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「マリーア・クレメンティーナ・ダウストリア」の版間の差分

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[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]とその皇后[[マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン|マリア・ルドヴィカ]]の娘として、ヴィラ・ディ・ポッジョ・インペリアーレ([[フィレンツェ]])で生まれた。
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1797年7月、[[フォッジャ]]で[[ナポリ王国|ナポリ]]と[[シチリア王国|シチリア]](当時まだ[[両シチリア王国]]に統合されていない)の王太子で、父方でも母方でも従弟に当たるフランチェスコと結婚した。なお、1790年にマリーア・クレメンティーナの兄である皇帝[[フランツ2世]]および[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]][[フェルディナンド3世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド3世]]が、フランチェスコの姉[[マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン|マリア・テレーザ]]および[[ルイーザ・マリア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ|ルイーザ・マリア]]とそれぞれ結婚している。
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マリーア・クレメンティーナは夫フランチェスコとの間に1男1女をもうけた。
マリーア・クレメンティーナは夫フランチェスコとの間に1男1女をもうけた。

2022年5月28日 (土) 13:15時点における最新版

マリーア・クレメンティーナ・ダウストリア
Maria Clementina d'Austria
ナポリおよびシチリア王太子妃

出生 1777年4月24日
トスカーナ大公国フィレンツェ、ヴィラ・ディ・ポッジョ・インペリアーレ
死去 (1801-11-15) 1801年11月15日(24歳没)
ナポリ王国ナポリ
埋葬 ナポリ王国ナポリ、サンタ・キアラ聖堂
配偶者 ナポリおよびシチリア王太子フランチェスコ(後のフランチェスコ1世)
子女 マリーア・カロリーナ・フェルディナンダ・ルイーザ
フェルディナンド
家名 ハプスブルク=ロートリンゲン家
父親 神聖ローマ皇帝レオポルト2世
母親 マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン
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マリーア・クレメンティーナ・ダウストリアイタリア語: Maria Clementina d'Austria, 1777年4月24日 - 1801年11月15日)は、両シチリア王フランチェスコ1世の最初の妃。フランチェスコの即位前に死去したため、王妃にはならなかった。ドイツ語名はマリア・クレメンティーネ・ヨーゼファ・ヨハンナ・フィデリス・フォン・エスターライヒ(Maria Klementine Josepha Johanna Fidelis von Österreich)。

生涯

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神聖ローマ皇帝レオポルト2世とその皇后マリア・ルドヴィカの娘として、ヴィラ・ディ・ポッジョ・インペリアーレ(フィレンツェ)で生まれた。

1797年7月、フォッジャナポリシチリア(当時まだ両シチリア王国に統合されていない)の王太子で、父方でも母方でも従弟に当たるフランチェスコと結婚した。なお、1790年にマリーア・クレメンティーナの兄である皇帝フランツ2世およびトスカーナ大公フェルディナンド3世が、フランチェスコの姉マリア・テレーザおよびルイーザ・マリアとそれぞれ結婚している。

マリーア・クレメンティーナは夫フランチェスコとの間に1男1女をもうけた。

息子フェルナンドが夭逝した1801年に、マリーア・クレメンティーナも24歳で早世した。

人物

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  • 処刑される前のルイ16世から多額の金を託されたグーヴェルヌール・モリスというアメリカ人は、ルイ16世夫妻が処刑された後、その唯一の遺児であるマリー・テレーズにそれを直接渡そうとしていた。マリー・テレーズはタンプル塔から生還したのち、母方の実家であるハプスブルク家に引き取られていた。モリスは、ウィーンにてマリー・テレーズとの対面が叶うが、その時、その場にいた結婚前のマリーア・クレメンティーナとも対面し、彼女について「はっとするほどフランス王妃(叔母)に似ている。私がそのことを述べると、彼女は他の者も同じことを言うと私に告げる」という回想を残している[1]

脚注

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  1. ^ ネーゲル、p.209

参考文献

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  • 『マリー・テレーズ』スーザン・ネーゲル著 櫻井郁恵訳(近代文芸社、2009年)