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「浅岡三郎」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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厚生労働省の発表によると現在の最高齢者は1910年生まれの方で、GRGの発表を見ても生没不明と判断するには不適切。厚生労働省などの発表を待ち、「最高齢者の年齢を超える」といった合理的な事由をもって判断するのが適切でしょう。取り敢えず差し戻します。
タグ: 手動差し戻し
イトユラ (会話) による ID:90046067 の版を取り消し ※長期間消息が伝わらず、年齢的に鬼籍に入った可能性が高いにもかかわらず、存命人物扱いはおかしい(「生死不明」は除去)
タグ: 差し戻し済み
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== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
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引退後もかつて所属していたセネタースの本拠地・[[上井草]]に近い[[西武新宿線]]沿線の[[東京都]][[杉並区]]に居住してい<ref name="sab"/><ref>{{Cite web|title=セネタースの輪廻転生|url=http://yakyutaro.jp/r.php?hash=YIv4F|publisher=週刊野球太郎|date=2013-05-28|accessdate=2022-04-14}}</ref>。


2010年5月に発売された[[野球小僧 (雑誌)|野球小僧]]では、消息が判明している最高齢の元プロ野球選手(当時96歳)として写真とともにインタビュー記事が掲載されていた<ref>『野球小僧』6月号(2010年5月10日発売、白夜書房)</ref>。2016年7月の[[週刊ベースボール]]に載っていた[[野村克也]]による記事では「存命中の元プロ野球選手の長寿記録」(当時102歳)とされ<ref>{{Cite web|title=野村克也が語る「記録」 {{!}} 野球コラム|url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=051-20160718-01|website=週刊ベースボールONLINE|accessdate=2021-12-07|date=2016-07-07}}</ref>。
2010年5月に発売された[[野球小僧 (雑誌)|野球小僧]]では、消息が判明している最高齢の元プロ野球選手(当時96歳)として写真とともにインタビュー記事が掲載されていた<ref>『野球小僧』6月号(2010年5月10日発売、白夜書房)</ref>。2016年7月の[[週刊ベースボール]]に載っていた[[野村克也]]による記事では「存命中の元プロ野球選手の長寿記録」(当時102歳)と表記され<ref>{{Cite web|title=野村克也が語る「記録」 {{!}} 野球コラム|url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=051-20160718-01|website=週刊ベースボールONLINE|accessdate=2021-12-07|date=2016-07-07}}</ref>。


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==
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[[Category:大阪府出身の人物]]
[[Category:大阪府出身の人物]]
[[Category:1914年生]]
[[Category:1914年生]]
[[Category:存命人物]]

2022年6月18日 (土) 04:41時点における版

浅岡 三郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府
生年月日 (1914-02-08) 1914年2月8日[1]
身長
体重
167[1] cm
56[1] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手内野手外野手
プロ入り 1936年[1]
初出場 1936年
最終出場 1942年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

浅岡 三郎(あさおか さぶろう、1914年〈大正3年〉2月8日[1] - )は、大阪府出身の元プロ野球選手投手内野手外野手)。

来歴・人物

大阪府出身で北野中学卒業後はセミプロ(クラブチーム)の神戸ダイアモンドでプレー[2][1]1936年東京セネタースへ誘われ入団。セネタースの先発投手として活躍し、1940年には初の二桁勝利となる14勝を挙げている。1941年には大洋軍に移籍し、この年も11勝を挙げている。1942年を最後に退団。浅岡は兼任で野手としても活躍し、425試合に出場している[1]。浅岡によると当時のプロ野球はデーゲームのみで開催されていたため、大学の夜間部に通っていた[2]。プロ野球退団後は応召により軍隊に入り、戦後は球界からは完全に離れた[2]。その後は70代の頃までは林業の会社の経営に携わっていた[2]

引退後もかつて所属していたセネタースの本拠地・上井草に近い西武新宿線沿線の東京都杉並区に居住していた[2][3]

2010年5月に発売された野球小僧では、消息が判明している最高齢の元プロ野球選手(当時96歳)として写真とともにインタビュー記事が掲載されていた[4]。2016年7月の週刊ベースボールに載っていた野村克也による記事では「存命中の元プロ野球選手の長寿記録」(当時102歳)と表記された[5]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1936 東京セネタース
9 4 1 0 0 2 0 -- -- 1.000 126 29.1 26 0 20 -- 0 17 0 0 14 10 3.10 1.57
1936秋 13 4 1 0 0 3 1 -- -- .750 289 64.2 76 3 24 -- 1 20 1 0 34 28 3.88 1.55
1937 23 11 4 1 0 5 12 -- -- .294 542 121.0 107 1 73 -- 1 38 2 0 71 57 4.24 1.49
1937秋 20 11 6 1 0 3 8 -- -- .273 462 105.2 91 5 60 -- 2 33 1 0 58 43 3.65 1.43
1938 21 14 10 0 0 8 9 -- -- .471 602 137.2 133 4 55 -- 0 39 3 0 69 45 2.93 1.37
1938秋 19 12 8 2 0 7 5 -- -- .583 458 104.1 94 7 48 -- 0 39 0 0 57 42 3.60 1.36
1939 34 23 9 2 0 9 8 -- -- .529 875 212.2 173 4 84 -- 2 86 1 0 53 31 1.31 1.21
1940 41 26 20 7 1 14 9 -- -- .609 1126 281.2 199 8 106 -- 0 85 0 0 71 52 1.66 1.08
1941 大洋軍 29 17 10 3 0 11 6 -- -- .647 714 179.1 123 7 75 -- 0 45 0 0 41 32 1.60 1.10
1942 4 4 1 1 0 1 0 -- -- 1.000 73 19.0 15 0 2 -- 0 3 0 0 5 4 1.89 0.89
通算:7年 213 126 70 17 1 63 58 -- -- .521 5267 1255.1 1037 39 547 -- 6 405 8 0 473 344 2.46 1.26
  • 東京セネタースは、1940年に翼軍に球団名を変更

年度別打撃成績

















































O
P
S
1936 東京セネタース
9 14 10 4 2 0 1 0 4 1 0 1 3 0 1 .200 .385 .400 .785
1936秋 17 47 40 8 8 2 2 0 14 7 1 2 5 0 8 .200 .289 .350 .639
1937 27 59 52 4 7 2 0 0 9 4 0 0 7 0 7 .135 .237 .173 .410
1937秋 31 64 54 5 6 1 0 0 7 5 0 2 8 0 6 .111 .226 .130 .355
1938 25 68 52 3 12 1 0 0 13 6 1 2 14 0 10 .231 .394 .250 .644
1938秋 22 53 46 5 8 2 0 2 16 11 0 3 4 0 3 .174 .240 .348 .588
1939 85 314 263 31 55 6 3 3 76 22 5 4 1 45 1 31 .209 .326 .289 .615
1940 65 185 160 14 33 4 1 0 39 8 2 3 0 22 0 29 .206 .302 .244 .546
1941 大洋軍 43 101 83 6 19 0 0 0 19 8 1 2 16 0 6 .229 .354 .229 .582
1942 101 425 379 28 75 10 2 1 92 24 8 1 2 43 1 42 .198 .281 .243 .524
通算:7年 425 1330 1139 108 225 28 9 6 289 96 18 1 21 1 167 2 143 .198 .301 .254 .555
  • 東京セネタースは、1940年に翼軍に球団名を変更

背番号

  • 7 (1936年 - 1940年)
  • 19 (1941年 - 1942年)

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 進学校の北野・長曽我部、伝説OB浅岡三郎氏に続く”. nikkansports.com. 日刊スポーツNEWS (2020年6月1日). 2020年8月15日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 大昔のプロ野球選手は大学で勉強していた?”. 週刊野球太郎 (2012年11月26日). 2022年4月14日閲覧。
  3. ^ セネタースの輪廻転生”. 週刊野球太郎 (2013年5月28日). 2022年4月14日閲覧。
  4. ^ 『野球小僧』6月号(2010年5月10日発売、白夜書房)
  5. ^ 野村克也が語る「記録」 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE (2016年7月7日). 2021年12月7日閲覧。

関連項目

外部リンク