
1855年、ウィリアム・アームストロングは後装式ライフル砲という新しいタイプの大砲を製作、以後も順次に開発を進めており、1859年、イギリスの造兵委員会は、このアームストロング砲を艦砲として採用することを決定した[3]。しかし同砲には、尾栓の開放不良や、特に大口径砲では操砲困難となる問題があり、またこの時点では装甲貫徹力や照準精度も前装式より劣っていた[4]。当時、装甲艦の登場に伴って対艦兵器の貫徹力が重視されるようになり、砲の大口径化・大重量化が進んでいたことから、これは重大な問題であった[4]。
このことから、イギリスにおいてはアームストロング砲と前装砲の折衷案にあたる前装式ライフル砲が誕生し、1864年にはこれが艦砲として採用されることになった[3][4]。一方、プロイセン王国やフランスでは後装式のままで重砲化を進めたほか[3]、イギリス海軍も、1879年には再び後装砲の装備へと転換した[5]。これは尾栓の設計改良によって後装砲の実用性が向上したことや、貫徹力向上の要求および装薬(発射薬)の進歩によって長砲身化が進み、前装砲への装填作業などが非実用的になったことによる決定であった[5]。また重砲化によって射程と破壊力が向上した一方で発射速度や旋回・俯仰速度が低下し、当時登場し始めていた水雷艇との交戦が困難になっていることも問題視され[5]、主砲としての重砲のほかに、中・小口径の後装式ライフル砲である速射砲も用いられるようになった[6]。
重砲化は、砲の装備形式にも変革をもたらした[3]。従来、艦砲は木製の砲車に架されており、発射時の反動は、支持索に取り付いた砲員の人力で抑止されていたが、重砲化とともにこの方法は限界を迎えたことから、1870年頃より、重力や水圧、空気圧を用いた駐退機が登場し始めた[3]。また帆船の時代には、艦砲は操帆を妨げないように多数の舷側砲として搭載されていたのに対して[7]、砲の大型化とともに、重量やコストを抑制するため比較的少数の重砲を搭載する方向となったことから、その少数の砲の射界を極力広くとるために砲塔が用いられるようになった[8]。更に重砲化が進むと、砲の旋回・俯仰や装薬・砲弾の装填などを人力で行うことはもはや不可能となり、機力が用いられるようになったため、これらの動力装置と組み合わせるという面でも砲塔式が優れていた[8]。
1890年代には数千メートルの射程をもつ長砲身の後装式重砲が実用化され、これを連装砲塔2基におさめて艦の前後に1基ずつ配置するのが標準的な戦艦とみなされた[9]。また炸裂弾が導入されたこともあって、艦砲による破壊力は飛躍的に強化されたが、重砲化に伴って発射間隔が長くなって単位時間あたりの投射火力がかえって低下したことや、射程の延伸に見合った照準方法が間に合わなかったこと、また装甲の技術も発達したことから、皮肉にも、19世紀後半は、大砲の効果が大きく減殺された時代となった[10][注 2]。
その後、1905年の日本海海戦において、艦砲の火力によって装甲艦をも撃破できることが実証され、また測距儀や射撃盤など各種装置の登場に伴う砲術の発達によりやっと重砲の破壊力を効果的に用いることができるようになると、より大口径・強力な砲を搭載できるように艦を大型化させるという大艦巨砲主義の時代が到来し、第一次世界大戦においてその成果が立証されることとなった[9]。これを受けて、戦間期には各国ともに戦艦・巡洋戦艦など重砲搭載艦の増備を進めたものの、第二次世界大戦ではこれらの艦同士が重砲を撃ち交わすような決戦はついに生起せず、わずかに英独間・日米間の局地砲戦だけに終わり、大口径砲は主として対地射撃に用いられた[7]。
対空兵器としての艦砲 (20世紀)
航空機の発達とともに、20世紀初頭には既に艦載対空兵器の必要性が認識されており、例えば1910年版の『ブラッセー海軍年鑑』ではヴィッカース社の3ポンド高角砲などを「対気球砲」(Anti-baloon guns)として紹介していた[11]。しかしこの時点では、飛行船にしても飛行機にしても性能は極めて限定的であり、艦船に対する直接的な脅威としての将来的・潜在的な可能性は認識されていたものの、艦艇への急速な対空兵器の装備には結びつかなかった[11]。航空機は第一次世界大戦で大規模に実戦投入されたものの、洋上での運用は限定的で、依然として真剣な脅威とはなかっていなかった[11]。大戦中、各国の主要な艦艇には高角砲が搭載されたものの、いずれも3インチ砲クラスの単装高角砲2-4基が標準で、また射撃指揮についても特に措置が講じられることもなく、砲台ごとの各個射撃であった[11]。
戦間期には、航空機の性能向上や航空母艦の登場に伴って、水上艦艇への対空兵器の装備も本格化した[11]。機関砲のほかは3-4インチ級の高角砲が広く用いられていたが、アメリカ海軍では、1926年起工の重巡洋艦「ペンサコーラ」の副砲を25口径5インチ高角砲として両用化を実行、次に駆逐艦の主砲として38口径5インチ両用砲を開発、戦艦・巡洋艦や航空母艦の副砲としても広く搭載した[2]。また1930年代からは、対空兵器にも専用の射撃指揮装置が装備され始めた[11]。
第二次世界大戦において経空脅威は極めて急激に増大し、これに対抗するため、各国軍艦には各種機関砲・高角砲が次々に増備されるとともに、組織化も進められていった[11]。また特に艦砲については、アメリカ海軍が1943年に近接信管(VT信管)を実戦投入すると、射弾の誤差をカバーできるようになり、有効弾を得る確率は従来の時計信管によるものより一桁上がったといわれている[11]。
大戦後に航空機のジェット機への移行が進むと、経空脅威も、プロペラ機時代には多数の低速機によるものであったのに対し、比較的少数の高速機へと様相を変えていった[11]。これに伴って近距離用の機関砲の価値は低下し、VT信管に対応するとともに火器管制レーダーとも連動した3-5インチ砲クラスが対空兵器の主流となっていった[11]。その後、対艦ミサイルの脅威が顕在化すると機関砲を用いたCIWSが広く普及したが、特にアメリカ海軍のようには艦対空ミサイル搭載艦をふんだんに保有できない海軍の場合、3-5インチ砲クラスの艦砲についても、全自動速射砲化によって対空射撃能力を向上させて、防空網の一端を担わせることとなった[11]。一方、特に冷戦終結後にはマルチハザード化およびグローバル化に伴って任務の多様化が進んだことから、これらの艦砲は、対空射撃能力とともに対水上・対地能力を併せ持つ多用途性が求められるようにもなった[11]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 青木 1982, pp. 73–80.
- ^ a b c d e f 中名生 1996.
- ^ a b c d e 青木 1983, pp. 69–73.
- ^ a b c McNeill 2014, p. 41-47.
- ^ a b c McNeill 2014, pp. 97–104.
- ^ McNeill 2014, pp. 125–126.
- ^ a b 筑土 1992.
- ^ a b 青木 1983, pp. 86–91.
- ^ a b 青木 1983, pp. 137–143.
- ^ a b 青木 1983, pp. 125–131.
- ^ a b c d e f g h i j k l 堤 2006.
参考文献
- McNeill, William Hardy『戦争の世界史』 下巻、高橋均 (翻訳)、中公文庫、2014年(原著1982年)。ISBN 978-4122058989。
- 青木栄一『シーパワーの世界史〈1〉海軍の誕生と帆走海軍の発達』出版協同社、1982年。 NCID BN06116852。
- 青木栄一『シーパワーの世界史〈2〉蒸気力海軍の発達』出版協同社、1983年。 NCID BN06117039。
- 高須廣一「「現代の艦砲」理解のために その基本的メカニズムを解明する (特集・最近の艦載砲熕兵器)」『世界の艦船』第267号、海人社、62-69頁、1979年4月。NDLJP:3292056。
- 筑土龍男「大口径砲 その発達を追って (特集・大口径砲)」『世界の艦船』第449号、海人社、69-73頁、1992年4月。NDLJP:3292233。
- 堤明夫「砲熕兵装 (特集・対空兵装の変遷)」『世界の艦船』第662号、海人社、78-83頁、2006年8月。 NAID 40007357719。
- 中名生正巳「艦砲発達の節目をプロットする (特集・艦砲 昔と今)」『世界の艦船』第518号、海人社、69-75頁、1996年12月。NDLJP:3292302。