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工場は高い実績と共に拡張を続け、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]における最も重要な生産拠点の1つに成長した。[[1909年]]に父のリングホッファーIII世の死を受けて社長に就任したフランティシェク・リングホッファーIV世(František Ringhoffer IV.)によって[[1911年]]に工場はリングホッファー家による家族経営から[[株式会社]]に再編され、[[第一次世界大戦]]期には世界最大の客車・貨車の生産拠点となった。[[1918年]]に[[チェコスロバキア]]が成立して以降、リングホッファー工場は{{仮リンク|シュコダ・ヴァゴンカ|label=モラフスコスレズスカ・ヴァゴンカ|cs|Škoda Vagonka}}を始めとする同国各地の工業製品メーカーを吸収し、更に規模を拡大した。[[1936年]]には社名を[[タトラ山脈]]にちなんだ'''リングホッファー・タトラ(Ringhoffer–Tatra)'''へ改めている{{r|Tatra_a}}{{r|Tatra_1}}{{r|Tatra_2}}{{sfn|ČKD Tatra|1992|p=3}}{{sfn|大賀寿郎|2016|p=94}}。 |
工場は高い実績と共に拡張を続け、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]における最も重要な生産拠点の1つに成長した。[[1909年]]に父のリングホッファーIII世の死を受けて社長に就任したフランティシェク・リングホッファーIV世(František Ringhoffer IV.)によって[[1911年]]に工場はリングホッファー家による家族経営から[[株式会社]]に再編され、[[第一次世界大戦]]期には世界最大の客車・貨車の生産拠点となった。[[1918年]]に[[チェコスロバキア]]が成立して以降、リングホッファー工場は{{仮リンク|シュコダ・ヴァゴンカ|label=モラフスコスレズスカ・ヴァゴンカ|cs|Škoda Vagonka}}を始めとする同国各地の工業製品メーカーを吸収し、更に規模を拡大した。[[1936年]]には社名を[[タトラ山脈]]にちなんだ'''リングホッファー・タトラ(Ringhoffer–Tatra)'''へ改めている{{r|Tatra_a}}{{r|Tatra_1}}{{r|Tatra_2}}{{sfn|ČKD Tatra|1992|p=3}}{{sfn|大賀寿郎|2016|p=94}}。 |
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リングホッファー家が所有していた時代に製造された代表的な車両には、[[オーストリア帝国]][[皇帝]]の[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]や[[ルーマニア]]の国王向けの[[お召し列車]]や、[[オスマン帝国]]の[[パシャ]]向けの高級客車などが挙げられる。また、地元の[[プラハ市電]]向けの車両についても1920年代の時点でそのほとんどがリングホッファー工場製で占められるようになっていた{{r|Tatra_1}}{{r|Tatra_2}}。 |
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=== タトラ国営工場→ČKDタトラ === |
=== タトラ国営工場→ČKDタトラ === |
2022年5月28日 (土) 14:10時点における版
建物の一部が保存されているスミーホフ工場跡(2015年撮影) | |
本社所在地 |
チェコスロバキア ↓ チェコ プラハ |
---|---|
設立 | 1852年(リングホッファー工場設立年)[1][2][3] |
業種 | 輸送用機器 |
事業内容 | 鉄道車両(路面電車車両、客車、貨車)の製造、整備など |
特記事項:2000年に破産、シーメンスに売却[4] |
ČKDタトラ(チェコ語: ČKD Tatra)は、かつてチェコスロバキア(現:チェコ)の首都・プラハに工場を有していた鉄道車両メーカー。1852年に設立されたリングホッファー工場(Ringhofferovy závody)が基になっており、第二次世界大戦後の社会主義時代から2000年の破産まで、タトラカーと呼ばれる高性能の路面電車車両を世界各地へ向けて大量生産していた事で知られている。この項目では、同社がプラハのスミーホフ地区に有していた工場を中心に解説する[1][2][3][5]。
歴史
リングホッファー工場
19世紀後半、産業革命を受けてヨーロッパ各国には工業製品を製造するための企業や工場が次々に設立されていた。その中の1つが、ドイツ出身のフランティシェク・リングホッファーII世(František Ringhoffer II.)によって1852年に設立され、1854年から操業が始まったプラハのスミーホフ地区の鉄道車両工場・リングホッファー工場(Ringhofferovy závody)であった。製造は貨車から始まり、1857年からは客車など旅客車両が、そして1876年からは馬車鉄道用の客車や路面電車など軌道交通向け車両の生産にも着手した[注釈 1][1][2][3][7][6]。
工場は高い実績と共に拡張を続け、オーストリア=ハンガリー帝国における最も重要な生産拠点の1つに成長した。1909年に父のリングホッファーIII世の死を受けて社長に就任したフランティシェク・リングホッファーIV世(František Ringhoffer IV.)によって1911年に工場はリングホッファー家による家族経営から株式会社に再編され、第一次世界大戦期には世界最大の客車・貨車の生産拠点となった。1918年にチェコスロバキアが成立して以降、リングホッファー工場はモラフスコスレズスカ・ヴァゴンカを始めとする同国各地の工業製品メーカーを吸収し、更に規模を拡大した。1936年には社名をタトラ山脈にちなんだリングホッファー・タトラ(Ringhoffer–Tatra)へ改めている[1][2][3][8][9]。
リングホッファー家が所有していた時代に製造された代表的な車両には、オーストリア帝国皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世やルーマニアの国王向けのお召し列車や、オスマン帝国のパシャ向けの高級客車などが挙げられる。また、地元のプラハ市電向けの車両についても1920年代の時点でそのほとんどがリングホッファー工場製で占められるようになっていた[2][3]。
タトラ国営工場→ČKDタトラ
第二次世界大戦を経てチェコスロバキアが東側諸国に属する社会主義国家へと変革される流れの中で、リングホッファー・タトラ社も国有企業となり、社名も「タトラ国営会社(národní podnik Tatra)」に変更された。設立当初はプラハに本社を置き国内各地に工場を所有する形で運営が行われていたが、1950年に再編が実施され、各工場が独立した国営企業として運営される事となり、スミーホフに存在した工場についても「タトラ国営会社スミーホフ工場(Vagónka Tatra Smíchov)」と言う社名に改められた。その後1958年にこれらの工場は再度スチューデンカに拠点を置くタトラ国営企業協会に纏められたが、スミーホフ工場については1963年に同じく国営の鉄道車両生産企業であったČKD社の一部門となり、社名も「ČKDタトラ(ČKD Tatra)」となった[1][2]。
国営化後の生産の主力となったのは、タトラカーとも呼ばれる一連の路面電車車両であった。これは1920年代にアメリカ合衆国で開発された高性能路面電車・PCCカーの技術をライセンス契約を結んだうえで導入した車両で、リングホッファー家が工場を所有していた1930年代の時点で製造が検討されていたものの、第二次世界大戦の影響を受けて契約が調印されたのは1948年5月、チェコスロバキアが社会主義体制へ移管する直前となった。その後、1951年から生産が開始されたタトラT1を皮切りに、スミーホフ工場(→ČKDタトラ)は経済相互援助会議(コメコン)の元で路面電車車両を東側諸国へ向けて生産する事となった。中でもタトラT3は13,000両を超える大量生産が実施された事で知られている[4][5][10][11][8][12][13]。
また、タトラカー以外にも1950年代から1970年代までは客車やトロリーバスの生産も実施していた他、タトラ電鉄線に向けて420.95形電車の製造も行った。更に1970年代にはプラハ地下鉄の開通へ向けて小規格の地下鉄用電車であるタトラR1も開発したが、こちらは計画の変更により営業運転に使用される事は無かった[14][12][15][16]。
1980年代には都市の中心部にあり施設の老朽化も懸念されていたスミーホフからズリチーンへの工場の移設および規模の拡張が計画され、1989年から操業が始まったが、本格的な生産が開始されたのは次項で述べる民主主義化やビロード離婚を経た1997年となった。ただしそれ以降もスミーホフ工場での路面電車車両の生産は継続された[1]。
民営化、ČKDの破産
チェコスロバキアの民主化(ビロード革命)やビロード離婚を経てチェコの民間企業となったČKDタトラでは、それ以前から製造が続いていた一連のタトラカーに加え、超低床電車の開発にも着手した。一方で前述したズリチーンへの生産拠点の移設に加え、ČKDグループ全体の再編により1997年からはČKDプラハホールディング(ČKD Praha Holding a.s.)に属する企業となった[1][17][18]。
だが、民主化後はČKDグループ全体の需要が大幅に減少した他、超低床電車の故障頻発を始め品質面にも問題が多数浮上し、1999年には70億5千万コルナもの負債を抱える状態となり、従業員への賃金も支払えず労働団体による抗議運動が行われる事態となった。その結果同年にはチェコ政府の国営統合銀行(Česká konsolidační banka)が株の過半数を所有する救済措置が執られたが、経営が改善する事はなく2000年1月をもってČKDタトラを含むČKDグループは破産した[4][19][20][21][22]。
シーメンス時代、工場閉鎖後
破産後、ČKDグループが所有していた工場や車両のライセンスなど各種資産は、ドイツの重電メーカーであるシーメンスがチェコに設立した子会社のSKV(Společnost kolejových vozidel)へと7億5千万コルナで移管された。その後もスミーホフ工場やズリチーン工場の操業は続き、プラハ地下鉄向けのM1形電車の生産がČKDタトラ時代から継続して行われたが、スミーホフ工場は2002年に閉鎖された他、シーメンスによるチェコでの鉄道車両製造事業そのものが生産能力の整理の一環で終了する事となり、最後まで残ったズリチーン工場も2009年をもって閉鎖された。その後スミーホフ工場は解体され、跡地にはショッピングモールが建設されている[2][3][19][4][23][24]。
一方、タトラカーを始めとした車両のライセンスについては2003年に実施された審査によってシーメンスからSKDトレード(SKD Trade)へと継承されており、以降同社は各種車両の修理部品の生産を継続して行っている[17]。
-
スミーホフ工場への専用線の廃線跡(2011年撮影)
主要製品
リングホッファー時代
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客車
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貨車
タトラ国営会社→ČKDタトラ時代
タトラカー
-
タトラT7(タトラT7B5)
その他
関連企業
- タトラ=ユーク - ウクライナで路面電車車両を手掛ける鉄道車両メーカー。1993年の創設にはČKDタトラが参加しており、当初はタトラカーの同型車両の製造が実施された[27][28]。
- イネコン・トラム - チェコを拠点に路面電車車両を手掛ける鉄道車両メーカー。親会社のイネコン・グループは設立当初の1990年代にČKDタトラを買収する計画を立てており、実現する事は無かったものの、ČKDタトラの経営に不満を持っていた技術者の移籍に伴い路面電車車両の製造事業に参入した経歴を持つ[注釈 3][29][30]。
- コンスタル - ポーランドにかつて存在した鉄道車両メーカー。社会主義時代はポーランドの路面電車車両の製造を独占的に実施しており、ČKDタトラ製のタトラカーを輸入・研究する事で技術を入手し、それを基にした車両を量産していた[31][32]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g Robert Mara (2001-1-1) (チェコ語). Tatra T3 1960–2000. 40 let tramvají Tatra T3.. K-Report. pp. 119. ISBN 978-8090301207
- ^ a b c d e f g Pavel Švec (2012年11月29日). “Slavná éra smíchovské Tatry začala před 160 lety. Nahradil ji obchoďák”. Sdružení dopravních podniků ČR. 2020年6月17日閲覧。
- ^ a b c d e f “DPP pojmenuje další tramvaj po významné osobnosti pražské MHD, tentokrát po Františku Ringhofferovi IV.”. Sdružení dopravních podniků ČR (2020年3月5日). 2020年6月17日閲覧。
- ^ a b c d 服部重敬 2017, p. 105.
- ^ a b Radek Folprecht (2018年12月22日). “Nejslavnější tramvaj světa T3 vznikla v Československu” (チェコ語). iDNES.cz. 2020年6月17日閲覧。
- ^ a b ČKD Tatra 1992, p. 2.
- ^ ČKD Tatra 1970, p. 2-3.
- ^ a b ČKD Tatra 1992, p. 3.
- ^ 大賀寿郎 2016, p. 94.
- ^ 大賀寿郎 2016, p. 93.
- ^ ČKD Tatra 1970, p. 6.
- ^ a b ČKD Tatra 1992, p. 4.
- ^ 服部重敬 2017, p. 104.
- ^ ČKD Tatra 1970, p. 21-22.
- ^ “Pražské metro”. Česká televize (2008年). 2020年6月17日閲覧。
- ^ “Pražské metro - historický památník své doby”. Metrostav (2004年5月18日). 2007年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年6月17日閲覧。
- ^ a b “Licences” (英語). SKD TRADE a.s.. 2020年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月27日閲覧。
- ^ ČKD Praha Holding, a.s. Tramwaj Typu T3R (PDF) (Report). 2020-4-8閲覧。
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の日付が不正です。 (説明) - ^ a b Jaroslav Skalický, Alena Adámková (2009年7月2日). “Výroba kolejových vozidel v Praze končí. Siemens zavírá závod ve Zličíně”. iROZHLAS.cz. 2020年6月17日閲覧。
- ^ “Zaměstnanci ČKD se marně dovolávali majitelů” (チェコ語). iDNES.cz (1999年5月24日). 2020年6月17日閲覧。
- ^ “Inpro požádalo banky o bezodkladný převod akcií holdingu ČKD” (チェコ語). iDNES.cz (1999年5月25日). 2020年6月17日閲覧。
- ^ “Zaměstnanci ČKD dostávají výpověď” (チェコ語). iDNES.cz (2000年1月31日). 2020年6月17日閲覧。
- ^ “Metro s Husákem odjelo z Kačerova, zahájilo 40letou éru” (チェコ語). Česká televize (2014年5月8日). 2020年6月17日閲覧。
- ^ “Technické údaje souprav” (チェコ語). Dopravní podnik hlavního mésta Prahy. 2020年6月17日閲覧。
- ^ 鹿島雅美「ドイツの路面電車全都市を巡る 15」『鉄道ファン』第47巻第2号、交友社、2007年2月1日、145頁。
- ^ Libor Hinčica (2017年10月3日). “TROLEJBUSOVÝ PROVOZ V PRAZE OBNOVÍ TATRA 400. CHYBĚT BY NEMĚL ANI TROLEJBUS SOR” (チェコ語). Československý Dopravák. 2020年6月17日閲覧。
- ^ “K-1”. Tatra-Yug (2015年8月6日). 2020年6月17日閲覧。
- ^ “В Конотопе закрыли трамвайное движение”. Пассажирский Транспорт (2018年7月30日). 2020年6月17日閲覧。
- ^ Petr Korbel, Vojtěch Kostka (2011年2月2日). “České investice do cementárny v Egyptě v ohrožení” (チェコ語). ekonom. 2020年6月17日閲覧。
- ^ “Life Is Better in the World than in Czechia” (英語). Inekon Group a.s. (2006年4月26日). 2020年6月17日閲覧。
- ^ 大賀寿郎 2016, p. 101-102.
- ^ Wacław Niewolański (2016-3). “Dzieje miejskiej komunikacji tramwajowej” (ポーランド語). Biuletyn Techniczno - Informacyjny (Oddziału Łódzkiego Stowarzyszenia Elektryków Polskich) (72): 20-32 2020年6月17日閲覧。.
参考資料
- 大賀寿郎『路面電車発達史 ―世界を制覇したPCCカーとタトラカー』戎光祥出版〈戎光祥レイルウェイ・リブレット 1〉、2016年3月1日。ISBN 978-4-86403-196-7。
- 服部重敬「トラムいま・むかし 第6回 タトラカーが今も主役 チェコ・リベレツ」『路面電車EX 2017 vol.10』、イカロス出版、2017年10月20日、100-109頁、ISBN 978-4802204231。
- ČKD Tatra (1970). Zuverlässig Wirtschaftlich Shcnell und Sehr Geräuscharm (PDF) (Report). 2015-6-7時点のオリジナル (PDF)よりアーカイブ。2020-6-17閲覧。
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外部リンク
SKDトレードの公式ページ”. 2020年6月17日閲覧。
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