コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ドイツ連邦」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 神聖ローマ皇帝記事等の改名に伴うリンク修正依頼 (フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)) - log
61行目: 61行目:
|元首等年代始5 =1850年
|元首等年代始5 =1850年
|元首等年代終5 =1866年
|元首等年代終5 =1866年
|元首等氏名5 =[[フランツ・ヨーゼフ1世]]
|元首等氏名5 =[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]
|首相等肩書 =
|首相等肩書 =
|首相等年代始1 =
|首相等年代始1 =

2022年5月28日 (土) 13:28時点における版

ドイツ連邦
Deutscher Bund
ライン同盟
オーストリア帝国
プロイセン王国
1815年 - 1866年
ドイツの国旗 ドイツの国章
国旗国章
ドイツの位置
1820年のドイツ連邦。二大国のオーストリア帝国(黄)とプロイセン王国(青)は連邦の国境線(赤)外にも領土を有している。
公用語 ドイツ語
首都 フランクフルト
連邦議会議長国の元首
1815年 - 1835年 フランツ1世
1835年 - 1848年フェルディナント1世
1848年 - 1849年ヨハン
1849年 - 1850年フリードリヒ・ヴィルヘルム4世
1850年 - 1866年フランツ・ヨーゼフ1世
変遷
発足 1815年6月8日
3月革命勃発1848年3月13日
オルミュッツ協定成立1850年11月29日
普墺戦争勃発1866年6月15日
解体1866年8月23日
通貨フェアアインスターラー
現在ドイツの旗 ドイツ
 オーストリア
ポーランドの旗 ポーランド
 チェコ
オランダの旗 オランダ
ベルギーの旗 ベルギー
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク
クロアチアの旗 クロアチア
イタリアの旗 イタリア
スロベニアの旗 スロベニア
リヒテンシュタインの旗 リヒテンシュタイン
先代次代
ライン同盟 ライン同盟
オーストリア帝国 オーストリア帝国
プロイセン王国 プロイセン王国
北ドイツ連邦 北ドイツ連邦
オーストリア帝国 オーストリア帝国
バイエルン王国 バイエルン王国
ヴュルテンベルク王国 ヴュルテンベルク王国
バーデン大公国 バーデン大公国
ヘッセン大公国 ヘッセン大公国
ルクセンブルク大公国 ルクセンブルク大公国
ドイツ連邦内の各領邦と帝国自由都市(ドイツ語)
フランクフルトに集まった各加盟諸邦の君主たち(1863年

ドイツ連邦(ドイツれんぽう)またはドイツ同盟(ドイツどうめい、Deutscher Bund)は、旧神聖ローマ帝国を構成していたドイツの35の領邦と4つの帝国自由都市との連合体。1815年のウィーン議定書に基づき、オーストリア帝国を盟主として発足、1866年普墺戦争プロイセン王国の勝利をもって解消された。

ドイツ連邦は、あくまでも複数の主権国家の連合体、つまり国家連合(Staatenbund)であり、連邦国家(Bundesstaat)でない。そのため、「ドイツ連合」や「ドイツ国家連合」などとも訳される(下記「訳語」の項目を参照)。

ドイツの歴史
ドイツの国章
東フランク王国
神聖ローマ帝国
プロイセン王国 ライン同盟諸国
ドイツ連邦
北ドイツ連邦 南部諸国
ドイツ帝国
ヴァイマル共和政
ナチス・ドイツ
連合軍軍政期
ドイツ民主共和国
(東ドイツ)
ドイツ連邦共和国
(西ドイツ)
ドイツ連邦共和国
オーストリアの歴史
オーストリアの国章
この記事はシリーズの一部です。
先史時代から中世前半
ハルシュタット文化
属州ノリクム
マルコマンニ
サモ王国
カランタニア公国
オーストリア辺境伯領
バーベンベルク家ザルツブルク大司教領ケルンテン公国シュタイアーマルク公国
小特許状
ハプスブルク時代
ハプスブルク家
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国
ハプスブルク君主国
オーストリア帝国
ドイツ連邦
オーストリア=ハンガリー帝国
第一次世界大戦
サラエヴォ事件
第一次世界大戦
両大戦間期
オーストリア革命
ドイツ・オーストリア共和国
第一共和国
オーストロファシズム
アンシュルス
第二次世界大戦
ナチズム期
第二次世界大戦
戦後
連合軍軍政期
オーストリア共和国
関連項目
ドイツの歴史
リヒテンシュタインの歴史
ハンガリーの歴史

オーストリア ポータル

歴史

ドイツ連邦はライン同盟の解体を受け、ウィーン会議を経て1815年6月8日のドイツ連邦規約に基づいて成立した。規約第17条では帝国郵便を営んできたトゥルン・ウント・タクシス家の事業存続権が保証された[1]

オーストリア帝国(連邦議会議長)、プロイセン王国、4つの帝国自由都市リューベックフランクフルトブレーメンハンブルク)など39の領邦同盟を構成した。なお、旧神聖ローマ帝国の領域を範囲としたため、オーストリアおよびプロイセンの領土は連邦の内と外にまたがっていた。

それまで神聖ローマ皇帝が司ってきたドイツ全体に関わる懸案の審議と議決を目的に、フランクフルトに連邦議会ドイツ語版(Bundestag des Deutschen Bundes あるいは Bundesversammlung)が常設された。軍隊、警察、関税は構成国の主権に属した。連邦議会の議員は諸邦の普通選挙で選ばれた官吏、大学教員等の市民階級の代表が務めた。プロイセンのビスマルクもその一人であった。

1848年三月革命によって存続を危ぶまれたが、1849年に復活した。しかし、1866年普墺戦争に勝利したプロイセンはドイツ連邦を解消、翌1867年プロイセンは北ドイツ連邦を成立させ、ドイツ統一の主導権を握り、後のドイツ帝国の母体とした。

加盟諸邦

連邦議会で4票を有する

連邦議会で3票を有する

連邦議会で2票を有する

連邦議会で1票を有する

訳語

Deutscher Bund はアメリカ合衆国のような連邦国家ではなく、国家の緩やかな連合体(国家連合)であるため、「ドイツ連邦」という訳語は問題があるとする考えもある。連邦国家でないものを「ドイツ連邦」と称するのは本来的にミスリーディングであり、「ドイツ同盟」と訳すほうが望ましいとする[5]。また、訳語に用いられるほかの例としては、「ドイツ連合」[6]や「ドイツ国家連合」[7]などがある。

脚注

  1. ^ 「自由な協定によって別の条約が締結されないならば、トゥルン・ウント・タクシス侯家は、1803年2月25日の帝国代表者会議主要決議あるいはその後の条約によって確認された連邦諸国における郵便の所有と利益を保持する。あらゆる場合において、先の帝国代表者会議主要決議の第13条により、タクシス侯家には、郵便の委託または適切な補償に基づく権利と要求が保証される。1803年以来、帝国代表者会議主要決議の内容に反して、郵便の廃止がすでに起こったところでも、その補償が条約によってまだ決定的に取り決められていない限り、このことは適用される。」
  2. ^ 1837年まで君主はイギリス国王
  3. ^ 1864年まで君主はデンマーク国王、以後はオーストリアとプロイセンの共同管理
  4. ^ 君主はオランダ国王
  5. ^ 「ドイツ同盟」を用いる例に、イェリネク(芦部ほか訳)『一般国家学』学陽書房 や、栗城壽夫『一九世紀ドイツ憲法理論の研究』など。
  6. ^ 「ドイツ連合」を用いる例に、小畑郁「国際法の主体」『国際法 第5版』松井芳郎ほか、有斐閣。
  7. ^ 「ドイツ国家連合」を用いる例に、福田耕治『国際行政学 国際公益と国際公共政策』有斐閣。

関連項目