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'''呂氏の乱'''(りょしのらん)は、[[中国]]の[[前漢]]建国から23年後、すなわち高后8年([[紀元前180年]])8月26日に斉王[[劉襄]]が挙兵してから |
'''呂氏の乱'''(りょしのらん)は、[[中国]]の[[前漢]]建国から23年後、すなわち高后8年([[紀元前180年]])8月26日に斉王[[劉襄]]が挙兵してから文帝元年10月1日に文帝([[劉恒]])が即位するまでの66日間に発生した政変の総称である。 |
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皇太后[[呂雉]]は、生前、甥の趙王[[呂禄]]を上将軍に、呂王[[呂産]]を相国に任じ、朝廷の軍事・政務の大権を掌握させた。呂雉は、同時に、宿将[[灌嬰]]を大将軍に任じて[[滎陽]]に駐屯させ、東方の劉氏諸王が挙兵して皇位を簒奪することを防がせた。呂雉の死後、呂禄 |
皇太后[[呂雉]]は、生前、甥の趙王[[呂禄]]を上将軍に、呂王[[呂産]]を相国に任じ、朝廷の軍事・政務の大権を掌握させた。呂雉は、同時に、宿将[[灌嬰]]を大将軍に任じて[[滎陽]]に駐屯させ、東方の劉氏諸王が挙兵して皇位を簒奪することを防がせた。呂雉の死後、呂禄の女婿である朱虚侯[[劉章]]は、呂禄の立場が穏やかであることを妻から聞き、兄である斉王劉襄に対し、大叔父の楚王[[劉交]]に挙兵して西進させ、皇帝に即位するよう密告した。これを聞いた呂産は、兵を派遣して反乱を平定しようとした。しかし、朝廷の大臣[[陳平]]や[[周勃]]らは、呂氏への反乱に介入し、発生した全面的な内戦を、呂氏を誅殺する政変へと転嫁し、巧妙にも呂氏一族を誅殺した。 |
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その後、陳平らは、[[少帝弘]]及びその3人の弟が、呂雉が朝廷の外から連れてきた子であって、[[ |
その後、陳平らは、[[少帝弘]]及びその3人の弟が、呂雉が朝廷の外から連れてきた子であって、[[恵帝]]の実子ではない旨を発表し、少帝弘を廃位して、代王劉恒を即位させ、劉襄らの簒奪の野心を潰えさせた上、少帝弘ら兄弟4人を殺害した。その後、陳平及び周勃らは、{{仮リンク|白馬の盟|zh|白馬之盟}}に基づき、数々の措置を講じ、最終的に、劉氏を安んじて、後の[[文景の治]]の基礎を築いた。 |
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==呂氏による政権掌握== |
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秦始皇26年([[紀元前221年]])、[[秦]]は、最終的に東方の[[六国]]を滅亡させ、[[春秋戦国時代]]以来数百年間にわたって続いた分裂状態を終了させ、中国の歴史上、初の統一王朝を樹立し、[[始皇帝]]は、中国の歴史上、初の皇帝となった。秦始皇37年、始皇帝が死亡するや、公子[[胡亥]]は、[[趙高]]と[[李斯]]の助けを借りて、{{仮リンク|沙丘の変|zh|沙丘之变}}を起こし、兄[[扶蘇]]に死を与えて皇位継承権を奪い、秦の二世皇帝として即位した。二世皇帝による統治は、一般大衆の不満を呼び起こした。初めに、[[陳勝]]と[[呉広]]が反乱を起こし、秦人が心を寄せる扶蘇や、楚人が心を寄せる[[項燕]]の名を借りて、[[陳勝・呉広の乱]]を起こし(揭竿起義)、ここに旧六国の人々の秦への反乱の序幕が開いた。六国[[楚]]の貴族[[項梁]]とその甥[[項羽]]は、[[会稽郡]][[郡守]]の[[殷通]]を殺害して挙兵し、秦に対する反乱を起こし、旧楚の王孫[[熊心]]を擁立し、楚の懐王と称した。 |
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[[始皇帝]]による[[秦朝|秦]]の天下統一と、その死後巻き起こった[[陳勝・呉広の乱]](竿旗起義)と呼ばれる農民反乱と旧[[六国]]での有力者・武将らによる復興宣言、六国の一つ[[楚 (春秋)|楚]]を復興してその将となった[[項羽]]・[[劉邦]]らによる秦の滅亡、その後の内戦([[楚漢戦争]])を経て、最終的に項羽を滅ぼした劉邦は各地の王らによる推戴を受けて皇帝を称し、国号を[[漢]]と定めて新たな王朝を樹立した。即位した劉邦は正妻であった呂雉を皇后に、呂雉との間の男児であった[[恵帝 (漢)|劉盈]]を皇太子に立てたが、その一方で側室の[[戚夫人]]とその息子の[[劉如意]]を溺愛し、たびたび劉盈を廃して劉如意を皇太子に擁立しようとした。しかし呂雉は楚漢戦争時代からの劉邦の部下であった[[張良]]の力を借りる事で、劉盈の廃立をなんとか阻む事に成功した。 |
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[[沛郡|泗川郡]][[豊県|豊邑]]{{仮リンク|泗水亭|zh|泗水亭}}の{{仮リンク|亭長|zh|亭制}}であった[[劉邦]]もまた、[[沛県]][[県令]]を殺害して挙兵し、項梁に追随した。項梁が戦死した後は、その甥である項羽が戦果をあげるとともに、楚の懐王を殺害して、その権力を奪取した。漢元年([[紀元前205年]])、秦が滅亡し、劉邦は、項羽によって漢王に封ぜられた。漢5年([[紀元前202年]])2月、劉邦は、4年以上にわたる[[楚漢戦争]]において項羽を撃破して、[[漢]]を樹立し、中国の歴史上3番目の皇帝に即位した。劉邦は、即位後、名将や大臣が皇帝に危害を及ぼすことをおそれ、異姓王の誅滅を開始し、同姓である劉氏を王に封じた。 |
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高祖12年旧暦4月25日([[紀元前195年]]新暦6月1日。以下、カッコ内は新暦)、劉邦は[[長楽宮]]にて死去し<ref>『史記』高祖本紀:十二年……四月甲辰,高祖崩長楽宮。</ref>、皇太子の劉盈が新たに皇帝として即位し(諡号は恵帝、以下便宜上そのように表記)、母である呂雉は[[皇太后]]とされた<ref>『史記』高祖本紀:丙寅,葬。己巳,立太子,至太上皇廟。群臣皆曰:「高祖起徽細,撥乱世反之正,平定天下,為漢太祖,功最高。」上尊号為高皇帝。太子襲号為皇帝,孝恵帝也。</ref><ref>『漢書』恵帝紀:十二年四月,高祖崩。五月丙寅,太子即皇帝位,尊皇后曰皇太后。</ref>。また呂雉の意向により、恵帝は自身の姪(姉妹の[[魯元公主]]と[[張耳]]の後嗣の趙王[[張敖]]の娘)の[[張皇后 (漢恵帝)|張氏]]を皇后に立てた。しかし呂雉は恵帝の即位後、過去の後継者争いを巡る対立の報復として、幼い劉如意(当時は趙王)を暗殺、さらに戚夫人を残虐な方法で殺害した事で、精神的なショックを受けた恵帝は淫楽に耽り、やがて病が重くなり起床することもできなくなった<ref>『漢書』恵帝紀:七年冬十月,発車騎、材官詣滎陽,太尉灌嬰将。</ref><ref>『史記』呂太后本紀:孝恵見,問,乃知其戚夫人,乃大哭,因病,歳余不能起。使人請太后曰:「此非人所為。臣為太后子,終不能治天下。」孝恵以此日飲為淫楽,不聴政,故有病也。</ref>。 |
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漢の高祖12年4月25日([[紀元前195年]]6月1日)、高祖(劉邦)が[[長楽宮]]にて死亡した<ref>《史记·高祖本纪》:十二年......四月甲辰,高祖崩长乐宫。</ref>。5月17日(6月23日)、高祖が埋葬された。5月20日(6月26日)、高祖と皇后呂雉との間の子である太子[[劉盈]](恵帝)が即位し、太上皇廟に至った。群臣は、劉邦(高祖)に対し、廟号太祖、諡号高皇帝を贈った。劉盈は、皇帝の称号を継承し、母である呂雉を[[皇太后]]とした<ref>《史记·高祖本纪》:丙寅,葬。己巳,立太子,至太上皇庙。群臣皆曰:“高祖起徽细,拨乱世反之正,平定天下,为汉太祖,功最高。”上尊号为高皇帝。太子袭号为皇帝,孝惠帝也。</ref><ref>《汉书·惠帝纪》:十二年四月,高祖崩。五月丙寅,太子即皇帝位,尊皇后曰皇太后。</ref>。恵帝は、即位後、呂雉との対立が続いたところ、漢恵帝7年10月、恵帝は、病が重くなって起床することができなくなった<ref>《汉书·惠帝纪》:七年冬十月,发车骑、材官诣荥阳,太尉灌婴将。</ref><ref>《史记·吕太后本纪》:孝惠见,问,乃知其戚夫人,乃大哭,因病,岁余不能起。使人请太后曰:“此非人所为。臣为太后子,终不能治天下。”孝惠以此日饮为淫乐,不听政,故有病也。</ref>。八月11日(9月26日)、恵帝が死亡した。恵帝の死後、皇太后呂雉が臨朝称制を行い、呂氏一族を重用し、[[張良]]の子である[[張辟彊]](当時15歳)を[[侍中]]に任じた。張辟彊は、左大臣陳平に対し、呂氏一族を宮中に入れて中心的な役割を担わせ、同時に、呂雉には、三族令を廃止して、功臣・列侯の間に存在した疑念を解消させるよう言った。陳平がこれを聞いて奏上したところ、呂雉は、大変喜んでこの建議を受け入れた。9月5日(10月19日)、恵帝が埋葬された。劉盈(恵帝)の諡号は、孝恵皇帝とされた。[[前少帝 (前漢)|前少帝]]が即位して、呂雉が臨朝称制を行った<ref>《史记·吕太后本纪》:七年秋八月戊寅,孝惠帝崩。发丧,太后哭,泣不下。留侯子张辟强为侍中,年十五,谓丞相曰:“太后独有孝惠,今崩,哭不悲,君知其解乎?”丞相曰:“何解?”辟强曰:“帝毋壮子太后畏君等。君今请拜吕台、吕产、吕禄为将,将兵居南北军,及诸吕皆入宫,居中用事,如此则太后心安,君等幸得脱祸矣。”丞相乃如辟强计。太后说,其哭乃哀。吕氏权由此起。乃大赦天下。九月辛丑,葬。太子即位为帝,谒高庙。元年,号令一出太后。</ref><ref>《汉书·高后纪》:元年春正月,诏曰:“前日孝惠皇帝言欲除三族辠、妖言令师古曰:‘罪之重者戮及三族,过误之语以为妖言,今谓重酷,皆除之。’议未决而崩,今除之。”</ref>。前少帝は、年齢が長じるにつれて、呂雉の束縛を脱したいと思うようになり、呂雉は、前少帝を恐れた。漢の高后4年5月11日(6月15日)、呂雉は、前少帝を廃し、恒山王劉義を擁立し、劉義は名を改めて劉弘([[少帝弘]])と称した<ref>《史记·吕太后本纪》:宣平侯女为孝惠皇后时,无子,详为有身,取美人子名之,杀其母,立所名子为太子。孝惠崩,太子立为帝。帝壮,或闻其母死,非真皇后子,乃出言曰:“后安能杀吾母而名我?我未壮,壮即为变。”太后闻而患之,恐其为乱,乃幽之永巷中,言帝病甚,左右莫得见。太后曰:“凡有天下治为万民命者,盖之如天,容之如地,上有欢心以安百姓,百姓欣然以事其上,欢欣交通而天下治。今皇帝病久不已,乃失惑惛乱,不能继嗣奉宗庙祭祀,不可属天下,其代之。”群臣皆顿首言:“皇太后为天下齐民计所以安宗庙社稷甚深,群臣顿首奉诏。”帝废位,太后幽杀之。五月丙辰,立常山王义为帝,更名曰弘。不称元年者,以太后制天下事也。</ref>。 |
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8月11日(9月26日)、恵帝は死亡した。葬儀の際に呂雉は慟哭したものの、涙は流さなかったとされる<ref>呂后本紀:七年秋八月戊寅,孝惠帝崩。發喪,太后哭,泣不下。</ref>。張良の子であった[[張辟彊]](当時15歳)は左丞相の陳平に対し、呂雉が陳平らの存在を恐れている事を伝え、呂禄・呂産ら呂氏一族の者達を招き入れるよう進言する事で、呂雉の警戒を解き身の安全を保つ事ができると進言した。陳平がこれを聞いて奏上したところ、呂雉は、大変喜んでこの建議を受け入れた<ref>『史記』呂太后本紀:留侯子張辟彊為侍中,年十五,謂丞相曰:「太后独有孝恵,今崩,哭不悲,君知其解乎?」丞相曰:「何解?」辟彊曰:「帝毋壮子太后畏君等。君今請拜呂台・呂産・呂禄為将,将兵居南北軍,及諸呂皆入宮,居中用事,如此則太后心安,君等幸得脱禍矣。」丞相乃如辟彊計。太后悦,其哭乃哀。呂氏権由此起。乃大赦天下。九月辛丑,葬。太子即位為,謁高廟。元年,号令一出太后。</ref>。 |
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呂雉 |
呂雉が、臨朝称制の後、呂氏一族を王に封じようと考えたところ、右丞相の[[王陵]]は、高祖の白馬の盟に違背すると主張してこれに反対し、左丞相の陳平は、呂雉に同意した。呂雉は、王陵を[[太傅]]に昇進させ、その権力を剥奪した。王陵は、病と称して参内しなくなった。呂雉は、左丞相の陳平を右丞相に昇進させ、辟陽侯[[審食其]]を左丞相に任命した<ref>《史记·陈丞相世家》:安国侯既为右丞相,二岁,孝惠帝崩。高后欲立诸吕为王,问王陵,王陵曰:“不可。”问陈平,陈平曰:“可。”吕太后大怒,乃详迁陵为帝太傅,实不用陵。陵怒,谢疾免,杜门竟不朝请,七年而卒。</ref><ref>《史记·吕太后本纪》:乃以左丞相平为右丞相,以辟阳侯审食其为左丞相。左丞相不治事,令监宫中,如郎中令。食其故得幸太后,常用事,公卿皆因而决事。</ref>。呂雉は、臨朝称制の際、呂氏一族を諸侯に封じ、また、呂氏一族の娘を劉氏一族に嫁がせた。呂産は、呂雉の長兄{{仮リンク|呂沢|zh|吕泽}}の子である。呂沢は、高祖6年、周呂侯に封ぜられ、3年後に死亡した。高后元年、呂産の兄{{仮リンク|呂台|zh|吕台}}が呂王に封じられ、父である呂沢が悼武王を追謚され、呂産が洨侯に封ぜられた。11月、呂台が死亡し、呂粛王となり、太子{{仮リンク|呂嘉|zh|吕嘉 (吕王)}}が即位した。6年10月、呂雉は、呂嘉の居所が豪奢であることを理由に廃位し、呂産を呂王に封じた。7年2月、呂産は、梁国に国替えとなり、梁国は呂国と改称した。呂禄は、呂雉の次兄{{仮リンク|呂釈之|zh|吕释之}}の子である。呂釈之は、高祖6年、建成侯に封じられた。7年、呂禄は、北軍を統率していた際に、軍規が厳正であり、威信を備えていたことが理由で、趙王に封じられた。 |
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⚫ | 呂雉は、恵帝の在位時に、高祖の庶子である趙王[[劉如意]]を殺害し、高祖の庶子である淮陽王[[劉友]]を趙王に改封し、劉友に呂氏一族の娘を嫁がせた。劉友には愛妾がいたため、寵愛を失った劉友の后(呂氏)によって、謀反の疑いで誣告され、劉友は、京城に召されて餓死した。呂雉は、また、高祖の庶子である梁王[[劉恢]]を趙王に改封し、呂産の娘を嫁がせた。劉恢の后(呂氏)は、趙国を掌握し、劉恢を監視し、人を派遣して劉恢の愛妾を毒殺したため、劉恢は、傷心し、恐れて自殺した。呂雉は、劉恢が愛妾のために殉死したと考え、劉恢の封国を廃除した。高祖の別の庶子である燕王[[劉建]]の死亡後、呂雉は、人を派遣して劉建の庶子を殺害した。燕国は、後嗣がなかったため、国を除かれた。 |
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三代目の皇帝には[[前少帝 (前漢)|恵帝の子]](名不詳、前少帝と呼称される)が即位したが、この人物は恵帝と女官の間に生まれた子であり、その事実を隠して皇后の張氏との間の子であると偽るため、実の母であった女官は殺害されていた<ref>史記 呂后本紀:宣平侯女為孝惠皇后時,無子,詳為有身,取美人子名之,殺其母,立所名子為太子。孝惠崩,太子立為帝。</ref>。前少帝は成長すると実の母の敵を討とうと望むようになり、呂雉は前少帝を恐れた<ref>史記 呂后本紀:帝壯,或聞其母死,非真皇后子,乃出言曰~太后聞而患之,恐其為亂~。</ref>。高后4年5月11日([[紀元前184年]]6月15日)、呂雉は前少帝を廃し、幽閉した後に殺害した<ref>『史記』呂太后本紀:太后曰~帝廃位,太后幽殺之。</ref>。次の皇帝には恒山王劉義が擁立され、劉義は諱を改めて劉弘と称した<ref>『史記』呂太后本紀:五月丙辰,立常山王義為帝,更名曰弘。不称元年者,以太后制天下事也。</ref>。 |
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呂雉は称制に臨んで長兄の{{仮リンク|呂沢|zh|吕泽}}の子の{{仮リンク|呂台|zh|吕台}}を呂王(斉国の博陽郡の一部を独立させて呂国とし、その王)に封じ、死後はその子の{{仮リンク|呂嘉|zh|吕嘉 (吕王)}}が爵位を継いだが、呂雉は呂嘉の住まいが豪奢であることを理由に高后6年([[紀元前182年]])にこれを廃位し、呂台の弟で呂嘉の叔父であった呂産を呂王に封じた。高后7年([[紀元前181年]])2月、呂産は、梁国に国替えとなり、梁国は呂国と、それまでの呂国は済川国と改称された。また呂雉の次兄の{{仮リンク|呂釈之|zh|吕释之}}の子の呂禄も、彼が北軍を統率していた際に、軍規が厳正であり、威信を備えていたことを理由に、高后7年に趙王に封じられた。 |
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紀元前180年3月、皇太后呂雉は、病を得た。8月には、病が重くなり、右丞相陳平の建議を採用して、宿将である穎陰侯灌嬰を大将軍に任命し、滎陽に派遣し、東方の劉氏諸王が挙兵して皇位を簒奪することを防がせた。同時に、陳平は、10年にわたって左丞相、右丞相を歴任していた曲逆侯陳平と10年にわたって[[大尉]]の任にあった絳侯周勃が辞職して、併せて、呂王呂産と趙王呂禄が相国と上将軍をそれぞれ担い、辟陽侯審食其を太傅に任じて皇帝を補佐させることを、呂雉に対して奏請した。7年にわたって御史大夫の任にあった平陽侯{{仮リンク|曹窋|zh|曹窋}}は、その職を担任し続けた。首都長安の[[長楽宮]]を防衛する南軍と、[[未央宮]]を防衛する北軍は、8年にわたって、呂氏一族が掌握していた。政変以前の両軍の将軍は、長楽衛尉の滕侯[[呂更始]]と未央衛尉の「足」がそれぞれ分担していたが、両名とも呂産と呂禄の親族であった。呂禄は、かつて、未央衛尉を6年あまり務めており、なおかつ、軍規が厳正であり、威信を備えていた。呂禄は、呂雉の死後、皇帝の岳父となった。呂産は、かつて、太傅に任ぜられていた。 |
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同年8月19日、呂雉が死亡した。これ以前、斉王劉襄は、すでに、長安にいた弟の朱虚侯劉章とともに、密かに挙兵の謀議を行っていた。劉章は、呂禄の立場が温和であるがゆえに、呂禄が北軍を作戦に用いることができない旨、妻である呂禄の娘から聞いていた。北軍の兵力は、南軍よりもはるかに勝っているため、劉章は、南軍のみに対処することは困難ではないとして、兄に対して密かに挙兵を促した。呂雉の死後、劉襄は、挙兵の準備を始め、琅邪王[[劉沢]]を欺いて、その兵を動員させた。劉襄は、呂氏一族の誅滅と称して、実際は、皇位の簒奪を企図していた。その後挙兵した楚王劉交もまた、劉襄と同じく、皇位簒奪の意図を有していた。史書においては、「呂氏一族」が乱を起こしたといわれているが、実際には、「劉氏一族」が乱を起こしたのである。呂雉が死亡する前、陳平、周勃及び[[陸賈]]などの開国の元老もまた、すでに連携を始めており、統治をめぐる劉氏と呂氏の宗族の争いに介入する準備をしていたのである。 |
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⚫ | 呂雉は、恵帝の在位時に、高祖の庶子である趙王[[劉如意]]を殺害し、高祖の庶子である淮陽王 |
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同年9月10日ころ、呂雉が埋葬された。9月12日、劉襄が挙兵し、西のかた長安へ進攻した。呂産は、これを知ると、灌嬰に対し、兵を率いて出撃するよう直ちに命じた。しかし、陳平は、すでに、灌嬰に対し、斉軍と交戦したり、斉・楚などの王と連合して長安へ反攻しないように、密かに命じていた。また、併せて、諸王に対して使者を派遣し、一時的に国境内で停兵するよう説得することもまた、灌嬰に対して命じていた。呂国を攻めて滎陽に迫った劉襄は、兵を返して帰国し、{{仮リンク|済川国|zh|濟川國}}を攻めた。一方、陳平と周勃は、曲周侯[[酈商]]を拉致し、政争を平和的に解決する意見書を提出し、その後、酈商の息子{{仮リンク|酈寄|zh|酈寄}}を脅迫して呂氏に伝えさせた。意見書の条件は、呂氏が中央の軍権を放棄し、呂氏の既得政治権益が損なわれないように大臣が保障することであった。呂禄は賛同したが、呂産は断固として反対し、呂氏一族は、分裂した。呂産に帰順を強いるために、呂禄は、酈寄とともに、呂禄の叔母である臨光侯{{仮リンク|呂嬃|zh|吕媭}}を訪ねたが、却ってひどく叱られ、軍権を渡すには至らなかった。 |
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高后8年([[紀元前180年]])、呂雉は病死した。その遺書により各地の諸王には千金が支給され、大赦が下され、呂産は相国に昇進し、呂禄の娘は少帝に嫁いだ<ref>『史記』呂太后本紀:辛巳,高后崩,遺詔賜諸侯王各千金,将相列侯郎吏皆以秩賜金。大赦天下。以呂王産為相国,以呂禄女為帝后。</ref>。呂氏一族は反乱を企てていたが、周勃・灌嬰らの存在を恐れて計画を躊躇していた<ref>『史記』呂太后本紀:当是時,諸呂用事擅権,欲為乱,畏高帝故大臣絳・灌等,未敢発。</ref>。また当時長安にいた朱虚侯劉章は、呂産の娘であった自身の妻を通して、この陰謀を察知する事ができた<ref>『史記』呂太后本紀:朱虚侯劉章有氣力,東牟侯興居其弟也。皆斉哀王弟,居長安。当是時,諸呂用事擅権,欲為乱,畏高帝故大臣絳・灌等,未敢発。朱虚侯婦,呂禄女,陰知其謀。</ref>。粛清を恐れた劉章は兄の斉王劉襄に対し挙兵を要請し<ref>『史記』呂太后本紀:恐見誅,乃陰令人告其兄斉王,欲令発兵西,誅諸呂而立。</ref>、劉襄は琅邪王[[劉沢]]を欺いて兵権を奪い、呂后による前少帝の暗殺、三趙王(劉如意・劉友・劉恢)の殺害、呂氏一族への封爵などを糾弾する檄を飛ばして兵を挙げた<ref>『史記』呂太后本紀:八月丙午,斉王欲使人誅相,相召平乃反,挙兵欲囲王,王因殺其相,遂発兵東,詐奪琅邪王兵,並将之而西。語在斉王語中。</ref><ref>『史記』呂太后本紀:斉王乃遺諸侯王書曰……</ref>。これを知った呂産は灌嬰に兵を与えて迎撃を命じたが、灌嬰は滎陽まで進軍するとそのまま留まり、劉襄に対し「呂氏が変事を起こすのを待って、それから共に彼らを討とう」と説得した<ref>『史記』呂太后本紀:漢聞之,相国呂産等乃遣潁陰侯灌嬰将兵撃之。灌嬰至滎陽,乃謀曰:「諸呂権兵関中,欲危劉氏而自立。今我破斉還報,此益呂氏之資也。」乃留屯滎陽,使使諭斉王及諸侯,与連和,以待呂氏変,共誅之。</ref>。これを聞いた劉襄は、斉国の西の国境まで兵を引いた<ref>『史記』呂太后本紀:斉王聞之,乃還兵西界待約。</ref>。 |
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同年9月26日、陳平らは、呂氏一族を誅殺する政変を起こした。当日の朝、呂産、呂禄、曹窋らが長安で勤務しており、呂産の親族である郎中令[[賈寿]]の使者が、灌嬰が謀反を起こした旨の知らせを伝えた。呂禄は、呂産を叱り、両者は決裂し、別々の道を歩むこととなった。呂禄は、北軍に対して軍権を渡そうとしたが、呂産は、未央宮に入り、皇帝に対し、兵符をもって兵を率い、反乱を平定するよう要請した。 |
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呂禄・呂産らは関中での反乱を計画したが、内にいる劉章・周勃らや外からの斉・楚の兵を恐れ、また灌嬰が斉の兵と衝突するのを待とうとするなど、優柔不断となっていた<ref>『史記』呂太后本紀:呂禄・呂産欲発乱関中,内憚絳侯・朱虚等,外畏斉・楚兵,又恐灌嬰畔之,欲待灌嬰兵与斉合而発,猶豫未決。</ref>。一方、陳平と周勃は曲周侯[[酈商]]の身柄を拉致し、その息子の{{仮リンク|酈寄|zh|酈寄}}に指示して、呂禄・呂産らに対して「天下は未だ安定しておらず、大臣や宗室の諸王らは貴方がたの野心を疑っている。軍の指揮権を返還して各々の領地へと帰れば、彼らの疑念を解く事ができる」と吹き込ませた<ref>『史記』呂太后本紀:絳侯乃与丞相陳平謀,使人劫酈商。令其子寄往紿説呂禄曰……</ref>。呂禄はこれを信じて呂氏一族の元にこれを伝えたが意見は定まらず<ref>『史記』呂太后本紀:使人報呂産及諸呂老人,或以為便,或曰不便,計猶豫未有所決。</ref>、呂禄は呂雉の妹であった臨光侯{{仮リンク|呂須|zh|吕媭|label=呂嬃}}の下を訪ねたが、呂嬃は激怒して「軍の指揮権を失えば、我が一族の居場所はなくなるであろう。こんなもの、人に奪われるぐらいならば!」と宝物を外に叩きつけたという<ref>『史記』呂太后本紀:呂禄信酈寄,時与出遊猟。過其姑呂嬃,嬃大怒,曰……</ref>。 |
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曹窋は、陳平に対して前述の状況を報告した後、陳平は、周勃を呂禄のもとに派遣した。呂禄は、自らの家族と封国の安全が保障された後、上将軍の職を辞任し、衛尉「足」などの北軍将軍に対しては、周勃の指示に従うように命じた。呂産とその随行者の文官が未央宮に入った後、未央宮は、北軍によって直ちに封鎖され、未央宮の大殿の殿門も閉鎖された。呂産らは、入殿もかなわず、最終的には、郎中府の厠に隠れることとなった。 |
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高后8年9月26日の朝、平陽侯曹窋(前相国の[[曹参]]の子)は呂産と会議を行っていたが、ちょうど呂産の親族である郎中令[[賈寿]]の使者が、灌嬰が謀反を起こした旨の知らせを伝え、呂産は急いで未央宮(前漢を通しての皇帝の宮殿)へと向かった<ref>『史記』呂太后本紀:八月庚申旦……乃趣産急入宮。</ref>。場に居合わせた曹窋は丞相の陳平と大尉の周勃に対しこの事を報告し、周勃は北軍の指揮権を抑えようとした。周勃は割符を持っていなかったため、襄平侯紀通(楚漢戦争で劉邦の身代わりとして戦死した[[紀信]]の子)の手引きによって軍営へと入る事ができた<ref>『史記』呂太后本紀:平陽侯頗聞其語,乃馳告丞相・太尉。太尉欲入北軍,不得入。襄平侯通尚符節。乃令持節矯内太尉北軍。</ref>。周勃は北軍の兵士たちに対し、「呂氏に味方するものは右肩の衣を脱げ。劉氏に味方するものは左肩の衣を脱げ」と命じると、兵士たちは皆左肩の衣を脱ぎ、劉氏への忠誠の意思を示した<ref>史記 呂太后本紀:行令軍中曰:「為呂氏右袒,為劉氏左袒。」軍中皆左袒為劉氏。</ref>。 |
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この時、北軍の周勃と、政変の指揮を執る陳平との間に、統合が失われる状況が発生した。陳平は、もともと、衛尉「足」に対し、兵を率いて皇宮を封鎖するよう命令しており、また、劉章を派遣して、兵を率いて呂産を誅殺させようとしていた。図らずも、周勃は、劉章に軍門を守らせ、未だ帰属していない南軍に備えて、衛尉「足」に対し、兵を率いて呂産を誅殺させた。「足」がこれを拒絶するや、周勃は、慌てて曹窋を派遣して陳平の指示を求め、夕暮れ時に延期することによって、呂産と呂更始らを誅殺し得た。この過程で、審食其は、皇帝の命令でもって内応した。審食其は、この日まで、すでに陳平らによって反論され、かえって、皇帝を拉致した者とされた。その日の夜、陳平は、三族令の規定よりも処罰範囲を拡大した反乱処罰令を発令して、呂氏一族を誅滅するとともに、舞陽侯[[樊伉]]、南宮侯[[張買]]、博城侯{{仮リンク|馮代|zh|馮代}}などの親族を誅滅した。政変前、陳平は、呂雉がすでに廃止していた三族令を復活させないと誓約しており、呂禄なども連座させないことを誓約していた。しかし、陳平による違法な裏切りの結果、呂禄は、自身を死に追いやり、一族を滅亡させ、酈寄に売友の悪名を背負わせ、曹窋を罷免させることとなった。 |
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同じ頃、南軍の指揮権を持っていた呂産は未央宮に入って乱を起こそうとしたものの、曹窋より「呂産を通してはならない」との指示を受けていた衛兵らに入宮を拒まれ、宮殿の前を右往左往していた<ref>『史記』呂太后本紀:令平陽侯告衛尉……殿門弗得入,徘徊往来。</ref>。さらには万全を期した周勃の指示により、少帝を保護すべく向かっていた劉章率いる一団が未央宮へと入り、呂産は厠の中まで逃げ込んだところを殺害された<ref>『史記』呂太后本紀:太尉尚恐不勝諸呂……殺之郎中府吏廁中。</ref>。 |
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同年9月28日、陳平は、右丞相の職に復し、少帝弘を擁して天下に命令を発令した。10月4日、陳平は、使者を派遣して、劉氏諸王に対し、退兵を命じた。かくして、呂氏一族誅滅の政変が幕を閉じたのであった。 |
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劉章はさらに長楽宮を衛尉として守っていた呂氏一族の呂更始を殺害し、周勃と合流した<ref>史記 呂太后本紀:朱虛侯則從與載,因節信馳走,斬長樂衛尉呂更始。還,馳入北軍,報太尉。</ref>。周勃は「呂産さえ仕留めた以上、大勢は決した」と語り、呂氏一族の者達を全て捕え、長幼の区別なく皆殺しにした<ref>史記 呂太后本紀:太尉起,拜賀朱虛侯曰~遂遣人分部悉捕諸呂男女,無少長皆斬之。</ref>。呂禄、呂嬃、燕王呂通らは斬られ、呂雉の孫として血を引いていた魯王[[張偃]]は王号を廃された<ref>史記 呂太后本紀:辛酉,捕斬呂祿,而笞殺呂媭。使人誅燕王呂通,而廢魯王偃。</ref>。 |
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==新帝擁立の動き== |
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呂氏一族誅滅の政変後、少帝弘を擁して朝廷の軍政大権を掌握した陳平ら軍功の元老・大臣は、直ちに事後処理の検討にあたった。彼らは、まず、皇帝の詔書を発令して、斉王劉襄と楚王劉交に退兵を命じ、その後、少帝弘を廃位して、新帝を擁立すること決定した。彼らがこの決定を下したのは、次のような要因が原因である。少帝弘は、恵帝の子であり、呂雉の孫であり、呂雉のために擁立されたのであった。少帝弘の皇后{{仮リンク|呂皇后 (前漢後少帝)|zh|呂皇后 (西漢後少帝)}}は、呂禄の娘であり、呂雉のために立后され、呂氏一族誅滅の政変で殺害された。功臣・列侯は、少帝弘が成年後に報復するすることを恐れたのであった。少帝弘は、若年であるため、皇帝の権威を確立するには不十分であった。また、少帝弘は、恵帝の嫡子ではなく、皇位を継承する正当性を欠いていた。そのため、功臣・列侯は、劉氏の中から皇位継承者を選択するのが適切だと考えた。この決定を下した後、彼らは新帝の擁立を計画することに着手した。楚王劉交は、高祖の弟であり、以前、年上者であることなどの優位な条件から、出兵して太子{{仮リンク|劉辟非|zh|刘辟非}}を皇帝に擁立しようとしたため、新帝擁立の協議には招聘されなかった。新帝擁立の協議に招聘された劉氏一族は、高祖の長兄の妻{{仮リンク|陰安侯|zh|阴安侯}}、次兄の妻[[頃王妃]]及び遠い従兄弟の琅邪王劉沢であった。 |
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{{出典の明記|section=2|date=2022年6月13日 (月) 02:50 (UTC)}} |
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呂氏一族を誅滅した朝廷の大臣一同は、少帝およびその兄弟たちは劉氏の血を引く者ではなく、呂雉がどこかから連れてきた由来不明の私生児であるとして、新たに劉氏の者の中から皇帝を擁立する事を決定した<ref>史記 呂后本紀:諸大臣相與陰謀曰~。</ref>。協議の過程で考慮された皇帝候補者は、斉王劉襄(20余歳)・淮南王[[劉長]](19歳)・代王[[劉恒]](24歳)の3名であった。 |
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協議の過程で考慮された皇帝候補者は、斉王劉襄(20余歳)、淮南王[[劉長]](19歳)及び代王[[劉恒]](24歳)であった。劉襄と劉長は、母の家系が悪いとの理由により、功臣・列侯によって否決されたが、劉襄の叔父{{仮リンク|駟鈞|zh|驷鈞}}と劉長の叔父{{仮リンク|趙兼|zh|赵黡}}は、後に、侯に封じられた。 |
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最初に候補に挙がったのは、劉邦の庶長子であった劉肥の子の劉襄であった。だが劉襄の母の出身であった駟一族には駟鈞なる人物がおり、この人物が悪人とされていた事から、駟氏が呂氏同様に外戚として権勢を振るう事態が懸念された事で、擁立は見送られた<ref>史記 呂后本紀:或言「齊悼惠王高帝長子,今其適子為齊王,推本言之,高帝適長孫,可立也」。大臣皆曰:「呂氏以外家惡而幾危宗廟,亂功臣今齊王母家駟(鈞),駟鈞,惡人也。即立齊王,則復為呂氏。</ref>。次に劉邦の七男であった淮南王劉長の擁立も検討されたが、これも同様に母方の一族の問題を理由に見送られた。最後に候補に挙がったのは、劉邦の四男の代王劉恒であった。劉恒は「仁孝寬厚」とその人柄を評されており、また劉恒の母の[[薄姫]]も慎み深く善良であると知られていたため、彼が新たな皇帝に選ばれる事となった<ref>史記 呂后本紀:乃曰~乃相與共陰使人召代王。</ref>。 |
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*第1の候補者は、劉襄であった。劉襄が否決された主な原因は、2つあった。 |
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⚫ | 劉恒を皇帝の候補に定めた後、陳平 |
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#まず、大臣らは、劉襄が「高祖の嫡長孫」として相続の正当性があると主張したことを否定した。大臣らは、劉襄の祖母[[曹夫人]]が高祖の初期の情婦であり、婚姻関係がないことを知っていた。呂雉は、高祖と正式な婚姻をしており、確かに正妻であり、高祖と合葬されていることから、呂雉の正室としての地位が揺るぎないことを告げている。劉襄の説は、恵帝が庶子であることと同じである。そのため、劉襄が提案した「嫡長孫」説は、大臣らに認められなかった。劉襄に「嫡長孫」説を伝えたのは、劉襄が即位することに強く反対した劉沢であった。劉沢は、呂氏一族誅滅の政変前に、劉襄によって欺かれ、誘拐されたのであった。そのため、劉沢は「嫡長孫」説を利用して劉襄を騙し、長安に至って劉襄を皇帝に擁立すると述べていたが、実際には、大臣らに対し、劉襄を擁立してはならないと大いに訴えていた。 |
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#次に、功臣・列侯は、無断で謀反した諸侯王を皇帝に擁立することを望んでいなかった。大臣らは、劉襄に対して中央が派遣した補佐役であり監視役である[[斉郡|斉国]]の丞相{{仮リンク|邵平|zh|召平 (齊相)}}を劉襄が殺害し、無断で挙兵したことについて、極めて問題視した。劉襄は、呂氏一族誅滅の政変において、最も功績があると自認していたが、その後、大臣らによって、挙兵して謀反を起こした大過があると考えられていた。 |
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*第2の候補者は、劉長であった。劉長の母親の[[趙姫 (前漢)|趙姫]]が「{{仮リンク|貫高 (前漢)|zh|贯高}}謀刺事件」に巻き込まれて投獄された時、呂雉は、趙姫に嫉妬していたため、彼女を救助しようとせず、趙姫の説客であった審食其もまた、あえて呂雉と争おうとしなかった。趙姫は憂鬱で憤慨し、最後には、獄中で自害した。劉長は、この仇が忘れられず、挙兵の意思が甚だ強烈であった。しかし、{{仮リンク|淮南国|zh|淮南国}}丞相の北平侯[[張蒼]]による阻止があったからか、劉長は、挙兵しなかった。劉長と劉恒はいずれも高祖の庶子であったが、劉長が拒否された理由は、劉恒より5歳年下であったほか、主に、劉長の性格が剛毅であり、大臣が補佐することが難しいと心配されたからである。劉長を擁立することに強く反対したのは、おそらく張蒼である。 |
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{{出典の明記|section=3|date=2022年6月13日 (月) 02:50 (UTC)}} |
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*第3の候補者は、劉恒であった。彼が皇位継承者に選ばれた理由は、次のような点があると考えられる。劉恒は、高祖の四男であり、当時存命であった高祖の子2人のうち、最年長であり、皇位を継承する正当性が高かった。劉恒は、呂氏一族誅滅の政変時に挙兵しておらず、一方では、無断で挙兵することに反対した陳平らの要求を満たす存在だったのであり、他方では、呂氏一族誅滅の政変時に功績がなく、陳平らが劉恒を擁立した功績を強調することができたのであった。劉恒は、従前から、中央の命令に従っており、その人となりは、仁愛かつ孝順であった。性格は、寛大かつ控えめであり、大臣にとって、補佐しやすい存在であった。劉恒の母[[薄姫]]は、慎み深く、善良であり、[[外戚]]が跋扈する事件の再演を回避することができたのであった。また、劉恒は、長期にわたって辺境の地にあり、[[匈奴]]の脅威について深く認識していた。劉恒は、政治的に最も受け入れられたため、功臣・列侯によって、皇帝に選ばれた。 |
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⚫ | 劉啓は、文帝の長子ではなかった。文帝が代王の時、既に{{仮リンク|代王妃|zh|代王王后|}}があり、王妃は、3人又は4人の子を産んだので、劉啓は、文帝の嫡子ではなかった。『[[史記]]』によれば、代王妃は、文帝が即位になる前に死亡したが、死因は不明である。代王妃の3人又は4人の子もまた、文帝が皇太子を冊立する前に「病死した」ので、劉啓は、文帝の現存する子の中で最年長となった。呂氏一族誅滅の政変時に挙兵した楚王劉交と斉王劉襄もまた、皇太子が冊立されて間もなく死亡した。文帝は、劉章と劉興居が劉襄を擁立しようとしてい |
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⚫ | 劉恒を皇帝の候補に定めた後、陳平、周勃らは、直ちに使者を派遣して、劉恒を召喚した。劉恒は、この件について、左右大臣と[[郎中令]]の[[張武]]らの意見を求めた。張武は、これを詐欺であると考えていたが、[[執金吾|中尉]]の[[宋昌]]は、詐欺ではないと考えていた。劉恒は、この件について、母にも報告して相談したが、依然として躊躇して決することができなかった。占いを行った後、劉恒は、叔父[[薄昭]]を長安に派遣して、協議した。紀元前180年11月14日、この日は、高后8年9月29日であり、漢初には、秦の制度を採用していたため、10月は、新年であった。仮に、一日遅く即位することになれば、高后8年を(翌9年に)持ち越す方法がなかったため、劉恒は、6頭の馬車に乗って長安に駆け、その後、皇位を継承し、夜、未央宮に入って聴政した。[[劉興居]]と、[[楚漢戦争]]の際に劉盈(恵帝)を救った[[太僕]]の[[夏侯嬰]]は、自ら「宮殿を清める」として、少帝弘を皇宮から迎えて、少府に安置した。その夜、少帝弘と、恵帝の他の3人の子は、全て大臣らによって殺害された。大臣は、天下に対し、恵帝の子は恵帝の実子ではなく、由来不明の私生児であると布告した。 |
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劉啓が皇太子に冊立された2カ月後、文帝は、劉啓の生母の[[竇皇后 (漢文帝)|竇姫]]を皇后に冊立した。 |
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⚫ | 紀元前180年11月16日、すなわち10月1日、劉恒は、皇位を継承し、孝文皇帝(文帝)となった。劉恒が皇帝に擁立されて4か月後、大臣は、皇太子の冊立を求めた。皇太子冊立の朝議において、大臣が最初に否定したのは、皇位継承問題の際に最も開放的であり、最も政治闘争を引き起こす、[[禅譲]]、すなわち、「天下に賢聖・有徳の者を広く求め、天下を譲る」ことであった。大臣が次に否定したのは、劉氏宗族の範囲の諸侯王と宗親、特に、文帝の叔父である楚王劉交、従兄である呉王[[劉濞]]と、弟である淮南王劉長であった。最後に、大臣は、高祖の権威を強調して、「立嗣必子」(皇太子は必ず皇帝の子でなければならない)の原則を強調した。文帝は、ついに受け入れ、[[景帝 (漢)|劉啓]](8歳)を皇太子に冊立した。 |
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⚫ | 文帝が、太平の世の到来が不変であると考え、呂氏の乱の平定後、農暦の正月15日を祝日とし、以後、同日に宮殿の全ての明かりを点灯するようになったといわれており、これが[[元宵節]]の由来であるといわれている<ref>{{cite book|author= |
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⚫ | 劉啓は、文帝の長子ではなかった。文帝が代王の時、既に{{仮リンク|代王妃|zh|代王王后|}}があり、王妃は、3人又は4人の子を産んだので、劉啓は、文帝の嫡子ではなかった。『[[史記]]』によれば、代王妃は、文帝が即位になる前に死亡したが、死因は不明である。代王妃の3人又は4人の子もまた、文帝が皇太子を冊立する前に「病死した」ので、劉啓は、文帝の現存する子の中で最年長となった。呂氏一族誅滅の政変時に挙兵した楚王劉交と斉王劉襄もまた、皇太子が冊立されて間もなく死亡した。皇太子冊立の朝議において、文帝は、大臣らを捕まえて、「叔父の楚王、従兄の呉王、弟の淮南王が生きているのに、なぜ皇太子は必ず子でなければならないのか」と述べた。大臣らが「説得」して、ようやく劉啓を皇太子に冊立した。劉交は、先に文帝から禅譲の対象として指名されていたが、皇太子の冊立から2か月後に死亡しており、死因は不明であった。劉交の太子である劉辟非も、父に先んじて死亡しており、死因は不明であった。劉辟非の死後、劉交は、太子を立てなかった。劉交が死ぬ直前に劉辟非が死亡したからかもしれないが、文帝は、劉交の子である[[宗正]]の{{仮リンク|劉郢客|zh|劉郢}}を楚王に封じた。また、かつて新帝の候補であり、即位の意図が最も強かった劉襄もまた、その年に死亡したが、死因は不明であった。劉辟非、劉交と劉襄は、文帝が皇太子を冊立した後、功臣・列侯によって、高祖の詔書の中にある「不義にして天子に背き挙兵する者は、天下と共に之を誅す」との文言に基づき、無断で挙兵したかどで処罰された。文帝は、劉章と劉興居が劉襄を擁立しようとしている計画を察知した後、大臣らと約束した通りに、彼らを趙王、梁王に封じず、城陽王、済北王に封じた。間もなく、劉章は死亡し、劉興居は謀反して殺害された。 |
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== 脚注 == |
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劉啓が皇太子に冊立された2か月後、文帝は、皇太后薄姫の意見に基づき、劉啓の生母[[竇皇后 (漢文帝)|竇姫]]を皇后に冊立した。皇后よりも先に皇太子を冊立したのは、皇帝の権力を固める政治的な意図をも有していた。「子は母を以て貴く、母は子を以て貴し」との言説は、漢代初期の礼法制度に極めて大きな影響を与えた。「子は母を以て貴し」と言う場合には母が尊重され、「母は子を以て貴し」と言う場合には子が尊重された。これ以前には、恵帝は、生母呂雉を以て貴しとされており、呂雉が尊重されていた。文帝が、まず、劉啓を皇太子として冊立し、その後、その母を皇后に冊立したのは、「母は子を以て貴し」との言説から、母の権力を抑制し、呂雉が恵帝を圧迫した事例の再演を回避することをも意図していた。また、先に皇帝が皇太子を冊立し、次に皇太后が皇后を冊立したのは、皇太后が皇帝の婚姻権を行使して皇帝による立太子の権限を侵犯することを回避するためでもあった。これ以前には、呂雉は、恵帝の婚姻権を行使して、恵帝の外姪(恵帝の姉[[魯元公主]]と[[張敖]]との間の子)である[[張皇后 (漢恵帝)|張氏]]と婚姻させたが、恵帝と張氏との間に子はなく、皇位継承権者が不明であるという危機を作り出した。先に皇太子を冊立し、その後にその母を皇后とするのは、嫡子継承の制度に適合しており、この種の危機の再演を回避するという意図も有していた。 |
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⚫ | 文帝が、太平の世の到来が不変であると考え、呂氏の乱の平定後、農暦の正月15日を祝日とし、以後、同日に宮殿の全ての明かりを点灯するようになったといわれており、これが[[元宵節]]の由来であるといわれている<ref name="董胜2015">{{cite book|author=陈秀伶 董胜|title=上元之期——元宵节|url=https://books.google.com/books?id=e6bYBgAAQBAJ&pg=PT4|date=2015-02-28|publisher=青苹果数据中心|page=4|id=GGKEY:HYBRK87LJQL|access-date=2018-04-21|archive-date=2019-05-02|archive-url=https://web.archive.org/web/20190502134057/https://books.google.com/books?id=e6bYBgAAQBAJ&pg=PT4|dead-url=no}}</ref>。しかし、実際に呂氏が誅滅されたのは、9月末あるいは10月初めである。『[[史記]]』の研究者の一部は、これが偽説であるとみなしている<ref>[http://www.stnn.cc:82/arts/200703/t20070306_482524.html 元宵節起源平“諸呂之亂”是子虛烏有]{{dead link|date=2018年4月 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=yes }}</ref>。元宵節の起源については、現代の研究者の間でも議論があるが、前漢の初期ではなく、中世に起源を求めるのが一般的である<ref>{{cite web |author1=清洁工 |title=元宵节:吃元宵还是吃汤圆?这在古代都不是重点! |url=https://www.guokr.com/article/441214/ |accessdate=2019-07-02 |archive-date=2019-07-02 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190702001703/https://www.guokr.com/article/441214/ |dead-url=no }}</ref>。 |
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==出典== |
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*{{Cite web|author=[[鄭曉時]]|url=https://www.tpsr.tw/zh-hant/zh-hant/paper/han-chu-zhu-lu-liu-zheng-bian-de-guo-cheng-yu-li-shi-yi-yi|title=漢初「誅呂安劉」政變的過程與歷史意義|date=2004|accessdate=2022-07-21}} |
*{{Cite web|author=[[鄭曉時]]|url=https://www.tpsr.tw/zh-hant/zh-hant/paper/han-chu-zhu-lu-liu-zheng-bian-de-guo-cheng-yu-li-shi-yi-yi|title=漢初「誅呂安劉」政變的過程與歷史意義|date=2004|accessdate=2022-07-21}} |
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*{{Cite web|author=[[鄭曉時]]|url=https://politics.ntu.edu.tw/psr/?post_type=chinese&p=275|title=漢初「誅呂政變」詳解 ─解析司馬遷的一部陰陽史|date=2009|accessdate=2022-07-21}} |
*{{Cite web|author=[[鄭曉時]]|url=https://politics.ntu.edu.tw/psr/?post_type=chinese&p=275|title=漢初「誅呂政變」詳解 ─解析司馬遷的一部陰陽史|date=2009|accessdate=2022-07-21}} |
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{{DEFAULTSORT:りよしのらん}} |
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[[Category:中国におけるクーデター]] |
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[[Category:前漢]] |
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[[Category:紀元前180年]] |
2022年7月23日 (土) 05:57時点における版
呂氏の乱(りょしのらん)は、中国の前漢建国から23年後、すなわち高后8年(紀元前180年)8月26日に斉王劉襄が挙兵してから文帝元年10月1日に文帝(劉恒)が即位するまでの66日間に発生した政変の総称である。
皇太后呂雉は、生前、甥の趙王呂禄を上将軍に、呂王呂産を相国に任じ、朝廷の軍事・政務の大権を掌握させた。呂雉は、同時に、宿将灌嬰を大将軍に任じて滎陽に駐屯させ、東方の劉氏諸王が挙兵して皇位を簒奪することを防がせた。呂雉の死後、呂禄の女婿である朱虚侯劉章は、呂禄の立場が穏やかであることを妻から聞き、兄である斉王劉襄に対し、大叔父の楚王劉交に挙兵して西進させ、皇帝に即位するよう密告した。これを聞いた呂産は、兵を派遣して反乱を平定しようとした。しかし、朝廷の大臣陳平や周勃らは、呂氏への反乱に介入し、発生した全面的な内戦を、呂氏を誅殺する政変へと転嫁し、巧妙にも呂氏一族を誅殺した。
その後、陳平らは、少帝弘及びその3人の弟が、呂雉が朝廷の外から連れてきた子であって、恵帝の実子ではない旨を発表し、少帝弘を廃位して、代王劉恒を即位させ、劉襄らの簒奪の野心を潰えさせた上、少帝弘ら兄弟4人を殺害した。その後、陳平及び周勃らは、白馬の盟に基づき、数々の措置を講じ、最終的に、劉氏を安んじて、後の文景の治の基礎を築いた。
呂氏による政権掌握
秦始皇26年(紀元前221年)、秦は、最終的に東方の六国を滅亡させ、春秋戦国時代以来数百年間にわたって続いた分裂状態を終了させ、中国の歴史上、初の統一王朝を樹立し、始皇帝は、中国の歴史上、初の皇帝となった。秦始皇37年、始皇帝が死亡するや、公子胡亥は、趙高と李斯の助けを借りて、沙丘の変を起こし、兄扶蘇に死を与えて皇位継承権を奪い、秦の二世皇帝として即位した。二世皇帝による統治は、一般大衆の不満を呼び起こした。初めに、陳勝と呉広が反乱を起こし、秦人が心を寄せる扶蘇や、楚人が心を寄せる項燕の名を借りて、陳勝・呉広の乱を起こし(揭竿起義)、ここに旧六国の人々の秦への反乱の序幕が開いた。六国楚の貴族項梁とその甥項羽は、会稽郡郡守の殷通を殺害して挙兵し、秦に対する反乱を起こし、旧楚の王孫熊心を擁立し、楚の懐王と称した。
泗川郡豊邑泗水亭の亭長であった劉邦もまた、沛県県令を殺害して挙兵し、項梁に追随した。項梁が戦死した後は、その甥である項羽が戦果をあげるとともに、楚の懐王を殺害して、その権力を奪取した。漢元年(紀元前205年)、秦が滅亡し、劉邦は、項羽によって漢王に封ぜられた。漢5年(紀元前202年)2月、劉邦は、4年以上にわたる楚漢戦争において項羽を撃破して、漢を樹立し、中国の歴史上3番目の皇帝に即位した。劉邦は、即位後、名将や大臣が皇帝に危害を及ぼすことをおそれ、異姓王の誅滅を開始し、同姓である劉氏を王に封じた。
漢の高祖12年4月25日(紀元前195年6月1日)、高祖(劉邦)が長楽宮にて死亡した[1]。5月17日(6月23日)、高祖が埋葬された。5月20日(6月26日)、高祖と皇后呂雉との間の子である太子劉盈(恵帝)が即位し、太上皇廟に至った。群臣は、劉邦(高祖)に対し、廟号太祖、諡号高皇帝を贈った。劉盈は、皇帝の称号を継承し、母である呂雉を皇太后とした[2][3]。恵帝は、即位後、呂雉との対立が続いたところ、漢恵帝7年10月、恵帝は、病が重くなって起床することができなくなった[4][5]。八月11日(9月26日)、恵帝が死亡した。恵帝の死後、皇太后呂雉が臨朝称制を行い、呂氏一族を重用し、張良の子である張辟彊(当時15歳)を侍中に任じた。張辟彊は、左大臣陳平に対し、呂氏一族を宮中に入れて中心的な役割を担わせ、同時に、呂雉には、三族令を廃止して、功臣・列侯の間に存在した疑念を解消させるよう言った。陳平がこれを聞いて奏上したところ、呂雉は、大変喜んでこの建議を受け入れた。9月5日(10月19日)、恵帝が埋葬された。劉盈(恵帝)の諡号は、孝恵皇帝とされた。前少帝が即位して、呂雉が臨朝称制を行った[6][7]。前少帝は、年齢が長じるにつれて、呂雉の束縛を脱したいと思うようになり、呂雉は、前少帝を恐れた。漢の高后4年5月11日(6月15日)、呂雉は、前少帝を廃し、恒山王劉義を擁立し、劉義は名を改めて劉弘(少帝弘)と称した[8]。
呂雉が、臨朝称制の後、呂氏一族を王に封じようと考えたところ、右丞相の王陵は、高祖の白馬の盟に違背すると主張してこれに反対し、左丞相の陳平は、呂雉に同意した。呂雉は、王陵を太傅に昇進させ、その権力を剥奪した。王陵は、病と称して参内しなくなった。呂雉は、左丞相の陳平を右丞相に昇進させ、辟陽侯審食其を左丞相に任命した[9][10]。呂雉は、臨朝称制の際、呂氏一族を諸侯に封じ、また、呂氏一族の娘を劉氏一族に嫁がせた。呂産は、呂雉の長兄呂沢の子である。呂沢は、高祖6年、周呂侯に封ぜられ、3年後に死亡した。高后元年、呂産の兄呂台が呂王に封じられ、父である呂沢が悼武王を追謚され、呂産が洨侯に封ぜられた。11月、呂台が死亡し、呂粛王となり、太子呂嘉が即位した。6年10月、呂雉は、呂嘉の居所が豪奢であることを理由に廃位し、呂産を呂王に封じた。7年2月、呂産は、梁国に国替えとなり、梁国は呂国と改称した。呂禄は、呂雉の次兄呂釈之の子である。呂釈之は、高祖6年、建成侯に封じられた。7年、呂禄は、北軍を統率していた際に、軍規が厳正であり、威信を備えていたことが理由で、趙王に封じられた。
呂雉は、恵帝の在位時に、高祖の庶子である趙王劉如意を殺害し、高祖の庶子である淮陽王劉友を趙王に改封し、劉友に呂氏一族の娘を嫁がせた。劉友には愛妾がいたため、寵愛を失った劉友の后(呂氏)によって、謀反の疑いで誣告され、劉友は、京城に召されて餓死した。呂雉は、また、高祖の庶子である梁王劉恢を趙王に改封し、呂産の娘を嫁がせた。劉恢の后(呂氏)は、趙国を掌握し、劉恢を監視し、人を派遣して劉恢の愛妾を毒殺したため、劉恢は、傷心し、恐れて自殺した。呂雉は、劉恢が愛妾のために殉死したと考え、劉恢の封国を廃除した。高祖の別の庶子である燕王劉建の死亡後、呂雉は、人を派遣して劉建の庶子を殺害した。燕国は、後嗣がなかったため、国を除かれた。
呂氏討伐の動き
紀元前180年3月、皇太后呂雉は、病を得た。8月には、病が重くなり、右丞相陳平の建議を採用して、宿将である穎陰侯灌嬰を大将軍に任命し、滎陽に派遣し、東方の劉氏諸王が挙兵して皇位を簒奪することを防がせた。同時に、陳平は、10年にわたって左丞相、右丞相を歴任していた曲逆侯陳平と10年にわたって大尉の任にあった絳侯周勃が辞職して、併せて、呂王呂産と趙王呂禄が相国と上将軍をそれぞれ担い、辟陽侯審食其を太傅に任じて皇帝を補佐させることを、呂雉に対して奏請した。7年にわたって御史大夫の任にあった平陽侯曹窋は、その職を担任し続けた。首都長安の長楽宮を防衛する南軍と、未央宮を防衛する北軍は、8年にわたって、呂氏一族が掌握していた。政変以前の両軍の将軍は、長楽衛尉の滕侯呂更始と未央衛尉の「足」がそれぞれ分担していたが、両名とも呂産と呂禄の親族であった。呂禄は、かつて、未央衛尉を6年あまり務めており、なおかつ、軍規が厳正であり、威信を備えていた。呂禄は、呂雉の死後、皇帝の岳父となった。呂産は、かつて、太傅に任ぜられていた。
同年8月19日、呂雉が死亡した。これ以前、斉王劉襄は、すでに、長安にいた弟の朱虚侯劉章とともに、密かに挙兵の謀議を行っていた。劉章は、呂禄の立場が温和であるがゆえに、呂禄が北軍を作戦に用いることができない旨、妻である呂禄の娘から聞いていた。北軍の兵力は、南軍よりもはるかに勝っているため、劉章は、南軍のみに対処することは困難ではないとして、兄に対して密かに挙兵を促した。呂雉の死後、劉襄は、挙兵の準備を始め、琅邪王劉沢を欺いて、その兵を動員させた。劉襄は、呂氏一族の誅滅と称して、実際は、皇位の簒奪を企図していた。その後挙兵した楚王劉交もまた、劉襄と同じく、皇位簒奪の意図を有していた。史書においては、「呂氏一族」が乱を起こしたといわれているが、実際には、「劉氏一族」が乱を起こしたのである。呂雉が死亡する前、陳平、周勃及び陸賈などの開国の元老もまた、すでに連携を始めており、統治をめぐる劉氏と呂氏の宗族の争いに介入する準備をしていたのである。
同年9月10日ころ、呂雉が埋葬された。9月12日、劉襄が挙兵し、西のかた長安へ進攻した。呂産は、これを知ると、灌嬰に対し、兵を率いて出撃するよう直ちに命じた。しかし、陳平は、すでに、灌嬰に対し、斉軍と交戦したり、斉・楚などの王と連合して長安へ反攻しないように、密かに命じていた。また、併せて、諸王に対して使者を派遣し、一時的に国境内で停兵するよう説得することもまた、灌嬰に対して命じていた。呂国を攻めて滎陽に迫った劉襄は、兵を返して帰国し、済川国を攻めた。一方、陳平と周勃は、曲周侯酈商を拉致し、政争を平和的に解決する意見書を提出し、その後、酈商の息子酈寄を脅迫して呂氏に伝えさせた。意見書の条件は、呂氏が中央の軍権を放棄し、呂氏の既得政治権益が損なわれないように大臣が保障することであった。呂禄は賛同したが、呂産は断固として反対し、呂氏一族は、分裂した。呂産に帰順を強いるために、呂禄は、酈寄とともに、呂禄の叔母である臨光侯呂嬃を訪ねたが、却ってひどく叱られ、軍権を渡すには至らなかった。
同年9月26日、陳平らは、呂氏一族を誅殺する政変を起こした。当日の朝、呂産、呂禄、曹窋らが長安で勤務しており、呂産の親族である郎中令賈寿の使者が、灌嬰が謀反を起こした旨の知らせを伝えた。呂禄は、呂産を叱り、両者は決裂し、別々の道を歩むこととなった。呂禄は、北軍に対して軍権を渡そうとしたが、呂産は、未央宮に入り、皇帝に対し、兵符をもって兵を率い、反乱を平定するよう要請した。
曹窋は、陳平に対して前述の状況を報告した後、陳平は、周勃を呂禄のもとに派遣した。呂禄は、自らの家族と封国の安全が保障された後、上将軍の職を辞任し、衛尉「足」などの北軍将軍に対しては、周勃の指示に従うように命じた。呂産とその随行者の文官が未央宮に入った後、未央宮は、北軍によって直ちに封鎖され、未央宮の大殿の殿門も閉鎖された。呂産らは、入殿もかなわず、最終的には、郎中府の厠に隠れることとなった。
この時、北軍の周勃と、政変の指揮を執る陳平との間に、統合が失われる状況が発生した。陳平は、もともと、衛尉「足」に対し、兵を率いて皇宮を封鎖するよう命令しており、また、劉章を派遣して、兵を率いて呂産を誅殺させようとしていた。図らずも、周勃は、劉章に軍門を守らせ、未だ帰属していない南軍に備えて、衛尉「足」に対し、兵を率いて呂産を誅殺させた。「足」がこれを拒絶するや、周勃は、慌てて曹窋を派遣して陳平の指示を求め、夕暮れ時に延期することによって、呂産と呂更始らを誅殺し得た。この過程で、審食其は、皇帝の命令でもって内応した。審食其は、この日まで、すでに陳平らによって反論され、かえって、皇帝を拉致した者とされた。その日の夜、陳平は、三族令の規定よりも処罰範囲を拡大した反乱処罰令を発令して、呂氏一族を誅滅するとともに、舞陽侯樊伉、南宮侯張買、博城侯馮代などの親族を誅滅した。政変前、陳平は、呂雉がすでに廃止していた三族令を復活させないと誓約しており、呂禄なども連座させないことを誓約していた。しかし、陳平による違法な裏切りの結果、呂禄は、自身を死に追いやり、一族を滅亡させ、酈寄に売友の悪名を背負わせ、曹窋を罷免させることとなった。
同年9月28日、陳平は、右丞相の職に復し、少帝弘を擁して天下に命令を発令した。10月4日、陳平は、使者を派遣して、劉氏諸王に対し、退兵を命じた。かくして、呂氏一族誅滅の政変が幕を閉じたのであった。
新帝擁立の動き
呂氏一族誅滅の政変後、少帝弘を擁して朝廷の軍政大権を掌握した陳平ら軍功の元老・大臣は、直ちに事後処理の検討にあたった。彼らは、まず、皇帝の詔書を発令して、斉王劉襄と楚王劉交に退兵を命じ、その後、少帝弘を廃位して、新帝を擁立すること決定した。彼らがこの決定を下したのは、次のような要因が原因である。少帝弘は、恵帝の子であり、呂雉の孫であり、呂雉のために擁立されたのであった。少帝弘の皇后呂皇后 (前漢後少帝)は、呂禄の娘であり、呂雉のために立后され、呂氏一族誅滅の政変で殺害された。功臣・列侯は、少帝弘が成年後に報復するすることを恐れたのであった。少帝弘は、若年であるため、皇帝の権威を確立するには不十分であった。また、少帝弘は、恵帝の嫡子ではなく、皇位を継承する正当性を欠いていた。そのため、功臣・列侯は、劉氏の中から皇位継承者を選択するのが適切だと考えた。この決定を下した後、彼らは新帝の擁立を計画することに着手した。楚王劉交は、高祖の弟であり、以前、年上者であることなどの優位な条件から、出兵して太子劉辟非を皇帝に擁立しようとしたため、新帝擁立の協議には招聘されなかった。新帝擁立の協議に招聘された劉氏一族は、高祖の長兄の妻陰安侯、次兄の妻頃王妃及び遠い従兄弟の琅邪王劉沢であった。
協議の過程で考慮された皇帝候補者は、斉王劉襄(20余歳)、淮南王劉長(19歳)及び代王劉恒(24歳)であった。劉襄と劉長は、母の家系が悪いとの理由により、功臣・列侯によって否決されたが、劉襄の叔父駟鈞と劉長の叔父趙兼は、後に、侯に封じられた。
- 第1の候補者は、劉襄であった。劉襄が否決された主な原因は、2つあった。
- まず、大臣らは、劉襄が「高祖の嫡長孫」として相続の正当性があると主張したことを否定した。大臣らは、劉襄の祖母曹夫人が高祖の初期の情婦であり、婚姻関係がないことを知っていた。呂雉は、高祖と正式な婚姻をしており、確かに正妻であり、高祖と合葬されていることから、呂雉の正室としての地位が揺るぎないことを告げている。劉襄の説は、恵帝が庶子であることと同じである。そのため、劉襄が提案した「嫡長孫」説は、大臣らに認められなかった。劉襄に「嫡長孫」説を伝えたのは、劉襄が即位することに強く反対した劉沢であった。劉沢は、呂氏一族誅滅の政変前に、劉襄によって欺かれ、誘拐されたのであった。そのため、劉沢は「嫡長孫」説を利用して劉襄を騙し、長安に至って劉襄を皇帝に擁立すると述べていたが、実際には、大臣らに対し、劉襄を擁立してはならないと大いに訴えていた。
- 次に、功臣・列侯は、無断で謀反した諸侯王を皇帝に擁立することを望んでいなかった。大臣らは、劉襄に対して中央が派遣した補佐役であり監視役である斉国の丞相邵平を劉襄が殺害し、無断で挙兵したことについて、極めて問題視した。劉襄は、呂氏一族誅滅の政変において、最も功績があると自認していたが、その後、大臣らによって、挙兵して謀反を起こした大過があると考えられていた。
- 第2の候補者は、劉長であった。劉長の母親の趙姫が「貫高 (前漢)謀刺事件」に巻き込まれて投獄された時、呂雉は、趙姫に嫉妬していたため、彼女を救助しようとせず、趙姫の説客であった審食其もまた、あえて呂雉と争おうとしなかった。趙姫は憂鬱で憤慨し、最後には、獄中で自害した。劉長は、この仇が忘れられず、挙兵の意思が甚だ強烈であった。しかし、淮南国丞相の北平侯張蒼による阻止があったからか、劉長は、挙兵しなかった。劉長と劉恒はいずれも高祖の庶子であったが、劉長が拒否された理由は、劉恒より5歳年下であったほか、主に、劉長の性格が剛毅であり、大臣が補佐することが難しいと心配されたからである。劉長を擁立することに強く反対したのは、おそらく張蒼である。
- 第3の候補者は、劉恒であった。彼が皇位継承者に選ばれた理由は、次のような点があると考えられる。劉恒は、高祖の四男であり、当時存命であった高祖の子2人のうち、最年長であり、皇位を継承する正当性が高かった。劉恒は、呂氏一族誅滅の政変時に挙兵しておらず、一方では、無断で挙兵することに反対した陳平らの要求を満たす存在だったのであり、他方では、呂氏一族誅滅の政変時に功績がなく、陳平らが劉恒を擁立した功績を強調することができたのであった。劉恒は、従前から、中央の命令に従っており、その人となりは、仁愛かつ孝順であった。性格は、寛大かつ控えめであり、大臣にとって、補佐しやすい存在であった。劉恒の母薄姫は、慎み深く、善良であり、外戚が跋扈する事件の再演を回避することができたのであった。また、劉恒は、長期にわたって辺境の地にあり、匈奴の脅威について深く認識していた。劉恒は、政治的に最も受け入れられたため、功臣・列侯によって、皇帝に選ばれた。
劉恒を皇帝の候補に定めた後、陳平、周勃らは、直ちに使者を派遣して、劉恒を召喚した。劉恒は、この件について、左右大臣と郎中令の張武らの意見を求めた。張武は、これを詐欺であると考えていたが、中尉の宋昌は、詐欺ではないと考えていた。劉恒は、この件について、母にも報告して相談したが、依然として躊躇して決することができなかった。占いを行った後、劉恒は、叔父薄昭を長安に派遣して、協議した。紀元前180年11月14日、この日は、高后8年9月29日であり、漢初には、秦の制度を採用していたため、10月は、新年であった。仮に、一日遅く即位することになれば、高后8年を(翌9年に)持ち越す方法がなかったため、劉恒は、6頭の馬車に乗って長安に駆け、その後、皇位を継承し、夜、未央宮に入って聴政した。劉興居と、楚漢戦争の際に劉盈(恵帝)を救った太僕の夏侯嬰は、自ら「宮殿を清める」として、少帝弘を皇宮から迎えて、少府に安置した。その夜、少帝弘と、恵帝の他の3人の子は、全て大臣らによって殺害された。大臣は、天下に対し、恵帝の子は恵帝の実子ではなく、由来不明の私生児であると布告した。
政変の事後処理
紀元前180年11月16日、すなわち10月1日、劉恒は、皇位を継承し、孝文皇帝(文帝)となった。劉恒が皇帝に擁立されて4か月後、大臣は、皇太子の冊立を求めた。皇太子冊立の朝議において、大臣が最初に否定したのは、皇位継承問題の際に最も開放的であり、最も政治闘争を引き起こす、禅譲、すなわち、「天下に賢聖・有徳の者を広く求め、天下を譲る」ことであった。大臣が次に否定したのは、劉氏宗族の範囲の諸侯王と宗親、特に、文帝の叔父である楚王劉交、従兄である呉王劉濞と、弟である淮南王劉長であった。最後に、大臣は、高祖の権威を強調して、「立嗣必子」(皇太子は必ず皇帝の子でなければならない)の原則を強調した。文帝は、ついに受け入れ、劉啓(8歳)を皇太子に冊立した。
劉啓は、文帝の長子ではなかった。文帝が代王の時、既に代王妃があり、王妃は、3人又は4人の子を産んだので、劉啓は、文帝の嫡子ではなかった。『史記』によれば、代王妃は、文帝が即位になる前に死亡したが、死因は不明である。代王妃の3人又は4人の子もまた、文帝が皇太子を冊立する前に「病死した」ので、劉啓は、文帝の現存する子の中で最年長となった。呂氏一族誅滅の政変時に挙兵した楚王劉交と斉王劉襄もまた、皇太子が冊立されて間もなく死亡した。皇太子冊立の朝議において、文帝は、大臣らを捕まえて、「叔父の楚王、従兄の呉王、弟の淮南王が生きているのに、なぜ皇太子は必ず子でなければならないのか」と述べた。大臣らが「説得」して、ようやく劉啓を皇太子に冊立した。劉交は、先に文帝から禅譲の対象として指名されていたが、皇太子の冊立から2か月後に死亡しており、死因は不明であった。劉交の太子である劉辟非も、父に先んじて死亡しており、死因は不明であった。劉辟非の死後、劉交は、太子を立てなかった。劉交が死ぬ直前に劉辟非が死亡したからかもしれないが、文帝は、劉交の子である宗正の劉郢客を楚王に封じた。また、かつて新帝の候補であり、即位の意図が最も強かった劉襄もまた、その年に死亡したが、死因は不明であった。劉辟非、劉交と劉襄は、文帝が皇太子を冊立した後、功臣・列侯によって、高祖の詔書の中にある「不義にして天子に背き挙兵する者は、天下と共に之を誅す」との文言に基づき、無断で挙兵したかどで処罰された。文帝は、劉章と劉興居が劉襄を擁立しようとしている計画を察知した後、大臣らと約束した通りに、彼らを趙王、梁王に封じず、城陽王、済北王に封じた。間もなく、劉章は死亡し、劉興居は謀反して殺害された。
劉啓が皇太子に冊立された2か月後、文帝は、皇太后薄姫の意見に基づき、劉啓の生母竇姫を皇后に冊立した。皇后よりも先に皇太子を冊立したのは、皇帝の権力を固める政治的な意図をも有していた。「子は母を以て貴く、母は子を以て貴し」との言説は、漢代初期の礼法制度に極めて大きな影響を与えた。「子は母を以て貴し」と言う場合には母が尊重され、「母は子を以て貴し」と言う場合には子が尊重された。これ以前には、恵帝は、生母呂雉を以て貴しとされており、呂雉が尊重されていた。文帝が、まず、劉啓を皇太子として冊立し、その後、その母を皇后に冊立したのは、「母は子を以て貴し」との言説から、母の権力を抑制し、呂雉が恵帝を圧迫した事例の再演を回避することをも意図していた。また、先に皇帝が皇太子を冊立し、次に皇太后が皇后を冊立したのは、皇太后が皇帝の婚姻権を行使して皇帝による立太子の権限を侵犯することを回避するためでもあった。これ以前には、呂雉は、恵帝の婚姻権を行使して、恵帝の外姪(恵帝の姉魯元公主と張敖との間の子)である張氏と婚姻させたが、恵帝と張氏との間に子はなく、皇位継承権者が不明であるという危機を作り出した。先に皇太子を冊立し、その後にその母を皇后とするのは、嫡子継承の制度に適合しており、この種の危機の再演を回避するという意図も有していた。
逸話
文帝が、太平の世の到来が不変であると考え、呂氏の乱の平定後、農暦の正月15日を祝日とし、以後、同日に宮殿の全ての明かりを点灯するようになったといわれており、これが元宵節の由来であるといわれている[11]。しかし、実際に呂氏が誅滅されたのは、9月末あるいは10月初めである。『史記』の研究者の一部は、これが偽説であるとみなしている[12]。元宵節の起源については、現代の研究者の間でも議論があるが、前漢の初期ではなく、中世に起源を求めるのが一般的である[13]。
出典
- ^ 《史记·高祖本纪》:十二年......四月甲辰,高祖崩长乐宫。
- ^ 《史记·高祖本纪》:丙寅,葬。己巳,立太子,至太上皇庙。群臣皆曰:“高祖起徽细,拨乱世反之正,平定天下,为汉太祖,功最高。”上尊号为高皇帝。太子袭号为皇帝,孝惠帝也。
- ^ 《汉书·惠帝纪》:十二年四月,高祖崩。五月丙寅,太子即皇帝位,尊皇后曰皇太后。
- ^ 《汉书·惠帝纪》:七年冬十月,发车骑、材官诣荥阳,太尉灌婴将。
- ^ 《史记·吕太后本纪》:孝惠见,问,乃知其戚夫人,乃大哭,因病,岁余不能起。使人请太后曰:“此非人所为。臣为太后子,终不能治天下。”孝惠以此日饮为淫乐,不听政,故有病也。
- ^ 《史记·吕太后本纪》:七年秋八月戊寅,孝惠帝崩。发丧,太后哭,泣不下。留侯子张辟强为侍中,年十五,谓丞相曰:“太后独有孝惠,今崩,哭不悲,君知其解乎?”丞相曰:“何解?”辟强曰:“帝毋壮子太后畏君等。君今请拜吕台、吕产、吕禄为将,将兵居南北军,及诸吕皆入宫,居中用事,如此则太后心安,君等幸得脱祸矣。”丞相乃如辟强计。太后说,其哭乃哀。吕氏权由此起。乃大赦天下。九月辛丑,葬。太子即位为帝,谒高庙。元年,号令一出太后。
- ^ 《汉书·高后纪》:元年春正月,诏曰:“前日孝惠皇帝言欲除三族辠、妖言令师古曰:‘罪之重者戮及三族,过误之语以为妖言,今谓重酷,皆除之。’议未决而崩,今除之。”
- ^ 《史记·吕太后本纪》:宣平侯女为孝惠皇后时,无子,详为有身,取美人子名之,杀其母,立所名子为太子。孝惠崩,太子立为帝。帝壮,或闻其母死,非真皇后子,乃出言曰:“后安能杀吾母而名我?我未壮,壮即为变。”太后闻而患之,恐其为乱,乃幽之永巷中,言帝病甚,左右莫得见。太后曰:“凡有天下治为万民命者,盖之如天,容之如地,上有欢心以安百姓,百姓欣然以事其上,欢欣交通而天下治。今皇帝病久不已,乃失惑惛乱,不能继嗣奉宗庙祭祀,不可属天下,其代之。”群臣皆顿首言:“皇太后为天下齐民计所以安宗庙社稷甚深,群臣顿首奉诏。”帝废位,太后幽杀之。五月丙辰,立常山王义为帝,更名曰弘。不称元年者,以太后制天下事也。
- ^ 《史记·陈丞相世家》:安国侯既为右丞相,二岁,孝惠帝崩。高后欲立诸吕为王,问王陵,王陵曰:“不可。”问陈平,陈平曰:“可。”吕太后大怒,乃详迁陵为帝太傅,实不用陵。陵怒,谢疾免,杜门竟不朝请,七年而卒。
- ^ 《史记·吕太后本纪》:乃以左丞相平为右丞相,以辟阳侯审食其为左丞相。左丞相不治事,令监宫中,如郎中令。食其故得幸太后,常用事,公卿皆因而决事。
- ^ 陈秀伶 董胜 (2015-02-28). 上元之期——元宵节. 青苹果数据中心. p. 4. GGKEY:HYBRK87LJQL. オリジナルの2019-05-02時点におけるアーカイブ。 2018年4月21日閲覧。
- ^ 元宵節起源平“諸呂之亂”是子虛烏有[リンク切れ]
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参考文献
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