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* 衆議院議員略歴 p372: 伴直之助
* [{{NDLDC|1278238/262}} 付録 p2] 議員府県別当選回数調: 東京府第4回</ref><ref name=議衆1962>{{cite encyclopedia|title=伴直之助 |url={{NDLDC|3000139/232}}|encyclopedia=議会制度七十年史 |volume=衆議院議員名鑑 |page=408 |editor1=衆議院 |editor2=参議院 |display-editors=0|year=1962 |id={{NDLJP|3000139}}}}</ref>) - [[1937年]]([[昭和]]12年)[[7月26日]]{{R|議衆1962}})は、日本の[[実業家]]、[[政治家]]、[[衆議院議員]](1期)。号は'''智齋'''<ref name="東京経済雑誌1891">復刻版: {{Cite book|title=東京経済雑誌 46 明治24年10-12月 592-604号|publisher=日本経済評論社||date=1983-03-20|lorigyear=1891|language=ja|volume=46|location=東京|id={{NCID|AN00329943}}|chapter=雑録 - 中国九州の諸士に告ぐ|at=603号 p911|chapterurl=https://hdl.handle.net/2027/uc1.c3230807?urlappend=%3Bseq=519|hdl=2027/uc1.c3230807}}(URLは[[HathiTrust]])
* 原文書誌: {{Cite journal|和書|journal=[[東京経済雑誌]]|author=智齋 伴直之助|title=雑録 - 中国九州の諸士に告ぐ|volume=24|pages=911|date=1891-12-19|issue=603|publisher=[[経済雑誌社]]|language=ja|location=東京|id={{NCID|AN00159377}}}}(明治24年)</ref><ref name="大橋新太郎伝1985">{{Cite book|和書|title=大橋新太郎伝|publisher=博文館新社|date=1985-08-01|page=32|last=坪谷|first=善四郎|author-link=坪谷善四郎|language=ja|NCID=BN01919485|quote={{Interp|明治9年に大橋新太郎が入学した同人社の}}門番兼時間報告の拍子木を打って回る校僕に、伴直之助というのがあったが、それが勤務の間に勉学して、後には法学博士田口卯吉の後を継いで、東京経済雑誌社を経営し、雑誌のほかに多く有益な大部の図書も出版した。この人は身体が矮小なので、自ら智斎と称したが、今は台湾の台北にて、ある事業を経営し、|location=東京|origyear=1937|oclc=568172121}}(本書は[[大橋新太郎]]の伝記)</ref>(ちさい<ref name="WhosWho1919">{{Cite encyclopedia|title=Ban, Naonosuke (伴直之助)|url={{NDLDC|1699847/31}}|url-access=registration|encyclopedia=Who's who in Japan. Eighth annual edition|publisher=フース・フー・イン・ジャパン|date=1919-12-28|edition=8|language=en|NCID=AA00479296|location=東京|oclc=635552092|id={{NDLJP|1699847}}|at=Biographies (Japanese) B-2|quote=nom de plume "Chisai"}}</ref>)・'''痴齋'''<ref name="渡邉雅弘2017">{{Cite journal|和書|journal=社会科学論集|year=2017|title=論説 三瀬諸淵の「失われた」ソクラテス論の迷宮・私論(一)- 刑死と不知と「無知の知」文献史からの攷究 -|last=渡邉<!--Watanabe-->|first=雅弘<!--Masahiro-->|url=https://aue.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=6090&file_id=15&file_no=1|issue=53|at=p47 脚注(30)|publisher=愛知教育大学地域社会システム講座|language=ja|format=pdf|hdl=10424/00007218|ISSN=0288-5778}}</ref>。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[武蔵国]]に生まれる{{R|議衆}}。[[1879年]]、[[同人]]卒{{R|略歴}}{{R|議衆}}。東京経済雑誌社編集、山梨峡中新報社、大阪立憲政党新聞社主筆、[[東京府会]]議員、[[東京市会]]議員、[[深川区]]会議員、徴兵参事員、京都商業銀行、[[両毛鉄道]]、[[播但鉄道]]、[[京都鉄道]]各会社等を設立し、重役となる{{R|略歴}}{{R|議衆}}。
[[武蔵国]]に生まれる{{R|議衆1962}}。[[経済雑誌社|東京経済雑誌社]]編集、山梨峡中新報社、大阪立憲政党新聞社主筆、[[東京府会]]議員、[[東京市会]]議員、[[深川区]]会議員、徴兵参事員、京都商業銀行、[[両毛鉄道]]、[[播但鉄道]]、[[京都鉄道]]各会社等を設立し、重役となる{{R|略歴}}{{R|議衆1962}}。


[[1879年]]、[[同人社]]卒{{R|略歴}}{{R|議衆1962}}。卒業後、[[田口卯吉]]が創設した経済雑誌社(後の東京経済雑誌社)に入社<ref name="鉄道史人物事典2013" />。同誌の持主兼印刷人を担当していた1884年には、[[新聞紙条例]]にもとづき罰則を科せられる事件があった<ref name="鼎軒田口先生伝1912">{{Cite book|和書|title=鼎軒田口先生伝|chapter=3. 東京経済雑誌の発行|chapterurl=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781642/16|publisher=[[経済雑誌社]]|date=1912-05-20|page=10|editor-last=塩島<!--シオシマ-->|editor-first=仁吉<!--ジンキチ-->|language=ja|NCID=BN08572488|id={{NDLJP|781642}}}}</ref>。
[[1894年]]9月の[[第4回衆議院議員総選挙]]において[[東京府第5区 (1890-1898)|東京5区]]から無所属で立候補して当選した<ref>衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙20頁。</ref>。衆議院議員を1期務め、[[1898年]]の[[第5回衆議院議員総選挙]]は不出馬。1937年に死去した


1886年に田口卯吉らが創立した両毛鉄道の創立準備に参加し、1887年から1894年まで同社の支配人に就任<ref name="鉄道史人物事典2013">{{Cite encyclopedia|title=伴 直之助 ばん・なおのすけ|last1=石井|first1=里枝|encyclopedia=鉄道史人物事典|publisher=[[鉄道史学会]](発売:日本経済評論社)|date=2013-02-18|pages=343-344|editor=鉄道史学会|editor-link=鉄道史学会|language=ja|isbn=978-4-8188-2201-6|location=東京}}
== 脚注 ==
* 本項が参考文献として挙げているもの: 老川慶喜『近代日本の鉄道構想』(日本経済評論社 2008年)、日本交通協会編『鉄道先人録』(日本停車場 1972年)
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</ref>。同時期の1887年に[[同志社英学校]]で講師をし<ref name="WhosWho1919" />、かつ[[京都看病婦学校]]の設立にも参加している<ref name="WhosWho1919" />。


[[1894年]]9月の[[第4回衆議院議員総選挙]]に、田口卯吉と一緒に立候補し二人とも当選している{{r|略歴|page=付2}}。伴は[[東京府第5区 (1890-1898)|東京5区]]から無所属で立候補して当選した<ref name="衆議院名鑑1977">{{cite encyclopedia|title=伴直之助 |encyclopedia=衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙|page=20|editor=日本国政調査会 |publisher=国政出版室 |year=|NCID=BN01574383}}</ref>。衆議院議員を1期務め、[[1898年]]の[[第5回衆議院議員総選挙]]は不出馬。
== 参考文献 ==

*『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
1895年に京都鉄道の支配人、のちに取締役兼支配人となり、1907年に同社が国有化されるまで続いた<ref name="鉄道史人物事典2013" />。
* 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。

* 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』[[国立印刷局|大蔵省印刷局]]、1990年。
1937年に台湾で死去<ref name="鉄道史人物事典2013" />。

== 親族 ==
教育者[[木村鐙子]]および経済学者・実業家[[田口卯吉]]の姉弟は、直之助の従兄弟である<ref name="岡田有功2011">{{Cite journal|和書|journal=九州共立大学経済学部紀要|year=2011|title=第一次企業勃興期における田口卯吉の 起業者活動|page=17|last=岡田<!--オカダ-->|first=有功<!--ユウコウ-->|url=http://id.nii.ac.jp/1388/00000249/|issue=123|language=ja|ISSN=13402641<!--接続不良|NAID=40018797125-->}}</ref>。

== 出典 ==
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2022年6月11日 (土) 04:46時点における版

伴 直之助(ばん なおのすけ、1862年文久2年8月 (旧暦)[1][2]) - 1937年昭和12年)7月26日[2])は、日本の実業家政治家衆議院議員(1期)。号は智齋[3][4](ちさい[5])・痴齋[6]

経歴

武蔵国に生まれる[2]東京経済雑誌社編集、山梨峡中新報社、大阪立憲政党新聞社主筆、東京府会議員、東京市会議員、深川区会議員、徴兵参事員、京都商業銀行、両毛鉄道播但鉄道京都鉄道各会社等を設立し、重役となる[1][2]

1879年同人社[1][2]。卒業後、田口卯吉が創設した経済雑誌社(後の東京経済雑誌社)に入社[7]。同誌の持主兼印刷人を担当していた1884年には、新聞紙条例にもとづき罰則を科せられる事件があった[8]

1886年に田口卯吉らが創立した両毛鉄道の創立準備に参加し、1887年から1894年まで同社の支配人に就任[7]。同時期の1887年に同志社英学校で講師をし[5]、かつ京都看病婦学校の設立にも参加している[5]

1894年9月の第4回衆議院議員総選挙に、田口卯吉と一緒に立候補して二人とも当選している[1]:付2。伴は東京5区から無所属で立候補して当選した[9]。衆議院議員を1期務め、1898年第5回衆議院議員総選挙は不出馬。

1895年に京都鉄道の支配人、のちに取締役兼支配人となり、1907年に同社が国有化されるまで続いた[7]

1937年に台湾で死去[7]

親族

教育者木村鐙子および経済学者・実業家田口卯吉の姉弟は、直之助の従兄弟である[10]

出典

  1. ^ a b c d "伴直之助". 総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回. 衆議院事務局. 1940. p. 372. NDLJP:1278238 {{cite encyclopedia}}: 引数|ref=harvは不正です。 (説明)
    • 衆議院議員略歴 p372: 伴直之助
    • 付録 p2 議員府県別当選回数調: 東京府第4回
  2. ^ a b c d e "伴直之助". 議会制度七十年史. Vol. 衆議院議員名鑑. 1962. p. 408. NDLJP:3000139
  3. ^ 復刻版: 雑録 - 中国九州の諸士に告ぐ」『東京経済雑誌 46 明治24年10-12月 592-604号』 46巻、日本経済評論社、東京、1983年3月20日、603号 p911。hdl:2027/uc1.c3230807NCID AN00329943https://hdl.handle.net/2027/uc1.c3230807?urlappend=%3Bseq=519 (URLはHathiTrust
  4. ^ 坪谷, 善四郎『大橋新太郎伝』博文館新社、東京、1985年8月1日(原著1937年)、32頁。 NCID BN01919485OCLC 568172121。「[明治9年に大橋新太郎が入学した同人社の]門番兼時間報告の拍子木を打って回る校僕に、伴直之助というのがあったが、それが勤務の間に勉学して、後には法学博士田口卯吉の後を継いで、東京経済雑誌社を経営し、雑誌のほかに多く有益な大部の図書も出版した。この人は身体が矮小なので、自ら智斎と称したが、今は台湾の台北にて、ある事業を経営し、」 (本書は大橋新太郎の伝記)
  5. ^ a b c "Ban, Naonosuke (伴直之助)". Who's who in Japan. Eighth annual edition (英語) (8 ed.). 東京: フース・フー・イン・ジャパン. 28 December 1919. Biographies (Japanese) B-2. NCID AA00479296. OCLC 635552092. NDLJP:1699847. nom de plume "Chisai"
  6. ^ 渡邉, 雅弘「論説 三瀬諸淵の「失われた」ソクラテス論の迷宮・私論(一)- 刑死と不知と「無知の知」文献史からの攷究 -」(pdf)『社会科学論集』第53号、愛知教育大学地域社会システム講座、2017年、p47 脚注(30)、hdl:10424/00007218ISSN 0288-5778 
  7. ^ a b c d 石井里枝 著「伴 直之助 ばん・なおのすけ」、鉄道史学会 編『鉄道史人物事典』鉄道史学会(発売:日本経済評論社)、東京、2013年2月18日、343-344頁。ISBN 978-4-8188-2201-6 
    • 本項が参考文献として挙げているもの: 老川慶喜『近代日本の鉄道構想』(日本経済評論社 2008年)、日本交通協会編『鉄道先人録』(日本停車場 1972年)
  8. ^ 塩島, 仁吉 編「3. 東京経済雑誌の発行」『鼎軒田口先生伝』経済雑誌社、1912年5月20日、10頁。 NCID BN08572488NDLJP:781642https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781642/16 
  9. ^ 日本国政調査会 (ed.). "伴直之助". 衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙. 国政出版室. p. 20. NCID BN01574383
  10. ^ 岡田, 有功「第一次企業勃興期における田口卯吉の 起業者活動」『九州共立大学経済学部紀要』第123号、2011年、17頁、ISSN 13402641