「コサック」の版間の差分
m 外部リンクの修正 (www.sankei.com) (Botによる編集) |
|||
(7人の利用者による、間の14版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{Otheruses}} |
{{Otheruses}} |
||
[[ファイル:Cossack Mamay 1890.jpg|thumb|250px|[[コサック・ママーイ]] |
[[ファイル:Cossack Mamay 1890.jpg|thumb|250px|典型的なコサックのイメージを示す[[コサック・ママーイ]]]] |
||
'''コサック''' |
'''コサック'''<ref>コザーク、カザーク、コザックとも。{{lang-uk|козак}} <small>コザーク</small>、複数形は{{lang|uk|козаки}} <small>コザクィー</small>。{{lang-ru|казак}} <small>カザーク</small>、複数形は{{lang|ru|казаки}} <small>カザキー</small>。{{lang-pl|kozak}} <small>コザーク</small>、複数形は{{lang|pl|kozacy}} {{Smaller|コザーツィ。}}</ref>({{lang-uk|козак}}、{{lang-ru|казак}}、日本語では'''哥薩克'''とも表記)は、[[ウクライナ]]や[[ロシア]]に存在した軍事的[[共同体]]、およびその共同体に属した人々を指す語である。周囲の封建国家や遊牧民に対する防衛のため、一種の軍事共同体を組織した<ref name=":1">{{Cite web |title=コサックとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF-64610 |website=[[コトバンク]] |access-date=2022-10-16 |language=ja}}</ref>。特定の民族を示す語ではなく、[[チュルク系民族]]、[[タタール]]、[[スラブ人]]など様々な民族的出自の人々がその構成要素となった<ref name=":0">{{Cite web |title=何者?ゼレンスキーも語るウクライナの自由の民コサックとは |url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/qa/2022/09/21/24806.html |website=[[日本放送協会|NHK NEWS WEB]] |access-date=2022-10-16 |language=ja |date=2022年9月21日}}</ref>。 |
||
[[15世紀]]には[[ウクライナ]]中南部の「[[荒野 (ウクライナ)|荒野]]」と呼ばれる[[草原]]地帯に住み着いていた。16世紀半ば以降、[[ドニエプル川]]の中流を中心とする[[ザポロージャ]]地方や[[ドン川]]の下流に根拠地を築き、それぞれザポロージャ・コサック([[ウクライナ・コサック]])および[[ドン・コサック軍|ドン・コサック]]と呼ばれた。[[Image:Repin Cossacks.jpg|thumb|250px|[[オスマン帝国]]の[[スルターン|スルタン]]へ手紙を書く[[ウクライナ・コサック|ザポロージャ・コサック]]([[イリヤ・レーピン]]、1880年)]] |
|||
== 概要 == |
|||
[[ファイル:23. Kozaky rozvazhajutsa.jpg|thumb|250px|コサックの遊び({{Ill2|ティモフィ・カリンシキー|uk|Калинський Тимофій Васильович}}、1786年)]] |
|||
[[Image:Repin Cossacks.jpg|thumb|250px|[[オスマン帝国]]の[[スルターン|スルタン]]へ手紙を書く[[ウクライナ・コサック|ザポロージャ・コサック]]([[イリヤ・レーピン]]、[[1880年]])。]] |
|||
[[ファイル: |
[[ファイル:Pymonenko U pohid 1902.jpg|thumb|250px|出陣へ([[ニコライ・ピモネンコ]]、1902年)]] |
||
[[ファイル:Pymonenko U pohid 1902.jpg|thumb|250px|出陣へ([[ムィコーラ・プィモネーンコ]]、[[1902年]])]] |
|||
当初のコサックは周辺国家に依存しない独立した集団であったが、16世紀以降ウクライナのザポロージャ・コサックは[[ポーランド・リトアニア共和国]]、ドン・コサックは[[ロシア・ツァーリ国]]に属し、軍務を提供する見返りに自治権を与えられた。コサックは自治権を守るためにしばしば保護国に対して叛乱を起こした。1648年の[[フメリニツキーの乱]]はウクライナにおける[[ヘーチマン国家|ザポロージャ・コサックの国家]]を誕生させ、ポーランド・リトアニア共和国の衰退を促した一方、帝政ロシアの庇護を求める結果となった。18世紀、ザポロージャ・コサックはロシアからの離脱を図るもののこれに失敗し、18世紀末に[[ロシア帝国]]によって廃止された。ドン・コサックによる反乱はいずれもロシアによって鎮圧され、結果ドン・コサックはロシアの体制に取り込まれた。 |
|||
コサックの起源については不明な点が多い。[[15世紀]]後半にコサックは、[[ウクライナ]]の中南部、「[[荒野 (ウクライナ)|荒野]]」という[[草原]]地帯で発祥し、[[ドニエプル川|ドニプロ川]]の中流を中心とする[[ザポロージャ]]地方に[[シーチ|根拠地]]を築いた。 |
|||
帝政ロシアはコサックを国境警備や領土拡張の先兵、国内の民衆運動の鎮圧などの任にあてた<ref>{{Cite web |url=https://www.sankei.com/article/20180524-OQJMX7I76RMGVJXECDE27CQT4I/ |title=デモ参加者に襲いかかるコサック ロシアに漂う危険な兆候 |accessdate=2018年5月25日 |publisher= |date=2018-05-24 |website=[[産経新聞]] |author=遠藤良介}}</ref>。[[19世紀]]以降、コサックはロシアにおいて貴族・聖職者・農民・商人とならぶ階級の一つとなり、税金免除と引き換えに兵役義務が課され、植民政策における開拓、国境防備、治安維持などに従事した。[[ロシア内戦]]中の1919年から1920年にかけては弾圧の対象となり、多数のコサックが離散した。 |
|||
[[16世紀]]にコサックの一部は[[ドン川]]の下流に移住し、そこで新たな根拠地を創立した。それらのコサックは[[ウクライナ・コサック|ザポロージャ・コサック]]<ref group="注釈">いわゆる[[ウクライナ・コサック]]。[[リトアニア大公国]]、[[ポーランド王国]](後に[[ポーランド・リトアニア共和国]]として一体化)、[[ロシア帝国]]によって支配されたウクライナという地域(主として現在のウクライナの辺り)に住んでいたコサック。</ref>と[[ドン・コサック]]<ref group="注釈">いわゆる[[ロシア・コサック|ロシアのコサック]]。[[ロシア帝国]]によって支配された[[ドン]]{{要曖昧さ回避|date=2021年7月}}、[[クバーニ]]、{{仮リンク|ウラル (地域)|en|Ural (region)|label=ウラル}}、[[極東ロシア|極東]]の地域(現在の南部のロシアの辺り)に生活したコサック。</ref>と呼ばれ、コサック諸軍の中で最古軍であった。初期のコサックは、没落した[[欧州]]諸国の[[貴族]]と[[遊牧民]]<ref group="注釈">モンゴル史、中でも[[ジューンガル]]史を専門とする[[宮脇淳子]]は、コサックの起源について以下のような説を述べている。コサックはウクライナの逃亡農奴とされているが、「アタマン」はトルコ語で[[百人隊長]]、コサックの語源もトルコ語で「自分の部族から離れて自由行動を取った人々、冒険者」である。また、モンゴル語史料では、ドン河やヤイク河のコサック集団を、長い間タタール遊牧民の名で呼んでいた。コサックの起源は恐らく、[[ジョチ・ウルス|黄金のオルド]]分裂後に、ロシア正教に改宗した遊牧民集団であろうとする(宮脇,2002,pp167-178)。</ref>の[[盗賊]]によって構成され、[[河川]]が豊かな土地を有する自治共同体を編成し、[[黒海]]・[[アゾフ海]]の北岸地帯で略奪行為を行い、東欧における[[キリスト教]]の世界の先隊として[[イスラム]]の諸勢力と戦った。 |
|||
[[ソビエト連邦]]下でもコサック組織は禁止されていたが、[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連の崩壊]]後は復興の傾向にあり、ウクライナやロシアで市民団体がコサックの復帰運動を行っている。現在、ウクライナ、ロシア、[[カザフスタン]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などにおいて「コサック軍」と名のるいくつかの組織が存在している。組織の活動はコサック文化振興から軍事支援までの広い範囲にわたっている。 |
|||
16世紀後半にコサックは隣国の保護を受け、正式な軍団として公認された。ウクライナのザポロージャ・コサックは[[ポーランド・リトアニア共和国]]に属するようになり、ドン・コサックは[[ロシア・ツァーリ国]]に依存するようになった。しかし、両国はコサックを軍事力として利用しながら、コサックの自治権を縮減してコサックの領地を自国のものにする政策を実行していたためにコサックはしばしば保護国に対して叛乱を繰り返した。 |
|||
== 語源 == |
|||
叛乱の中で特に規模が大きかったのは[[1648年]]の[[フメリニツキーの乱]]と[[1670年]]の[[ラージンの乱]]であった。後者はドン・コサックの失敗に終わり、ドン地帯はロシア領となった。それに対して、前者はウクライナにおける[[ヘーチマン国家|ザポロージャ・コサックの国家]]を誕生させ、ポーランド・リトアニア共和国の衰退を促した。コサックの国家は、独立を維持するためにロシアの保護を受けたが、[[ポーランド王国]]、[[オスマン帝国]]、[[クリミア・ハン国]]に対する盾となり、東欧におけるロシアの強国化に貢献した。 |
|||
「コサック」は英語に基づく発音であり、英単語「Cossack」は[[フランス語]]の「Cosaque」に由来する。ウクライナ語では「{{lang|uk|козак}}」、ロシア語では「{{lang|ru|казак}}」であるが語源は諸説ある。 |
|||
*[[クリミア・タタール語]]などの[[テュルク語]]の「Qazaq」(カザーク)に由来し、「自由の人」「冒険家」「放浪者」を意味している<ref>{{uk icon}} {{lang|uk|''Етимологічний словник української мови'': в 7 т.}}(ウクライナ語源辞典。7巻){{lang|uk|/ ред. Л.К. Артемєва. - К.: Наукова думка, 1985. - Т.2. – 495 с.}}</ref>。 |
|||
*[[クマン語 (チュルク)|クマン語]]の「Cosac」(コザク)由来で、[[13世紀]]に作成されたクマン語の辞典『{{ill2|コーデクス・クマニクス|en|Codex Cumanicus}}』によると「番」「警備」を意味する<ref>{{uk icon}} {{lang|uk|Грушевский М.С. ''Нариси історії українського народу''}}(ウクライナ民族概略史){{lang|uk|. – К.: Либідь, 1990. – 400 с.}};{{lang|uk|Дорошенко Д.І. ''Нариси історії України'': в 2 т.}}(ウクライナ概略史。2巻){{lang|uk|– К.: Глобус, 1991. – Т.1 - 238 с.}}</ref>。 |
|||
*クマン語とクリミア・タタール語に由来し、「自由の人」「冒険家」「放浪者」「番人」「盗賊」「傭兵」などの多様な意味合いを持つ外来語である<ref>{{uk icon}} {{lang|uk|''Україна – козацька держава''}}(コサックの国ウクライナ){{lang|uk|/ ред. Недяк В.В.; Наукові ред. Щербак В.О., Федорук О.К. – К.: Емма, 2004. – 1216 с.}}</ref>。 |
|||
これまでの研究によって否定された仮説には次のようなものがある。 |
|||
*[[中世]]後期の[[ポーランド]]の歴史学者による、古代コサックの頭領であったコザークという人物の名前に由来するという説<ref>{{pl icon}} Stryjkowski M. ''Kronika Polska Litewska, Zmudzka i Wszystkie Rusi''. Georg. Osterberger, Królewiec. 1582.</ref>。 |
|||
*[[近世]]のポーランドの学者による、ウクライナ語の「コザー」([[山羊]])に由来するとする説。理由は、コサックが山羊のように身動きが軽くて素早いであること<ref>{{pl icon}} ''Kronika Pawla Piaseckiego, biskupa przemyslskiego''. Krakow, 1870.- p. 46.</ref>、また、コサックが野生の山羊を狩猟していたこと<ref>Twardowski S. ''Wojna domowa''.— Calissii.— 1681.- p.2-3.</ref>からであるという。 |
|||
== 歴史 == |
|||
[[17世紀]]後半から[[18世紀]]にかけてロシアに対しドン・コサックは、ラージンの乱([[1670年]] - [[1671年]])、{{仮リンク|ブラヴィンの乱|ru|Булавинское восстание|en|Bulavin Rebellion}}、[[プガチョフの乱]]([[1773年]] - [[1775年]])などを起こしたが、いずれもロシア軍によって鎮圧された結果、ドン・コサックは完全にロシアの体制に取り込まれた。一方、ザポロージャ・コサックは[[大北方戦争]]の際にロシアに反発したり、コサック国家の近代化によって自国存続を強く意識したりしていたので、18世紀末に「分離主義者」として[[ロシア帝国]]によって滅亡させられた。 |
|||
=== 起源 === |
|||
[[19世紀]]に入ると、ロシアにおけるコサックは貴族・聖職者・農民・商人とならぶ[[階級]]の一つとなり、税金免除の引き換えに騎兵として常の[[兵役]]の義務が課された。ロシアはザポロージャ・コサックとドン・コサックをモデルに[[植民地]]化すべく地域において十数のコサック軍団を編成し、それらを[[国境]]防備や[[治安]]維持などのために活用した。19世紀中頃の極東地域では、こうしたコサック団が集って[[アムール川]]支流の[[ビラ川]]や[[ゼヤ川]]沿岸と周辺地域に入植し、同地の開拓を行っている。コサック諸団の中に、ドン・コサックと並んで、[[カフカズ戦争]]や[[ロシア・トルコ戦争]]に高名をあげた[[クバーニ・コサック]]の役割が大きかった。 |
|||
コサックの起源は明らかではない。現在のウクライナ東南部の草原地帯には、歴史的に[[スキタイ]]、[[サルマタイ]]、[[ハザール]]、[[クマン人]]、[[タタール]]その他多くの遊牧民族が去来していた。 |
|||
最初期のコサックはタタールからの脱出者で構成されていたとする説がある<ref>{{Cite news|title=The Sound of Cossack Thunder|url=https://www.nytimes.com/1993/10/31/magazine/the-sound-of-cossack-thunder.html|work=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]]|date=1993-10-31|access-date=2022-10-17|issn=0362-4331|language=en-US|first=Kyle|last=Crichton}}</ref><ref>{{Cite book|title=3 The Qazaq, or Cossack, Groups of the Black Sea Steppes|url=https://brill.com/view/book/9789004306493/B9789004306493_005.xml|publisher=[[ブリル (出版社)|Brill]]|date=2016-01-01|isbn=978-90-04-30649-3|language=en|first=Joo-Yup|last=Lee}}</ref>。モンゴル史、中でも[[ジュンガル|ジューンガル]]史を専門とする[[宮脇淳子]]はコサックの起源について、[[ジョチ・ウルス]]の分裂後に[[ロシア正教会|ロシア正教]]に[[改宗]]した遊牧民集団であろうと述べている。その根拠として「アタマン」はトルコ語で[[百人隊長]]、コサックの語源もトルコ語で「自分の部族から離れて自由行動を取った人々、冒険者」であり、モンゴル語史料ではドン川やヤイク川のコサック集団を長い間タタール遊牧民の名で呼んでいたことを挙げている<ref name="miya">[[宮脇淳子]] 『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』/[[刀水書房]]刊、2002年(167–178)</ref>。半遊牧生活を送り、狩猟漁労に長け、時に略奪行為を行っていた<ref name=":6">{{Cite book|洋書|title=The World the Plague Made: The Black Death and the Rise of Europe|url=https://books.google.co.jp/books?id=FStaEAAAQBAJ&pg=PA356|publisher=[[プリンストン大学出版局|Princeton University Press]]|date=2022-07-19|isbn=978-0-691-21566-2|language=en|first=James|last=Belich}}</ref>。 |
|||
[[1917年]]に[[ロシア革命]]が勃発して[[ロシア内戦]]が始まると、[[ウクライナ国|ウクライナ]]、[[ドン民共和国|ドン]]、[[クバーニ人民共和国|クバーニ]]においてコサック三国が独立を宣言した。三国はロシア[[白軍]]および[[シベリア]]のコサック諸軍と共にロシアの[[ソビエト連邦共産党|共産党]]とその[[赤軍]]に抵抗したが、敗北した。[[1918年]]から[[1920年]]にかけてコサック階級は排除され、コサック諸軍は廃軍となった。内戦後、裕福なコサックの一部は欧米諸国へ逃亡したが、残されたコサックは共産党による苛烈な弾圧の対象となった。ソビエト政府はコサックの大部分とそれらの家族全員を死刑もしくは流刑し、[[ホロドモール]]によって餓死させた。そのため[[第二次世界大戦]]においてコサックの残党はドイツ軍に味方し、ソ連軍と戦った。ドイツの敗北とともに、コサックは共同体としての姿を消した。 |
|||
13世紀、[[モンゴルのルーシ侵攻|ジョチ・ウルスの侵攻]]によって[[キエフ大公国|キエフ・ルーシ]]が滅亡した後、ウクライナ東南部の草原地帯は荒れ果て人口が希薄化した。ジョチ・ウルスも14世紀末より衰退し始め[[クリミア・ハン国]]などの汗国に分裂し、草原地帯は遊牧民が跳梁した<ref>{{Cite web |title=ウクライナ危機の世界史的意義 ―ロシア・ウクライナ関係史の視点から |url=https://ippjapan.org/archives/4697 |website=[[平和政策研究所]] |date=2020-08-26 |access-date=2022-10-16 |language=ja |author=[[黒川祐次]]}}</ref>。このような背景から、この草原地帯は16世紀以降の文献で「[[荒野 (ウクライナ)|荒野]]」とよばれることとなる。 |
|||
[[ソビエト連邦の崩壊]]後、ウクライナやロシアの市民団体はコサックの復帰運動を行っている。現在、ウクライナ、ロシア、[[カザフスタン]]、[[アメリカ]]などにおいて「コサック軍」と名のるいくつかの組織が存在している。組織の活動はコサック文化振興から軍事支援までの広い範囲にわたっている。なお、国のレベルでコサックの遺産を受け継いでいるのはウクライナである。[[ウクライナの国歌]]でも[[リフレイン形式|繰り返して歌われる]]最後の部分で「我らがコサックの氏族であることを示そう」と歌われる。 |
|||
1444年がコサックとしての文献初出で、[[リャザン]]の衛兵としてタタールと戦ったコサックとして登場している<ref name=":7">{{Cite web |title=Cossacks. Brief history of the Cossacks |url=https://russinfo.in/stpetersburg/cossack-village/cossacks-brief-history-of-the-cossacks/ |access-date=2022-10-17 |language=en-US |website=Russian Information Center}}</ref>。 |
|||
== 語源 == |
|||
[[ファイル:Czaty nad Dnieprem.jpg|thumb|right|250px|[[ドニプロ川]]の河岸でのコサックの見張番。]] |
|||
15世紀後半、[[モスクワ大公国]]、[[ポーランド王国|ポーランド]]、[[オスマン帝国]]といった封建国家から逃れてきた人々が「荒野」に移住した<ref name=":0" /><ref name=":2">{{Cite web |title=Cossack |url=https://www.britannica.com/topic/Cossack |website=[[ブリタニカ百科事典|Encyclopedia Britannica]] |access-date=2022-10-16 |language=en}}</ref>。 |
|||
「コサック」という[[日本語]]の単語は[[英語]]の「Cossack」の発音記号に書き換えたものであるが、英語の単語は[[フランス語]]の「Cosaque」から借用した外来語である。その外来語は[[ウクライナ語]]の「{{lang|uk|козак}}」(コザーク)に由来している。しかし、「コザーク」の語源については定説はなく、以下にいくつかの仮説を説明する。 |
|||
*「コザーク」は[[クリミア・タタール語]]などの[[テュルク語]]の「Qazaq」(カザーク)に由来し、「自由の人」・「冒険家」・「放浪者」を意味している<ref>{{uk icon}} {{lang|uk|''Етимологічний словник української мови'': в 7 т.}}(ウクライナ語源辞典。7巻){{lang|uk|/ ред. Л.К. Артемєва. - К.: Наукова думка, 1985. - Т.2. – 495 с.}}</ref>。 |
|||
1500年頃にはオスマン帝国式の遊牧騎兵集団となったが、ドイツやスイスの傭兵、オランダやイギリスの水兵のようなヨーロッパ式「クルー文化」の特徴も有していた<ref name=":6" />。 |
|||
*「コザーク」は{{仮リンク|クマン語 (テュルク語族)|label=クマン語|en|Cuman language}}の「Cosac」(コザク)の言葉で、[[13世紀]]に作成されたクマン語の辞典『[[:en:Codex Cumanicus|コーデクス・クマニクス]]』に見られ、「番」・「警備」を意味している<ref>{{uk icon}} {{lang|uk|Грушевский М.С. ''Нариси історії українського народу''}}(ウクライナ民族概略史){{lang|uk|. – К.: Либідь, 1990. – 400 с.}};{{lang|uk|Дорошенко Д.І. ''Нариси історії України'': в 2 т.}}(ウクライナ概略史。2巻){{lang|uk|– К.: Глобус, 1991. – Т.1 - 238 с.}}</ref>。 |
|||
*「コザーク」はクマン語とクリミア・タタール語に由来し、「自由の人」・「冒険家」・「放浪者」・「番人」・「盗賊」・「傭兵」などの多様な意味合いを持つ外来語である<ref>{{uk icon}} {{lang|uk|''Україна – козацька держава''}}(コサックの国ウクライナ){{lang|uk|/ ред. Недяк В.В.; Наукові ред. Щербак В.О., Федорук О.К. – К.: Емма, 2004. – 1216 с.}}</ref>。 |
|||
こうして[[チュルク系民族]]、[[タタール]]、[[スラヴ人|スラブ人]]など様々な民族的出自の人々がコサックを構成した。割合で言えばスラブ人が大多数を占めるとの研究結果がある<ref name=":6" />。当初のコサックは、周辺国家に依存しない独立した集団であった<ref name=":2" />。 |
|||
現在の研究史によって却下された仮説は次のようなものである。 |
|||
*[[中世]]後期の[[ポーランド]]の歴史学者によれば、「コザーク」は古代コサックの頭領であったコザークという人物の名前に由来している<ref>{{pl icon}} Stryjkowski M. ''Kronika Polska Litewska, Zmudzka i Wszystkie Rusi''. Georg. Osterberger, Królewiec. 1582.</ref> |
|||
15世紀後半以降、クリミア・ハン国はオスマン帝国の庇護を得て勢力を増していた。当時[[クリミア半島]]で[[奴隷貿易|奴隷の売買]]が盛んにおこなわれており、クリミア・ハンは奴隷の捕獲を目的としてたびたび「荒野」を{{Ill2|タタールによる東ヨーロッパ襲撃|uk|Татарські набіги на Україну|ru|Крымско-ногайские набеги на Русь|en|Crimean–Nogai slave raids in Eastern Europe|label=襲撃}}した<ref>{{Cite journal|last=Kizilov|first=Mikhail|date=2007|title=Slaves, Money Lenders, and Prisoner Guards:The Jews and the Trade in Slaves and Captivesin the Crimean Khanate|url=https://www.academia.edu/3706285/Slaves_Money_Lenders_and_Prisoner_Guards_The_Jews_and_the_Trade_in_Slaves_and_Captives_in_the_Crimean_Khanate|journal=Journal of Jewish Studies|volume=58|issue=2|pages=189–210|issn=0022-2097}}</ref><ref name=":3">{{Cite book|title=Peopling the Russian Periphery: Borderland Colonization in Eurasian History|url=https://books.google.co.jp/books?id=d0FlVD_oGjQC&pg=PA43&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false|publisher=[[ラウトレッジ|Routledge]]|date=2007-11-02|isbn=978-1-134-11288-3|language=en|first=Nicholas|last=Breyfogle|first2=Abby|last2=Schrader|first3=Willard|last3=Sunderland}}</ref>。 |
|||
*[[近世]]のポーランドの学者によれば、「コザーク」は、ウクライナ語の「コザー」([[山羊]])に由来している。理由は、コサックが山羊のように身動きが軽くて素早いであること<ref>{{pl icon}} ''Kronika Pawla Piaseckiego, biskupa przemyslskiego''. Krakow, 1870.- p. 46.</ref>、また、コサックが野生の山羊を狩猟していたこと<ref>Twardowski S. ''Wojna domowa''.— Calissii.— 1681.- p.2-3.</ref>からであるという。 |
|||
主要なコサック共同体はクリミアに近い[[ドニエプル川]]、[[ドン川]]、[[ヴォルガ川]]、[[ウラル川]]周辺に存在していたため<ref name=":2" /><ref name=":5" />、ポーランド、モスクワなど周辺国家の政府は、防衛政策の一環として「荒野」の管理をコサックに任せる代わりに、自治を認めて武器や火薬、資金を提供するようになった<ref name=":2" /><ref name=":3" />。このような軍務提供集団として組織化された最初期のものがザポロージャ・コサックとドン・コサックであった。結果的にクリミア・ハンの度重なる襲来は、コサックの軍事力の維持、強化に一役買うこととなった<ref>{{Cite book|title=One Europe, Many Nations: A Historical Dictionary of European National Groups|url=https://books.google.co.jp/books?id=NwvoM-ZFoAgC&pg=PA216&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false|publisher=Greenwood Publishing Group|date=2000|isbn=978-0-313-30984-7|language=en|first=James|last=Minahan}}</ref>。[[ファイル:22. Kozak z golovoju tatarina.jpg|thumb|250px|[[タタール]]の頸と共に凱旋するウクライナ・コサック(ティモフィ・カリンシキー、1786年の画像)。]] |
|||
== 経緯 == |
|||
=== ウクライナ・コサック === |
=== ウクライナ・コサック === |
||
{{Main|ウクライナ・コサック|登録コサック}} |
{{Main|ウクライナ・コサック|登録コサック}} |
||
[[ファイル:Mazepa2.JPG|サムネイル|250x250ピクセル|[[ポルタヴァの戦い]]に敗れた[[イヴァン・マゼーパ]]と[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]([[グスタヴ・セーデルストレム]]、1879年)]] |
|||
[[ファイル:22. Kozak z golovoju tatarina.jpg|thumb|250px|[[イスラーム教徒]]の頸を串指しにしている凱旋のウクライナ・コサック(ティモフィイ・カルィーンシクィイ、1786年の画像)。]] |
|||
現在のウクライナの地域にあったコサック集団はそこにあった町や村の数だけあったと言え、それらが基本的には互いに独立して[[西ヨーロッパ|西欧]]における小国家<small>(ドイツ地域の王国、公国などのような)</small>と同じような小共同体を形成していた。 |
|||
16世紀初頭、[[ポーランド王国|ポーランド]]は[[ドニエプル川]]周辺にあったコサック集団をまとめ、ザポロージャ・コサックを組織し南部の防衛を任せた<ref name=":2" />。1552年、ルテニア系貴族の{{Ill2|ドミトロ・ヴィシネヴェツキ|uk|Дмитро Вишневецький|en|Dmytro Vyshnevetsky}}は現在の[[ザポリージャ]]に近いドニエプル川の[[ホールツィツャ島]]に最初の[[シーチ]]を築いた<ref>{{Cite web |title=ユーラシア史を見直す(1) ロシア人とは何か? |url=http://www.smn.co.jp/takano/Sekaishi-01.html |access-date=2022-10-17}}</ref><ref name=zs>{{Cite web |title=Zaporozhian Sich |url=http://www.encyclopediaofukraine.com/display.asp?AddButton=pages%5CZ%5CA%5CZaporozhianSich.htm |website=Internet Encyclopedia of Ukraine |access-date=2022-10-17 |publisher=Canadian Institute of Ukrainian Studies}}</ref>。シーチの首領は[[キーシュのオタマーン|オタマン]]と呼ばれた。 |
|||
ウクライナは[[バトゥ]]率いる[[モンゴル帝国]]の襲来により中央集権国家[[キエフ・ルーシ]]が崩壊した後、[[リトアニア大公国]]、[[ポーランド王国]]、[[モスクワ大公国]]等様々な周辺国によって支配されてきた経緯があるため、コサックもそれら様々な勢力に属し、或は独立を求めて反旗を翻してきた。ポーランドに対し叛乱を起こした[[ボフダン・フメリニツキー]]、ロシアに対して叛乱を起こした[[イヴァン・マゼーパ]]は特に有名である。しかしながら、ウクライナの[[ロシア・ツァーリ国]]への併合によって、ウクライナのコサックの独立は失われた。 |
|||
1558年に[[クリミア・タタール人]]によって破壊されたためシーチは移転再建された。以後シーチは破壊による移転再建をたびたび繰り返すこととなる<ref name=zs />。 |
|||
1569年にポーランドとリトアニアの連合による[[ポーランド・リトアニア共和国]]が成立。1572年、コサックが政府に届け出ることによって地位や給与、土地の所有などの権利を保障する[[登録コサック]]の制度を開始した<ref name=":0" /><ref name=":1" />。すべてのコサックが登録を許されるわけではなく、最大2万人程度であった。支配者であるポーランド・リトアニアに対する反感もあり、1591年の[[コスィーンシキーの乱|コシンシキー]]に始まり、1594年の[[ナルィヴァーイコの乱|ナリヴァイコ]]ほかコサックによる蜂起がたびたび発生し、登録コサックの人数が削減された<ref>{{Cite web |title=Registered Cossacks |url=http://www.encyclopediaofukraine.com/display.asp?linkpath=pages%5CR%5CE%5CRegisteredCossacks.htm |website=Internet Encyclopedia of Ukraine |access-date=2022-10-17 |publisher=Canadian Institute of Ukrainian Studies}}</ref>。 |
|||
1600年代、コサックを率いた[[ペトロー・コナシェーヴィチ・サハイダーチヌイ|ペトロ・サハイダーチヌイ]]はタタールとの戦いで戦果を挙げたほか、1621年の[[ホティンの戦い (1621年)|ホティンの戦い]]ではポーランド軍の主力を率いてオスマン帝国を撃破した<ref>{{Cite web |title=Konashevych-Sahaidachny, Petro |url=http://www.encyclopediaofukraine.com/display.asp?linkpath=pages%5CK%5CO%5CKonashevych6SahaidachnyPetro.htm |website=Internet Encyclopedia of Ukraine |access-date=2022-10-17 |publisher=Canadian Institute of Ukrainian Studies}}</ref>。 |
|||
1648年、ポーランド・リトアニアに対する蜂起を決意した[[ボフダン・フメリニツキー]]は[[ヘトマン]]に就任<ref>{{Cite web |title=Где казаки – там и сила |url=https://www.ukrinform.ru/rubric-regions/2324375-gde-kazaki-tam-i-sila.html |website=[[ウクルインフォルム|Укринформ]] |access-date=2022-09-20 |language=ru |date=2022-10-17}}</ref><ref>{{Cite web |title=フメリニツキーとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC-125777 |website=コトバンク |access-date=2022-10-17 |language=ja}}</ref>。クリミア・ハン国と同盟を結び、[[ジョーウチ・ヴォーディの戦い]]をはじめとする戦いに次々と勝利しポーランドからコサックの権利に関する大きな譲歩を勝ちとった。こうして1649年[[ヘーチマン国家|ヘトマン国家]]が樹立した。独立国家を手に入れたコサックであったが、その後も周囲の国家との争いが絶えることはなく、1654年に軍事的安定を求め[[ロシア・ツァーリ国]]と[[ペラヤースラウ会議 (1654年)|ペラヤスラウ協定]]を妥結しその保護下に入った<ref name=":2" />。ロシアによる扱いが次第に厳しくなる中、1709年、ヘトマンの[[イヴァン・マゼーパ]]はスウェーデンの[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]と同盟し[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]と戦い敗れた<ref>{{Cite web |title=マゼーパとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%83%91-136308 |website=コトバンク |access-date=2022-10-17 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=Ivan Mazepa Facts, Biography, & Russian Empire |url=https://www.britannica.com/biography/Ivan-Mazepa |website=Encyclopedia Britannica |access-date=2022-10-17 |language=en}}</ref>。1734年、最後のシーチとなる{{Ill2|ノヴァ・シーチ|uk|Нова Січ}}が建設されたが、[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]の時代、1775年にロシア軍によって破壊された<ref name=zs />。 |
|||
1730年代以降、コサックは農民を率いてたびたび[[ハイダマーカ|ハイダマキ運動]]とよばれる蜂起を企てた<ref>{{Cite web |title=ハイダマキ運動とは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%9E%E3%82%AD%E9%81%8B%E5%8B%95-1390044 |website=コトバンク |access-date=2022-10-19 |language=ja}}</ref>。 |
|||
ザポロージャ・コサックの残党は一部[[ドナウ川]]流域のオスマン帝国領へと逃れ、{{Ill2|ドナウ・コサック軍 (1828)|uk|Дунайське козацьке військо|en|Danube Cossack Host|label=ドナウ・コサック軍}}として存続したが、19世紀のオスマン帝国との戦いの中でドナウ・コサックの拠点も破壊された<ref>{{Cite web |title=Danubian Sich |url=http://www.encyclopediaofukraine.com/display.asp?AddButton=pages%5CD%5CA%5CDanubianSich.htm |website=Internet Encyclopedia of Ukraine |access-date=2022-10-18 |publisher=Canadian Institute of Ukrainian Studies}}</ref>。 |
|||
=== ロシア・コサック === |
=== ロシア・コサック === |
||
[[ファイル:Amur Cossaks 189x 190x.JPG|thumb|right|250px|ロシアの[[アムール・コサック]] |
[[ファイル:Amur Cossaks 189x 190x.JPG|thumb|right|250px|ロシアの[[アムール・コサック]]]] |
||
ロシア・コサックは、ウクライナのコサックをモデルに[[ロシア帝国]]によって編成された半農武装集団である。ロシア帝国のコサック兵は、[[アストラハン・コサック軍|アストラハン]]、[[アムール・コサック軍|アムール]]、[[クバーニ・コサック軍|クバーニ]]、[[テレク・コサック軍|テレク]]、[[ドン・コサック軍|ドン]]、{{仮リンク|ウラル・コサック|en|Ural Cossacks|label=ウラル}}、[[ザバイカル・コサック軍|ザバイカル]]などの特別軍管区に生活し、平時には農耕を行い、有事には軍務を行うことを条件に特権的な土地使用を認められた階級をなしていた。 |
|||
ロシアのコサックは、古くは1444年の年代記に[[リャザン]]の衛兵としてタタールと戦ったコサックとして登場している<ref name=":7" />。 |
|||
1570年、雷帝[[イヴァン4世]]からの指示によって最初の正式のコサック軍[[ドン・コサック軍|ドン・コサック]]がドン川流域で組織された。ドン・コサックは成人男性の自由選挙で選ばれる[[アタマン]]によって率いられた<ref name=":4">{{Cite web |title=コサックってどんな人たち?10の言葉で見てみよう |url=https://jp.rbth.com/history/86403-kossaku-donna-hitotachi-10-kotoba-mitemiyo |website=Russia Beyond |date=2022-06-30 |access-date=2022-10-17 |language=ja-JP |author=アレクサンドラ・グゼワ}}</ref>。ロシア・コサックは帝政ロシアの領土拡張に積極的に利用された<ref name=":5" />。16世紀に成立したコサック集団にはほかに{{Ill2|ヴォルガ・コサック|ru|Волжское казачье войско|en|Povolzhye Cossacks (Volga Cossacks)}}があった。 |
|||
16世紀後半のドン・コサックの頭領[[イェルマーク]]による[[シベリア]]進撃はその後の{{Ill2|シベリア・コサック|ru|Сибирские казаки|en|Siberian Cossacks}}編成およびシベリア開拓の端緒となった<ref name=":8">{{Cite web |title=イェルマークとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF-430737 |website=コトバンク |access-date=2022-10-17 |language=ja}}</ref>。 |
|||
17世紀以降、[[イルクーツク]]、[[トムスク]]、[[ヤクーツク]]、[[ペトロパブロフスク・カムチャツキー]]、[[オムスク]]、[[ブラゴヴェシチェンスク]]、[[ハバロフスク]]など、現代のウラル、シベリア、極東の主要都市の多くがコサックによって開発された<ref name=":5" />。太平洋への到達に留まらず、1648年にはコサック探検家[[セミョン・デジニョフ]]がアジア側から[[北アメリカ大陸|北米大陸]]を発見した<ref name=":5">{{Cite web |title=「コサック」とは「自由人」のこと |url=https://jp.rbth.com/arts/2013/06/25/43773 |website=Russia Beyond |date=2013-06-25 |access-date=2022-10-17 |language=ja-JP |author=イワン・ニコラエフ}}</ref><ref>{{Cite web |title=Diomede Islands, Bering Straight |url=https://www.jpl.nasa.gov/images/pia10631-diomede-islands-bering-straight |website=[[ジェット推進研究所|Jet Propulsion Laboratory]] |access-date=2022-10-17 |language=en-US |publisher=[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]}}</ref><ref>{{Cite web |title=Semyon Ivanov Dezhnyov Russian explorer |url=https://www.britannica.com/biography/Semyon-Ivanov-Dezhnyov |website=Encyclopedia Britannica |access-date=2022-10-17 |language=en}}</ref>。 |
|||
1637年、ドン・コサックはザポロージャ・コサックとともに、オスマン帝国の{{Ill2|アゾフ要塞|ru|Азовская крепость|en|Azov Fortress}}(現・[[ロストフ州]][[アゾフ]])を攻略した<ref>{{Cite book|title=The Siege of Azov in 1641: Military Realities and Literary Myth|url=https://brill.com/view/book/edcoll/9789004221987/B9789004221987-s010.xml|publisher=Brill|date=2012-01-01|isbn=978-90-04-22198-7|language=en|first=Brian J.|last=Boeck}}</ref>。 |
|||
17世紀、[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]の[[ロシアの農奴制|農奴制]]強化に伴い増大した逃亡農民のコサック加入や、コサック内での階層分化の進展により貧民層コサックが増加し、政府に対する不満が高まった<ref>{{Cite web |title=ステンカ・ラージンの乱とは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1-84278 |website=コトバンク |access-date=2022-10-17 |language=ja}}</ref>。1670年、[[スチェパン・ラージン|ステパン・ラージン]]を首領とする大反乱が発生。皇帝・教会・商人の船を襲い、奴隷を解放しつつその勢力は[[カスピ海]]からヴォルガ川中下流域一帯に及んだ<ref>{{Cite web |title=ステンカ=ラージンの乱とは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%AB%3D%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1-2128925 |website=コトバンク |access-date=2022-10-17 |language=ja}}</ref>。1671年、ラージンは政府軍に捕えられ処刑された<ref>{{Cite web |title=ラージンとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%B3-147222 |website=コトバンク |access-date=2022-10-18 |language=ja}}</ref>。 |
|||
1671年以降、ロシアのコサックは帝国の階級制度に組み込まれ、ドン河畔の多くの要塞建設に携わった<ref name=":7" />。 |
|||
1707年、コサックの蜂起である{{Ill2|ブラヴィンの乱|ru|Булавинское восстание|en|Bulavin Rebellion}}が勃発。ロシアは鎮圧に成功したが、これを受けて翌1708年にコサックの自治権を剥奪した<ref name=":7" />。 |
|||
1773年にはドン・コサックの[[エメリヤン・プガチョフ]]が{{Ill2|ウラル・コサック|ru|Уральские казаки|en|Ural Cossacks}}を率いて農民戦争[[プガチョフの乱]]を起こしたが、これもロシアにより鎮圧された<ref>{{Cite web |title=プガチョフの乱とは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%97%E3%82%AC%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%95%E3%81%AE%E4%B9%B1-371716 |website=コトバンク |access-date=2022-10-18 |language=ja}}</ref>。 |
|||
=== ロシア帝国下のコサック === |
|||
1812年の[[1812年ロシア戦役|祖国戦争]]では、侵攻するナポレオン軍を{{Ill2|マトヴェイ・プラトフ|ru|Платов, Матвей Иванович|en|Matvei Platov}}率いるドン・コサックがロシア軍とともに迎え撃ち撃破した<ref name=":5" />。 |
|||
1860年、[[黒海コサック軍]]と{{Ill2|カフカス防衛線コサック|ru|Кавказское линейное казачье войско|en|Caucasus Line Cossack Host}}が合同し[[クバーニ・コサック軍|クバーニ・コサック]]が編成され<ref>{{Cite web |title=Black Sea Cossacks |url=http://www.encyclopediaofukraine.com/display.asp?linkpath=pages%5CB%5CL%5CBlackSeaCossacks.htm |website=Internet Encyclopedia of Ukraine |access-date=2022-10-18 |publisher=Canadian Institute of Ukrainian Studies}}</ref>、19世紀後半から20世紀初頭のロシアが関与した戦争に参戦した<ref>{{Cite web |title=Kuban Cossack Host |url=https://www.eng.kavkaz-uzel.eu/articles/870/ |website=Caucasian Knot |access-date=2022-10-18 |date=2003-09-07}}</ref>。同年カフカス防衛線コサックの一部が[[テレク・コサック軍|テレク・コサック]]として成立している<ref>{{Cite web |title=Terek Cossack Host |url=https://www.eng.kavkaz-uzel.eu/articles/805/ |website=Caucasian Knot |access-date=2022-10-18 |date=2003-08-31}}</ref>。 |
|||
同時期、極東地域では[[ザバイカル・コサック軍|ザバイカル・コサック]]、[[アムール・コサック軍|アムール・コサック]]が編成され<ref>{{Cite web |title=Far East |url=http://www.encyclopediaofukraine.com/display.asp?linkpath=pages%5CF%5CA%5CFarEast.htm |website=Internet Encyclopedia of Ukraine |access-date=2022-10-18 |publisher=Canadian Institute of Ukrainian Studies}}</ref><ref>{{Cite web |title=Senior official in eastern Siberia elected as Cossack ataman in 2 border regions |url=https://tass.com/russia/725855 |website=[[タス通信|TASS]] |access-date=2022-10-18 |date=2014-03-30}}</ref>、[[アムール川]]支流の[[ビラ川]]や[[ゼヤ川]]沿岸と周辺地域への入植開拓を進めた。 |
|||
20世紀初頭の時点で存在していたコサックはアムール、アストラハン、ドン、ザバイカル、クバーニ、{{Ill2|オレンブルグ・コサック|ru|Оренбургские казаки|en|Orenburg Cossacks|label=オレンブルグ}}、{{Ill2|セミレチェンスク・コサック|ru|Семиреченские казаки|en|Semirechye Cossacks|label=セミレチェンスク}}、シベリア、テレク、ウラル、{{Ill2|ウスリー・コサック|ru|Уссурийские казаки|en|Ussuri Cossacks|label=ウスリー}}の各コサックであった。コサック人口は家族を含め300万人ほどで人口の2%強を占めていた<ref name=":7" />。 |
|||
[[ファイル:Battle of Yalu River 1904.jpg|250px|thumb|日露戦争中のコサック]] |
|||
=== 日露戦争 === |
|||
1904年に[[日露戦争]]が勃発すると、ロシア帝国の[[極東ロシア|極東]]に駐屯するアムール、ザバイカル、ウスリー、シベリアのコサック諸軍が動員された<ref>{{Cite web |title=The Far Eastern Cossacks in the Russo-Japanese War of 1904'1905 |url=https://www.researchgate.net/publication/301590607_The_Far_Eastern_Cossacks_in_the_Russo-Japanese_War_of_1904%271905 |access-date=2022-10-18 |language=en |author=A.A. Golik |year=2015 |month=1}}</ref><ref>{{Cite web |title=The Russian Army and the Japanese War, Vol. II, by General Kuropatkin |url=https://www.gutenberg.org/files/60975/60975-h/60975-h.htm |website=[[プロジェクト・グーテンベルク|Project Gutenberg]] |access-date=2022-10-18 |author=[[アレクセイ・クロパトキン|Aleksey Kuropatkin]] |year=1909}}</ref>。1904年4月にザバイカル・コサックが戦線に出発し、それに続くシベリア・コサック師団(4連隊)、ウラル・コサック旅団(2連隊)、ウスリ・コサック連隊、クバーニ=テレク・コサック混合連隊も戦地に赴いた。さらに7月にオレンブルク・コサック師団(4連隊)も加わった。コサックの諸部隊は、南[[満洲]]での[[鴨緑江会戦]]、[[遼陽会戦]]、[[沙河会戦]]などに参加したが、ロシア軍の司令官に判断力が不足していたため、コサックの騎兵は力を発揮することができなかった。[[ブリヤート人]]のコサック部隊がザバイカル・ コサック軍に編入され、[[旅順攻囲戦|旅順攻防戦]]や[[奉天会戦]]などに参加した。ブリヤート人は味方に日本人に間違えられたり、人種差別を受けたりしたという<ref>{{Cite journal|author=イーゴリ・ボトーエフ|date=2016-09-15|title=ブリヤート人と日本人の交流における知られざるエピソード|url=https://nichibun.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=41&block_id=63&item_id=6459&item_no=1|journal=Nichibunken Newsletter|volume=93|pages=9–10|publisher=[[国際日本文化研究センター]]|language=ja}}</ref>。 |
|||
旅順攻防戦で活躍したロシア軍の司令官[[ロマン・コンドラチェンコ|ロマン・コンドラテンコ]]はウクライナ・コサックの家系出身であった<ref>{{Cite web |title=The Japanese in Odessa |url=https://odessa-journal.com/the-japanese-in-odessa/ |website=Odessa Journal |date=2021-04-05 |access-date=2022-10-20 |language=en-US}}</ref>。 |
|||
1904年9月に第4ドン・コサック師団(4連隊)が戦地に到着し、それに続く1905年4月にカフカス・コサック混合師団(クバーニ・コサックの2つの連隊と、テレク・コサックの2つの連隊)ならびに第2クバーニ歩兵連隊(6大隊)が満州についた。[[パーヴェル・ミシチェンコ]]大将が率いるコサックの諸部隊は1904年12月に[[営口市]]を襲撃し<ref>{{Cite web |url=https://en.topwar.ru/78097-reyd-kazakov-mischenko-v-yaponskiy-tyl-v-russko-yaponskuyu-voynu.html |title=Cossack raid Mishchenko in the Japanese rear in the Russian-Japanese war |access-date=2022-10-20 |date=2015-07-03 |website=topwar.ru}}</ref>、1905年1月に[[黒溝台会戦]]にも参加した<ref>{{Cite journal|last=Yılmaz|first=Oğuzhan|title=Russo-Japanese War 1904-1905|url=https://www.academia.edu/27226054/Russo_Japanese_War_1904_1905_Ed_O%C4%9Fuzhan_Y%C4%B1lmaz|journal=}}</ref>。さらに、1905年2月にシベリア・コサックは17日にわたる[[奉天会戦]]にも参加した<ref>{{Cite web |url=https://en.topwar.ru/69152-mukdenskoe-srazhenie.html |title=Mukden battle |access-date=2022-10-20 |website=topwar.ru}}</ref>。5月から6月にかけて、ミシチェンコ大将のウラル・ザバイカル・クバーニ・テレクのコサック混合部隊は日本軍の陣地の背後を襲撃したが、戦況を変えることはできなかった。 |
|||
=== ロシア革命後のロシア・コサック === |
|||
1917年の[[ロシア革命]]後生じた[[ロシア内戦]]はコサックの分裂を促した<ref name=":2" /><ref name=":4" />。[[ボリシェヴィキ]]を支持するコサックもあれば[[白軍]]につくコサックもあり、寝返りも珍しくなかった<ref name=":4" />。 |
|||
1918年2月、クバーニ・コサックを中心として[[クバーニ人民共和国]]が独立宣言。コサックの多くが反ボリシェヴィキの立場をとった。議会は白軍とも距離を置き[[ウクライナ国|ウクライナ人民共和国]]との合流を目指したが5月の赤軍の進撃により消滅した<ref>{{Cite web |title=Kuban People's Republic |url=http://www.encyclopediaofukraine.com/display.asp?linkpath=pages%5CK%5CU%5CKubanPeoplesRepublic.htm |website=Internet Encyclopedia of Ukraine |access-date=2022-10-18 |publisher=Canadian Institute of Ukrainian Studies}}</ref>。 |
|||
ドン地域では1918年3月にボリシェヴィキ派のドン・コサックにより[[ドン・ソビエト共和国]]が独立宣言。しかし5月に反ボリシェヴィキのドン・コサックにより[[ドン全大軍|ドン共和国]]が建国され、ドン・ソビエト共和国は消滅した。ドン共和国は赤軍に敗北し消滅した。 |
|||
ほかにボリシェヴィキに対して蜂起を起こしたコサックとして[[アレクセイ・カレージン]]<ref>{{Cite web |title=カレージン,A.M.とは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%B3%2CA.M.-1294190 |website=コトバンク |access-date=2022-10-18 |language=ja}}</ref>、[[ラーヴル・コルニーロフ]]<ref>{{Cite web |title=コルニーロフとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%95-66783 |website=コトバンク |access-date=2022-10-18 |language=ja}}</ref>がいる。 |
|||
=== ウクライナでの動き === |
|||
1917年3月、民族主義的組織[[ウクライナ中央ラーダ|中央ラーダ]]が成立し、6月に自治を宣言した。 |
|||
4月、自警組織{{Ill2|自由コサック|uk|Вільне козацтво|ru|Вольное казачество|en|Free Cossacks}}が出現。10月、ヘトマンの家系出身の軍人[[パウロー・スコロパードシクィイ|パヴロ・スコロパドスキー]]が首領に選出された<ref name=":9">{{Cite web |title=Free Cossacks |url=http://www.encyclopediaofukraine.com/display.asp?linkpath=pages%5CF%5CR%5CFreeCossacks.htm |website=Internet Encyclopedia of Ukraine |access-date=2022-10-18 |publisher=Canadian Institute of Ukrainian Studies}}</ref>。 |
|||
なお、[[ロシア語]]では、コサックは「カザーク」と呼ばれる。ロシア・コサックは、しばしば異民族の富やツァーリからの恩賞を求めて[[アジア]]へと進出し、北・東アジアにおけるロシア植民地化政策に多く貢献した。[[ロシア革命]]とそれに続く[[ロシア内戦]]の際には、コサック兵たちは[[反革命]]側の強大な軍事勢力を形成し、各地で[[赤軍]]と大規模な戦闘を繰り広げた。クバーニなどのコサックはツァーリの処刑後独立を宣言したが、こうした「独立政権」は旧ロシア帝国領内に無数に誕生した。 |
|||
1918年1月、中央ラーダは社会主義民族国家[[ウクライナ人民共和国]]として独立を宣言し、自由コサックは人民共和国の軍隊として機能した<ref name=":9" />。これに対してボリシェヴィキはウクライナにおいて{{Ill2|赤コサック軍|ru|Червонное казачество|uk|Червоне козацтво|en|Red Cossacks|label=}}を編成した<ref name=":10">{{Cite web |title=Red Cossacks |url=http://www.encyclopediaofukraine.com/display.asp?linkpath=pages%5CR%5CE%5CRedCossacks.htm |website=Internet Encyclopedia of Ukraine |access-date=2022-10-18 |publisher=Canadian Institute of Ukrainian Studies}}</ref>。自由コサック、赤コサック軍とも[[ソビエト・ウクライナ戦争]]に参加した<ref name=":9" /><ref name=":10" />。 |
|||
==== 日露戦争 ==== |
|||
[[ファイル:Battle of Yalu River 1904.jpg|250px|thumb|[[日露戦争]]中のコサック。]] |
|||
[[1904年]]に日露戦争が勃発すると、ロシア帝国の[[極東ロシア|極東]]に駐屯する[[アムール・コサック|アムール]]、[[ザバイカル・コサック|ザバイカル]]、{{仮リンク|ウスリ・コサック|en|Ussuri Cossacks|label=ウスリ}}、{{仮リンク|シベリア・コサック|en|Siberian Cossacks|label=シベリア}}のコサック諸軍が動員された。1904年4月にザバイカル・コサックが戦線に出発し、それに続くシベリア・コサック師団(4連隊)、ウラル・コサック旅団(2連隊)、ウスリ・コサック連隊、クバーニ=テレク・コサック混合連隊も戦地に赴いた。さらに7月に{{仮リンク|オレンブルク・コサック|en|Orenburg Cossacks}}師団(4連隊)も加わった。コサックの諸部隊は、南[[満州]]での[[鴨緑江会戦]]、[[遼陽会戦]]、[[沙河会戦]]などに参加したが、ロシア軍の司令官に判断力が不足していたため、コサックの騎兵は力を発揮することができなかった。一方、ザバイカル・コサックの歩兵と砲兵は[[旅順攻囲戦|旅順防戦]]に参加し、二百三高地の防衛で活躍した。旅順防戦で活躍したロシア軍側の司令官[[ロマン・コンドラチェンコ]]と大砲隊の指揮官[[ヴァスィーリ・ビールィイ]]も、ウクライナ・コサックの家系である。 |
|||
1918年4月29日、占領ドイツ軍の策動のもと、スコロパドスキーは人民共和国中央ラーダの転覆に成功し[[ウクライナ国]]建国を宣言、自身はヘトマンを名乗った<ref>{{Cite web |title=スコロパツキー,P.P.とは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%91%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%2CP.P.-1346691 |website=コトバンク |access-date=2022-10-18 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite journal|author=村田優樹|year=2018|date=|title=1918年のウクライナにおける国制構想と外交路線の相互関係:独立と連邦制|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jarees/2018/47/2018_17/_pdf/-char/ja|journal=ロシア・東欧研究|volume=2018|issue=47|pages=17–34|language=ja|doi=10.5823/jarees.2018.17}}</ref><ref>{{Cite web |title=Skoropadsky, Pavlo |url=http://www.encyclopediaofukraine.com/display.asp?linkpath=pages%5CS%5CK%5CSkoropadskyPavlo.htm |website=Internet Encyclopedia of Ukraine |access-date=2022-10-18 |publisher=Canadian Institute of Ukrainian Studies}}</ref>。11月に第一次世界大戦が終結し[[ドイツ帝国]]が崩壊すると、後ろ盾を失ったスコロパドスキーは政権の座を追われウクライナ国は倒れた。 |
|||
1904年9月に第4[[ドン・コサック]]師団(4連隊)が戦地に到着し、それに続く[[1905年]]4月にカフカス・コサック混合師団([[クバーニ・コサック]]の2つの連隊と、[[テレク・コサック]]の2つの連隊)ならびに第2クバーニ歩兵連隊(6大隊)が満州についた。[[パウロー・ミーシチェンコ]]大将が率いるコサックの諸部隊は1904年12月に[[営口市]]を襲撃し、1905年1月に[[黒溝台会戦]]にも参加した。さらに、1905年2月にシベリア・コサックは17日にわたる[[奉天会戦]]にも戦った。5月から6月にかけて、ミーシチェンコ大将のウラル・ザバイカル・クバーニ・テレクのコサック混合部隊は日本軍の陣地の背後を襲撃して荒らしたが、戦況を変えることはできなかった。 |
|||
=== コサックの滅亡 === |
|||
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1975-099-15A, Russland, Kosaken in der Wehrmacht.jpg|250px|thumb|[[ドイツ国防軍]]のコサック部隊]] |
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1975-099-15A, Russland, Kosaken in der Wehrmacht.jpg|250px|thumb|[[ドイツ国防軍]]のコサック部隊]] |
||
=== ソビエト連邦下のコサック === |
|||
[[ロシア内戦]]が始まると、コサックと農民によって組織された[[緑軍]]が結成された。緑軍は、反ボリシェヴィキ、反白軍を基本とした。 |
|||
内戦中の1919年1月24日、ボリシェヴィキ政権はロシア国内のコサック指導者を抹殺する秘密指令を下し{{Ill2|コサック根絶|ru|Расказачивание|en|De-Cossackization}}を進めた<ref>{{Cite web |title=De-Cossackization—Modern-Day Echoes of a Soviet Crime |url=https://jamestown.org/program/de-cossackization-modern-day-echoes-of-soviet-crime/ |website=Jamestown |access-date=2022-10-18 |language=en-US |date=2021-02-02}}</ref>。赤軍と[[チェーカー]]の手により、多くのコサックが犠牲となった。1919年2月から3月の1か月間だけで8千人が殺害され、1919年から1920年にかけて30–50万人が殺害または国外追放されたとの報告がある<ref>{{Cite book|title=The Age of Catastrophe: A History of the West 1914–1945|url=https://books.google.co.jp/books?id=0RuDCgAAQBAJ&pg=PA114&lpg=PA114|publisher=Yale University Press|date=2015-09-28|isbn=978-0-300-21309-6|language=en|first=Heinrich August|last=Winkler}}</ref>。 |
|||
内戦後、コサックは[[赤軍]]に参加することを禁じられていた。[[ナチス・ドイツ]]の台頭と[[ドイツ再軍備宣言|再軍備宣言]]など新たな戦争の兆候に備え、1936年にこの制限は撤廃された<ref>{{Cite book|洋書|title=Mass Political Culture Under Stalinism: Popular Discussion of the Soviet Constitution of 1936|url=https://books.google.co.jp/books?id=CuNaDwAAQBAJ&pg=PA41|publisher=Springer|date=2018-05-15|isbn=978-3-319-78443-4|language=en|first=Olga|last=Velikanova}}</ref><ref>{{Cite web |title=Rehabilitation of Cossack Divisions |url=https://soviethistory.msu.edu/1936-2/rehabilitation-of-cossack-divisions/ |website=Seventeen Moments in Soviet History |date=2015-06-18 |access-date=2022-10-18 |language=en-US}}</ref>。コサック部隊が創設され、[[第二次世界大戦]]では[[独ソ戦|東部戦線]]の主要な戦闘に参加した<ref name=":11">{{Cite web |title=How Russian Cossacks fought for and against Hitler |url=https://www.rbth.com/history/331780-how-russian-cossacks-fought |website=Russia Beyond |date=2020-03-05 |access-date=2022-10-19 |language=en-US |first=Boris |last=Egorov}}</ref>。 |
|||
そのため、[[ロシア革命]]において政権を掌握した[[ボリシェヴィキ]]は、コサックを「敵階級」「反革命分子」と見なし、[[ロシア内戦]]において徹底的に弾圧した。[[赤軍]]と[[チェーカー]]の手によりコサックの一掃が行われ、人口440万人の70%に当たる308万人が、戦闘、処刑、流刑などで死亡した。 |
|||
一方ナチス・ドイツもコサックを利用した。ボリシェヴィキ打倒や政治的な独立を目指すコサックはドイツ側についた。そのようなコサックに[[ピョートル・クラスノフ]]、{{仮リンク|アンドレイ・シュクロ|ru|Краснов, Пётр Николаевич|en|Andrei Shkuro}}らがいた。ドイツ占領下の[[クバーニ]]やドン地域で{{仮リンク|コサック部隊 (ドイツ国防軍)|de|1. Kosaken-Division|ru|1-я казачья дивизия (вермахт)|en|1st Cossack Cavalry Division|label=コサック部隊}}が編成され、[[ドイツ国防軍|国防軍]]に組み込まれ、主にユーゴスラビアの[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]との戦闘に派遣された。第二次世界大戦終結後、これらの造反コサックはソビエト連邦によって処刑あるいは収容所送りとなった<ref name=":11" />。 |
|||
[[レーニン]]の後継者となった[[スターリン]]も、レーニンのコサック根絶政策を忠実に継承し、[[ホロドモール]]によって多くのコサックが餓死した。弾圧を逃れたコサックの多くは海外に逃れた後に、[[独ソ戦]]において[[ドイツ軍]]に協力した。第二次大戦が終わると一部が欧米諸国へ逃亡するものの、ソ連軍に強制連行されるなどして過酷な運命を辿った者も少なくない。 |
|||
=== 戦後のコサック === |
|||
その一方でソ連政府は、1936年に共産党に従順なコサックを中心に赤コサック軍として編成し始めたが、基準に合ったコサックは殆どいなかったので、[[内務人民委員部]]の士官や[[赤軍]]の兵士、そして非コサックであった町人や農民が赤コサック軍の多数を占めた。結果として、クバーニやドンなどでは従来のコサックの姿は殆ど消え、赤コサック軍の軍人が住居するようになった。 |
|||
ソビエト連邦時代には禁止されていたコサック組織は、[[ペレストロイカ]]が始まると復活し始めた。1990年、{{仮リンク|ロシアコサック連合|en|Union of Cossacks}}が設立された。その翌年にはロシア・[[ロストフ州]]、ウクライナの[[ドネツィク州]]、[[ルハーンシク州|ルハンスク州]]のコサックを統合した南ロシア・コサック連合が設立された<ref name=":12">{{Cite web |title=The Cossack Factor in Ukrainian War |url=https://jamestown.org/program/the-cossack-factor-in-ukrainian-war/ |website=Jamestown |access-date=2022-10-19 |language=en-US}}</ref>。 |
|||
1992年6月、[[ボリス・エリツィン]]大統領は、コサックの復興についての大統領令を出した<ref name=":13">{{Cite web |title=The decree on ‘The improvement of the Russian Cossacks revival and development’ signed |url=https://www.prlib.ru/en/history/619058 |website=Presidential Library |access-date=2022-10-20 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |title=Putin or Bust: Relations of Russian Cossacks With the Kremlin |url=https://jamestown.org/program/putin-or-bust-relations-of-russian-cossacks-with-the-kremlin/ |website=Jamestown |access-date=2022-10-20 |language=en-US}}</ref>。 |
|||
=== 復帰の試み === |
|||
[[1991年]]にソ連が崩壊し、ウクライナとロシアにおいて政治家や市民団体はコサックの復帰運動を開催した。 |
|||
1992年の[[トランスニストリア戦争]]、1993年の{{仮リンク|アブハジア戦争 (1992–1993年)|ru|Война в Абхазии (1992—1993)|en|War in Abkhazia (1992–1993)|label=アブハジア戦争}}にコサックの参加が確認されている<ref>{{Cite journal|last=Junker|first=Nikki|title=The Role of Cossacks in the Moldovan-Transnistrian Conflict|url=https://www.academia.edu/7384148/The_Role_of_Cossacks_in_the_Moldovan_Transnistrian_Conflict}}</ref><ref>{{Cite web |title=25 Abkhazia war bodies identified, returned to families |url=https://agenda.ge/en/news/2017/2214 |website=Agenda.ge |access-date=2022-10-19}}</ref>。ロシア正規軍への志願ではなく[[義勇兵]]として戦地に赴くことに特徴がある<ref>{{Cite web |title=Armed Cossacks pour in to fight Georgians |url=http://www.theguardian.com/world/2008/aug/09/russia.georgia1 |website=[[ガーディアン|The Guardian]] |date=2008-08-08 |access-date=2022-10-19 |language=en}}</ref>。 |
|||
[[ロシア連邦]]で「ロシアの国土を広げ、それを守る愛国者」と見直しは進められ、[[プーチン]]政権における[[ロシア軍]]の「愛国主義養成プログラム」では「コサックの歴史」の学習が軍の幹部養成学校では必須となった<ref>「NHKスペシャル 揺れる大国 プーチンのロシア」2009年3月23日午後10時放送「プーチンの子どもたち」([[日本放送協会]]製作)より</ref>。現在{{いつ|date=2013年12月}}、ロシアで自ら「コサック」と名乗っている人は300万人。プーチンとロシアを熱烈に支持している。チェチェンなどの紛争にも積極的に参加している<ref>「新シルクロード 激動の大地をゆく」2007年6月24日(日)午後9時 「荒野に響く声 祖国へ」より</ref>。ロシア正規軍への志願とは別に[[義勇兵]]として戦地に赴くことに彼らの特徴がある。 |
|||
1995年8月、ロシア連邦はコサックを[[ロシア司法省]]管轄下に置く{{Ill2|登録コサック (ロシア連邦)|ru|Государственный реестр казачьих обществ Российской Федерации|en|Registered Cossacks of the Russian Federation|label=登録コサック}}制度を開始した<ref>{{Cite web |title=Указ Президента Российской Федерации от 09.08.1995 г. № 835 |url=http://www.kremlin.ru/acts/bank/8195/print |website=www.kremlin.ru |access-date=2022-10-19 |date=1995-08-09}}</ref>。 |
|||
== コサックの有名人 == |
|||
*[[イヴァン・マゼーパ]] - [[ウクライナ・コサック]]の[[ヘーチマン|頭領]]。[[大北方戦争]]中にスウェーデンに寝返ってロシアと戦った。[[ピョートル・チャイコフスキー|ピョートル・チャイコーフスキイ]]の[[オペラ]]「[[マゼッパ (オペラ)|マゼッパ]]」([[1884年]])に描かれている。また、[[フランツ・リスト]]も「[[マゼッパ (リスト)|マゼッパ]]」で題材にしている。 |
|||
1996年1月、[[北カフカーズ軍管区]]第58軍第135機動旅団に第694機動ライフル大隊が創設され、[[ロシア連邦軍]]で唯一の公式なコサック集団となった。この大隊は800人で構成され、[[第一次チェチェン紛争]]に参加した。1996年6月までに第694大隊は解散した<ref name=":12" />。 |
|||
*[[イェルマーク]] - コサックの[[アタマン|長]]。ロシアの富豪[[ストローガノフ家]]に雇われ、[[シビル・ハン国]]の征服者とされるが、彼自身はシビル・ハン国滅亡の前に戦死した。 |
|||
*[[グリゴリー・セミョーノフ]] - ザバイカル・コサックの長。[[ロシア革命]]後の[[ロシア内戦]]時代、反革命勢力に与して戦い、日本軍に協力した。 |
|||
[[ウラジーミル・プーチン]]が政権に就いて以降、コサックを「愛国者」の象徴とし、青年将校育成に利用する動きがある<ref>{{Cite journal|author=西山美久|date=2010|title=プーチン政権下における「愛国主義」政策の変遷|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jarees/2010/39/2010_82/_pdf|journal=ロシア・東欧研究|volume=2010|issue=39|pages=82–92|doi=10.5823/jarees.2010.82}}</ref>。 |
|||
*[[スチェパン・ラージン]] - [[ドン・コサック軍]]の長。[[ラージンの乱]]の指導者。 |
|||
*[[ペトロー・コナシェーヴィチ・サハイダーチュヌィイ|ペトロー・サハイダーチュヌィイ]] - ウクライナ・コサックの頭領、コサック海軍の開祖。 |
|||
2003年、プーチン大統領は、コサックの復興と発展に関する大統領令を出した<ref name=":13">{{Cite web |title=The decree on ‘The improvement of the Russian Cossacks revival and development’ signed |url=https://www.prlib.ru/en/history/619058 |website=Presidential Library |access-date=2022-10-20 |language=en}}</ref>。 |
|||
2013年、大統領府のコサック問題評議会は、コサックが警察と一緒に治安維持にあたることを許可した<ref>{{Cite news|title=The Cossacks Are Back. May the Hills Tremble.|url=https://www.nytimes.com/2013/03/17/world/europe/cossacks-are-back-in-russia-may-the-hills-tremble.html|work=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]]|date=2013-03-17|access-date=2022-10-19|issn=0362-4331|language=en-US|first=Ellen|last=Barry}}</ref>。例として、2014年の[[2014年ソチオリンピック|ソチ冬季オリンピック]]の際、コサックは警察の街頭パトロールに協力した<ref>{{Cite news|title=Russian Cossacks patrol Sochi Olympics|url=https://jp.reuters.com/article/sochi-olympics-cossacks-idINDEEA080DS20140109|work=|date=2014-01-09|access-date=2022-10-19|language=en|newspaper=[[ロイター|Reuters]]}}</ref><ref>{{Cite news|title=Pussy Riot whipped at Sochi Games by Cossacks|url=https://www.bbc.com/news/world-europe-26265230|work=|date=2014-02-19|access-date=2022-10-19|language=en-GB|newspaper=[[BBCニュース|BBC News]]}}</ref>。同年の[[ロシアによるクリミアの併合|ロシアによるクリミア併合]]の際に出動したコサックは、その後ロシア政府から表彰を受けた<ref>{{Cite web |title=Terek Cossacks Reveal Their Extensive Participation in the Annexation of Crimea |url=https://jamestown.org/program/terek-cossacks-reveal-extensive-participation-annexation-crimea/ |website=Jamestown |access-date=2022-10-19 |language=en-US}}</ref>。 |
|||
ロシアの国勢調査によると、2002年で140,028人<ref>{{Cite web |title=Cossacks |url=http://www.rusnations.ru/etnos/cossack/ |website=Faces of Russia |access-date=2022-10-19 |archive-url=https://archive.ph/20120910114701/http://www.rusnations.ru/etnos/cossack/ |archive-date=2012年9月10日}}</ref>、2010年で67,573人がコサックとされている<ref>{{Cite web |title=Росстат об итогах Всероссийской переписи населения 2010 года |url=https://rg.ru/2011/12/16/stat.html |website=[[ロシア新聞|Российская газета]] |date=2011-12-22 |access-date=2022-10-19}}</ref><ref>{{Cite web |title=Cossacks – The Russian Samurai Soldiers |url=https://www.documentarytube.com/articles/cossacks-the-russian-samurai-soldiers |website=DocumentaryTube |date=2020-08-03 |access-date=2022-10-19 |language=en-US}}</ref>。 |
|||
== 文化 == |
|||
=== ホパーク === |
|||
[[ホパーク]]は、[[ウクライナ・コサック]]の踊りに由来するウクライナの伝統舞踊である。日本ではコサック・ダンスとして知られている<ref name=":0" />。ホパークの主な要素には、しゃがんで順番に片足を前に突き出したり、高く跳躍して両足を水平に開いたりするものがある。そのほか、勇敢なコサックの技量を示すさまざまなトリックや宙返りがある<ref name=":4" />。 |
|||
=== 歌曲 === |
|||
2016年、ウクライナの[[ドニプロペトロウシク州]]に伝わるコサック民謡が[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に登録された<ref>{{Cite web |title=UNESCO - Cossack’s songs of Dnipropetrovsk Region |url=https://ich.unesco.org/en/USL/cossacks-songs-of-dnipropetrovsk-region-01194 |website=[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]] |access-date=2022-10-19 |language=en}}</ref>。 |
|||
== コサックの著名人 == |
|||
*[[イェルマーク]] - ロシア・コサックの[[アタマン|長]]。ロシアの富豪[[ストロガノフ家]]に雇われ[[シビル・ハン国]]に侵攻。自身はシビル・ハン国滅亡の前に戦死した<ref name=":8" />。 |
|||
*[[ペトロー・コナシェーヴィチ・サハイダーチヌイ|ペトロ・サハイダーチヌイ]] - ウクライナ・コサックの頭領、コサック海軍の開祖。 |
|||
*[[ボフダン・フメリニツキー]] - ウクライナ・コサックの頭領、[[フメリニツキーの乱]]の指導者。 |
*[[ボフダン・フメリニツキー]] - ウクライナ・コサックの頭領、[[フメリニツキーの乱]]の指導者。 |
||
*[[スチェパン・ラージン]] - [[ドン・コサック軍]]の長。ラージンの乱の指導者。 |
|||
*[[イヴァン・マゼーパ]] - [[ウクライナ・コサック]]の[[ヘーチマン|頭領]]。[[大北方戦争]]中にスウェーデンに寝返ってロシアと戦った。[[ピョートル・チャイコフスキー]]の[[オペラ]]「[[マゼッパ (オペラ)|マゼッパ]]」(1884年)に描かれている。また、[[フランツ・リスト]]も「[[マゼッパ (リスト)|マゼッパ]]」で題材にしている。 |
|||
*[[エメリヤン・プガチョフ]] - コサックの長。[[プガチョフの乱]]の指導者。 |
*[[エメリヤン・プガチョフ]] - コサックの長。[[プガチョフの乱]]の指導者。 |
||
*[[セ |
*[[グリゴリー・セミョーノフ]] - ザバイカル・コサックの長。ロシア革命後のロシア内戦時代、反革命勢力に与して戦い、[[日本軍]]に協力した。 |
||
*[[セルゲイ・ジャーロフ]] - ドン・コサック軍の副官であった。1921年1月、ジャーロフは[[トルコ]]の捕虜収容所にいたコサックやロシア人難民を集め、[[ドン・コサック合唱団セルゲイ・ジャーロフ|ドン・コサック合唱団]]を結成した。この合唱団は西欧、米国や日本にて高い人気を得た。 |
|||
== コサックに関連する事物 == |
|||
== その他 == |
|||
*『[[静かなドン]]』- ドン・コサックを描いた[[ミハイル・ショーロホフ]]の小説 |
|||
コサックに付随するものとしては、以下のようなものがある。 |
|||
*『[[タラス・ブーリバ]]』- [[ロシア]]の[[小説家]][[ニコライ・ゴーゴリ]]による小説 |
|||
*[[コサック・ダンス]]は、文字通りには「コサックがする踊り」のことであるが、日本では特に「腰を低くして腕を組み、足を高く上げて踊る独特の[[ダンス]]」という[[ステレオタイプ]]が定着している。コサックのダンスには、実際にはこの他にもいろいろなスタイルのものがある。 |
|||
*『[[クバンのコサック]]』 - ソビエト連邦の映画 |
|||
*コサック ({{lang|en|Cossack}}) は、[[An-225 (航空機)|An-225ムリーヤ]]に対して[[北大西洋条約機構|NATO]]が付けた[[NATOコードネーム|コードネーム]]。 |
|||
*コサック - 旧ソビエト連邦で建造された航空機[[An-225 (航空機)|An-225ムリーヤ]]の[[北大西洋条約機構|NATO]][[NATOコードネーム|コードネーム]]<ref>{{Cite web |title=Antonov An-225 Mriya (Cossack) |url=https://www.militaryfactory.com/aircraft/detail.php?aircraft_id=58 |website=Military Factory |access-date=2022-10-17}}</ref> |
|||
*[[コサック (駆逐艦・2代)|コサック]]は、[[イギリス海軍]]の[[駆逐艦]]の名称。 |
|||
*[[コサック (駆逐艦・2代)|コサック]] - [[イギリス海軍]]の[[トライバル級駆逐艦 (2代)|トライバル級駆逐艦]]<ref>{{Cite web |title=HMS Cossack – Maintained by the HMS Cossack Association |url=https://www.hmscossack.co.uk/ |access-date=2022-10-17 |language=en-GB}}</ref> |
|||
*「{{仮リンク|コサックス (コンピュータゲーム)|uk|Козаки (серія відеоігор)|en|Cossacks (video games series)|label=コサックス}}シリーズ」は、ウクライナの[[コンピュータゲーム]]。[[フランス]]軍がロシア帝国に侵攻し、ロシア帝国の支配に対するウクライナの民族主義の盛り上がっていた[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]時代を背景に作られている。「コサックス2」も現在ウクライナ等で売り出されており、日本で[[2005年]]に行われた[[2005年日本国際博覧会|愛知万博]]のウクライナ館でも宣伝されていた。 |
|||
*{{仮リンク|コサック (コンピュータゲーム)|uk|Козаки (серія відеоігор)|en|Cossacks (video games series)|label=コサック}} - ウクライナの[[コンピュータゲーム]]。[[フランス軍]]がロシア帝国に侵攻し、ロシア帝国の支配に対するウクライナの民族主義の盛り上がっていた[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]時代を背景に作られている。2005年の[[2005年日本国際博覧会|愛知万博]]のウクライナ館でも宣伝された<ref>{{Cite web |title=ウクライナ館 |url=http://www.expo2005.or.jp/jp/C0/C3/C3.13/C3.13.4/index.html |website=愛・地球博公式ウェブサイト |access-date=2022-10-20}}</ref>。 |
|||
*『[[コサック (アニメ)|コサック]]』というアニメシリーズがある。 |
|||
*『[[コサック (アニメ)|コサック]]』 - ウクライナの[[アニメ]]・シリーズ |
|||
*映画「007」シリーズで、007([[ジェームズ・ボンド]])の同僚[[ジェームズ・ボンド#テーブルトークRPG|006]](アレック・トレヴェルヤン)はコサック出身の孤児という設定であった。多くの[[ハリウッド]]映画で悪役を演じている[[ショーン・ビーン]]が役を演じ、ジェームズ・ボンドを裏切って殺された。シリーズ第17作『[[007 ゴールデンアイ]]』([[1995年]])に登場。 |
|||
*映画「007」シリーズ第17作『[[ゴールデンアイ|007 ゴールデンアイ]]』(1995年)に登場するアレック・トレヴェルヤンはコサック出身の孤児という設定であった。 |
|||
*東映制作の[[スーパー戦隊シリーズ]]の第3作(現在の作品に直接繋がるシリーズとしては第1作)・『[[バトルフィーバーJ]]』には、ユーラシアを代表する戦士として、南ロシア・中央アジアにゆかりがあり、コサック・ダンスを応用した技を持つバトルコサックが登場する。 |
|||
*東映制作の[[スーパー戦隊シリーズ]]『[[バトルフィーバーJ]]』には、[[ユーラシア]]を代表する戦士として、南ロシア・[[中央アジア]]にゆかりがあり、コサック・ダンスを応用した技を持つバトルコサックが登場する。 |
|||
*[[カプコン]]の[[コンピュータゲーム]]『[[ロックマン4 新たなる野望!!]]』に、ロシア出身の科学者である、Dr.コサックが登場する。 |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
||
=== 注釈 === |
|||
<references group="注釈" /> |
|||
=== 出典 === |
|||
{{Reflist|2}} |
{{Reflist|2}} |
||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
* |
*<small>コサック / 阿部重雄著; 新装. 教育社, 1986. |
||
* |
*ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20) |
||
*{{cite journal|和書|last=中村|first=仁志| title=初期カザーク史をめぐる諸問題|journal=ロシア史研究|date=1990-07-31|volume= 49|number= |publisher= ロシア史研究会編集委員会 |pages=2-16| doi=10.18985/roshiashikenkyu.49.0_2|accessdate=|}} |
|||
*{{uk icon}} {{lang|uk|Голобуцький В. ''Запорозьке козацтво''. — К., 1994.}} |
*{{uk icon}} {{lang|uk|Голобуцький В. ''Запорозьке козацтво''. — К., 1994.}} |
||
*{{uk icon}} {{lang|uk|Грушевський М.С. ''Історія України-Руси''. – Т. 4-10. – К., 1993-1999}} |
*{{uk icon}} {{lang|uk|Грушевський М.С. ''Історія України-Руси''. – Т. 4-10. – К., 1993-1999}} |
||
119行目: | 200行目: | ||
*{{de icon}} ''Die Geschichte der Kosaken: wilder Osten 1500-1700'' / Klaus J. Gröper. Bertelsmann, 1976. |
*{{de icon}} ''Die Geschichte der Kosaken: wilder Osten 1500-1700'' / Klaus J. Gröper. Bertelsmann, 1976. |
||
*{{de icon}} ''Führer und Geführte bei den Zaporogser Kosaken : Struktur und Geschichte kosakischer Verbände im polnisch-litauischen Grenzland (1550-1648)'' / Carsten kumke. O. Harrassowitz, 1993. |
*{{de icon}} ''Führer und Geführte bei den Zaporogser Kosaken : Struktur und Geschichte kosakischer Verbände im polnisch-litauischen Grenzland (1550-1648)'' / Carsten kumke. O. Harrassowitz, 1993. |
||
*{{fr icon}} ''Les Cosaques de l'Ukraine : rôle historique, représentations littéraires et artistiques : actes du 5e colloque international franco-ukrainien'' / textes réunis et présentés par Michel Cadot et Émile Kruba. Presses de la Sorbonne nouvelle, 1995. |
*{{fr icon}} ''Les Cosaques de l'Ukraine : rôle historique, représentations littéraires et artistiques : actes du 5e colloque international franco-ukrainien'' / textes réunis et présentés par Michel Cadot et Émile Kruba. Presses de la Sorbonne nouvelle, 1995.</small> |
||
===「コサック」が主な対象ではない参考文献=== |
|||
==== モンゴル史==== |
|||
*{{ja icon}} 『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』/宮脇淳子 /[[刀水書房]]/2002. |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
* [[バンドゥーラ]] - ウクライナの民族楽器 |
|||
* [[ホパーク]] (гопак) - コサックダンス、[[ウクライナ・コサック]]の踊りに由来するウクライナの伝統舞踊 |
|||
* [[コサックの子守歌]] |
|||
* [[アタマン|オタマン]] |
|||
{{Commonscat|Cossacks}} |
|||
* [[ウクライナ・コサック]] |
|||
* [[ヘーチマン]] |
|||
* [[ハイダマーカ]] |
|||
* [[静かなドン]] - ドン・コサックを描いた[[ミハイル・ショーロホフ]]の小説 |
|||
* コサックの反乱 |
|||
** [[ナルィヴァーイコの乱]] |
|||
** [[フメリニツキーの乱]] |
|||
* {{prefix}} |
|||
* {{intitle}} |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
{{Commonscat|Cossacks}} |
|||
* [http://history.franko.lviv.ua/IIIh.htm 『ウクライナ史事典』/ I.ピドコーヴァ、R.シュースト編. — キエフ: ゲネザ, 1993.] {{uk icon}} |
|||
* [http://www.encyclopediaofukraine.com/display.asp?AddButton=pages\D\A\DanubianSich.htm コサック・ポーランド戦争(ウクライナ百科辞典)]{{en icon}} |
|||
* [http://www.youtube.com/watch?v=5aatGbjRPRM&feature=channel_page フメリニツキーの乱時代の流行歌]{{uk icon}} {{ja icon}} |
* [http://www.youtube.com/watch?v=5aatGbjRPRM&feature=channel_page フメリニツキーの乱時代の流行歌]{{uk icon}} {{ja icon}} |
||
* [http://jp.rbth.com/arts/2014/03/25/20_47671.html 20世紀のコサックの運命]{{リンク切れ|date=2022年3月}} ロシアNOW |
|||
* [http://jp.rbth.com/arts/2013/06/25/43773.html 「コサック」とは「自由人」のこと]{{リンク切れ|date=2022年3月}} ロシアNOW |
|||
{{Normdaten}} |
{{Normdaten}} |
||
150行目: | 214行目: | ||
{{DEFAULTSORT:こさつく}} |
{{DEFAULTSORT:こさつく}} |
||
[[Category:コサック|*]] |
[[Category:コサック|*]] |
||
[[Category:ウクライナ語の語句]] |
|||
[[Category:中東欧]] |
|||
[[Category:ウクライナの歴史]] |
[[Category:ウクライナの歴史]] |
||
[[Category:ポーランドの歴史 (1569–1795)]] |
|||
[[Category:ロシアの歴史]] |
[[Category:ロシアの歴史]] |
||
[[Category:ポーランドの歴史 (1569–1795)]] |
|||
[[Category:中東欧]] |
|||
[[Category:無形文化遺産]] |
[[Category:無形文化遺産]] |
||
[[Category:ウクライナ語の語句]] |
2022年10月31日 (月) 13:53時点における版
コサック[1](ウクライナ語: козак、ロシア語: казак、日本語では哥薩克とも表記)は、ウクライナやロシアに存在した軍事的共同体、およびその共同体に属した人々を指す語である。周囲の封建国家や遊牧民に対する防衛のため、一種の軍事共同体を組織した[2]。特定の民族を示す語ではなく、チュルク系民族、タタール、スラブ人など様々な民族的出自の人々がその構成要素となった[3]。
15世紀にはウクライナ中南部の「荒野」と呼ばれる草原地帯に住み着いていた。16世紀半ば以降、ドニエプル川の中流を中心とするザポロージャ地方やドン川の下流に根拠地を築き、それぞれザポロージャ・コサック(ウクライナ・コサック)およびドン・コサックと呼ばれた。
当初のコサックは周辺国家に依存しない独立した集団であったが、16世紀以降ウクライナのザポロージャ・コサックはポーランド・リトアニア共和国、ドン・コサックはロシア・ツァーリ国に属し、軍務を提供する見返りに自治権を与えられた。コサックは自治権を守るためにしばしば保護国に対して叛乱を起こした。1648年のフメリニツキーの乱はウクライナにおけるザポロージャ・コサックの国家を誕生させ、ポーランド・リトアニア共和国の衰退を促した一方、帝政ロシアの庇護を求める結果となった。18世紀、ザポロージャ・コサックはロシアからの離脱を図るもののこれに失敗し、18世紀末にロシア帝国によって廃止された。ドン・コサックによる反乱はいずれもロシアによって鎮圧され、結果ドン・コサックはロシアの体制に取り込まれた。
帝政ロシアはコサックを国境警備や領土拡張の先兵、国内の民衆運動の鎮圧などの任にあてた[4]。19世紀以降、コサックはロシアにおいて貴族・聖職者・農民・商人とならぶ階級の一つとなり、税金免除と引き換えに兵役義務が課され、植民政策における開拓、国境防備、治安維持などに従事した。ロシア内戦中の1919年から1920年にかけては弾圧の対象となり、多数のコサックが離散した。
ソビエト連邦下でもコサック組織は禁止されていたが、ソ連の崩壊後は復興の傾向にあり、ウクライナやロシアで市民団体がコサックの復帰運動を行っている。現在、ウクライナ、ロシア、カザフスタン、アメリカなどにおいて「コサック軍」と名のるいくつかの組織が存在している。組織の活動はコサック文化振興から軍事支援までの広い範囲にわたっている。
語源
「コサック」は英語に基づく発音であり、英単語「Cossack」はフランス語の「Cosaque」に由来する。ウクライナ語では「козак」、ロシア語では「казак」であるが語源は諸説ある。
- クリミア・タタール語などのテュルク語の「Qazaq」(カザーク)に由来し、「自由の人」「冒険家」「放浪者」を意味している[5]。
- クマン語の「Cosac」(コザク)由来で、13世紀に作成されたクマン語の辞典『コーデクス・クマニクス』によると「番」「警備」を意味する[6]。
- クマン語とクリミア・タタール語に由来し、「自由の人」「冒険家」「放浪者」「番人」「盗賊」「傭兵」などの多様な意味合いを持つ外来語である[7]。
これまでの研究によって否定された仮説には次のようなものがある。
- 中世後期のポーランドの歴史学者による、古代コサックの頭領であったコザークという人物の名前に由来するという説[8]。
- 近世のポーランドの学者による、ウクライナ語の「コザー」(山羊)に由来するとする説。理由は、コサックが山羊のように身動きが軽くて素早いであること[9]、また、コサックが野生の山羊を狩猟していたこと[10]からであるという。
歴史
起源
コサックの起源は明らかではない。現在のウクライナ東南部の草原地帯には、歴史的にスキタイ、サルマタイ、ハザール、クマン人、タタールその他多くの遊牧民族が去来していた。
最初期のコサックはタタールからの脱出者で構成されていたとする説がある[11][12]。モンゴル史、中でもジューンガル史を専門とする宮脇淳子はコサックの起源について、ジョチ・ウルスの分裂後にロシア正教に改宗した遊牧民集団であろうと述べている。その根拠として「アタマン」はトルコ語で百人隊長、コサックの語源もトルコ語で「自分の部族から離れて自由行動を取った人々、冒険者」であり、モンゴル語史料ではドン川やヤイク川のコサック集団を長い間タタール遊牧民の名で呼んでいたことを挙げている[13]。半遊牧生活を送り、狩猟漁労に長け、時に略奪行為を行っていた[14]。
13世紀、ジョチ・ウルスの侵攻によってキエフ・ルーシが滅亡した後、ウクライナ東南部の草原地帯は荒れ果て人口が希薄化した。ジョチ・ウルスも14世紀末より衰退し始めクリミア・ハン国などの汗国に分裂し、草原地帯は遊牧民が跳梁した[15]。このような背景から、この草原地帯は16世紀以降の文献で「荒野」とよばれることとなる。
1444年がコサックとしての文献初出で、リャザンの衛兵としてタタールと戦ったコサックとして登場している[16]。
15世紀後半、モスクワ大公国、ポーランド、オスマン帝国といった封建国家から逃れてきた人々が「荒野」に移住した[3][17]。
1500年頃にはオスマン帝国式の遊牧騎兵集団となったが、ドイツやスイスの傭兵、オランダやイギリスの水兵のようなヨーロッパ式「クルー文化」の特徴も有していた[14]。
こうしてチュルク系民族、タタール、スラブ人など様々な民族的出自の人々がコサックを構成した。割合で言えばスラブ人が大多数を占めるとの研究結果がある[14]。当初のコサックは、周辺国家に依存しない独立した集団であった[17]。
15世紀後半以降、クリミア・ハン国はオスマン帝国の庇護を得て勢力を増していた。当時クリミア半島で奴隷の売買が盛んにおこなわれており、クリミア・ハンは奴隷の捕獲を目的としてたびたび「荒野」を襲撃した[18][19]。
主要なコサック共同体はクリミアに近いドニエプル川、ドン川、ヴォルガ川、ウラル川周辺に存在していたため[17][20]、ポーランド、モスクワなど周辺国家の政府は、防衛政策の一環として「荒野」の管理をコサックに任せる代わりに、自治を認めて武器や火薬、資金を提供するようになった[17][19]。このような軍務提供集団として組織化された最初期のものがザポロージャ・コサックとドン・コサックであった。結果的にクリミア・ハンの度重なる襲来は、コサックの軍事力の維持、強化に一役買うこととなった[21]。
ウクライナ・コサック
現在のウクライナの地域にあったコサック集団はそこにあった町や村の数だけあったと言え、それらが基本的には互いに独立して西欧における小国家(ドイツ地域の王国、公国などのような)と同じような小共同体を形成していた。
16世紀初頭、ポーランドはドニエプル川周辺にあったコサック集団をまとめ、ザポロージャ・コサックを組織し南部の防衛を任せた[17]。1552年、ルテニア系貴族のドミトロ・ヴィシネヴェツキは現在のザポリージャに近いドニエプル川のホールツィツャ島に最初のシーチを築いた[22][23]。シーチの首領はオタマンと呼ばれた。
1558年にクリミア・タタール人によって破壊されたためシーチは移転再建された。以後シーチは破壊による移転再建をたびたび繰り返すこととなる[23]。
1569年にポーランドとリトアニアの連合によるポーランド・リトアニア共和国が成立。1572年、コサックが政府に届け出ることによって地位や給与、土地の所有などの権利を保障する登録コサックの制度を開始した[3][2]。すべてのコサックが登録を許されるわけではなく、最大2万人程度であった。支配者であるポーランド・リトアニアに対する反感もあり、1591年のコシンシキーに始まり、1594年のナリヴァイコほかコサックによる蜂起がたびたび発生し、登録コサックの人数が削減された[24]。
1600年代、コサックを率いたペトロ・サハイダーチヌイはタタールとの戦いで戦果を挙げたほか、1621年のホティンの戦いではポーランド軍の主力を率いてオスマン帝国を撃破した[25]。
1648年、ポーランド・リトアニアに対する蜂起を決意したボフダン・フメリニツキーはヘトマンに就任[26][27]。クリミア・ハン国と同盟を結び、ジョーウチ・ヴォーディの戦いをはじめとする戦いに次々と勝利しポーランドからコサックの権利に関する大きな譲歩を勝ちとった。こうして1649年ヘトマン国家が樹立した。独立国家を手に入れたコサックであったが、その後も周囲の国家との争いが絶えることはなく、1654年に軍事的安定を求めロシア・ツァーリ国とペラヤスラウ協定を妥結しその保護下に入った[17]。ロシアによる扱いが次第に厳しくなる中、1709年、ヘトマンのイヴァン・マゼーパはスウェーデンのカール12世と同盟しピョートル1世と戦い敗れた[28][29]。1734年、最後のシーチとなるノヴァ・シーチが建設されたが、エカチェリーナ2世の時代、1775年にロシア軍によって破壊された[23]。
1730年代以降、コサックは農民を率いてたびたびハイダマキ運動とよばれる蜂起を企てた[30]。
ザポロージャ・コサックの残党は一部ドナウ川流域のオスマン帝国領へと逃れ、ドナウ・コサック軍として存続したが、19世紀のオスマン帝国との戦いの中でドナウ・コサックの拠点も破壊された[31]。
ロシア・コサック
ロシアのコサックは、古くは1444年の年代記にリャザンの衛兵としてタタールと戦ったコサックとして登場している[16]。
1570年、雷帝イヴァン4世からの指示によって最初の正式のコサック軍ドン・コサックがドン川流域で組織された。ドン・コサックは成人男性の自由選挙で選ばれるアタマンによって率いられた[32]。ロシア・コサックは帝政ロシアの領土拡張に積極的に利用された[20]。16世紀に成立したコサック集団にはほかにヴォルガ・コサックがあった。
16世紀後半のドン・コサックの頭領イェルマークによるシベリア進撃はその後のシベリア・コサック編成およびシベリア開拓の端緒となった[33]。
17世紀以降、イルクーツク、トムスク、ヤクーツク、ペトロパブロフスク・カムチャツキー、オムスク、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスクなど、現代のウラル、シベリア、極東の主要都市の多くがコサックによって開発された[20]。太平洋への到達に留まらず、1648年にはコサック探検家セミョン・デジニョフがアジア側から北米大陸を発見した[20][34][35]。
1637年、ドン・コサックはザポロージャ・コサックとともに、オスマン帝国のアゾフ要塞(現・ロストフ州アゾフ)を攻略した[36]。
17世紀、ロシアの農奴制強化に伴い増大した逃亡農民のコサック加入や、コサック内での階層分化の進展により貧民層コサックが増加し、政府に対する不満が高まった[37]。1670年、ステパン・ラージンを首領とする大反乱が発生。皇帝・教会・商人の船を襲い、奴隷を解放しつつその勢力はカスピ海からヴォルガ川中下流域一帯に及んだ[38]。1671年、ラージンは政府軍に捕えられ処刑された[39]。
1671年以降、ロシアのコサックは帝国の階級制度に組み込まれ、ドン河畔の多くの要塞建設に携わった[16]。
1707年、コサックの蜂起であるブラヴィンの乱が勃発。ロシアは鎮圧に成功したが、これを受けて翌1708年にコサックの自治権を剥奪した[16]。
1773年にはドン・コサックのエメリヤン・プガチョフがウラル・コサックを率いて農民戦争プガチョフの乱を起こしたが、これもロシアにより鎮圧された[40]。
ロシア帝国下のコサック
1812年の祖国戦争では、侵攻するナポレオン軍をマトヴェイ・プラトフ率いるドン・コサックがロシア軍とともに迎え撃ち撃破した[20]。
1860年、黒海コサック軍とカフカス防衛線コサックが合同しクバーニ・コサックが編成され[41]、19世紀後半から20世紀初頭のロシアが関与した戦争に参戦した[42]。同年カフカス防衛線コサックの一部がテレク・コサックとして成立している[43]。
同時期、極東地域ではザバイカル・コサック、アムール・コサックが編成され[44][45]、アムール川支流のビラ川やゼヤ川沿岸と周辺地域への入植開拓を進めた。
20世紀初頭の時点で存在していたコサックはアムール、アストラハン、ドン、ザバイカル、クバーニ、オレンブルグ、セミレチェンスク、シベリア、テレク、ウラル、ウスリーの各コサックであった。コサック人口は家族を含め300万人ほどで人口の2%強を占めていた[16]。
日露戦争
1904年に日露戦争が勃発すると、ロシア帝国の極東に駐屯するアムール、ザバイカル、ウスリー、シベリアのコサック諸軍が動員された[46][47]。1904年4月にザバイカル・コサックが戦線に出発し、それに続くシベリア・コサック師団(4連隊)、ウラル・コサック旅団(2連隊)、ウスリ・コサック連隊、クバーニ=テレク・コサック混合連隊も戦地に赴いた。さらに7月にオレンブルク・コサック師団(4連隊)も加わった。コサックの諸部隊は、南満洲での鴨緑江会戦、遼陽会戦、沙河会戦などに参加したが、ロシア軍の司令官に判断力が不足していたため、コサックの騎兵は力を発揮することができなかった。ブリヤート人のコサック部隊がザバイカル・ コサック軍に編入され、旅順攻防戦や奉天会戦などに参加した。ブリヤート人は味方に日本人に間違えられたり、人種差別を受けたりしたという[48]。
旅順攻防戦で活躍したロシア軍の司令官ロマン・コンドラテンコはウクライナ・コサックの家系出身であった[49]。
1904年9月に第4ドン・コサック師団(4連隊)が戦地に到着し、それに続く1905年4月にカフカス・コサック混合師団(クバーニ・コサックの2つの連隊と、テレク・コサックの2つの連隊)ならびに第2クバーニ歩兵連隊(6大隊)が満州についた。パーヴェル・ミシチェンコ大将が率いるコサックの諸部隊は1904年12月に営口市を襲撃し[50]、1905年1月に黒溝台会戦にも参加した[51]。さらに、1905年2月にシベリア・コサックは17日にわたる奉天会戦にも参加した[52]。5月から6月にかけて、ミシチェンコ大将のウラル・ザバイカル・クバーニ・テレクのコサック混合部隊は日本軍の陣地の背後を襲撃したが、戦況を変えることはできなかった。
ロシア革命後のロシア・コサック
1917年のロシア革命後生じたロシア内戦はコサックの分裂を促した[17][32]。ボリシェヴィキを支持するコサックもあれば白軍につくコサックもあり、寝返りも珍しくなかった[32]。
1918年2月、クバーニ・コサックを中心としてクバーニ人民共和国が独立宣言。コサックの多くが反ボリシェヴィキの立場をとった。議会は白軍とも距離を置きウクライナ人民共和国との合流を目指したが5月の赤軍の進撃により消滅した[53]。
ドン地域では1918年3月にボリシェヴィキ派のドン・コサックによりドン・ソビエト共和国が独立宣言。しかし5月に反ボリシェヴィキのドン・コサックによりドン共和国が建国され、ドン・ソビエト共和国は消滅した。ドン共和国は赤軍に敗北し消滅した。
ほかにボリシェヴィキに対して蜂起を起こしたコサックとしてアレクセイ・カレージン[54]、ラーヴル・コルニーロフ[55]がいる。
ウクライナでの動き
1917年3月、民族主義的組織中央ラーダが成立し、6月に自治を宣言した。
4月、自警組織自由コサックが出現。10月、ヘトマンの家系出身の軍人パヴロ・スコロパドスキーが首領に選出された[56]。
1918年1月、中央ラーダは社会主義民族国家ウクライナ人民共和国として独立を宣言し、自由コサックは人民共和国の軍隊として機能した[56]。これに対してボリシェヴィキはウクライナにおいて赤コサック軍を編成した[57]。自由コサック、赤コサック軍ともソビエト・ウクライナ戦争に参加した[56][57]。
1918年4月29日、占領ドイツ軍の策動のもと、スコロパドスキーは人民共和国中央ラーダの転覆に成功しウクライナ国建国を宣言、自身はヘトマンを名乗った[58][59][60]。11月に第一次世界大戦が終結しドイツ帝国が崩壊すると、後ろ盾を失ったスコロパドスキーは政権の座を追われウクライナ国は倒れた。
ソビエト連邦下のコサック
内戦中の1919年1月24日、ボリシェヴィキ政権はロシア国内のコサック指導者を抹殺する秘密指令を下しコサック根絶を進めた[61]。赤軍とチェーカーの手により、多くのコサックが犠牲となった。1919年2月から3月の1か月間だけで8千人が殺害され、1919年から1920年にかけて30–50万人が殺害または国外追放されたとの報告がある[62]。
内戦後、コサックは赤軍に参加することを禁じられていた。ナチス・ドイツの台頭と再軍備宣言など新たな戦争の兆候に備え、1936年にこの制限は撤廃された[63][64]。コサック部隊が創設され、第二次世界大戦では東部戦線の主要な戦闘に参加した[65]。
一方ナチス・ドイツもコサックを利用した。ボリシェヴィキ打倒や政治的な独立を目指すコサックはドイツ側についた。そのようなコサックにピョートル・クラスノフ、アンドレイ・シュクロらがいた。ドイツ占領下のクバーニやドン地域でコサック部隊が編成され、国防軍に組み込まれ、主にユーゴスラビアのパルチザンとの戦闘に派遣された。第二次世界大戦終結後、これらの造反コサックはソビエト連邦によって処刑あるいは収容所送りとなった[65]。
戦後のコサック
ソビエト連邦時代には禁止されていたコサック組織は、ペレストロイカが始まると復活し始めた。1990年、ロシアコサック連合が設立された。その翌年にはロシア・ロストフ州、ウクライナのドネツィク州、ルハンスク州のコサックを統合した南ロシア・コサック連合が設立された[66]。
1992年6月、ボリス・エリツィン大統領は、コサックの復興についての大統領令を出した[67][68]。
1992年のトランスニストリア戦争、1993年のアブハジア戦争にコサックの参加が確認されている[69][70]。ロシア正規軍への志願ではなく義勇兵として戦地に赴くことに特徴がある[71]。
1995年8月、ロシア連邦はコサックをロシア司法省管轄下に置く登録コサック制度を開始した[72]。
1996年1月、北カフカーズ軍管区第58軍第135機動旅団に第694機動ライフル大隊が創設され、ロシア連邦軍で唯一の公式なコサック集団となった。この大隊は800人で構成され、第一次チェチェン紛争に参加した。1996年6月までに第694大隊は解散した[66]。
ウラジーミル・プーチンが政権に就いて以降、コサックを「愛国者」の象徴とし、青年将校育成に利用する動きがある[73]。
2003年、プーチン大統領は、コサックの復興と発展に関する大統領令を出した[67]。
2013年、大統領府のコサック問題評議会は、コサックが警察と一緒に治安維持にあたることを許可した[74]。例として、2014年のソチ冬季オリンピックの際、コサックは警察の街頭パトロールに協力した[75][76]。同年のロシアによるクリミア併合の際に出動したコサックは、その後ロシア政府から表彰を受けた[77]。
ロシアの国勢調査によると、2002年で140,028人[78]、2010年で67,573人がコサックとされている[79][80]。
文化
ホパーク
ホパークは、ウクライナ・コサックの踊りに由来するウクライナの伝統舞踊である。日本ではコサック・ダンスとして知られている[3]。ホパークの主な要素には、しゃがんで順番に片足を前に突き出したり、高く跳躍して両足を水平に開いたりするものがある。そのほか、勇敢なコサックの技量を示すさまざまなトリックや宙返りがある[32]。
歌曲
2016年、ウクライナのドニプロペトロウシク州に伝わるコサック民謡がユネスコの無形文化遺産に登録された[81]。
コサックの著名人
- イェルマーク - ロシア・コサックの長。ロシアの富豪ストロガノフ家に雇われシビル・ハン国に侵攻。自身はシビル・ハン国滅亡の前に戦死した[33]。
- ペトロ・サハイダーチヌイ - ウクライナ・コサックの頭領、コサック海軍の開祖。
- ボフダン・フメリニツキー - ウクライナ・コサックの頭領、フメリニツキーの乱の指導者。
- スチェパン・ラージン - ドン・コサック軍の長。ラージンの乱の指導者。
- イヴァン・マゼーパ - ウクライナ・コサックの頭領。大北方戦争中にスウェーデンに寝返ってロシアと戦った。ピョートル・チャイコフスキーのオペラ「マゼッパ」(1884年)に描かれている。また、フランツ・リストも「マゼッパ」で題材にしている。
- エメリヤン・プガチョフ - コサックの長。プガチョフの乱の指導者。
- グリゴリー・セミョーノフ - ザバイカル・コサックの長。ロシア革命後のロシア内戦時代、反革命勢力に与して戦い、日本軍に協力した。
- セルゲイ・ジャーロフ - ドン・コサック軍の副官であった。1921年1月、ジャーロフはトルコの捕虜収容所にいたコサックやロシア人難民を集め、ドン・コサック合唱団を結成した。この合唱団は西欧、米国や日本にて高い人気を得た。
コサックに関連する事物
- 『静かなドン』- ドン・コサックを描いたミハイル・ショーロホフの小説
- 『タラス・ブーリバ』- ロシアの小説家ニコライ・ゴーゴリによる小説
- 『クバンのコサック』 - ソビエト連邦の映画
- コサック - 旧ソビエト連邦で建造された航空機An-225ムリーヤのNATOコードネーム[82]
- コサック - イギリス海軍のトライバル級駆逐艦[83]
- コサック - ウクライナのコンピュータゲーム。フランス軍がロシア帝国に侵攻し、ロシア帝国の支配に対するウクライナの民族主義の盛り上がっていたナポレオン時代を背景に作られている。2005年の愛知万博のウクライナ館でも宣伝された[84]。
- 『コサック』 - ウクライナのアニメ・シリーズ
- 映画「007」シリーズ第17作『007 ゴールデンアイ』(1995年)に登場するアレック・トレヴェルヤンはコサック出身の孤児という設定であった。
- 東映制作のスーパー戦隊シリーズ『バトルフィーバーJ』には、ユーラシアを代表する戦士として、南ロシア・中央アジアにゆかりがあり、コサック・ダンスを応用した技を持つバトルコサックが登場する。
- カプコンのコンピュータゲーム『ロックマン4 新たなる野望!!』に、ロシア出身の科学者である、Dr.コサックが登場する。
脚注
- ^ コザーク、カザーク、コザックとも。ウクライナ語: козак コザーク、複数形はкозаки コザクィー。ロシア語: казак カザーク、複数形はказаки カザキー。ポーランド語: kozak コザーク、複数形はkozacy コザーツィ。
- ^ a b “コサックとは”. コトバンク. 2022年10月16日閲覧。
- ^ a b c d “何者?ゼレンスキーも語るウクライナの自由の民コサックとは”. NHK NEWS WEB (2022年9月21日). 2022年10月16日閲覧。
- ^ 遠藤良介 (2018年5月24日). “デモ参加者に襲いかかるコサック ロシアに漂う危険な兆候”. 産経新聞. 2018年5月25日閲覧。
- ^ Етимологічний словник української мови: в 7 т.(ウクライナ語源辞典。7巻)/ ред. Л.К. Артемєва. - К.: Наукова думка, 1985. - Т.2. – 495 с.
- ^ Грушевский М.С. Нариси історії українського народу(ウクライナ民族概略史). – К.: Либідь, 1990. – 400 с.;Дорошенко Д.І. Нариси історії України: в 2 т.(ウクライナ概略史。2巻)– К.: Глобус, 1991. – Т.1 - 238 с.
- ^ Україна – козацька держава(コサックの国ウクライナ)/ ред. Недяк В.В.; Наукові ред. Щербак В.О., Федорук О.К. – К.: Емма, 2004. – 1216 с.
- ^ Stryjkowski M. Kronika Polska Litewska, Zmudzka i Wszystkie Rusi. Georg. Osterberger, Królewiec. 1582.
- ^ Kronika Pawla Piaseckiego, biskupa przemyslskiego. Krakow, 1870.- p. 46.
- ^ Twardowski S. Wojna domowa.— Calissii.— 1681.- p.2-3.
- ^ Crichton, Kyle (1993年10月31日). “The Sound of Cossack Thunder” (英語). The New York Times. ISSN 0362-4331 2022年10月17日閲覧。
- ^ Lee, Joo-Yup (2016-01-01) (英語). 3 The Qazaq, or Cossack, Groups of the Black Sea Steppes. Brill. ISBN 978-90-04-30649-3
- ^ 宮脇淳子 『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』/刀水書房刊、2002年(167–178)
- ^ a b c Belich, James (2022-07-19) (英語). The World the Plague Made: The Black Death and the Rise of Europe. Princeton University Press. ISBN 978-0-691-21566-2
- ^ 黒川祐次 (2020年8月26日). “ウクライナ危機の世界史的意義 ―ロシア・ウクライナ関係史の視点から”. 平和政策研究所. 2022年10月16日閲覧。
- ^ a b c d e “Cossacks. Brief history of the Cossacks” (英語). Russian Information Center. 2022年10月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g “Cossack” (英語). Encyclopedia Britannica. 2022年10月16日閲覧。
- ^ Kizilov, Mikhail (2007). “Slaves, Money Lenders, and Prisoner Guards:The Jews and the Trade in Slaves and Captivesin the Crimean Khanate”. Journal of Jewish Studies 58 (2): 189–210. ISSN 0022-2097 .
- ^ a b Breyfogle, Nicholas; Schrader, Abby; Sunderland, Willard (2007-11-02) (英語). Peopling the Russian Periphery: Borderland Colonization in Eurasian History. Routledge. ISBN 978-1-134-11288-3
- ^ a b c d e イワン・ニコラエフ (2013年6月25日). “「コサック」とは「自由人」のこと”. Russia Beyond. 2022年10月17日閲覧。
- ^ Minahan, James (2000) (英語). One Europe, Many Nations: A Historical Dictionary of European National Groups. Greenwood Publishing Group. ISBN 978-0-313-30984-7
- ^ “ユーラシア史を見直す(1) ロシア人とは何か?”. 2022年10月17日閲覧。
- ^ a b c “Zaporozhian Sich”. Internet Encyclopedia of Ukraine. Canadian Institute of Ukrainian Studies. 2022年10月17日閲覧。
- ^ “Registered Cossacks”. Internet Encyclopedia of Ukraine. Canadian Institute of Ukrainian Studies. 2022年10月17日閲覧。
- ^ “Konashevych-Sahaidachny, Petro”. Internet Encyclopedia of Ukraine. Canadian Institute of Ukrainian Studies. 2022年10月17日閲覧。
- ^ “Где казаки – там и сила” (ロシア語). Укринформ (2022年10月17日). 2022年9月20日閲覧。
- ^ “フメリニツキーとは”. コトバンク. 2022年10月17日閲覧。
- ^ “マゼーパとは”. コトバンク. 2022年10月17日閲覧。
- ^ “Ivan Mazepa Facts, Biography, & Russian Empire” (英語). Encyclopedia Britannica. 2022年10月17日閲覧。
- ^ “ハイダマキ運動とは”. コトバンク. 2022年10月19日閲覧。
- ^ “Danubian Sich”. Internet Encyclopedia of Ukraine. Canadian Institute of Ukrainian Studies. 2022年10月18日閲覧。
- ^ a b c d アレクサンドラ・グゼワ (2022年6月30日). “コサックってどんな人たち?10の言葉で見てみよう”. Russia Beyond. 2022年10月17日閲覧。
- ^ a b “イェルマークとは”. コトバンク. 2022年10月17日閲覧。
- ^ “Diomede Islands, Bering Straight” (英語). Jet Propulsion Laboratory. NASA. 2022年10月17日閲覧。
- ^ “Semyon Ivanov Dezhnyov Russian explorer” (英語). Encyclopedia Britannica. 2022年10月17日閲覧。
- ^ Boeck, Brian J. (2012-01-01) (英語). The Siege of Azov in 1641: Military Realities and Literary Myth. Brill. ISBN 978-90-04-22198-7
- ^ “ステンカ・ラージンの乱とは”. コトバンク. 2022年10月17日閲覧。
- ^ “ステンカ=ラージンの乱とは”. コトバンク. 2022年10月17日閲覧。
- ^ “ラージンとは”. コトバンク. 2022年10月18日閲覧。
- ^ “プガチョフの乱とは”. コトバンク. 2022年10月18日閲覧。
- ^ “Black Sea Cossacks”. Internet Encyclopedia of Ukraine. Canadian Institute of Ukrainian Studies. 2022年10月18日閲覧。
- ^ “Kuban Cossack Host”. Caucasian Knot (2003年9月7日). 2022年10月18日閲覧。
- ^ “Terek Cossack Host”. Caucasian Knot (2003年8月31日). 2022年10月18日閲覧。
- ^ “Far East”. Internet Encyclopedia of Ukraine. Canadian Institute of Ukrainian Studies. 2022年10月18日閲覧。
- ^ “Senior official in eastern Siberia elected as Cossack ataman in 2 border regions”. TASS (2014年3月30日). 2022年10月18日閲覧。
- ^ A.A. Golik (2015年1月). “The Far Eastern Cossacks in the Russo-Japanese War of 1904'1905” (英語). 2022年10月18日閲覧。
- ^ Aleksey Kuropatkin (1909年). “The Russian Army and the Japanese War, Vol. II, by General Kuropatkin”. Project Gutenberg. 2022年10月18日閲覧。
- ^ イーゴリ・ボトーエフ「ブリヤート人と日本人の交流における知られざるエピソード」『Nichibunken Newsletter』第93巻、国際日本文化研究センター、2016年9月15日、9–10頁。
- ^ “The Japanese in Odessa” (英語). Odessa Journal (2021年4月5日). 2022年10月20日閲覧。
- ^ “Cossack raid Mishchenko in the Japanese rear in the Russian-Japanese war”. topwar.ru (2015年7月3日). 2022年10月20日閲覧。
- ^ Yılmaz, Oğuzhan. Russo-Japanese War 1904-1905 .
- ^ “Mukden battle”. topwar.ru. 2022年10月20日閲覧。
- ^ “Kuban People's Republic”. Internet Encyclopedia of Ukraine. Canadian Institute of Ukrainian Studies. 2022年10月18日閲覧。
- ^ “カレージン,A.M.とは”. コトバンク. 2022年10月18日閲覧。
- ^ “コルニーロフとは”. コトバンク. 2022年10月18日閲覧。
- ^ a b c “Free Cossacks”. Internet Encyclopedia of Ukraine. Canadian Institute of Ukrainian Studies. 2022年10月18日閲覧。
- ^ a b “Red Cossacks”. Internet Encyclopedia of Ukraine. Canadian Institute of Ukrainian Studies. 2022年10月18日閲覧。
- ^ “スコロパツキー,P.P.とは”. コトバンク. 2022年10月18日閲覧。
- ^ 村田優樹「1918年のウクライナにおける国制構想と外交路線の相互関係:独立と連邦制」『ロシア・東欧研究』第2018巻第47号、2018年、17–34頁、doi:10.5823/jarees.2018.17。
- ^ “Skoropadsky, Pavlo”. Internet Encyclopedia of Ukraine. Canadian Institute of Ukrainian Studies. 2022年10月18日閲覧。
- ^ “De-Cossackization—Modern-Day Echoes of a Soviet Crime” (英語). Jamestown (2021年2月2日). 2022年10月18日閲覧。
- ^ Winkler, Heinrich August (2015-09-28) (英語). The Age of Catastrophe: A History of the West 1914–1945. Yale University Press. ISBN 978-0-300-21309-6
- ^ Velikanova, Olga (2018-05-15) (英語). Mass Political Culture Under Stalinism: Popular Discussion of the Soviet Constitution of 1936. Springer. ISBN 978-3-319-78443-4
- ^ “Rehabilitation of Cossack Divisions” (英語). Seventeen Moments in Soviet History (2015年6月18日). 2022年10月18日閲覧。
- ^ a b Egorov, Boris (2020年3月5日). “How Russian Cossacks fought for and against Hitler” (英語). Russia Beyond. 2022年10月19日閲覧。
- ^ a b “The Cossack Factor in Ukrainian War” (英語). Jamestown. 2022年10月19日閲覧。
- ^ a b “The decree on ‘The improvement of the Russian Cossacks revival and development’ signed” (英語). Presidential Library. 2022年10月20日閲覧。
- ^ “Putin or Bust: Relations of Russian Cossacks With the Kremlin” (英語). Jamestown. 2022年10月20日閲覧。
- ^ Junker, Nikki. The Role of Cossacks in the Moldovan-Transnistrian Conflict .
- ^ “25 Abkhazia war bodies identified, returned to families”. Agenda.ge. 2022年10月19日閲覧。
- ^ “Armed Cossacks pour in to fight Georgians” (英語). The Guardian (2008年8月8日). 2022年10月19日閲覧。
- ^ “Указ Президента Российской Федерации от 09.08.1995 г. № 835”. www.kremlin.ru (1995年8月9日). 2022年10月19日閲覧。
- ^ 西山美久 (2010). “プーチン政権下における「愛国主義」政策の変遷”. ロシア・東欧研究 2010 (39): 82–92. doi:10.5823/jarees.2010.82 .
- ^ Barry, Ellen (2013年3月17日). “The Cossacks Are Back. May the Hills Tremble.” (英語). The New York Times. ISSN 0362-4331 2022年10月19日閲覧。
- ^ “Russian Cossacks patrol Sochi Olympics” (英語). Reuters. (2014年1月9日) 2022年10月19日閲覧。
- ^ “Pussy Riot whipped at Sochi Games by Cossacks” (英語). BBC News. (2014年2月19日) 2022年10月19日閲覧。
- ^ “Terek Cossacks Reveal Their Extensive Participation in the Annexation of Crimea” (英語). Jamestown. 2022年10月19日閲覧。
- ^ “Cossacks”. Faces of Russia. 2012年9月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月19日閲覧。
- ^ “Росстат об итогах Всероссийской переписи населения 2010 года”. Российская газета (2011年12月22日). 2022年10月19日閲覧。
- ^ “Cossacks – The Russian Samurai Soldiers” (英語). DocumentaryTube (2020年8月3日). 2022年10月19日閲覧。
- ^ “UNESCO - Cossack’s songs of Dnipropetrovsk Region” (英語). UNESCO. 2022年10月19日閲覧。
- ^ “Antonov An-225 Mriya (Cossack)”. Military Factory. 2022年10月17日閲覧。
- ^ “HMS Cossack – Maintained by the HMS Cossack Association” (英語). 2022年10月17日閲覧。
- ^ “ウクライナ館”. 愛・地球博公式ウェブサイト. 2022年10月20日閲覧。
参考文献
- コサック / 阿部重雄著; 新装. 教育社, 1986.
- ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20)
- 中村, 仁志「初期カザーク史をめぐる諸問題」『ロシア史研究』第49巻、ロシア史研究会編集委員会、1990年7月31日、2-16頁、doi:10.18985/roshiashikenkyu.49.0_2。
- Голобуцький В. Запорозьке козацтво. — К., 1994.
- Грушевський М.С. Історія України-Руси. – Т. 4-10. – К., 1993-1999
- Рігельман О. І. Літописна оповідь про Малу Росію та її народ і козаків узагалі / Вст. ст., упор. та примітки П. М. Саса, В. О.Щербака. — К.: Либідь, 1994.
- Щербак В. О. Українське козацтво: формування соціального стану.— К., 2000.
- Яворницький Д.І. Історія запорозьких козаків. – Т. 1.-3. – К., 1990-1993
- Висковатов А. В. Историческое описание одежды и вооружения российских войск, с рисунками, составленное по высочайшему повелению: в 30 т.: в 60 кн. — Факсимильное издание 1841–1862 гг. — СПб.: Альфарет, 2007–2008.
- Донские казаки в прошлом и настоящем / под общ. редакцией Ю.Г. Волкова. Изд-во Ростовского университета, 1998.
- История казачества Азиатской России : в 3 т. / В.В. Алексеев ; Н.А. Миненко. - Екатеринбург, 1995.
- Таирова-Яковлева Т. Мазепа. - Москва: Молодая гвардия, 2007.
- Cossack rebellions : social turmoil in the sixteenth-century Ukraine / Linda Gordon. State University of New York Press, 1983.
- The Cossacks of the Ukraine / New York: AMS Press, 1985.
- Cossacks in the German army, 1941-1945 / Samuel J. Newland. London, England; Portland, Or.: F. Cass, 1991.
- The Cossacks : an illustrated history / John Ure. Overlook, 2002
- The Cossacks / Shane O'Rourke. Manchester University Press, 2007.
- Die Geschichte der Kosaken: wilder Osten 1500-1700 / Klaus J. Gröper. Bertelsmann, 1976.
- Führer und Geführte bei den Zaporogser Kosaken : Struktur und Geschichte kosakischer Verbände im polnisch-litauischen Grenzland (1550-1648) / Carsten kumke. O. Harrassowitz, 1993.
- Les Cosaques de l'Ukraine : rôle historique, représentations littéraires et artistiques : actes du 5e colloque international franco-ukrainien / textes réunis et présentés par Michel Cadot et Émile Kruba. Presses de la Sorbonne nouvelle, 1995.