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「名古屋モスク」の版間の差分

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'''名古屋モスク'''(なごやモスク)は、[[日本]]の[[愛知県]][[名古屋市]]にある[[モスク]]である。名古屋在住の留学生によって設立された「名古屋イスラム協会」を母体として1998年に開設された。
'''名古屋モスク'''(なごやモスク)は、[[日本]]の[[愛知県]][[名古屋市]]にある[[モスク]]であり、1998年に開設された。


名古屋モスクは4階建ての鉄筋コンクリート製の建物である。2階に女性用礼拝室、3階と4階に男性用礼拝室が設けられている。また、名古屋モスクは礼拝といった宗教活動のほかに、イスラームにまつわる資料の配布や見学者の受け入れを行っている。このほか、女性や若いムスリムを対象とする勉強会やお茶会を開いている。
名古屋モスクは4階建ての鉄筋コンクリート製の建物である。2階に女性用礼拝室、3階と4階に男性用礼拝室が設けられている。また、名古屋モスクは礼拝といった宗教活動のほかに、イスラームにまつわる資料の配布や見学者の受け入れを行っている。このほか、女性や若いムスリムを対象とする勉強会やお茶会を開いている。


名古屋モスクの母体となったのは、イスラーム諸国からの留学生らによって1987年1月に設立された「名古屋イスラム協会」である{{sfn|クレシ|2021|p=246}}。彼らは名古屋市内のアパートを借りて礼拝所としていたが、外国人が集まったことがアパートや近隣の住民の不安を招き、たびたびアパートを追い出されてそのたびに別のアパートを借りるなど礼拝所を転々としていた{{sfn|朝日新聞|1998|p=3}}{{sfn|クレシ|2021|p=246}}。そこで、自前のモスクを設立する機運が高まり、各所からの寄付金を得て1998年7月にモスクが完成した。
名古屋モスクはかつては複数人の個人名義で所有されていたが、2002年に宗教法人名古屋モスクが設立され、所有権はそちらに移った。宗教法人である名古屋モスクは2017年には名古屋イスラミックセンターに改称された。


== 所在地 ==
== 所在地 ==
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=== 名古屋イスラム協会の設立 ===
=== 名古屋イスラム協会の設立 ===
1980年代に入ると名古屋においてイスラーム諸国からの留学生が増加した{{sfn|クレシ|2020|p=31}}。名古屋モスク母体となるのは、そうした生らによって1987年1月に設立された「名古屋イスラム協会」である{{sfn|クレシ|2021|p=246}}{{Refnest|group="注釈"|{{harvtxt|クレシ|2020}}では名古屋イスラム協会結成は1988年2月7日であるとされている{{sfn|クレシ|2020|p=31}}。}}。名古屋ム協会は[[名古屋大学]]の西に隣接する古屋市[[千種区]][[東山元町]]にあアパートの一室を借りて礼拝所とした{{sfn|クレシ|2020|p=31}}。アパートの契約は当時の名古屋のム・コミュニティで唯一の日本人だった男性が行ったが、この男性が突如としてコミュニティを去ったため契約更新が出来なくなり、名古屋大学の東に隣接する千種区[[福原町 (名古屋市)|福原町]]にあるアパート礼拝所を移した{{sfn|クレシ|2020|p=32}}。しかし、1992年のはじめにはアパートの退去を通告された{{sfn|クレシ|2020|p=33}}{{Refnest|group="注釈"|{{harvtxt|レシ|2020}}退去通行の要因として[[湾岸戦争]]の勃発イスラームへの偏見が高まったことや、警察訪問が度重なったこと挙げいる{{sfn|クレシ|2020|p=33}}。}}。1992年4月には名古屋大学から2駅離れたビルの一室を借りた。この礼拝所は賃料は高額だったが室内は狭くそのうえ立地も不便であった{{sfn|クレシ|2021|p=246}}。また、金曜礼拝には70人から80人ほどが参加しており、礼拝スペースが足りなかった{{sfn|朝日新聞|1998|p=3}}。こうたことを受けて、永続利用が可能なモスクを設立する機運が高まった{{sfn|クレシ|2021|p=248}}。1990年末にモスク設立ための銀行口座が開設され、1993年はモスク建設用土地探し始まった。また、1997年4月には古屋モスクプロジェクト責任委員が選出され、パキスタン人など7人選ばれた{{sfn|クレシ|2020|pp=32, 33}}。
1980年代に入ると名古屋においてイスラーム諸国からの留学生が増加した{{sfn|クレシ|2020|p=31}}。留学生たちは、1986年年頭から[[名古屋大学]]空き教室を利用て[[金曜礼拝]]を行ってい。しかし、大学により学内での宗教活動を禁止され、教室の利用が出来無くなった{{sfn|クレシ|2020|p=31}}。そこで彼らは[[イスラミックセンター・ジャパン]]に、アパートを借りるための資金援助を依頼した{{sfn|クレシ|2020|p=31}}。その後イスラミックセンター・ジャパンの理事や名古屋市外の留学生など200人が参加した会合が開かれ、その場でイスラミックセンター・ジャパンによる賃料補助が約束され、1987年1月、名古屋スリム学生協会(Muslim Student Association of Nagoya)が結成され{{sfn|クレシ|2020|p=31}}。名古屋学生協会は1988年に「名古屋イスラム協会」と改される{{sfn|クレシ|2020|p=31}}。名古屋協会は1988年頃に[[名古屋大学]]に隣接するアパートの一室を借りてムサッラー(一時的礼拝所{{Refnest|group="注釈"|モスクは礼拝専用場所あるが、ムサッラーとは家屋事務所1区画必要に応じて礼拝とするものとされる {{sfn|クレシ|2021|p=262}}。}}した{{sfn|クレシ|2020|p=31}}。この時留学生名義では賃貸を断られ、当時のコミュニティ所属していた唯一日本人が名って借りることできた{{sfn|クレシ|2020|p=31}}。

しかし、1990年にはその日本人がコミュニティを去ったため、アパートの更新契約ができなくなった。そこで、この頃コミュニティに参加し始めたパキスタン出身の自営業者Aが、やはり名古屋大学に隣接する別のアパートを自分の会社名義で契約し、新たなムサッラーとした{{sfn|クレシ|2020|p=32}}。この時期にAは、会社を名古屋イスラム協会の連絡先とし、結婚や入信などに必要なイスラミックセンター・ジャパンの証明書の取次も行い、また[[ハラール]]に則って処理された肉(ハラール肉)を販売するなど、コミュニティを積極的にサポートするようになっていく{{sfn|クレシ|2020|p=32}}。
この頃、1990年末にはモスク設立のための基金口座が開設され、2年で300万円ほどが集まっている{{sfn|クレシ|2020|pp=32, 33}}。

しかしその後、[[湾岸戦争]]によるイスラームへの偏見が高まり、警察の訪問が度重なったこともあって、1992年明けにアパートからの退去を通告されたため、再び別の場所が必要になった{{sfn|クレシ|2020|p=33}}。3ヶ月近い物件探しの末、名古屋大学から2駅離れたビルの一室をAの会社名義で借りることになった{{sfn|クレシ|2020|p=33}}。このムサッラーでは、礼拝の他、アラビア語や[[ハディース]]の勉強会や食事会なども行なわれ、ムスリムの外国人男性を中心としたコミュニティが形成されて行く{{sfn|クレシ|2021|p=246}}。また、金曜礼拝には70人から80人ほどが参加しており、礼拝スペースが足りなかった{{sfn|朝日新聞|1998|p=3}}。この新しい物件は賃料は高額だったが室内は狭く、そのうえ立地も不便であった{{sfn|クレシ|2021|p=246}}。しかし、他に選択肢はなく、その後6年ほど、この場所をムサッラーとして使用していた{{sfn|クレシ|2020|p=33}}。

こうした諸事情を受けて、永続利用が可能なモスクを設立する機運が高まり{{sfn|クレシ|2021|p=248}}、1993年にはモスク建設用の土地探しが始まった{{sfn|クレシ|2020|p=33}}。


=== 名古屋モスクの設立 ===
=== 名古屋モスクの設立 ===
[[第二次世界大戦]]後に日本で設立されたモスクは、工場やコンビニエンスストアなどの中古物件を買い取り、それをモスクに改築するという手法が主流だった。しかし、名古屋モスクの場合はモスクとして新築するとが決まった。モスクの地は名古屋大学から移動しやすい名古屋市営地下鉄東山線の沿線から徒歩で通えること、近隣住民の不安を招かないように住宅地ではなく大通り沿いであることの2つが条件として上った{{sfn|クレシ|2021|p=249}}。名古屋大学の最寄り駅だった[[本山駅 (愛知県)|本山駅]]から順に1駅ずつ土地探しが続けられ、土地探しが始まってから4年がたった1997年にこれらの2つの条件に合致する土地が見つかった。土地は名古屋モスクプロジェクト責任委員のうち3人が共同名義で売買契約を締結した{{sfn|クレシ|2020|p=33}}。建設用地探しと並行してモスク設立のための募金活動も行われていた。募金活動は日本の国内外で10年にわたり行われ、その結果、およそ6,780万円が集まった{{sfn|朝日新聞|1998|p=3}}{{sfn|クレシ|2021|p=249}}。
[[第二次世界大戦]]後に日本で設立されたモスクは、工場やコンビニエンスストアなどの中古物件を買い取り、それをモスクに改築するという手法が主流だった。しかし、モスク設立中心になったAモスクとして新築だわった{{sfn|クレシ|2021|p=249}}{{sfn|クレシ|2020|p=34}}
モスクの候補として、(1).留学生の利便を考え、名古屋大学から移動しやすい[[名古屋市営地下鉄東山線]]の沿線から徒歩で通えること、(2).近隣住民の不安を招かないように住宅地ではなく大通り沿いであることの2つが条件であった{{sfn|クレシ|2021|p=249}}。名古屋大学の最寄り駅だった[[本山駅 (愛知県)|本山駅]]から順に1駅ずつ土地探しが続けられ、土地探しが始まってから4年後の1997年にこれらの2つの条件に合致する土地が見つかった{{sfn|クレシ|2020|p=33}}。
建設用地探しと並行してモスク設立のための募金活動も行われていた。募金活動は日本の国内外で10年にわたり行われ、その結果、最終的には土地購入と建築に必要な約6780 万円を調達した{{sfn|朝日新聞|1998|p=3}}{{sfn|クレシ|2021|p=249}}。

1997年4月には名古屋イスラム協会に名古屋モスクプロジェクトが組織され、その責任委員としてAを含むパキスタン人など7人が選出された{{sfn|クレシ|2020|pp=32, 33}}。
また、この頃には、1990年に開設されたモスク基金口座にすでに約1200万円が集っていた{{sfn|クレシ|2020|p=33}}が、国内外のムスリムや諸団体に寄付を募るため、会員が奔走し、最終的には土地購入と建築に必要な約6780 万円を調達した{{sfn|クレシ|2020|p=33}}{{sfn|クレシ|2021|p=249}}。

法人登記されていない団体は、法律上の権利義務の主体になれない<ref name="文化庁月報540">{{cite journal|author=文化庁文化部宗務課| title= 解説 宗教法人制度の概要と宗務行政の現|journal=文化庁月報|year=2013|number=540|publisher=文化庁|url=https://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2013_09/special_04/special_04.html|access-date=2022-05-15|ref="文化庁月報540"}}</ref>ため、土地の売買契約は、名古屋モスクプロジェクト責任委員のうち3人が共同名義で締結した{{sfn|クレシ|2020|p=33}}。


1997年12月10日に愛知県安城市の東海ハウスによってモスクの建設が着工し、翌年1998年7月1日にモスクが完成した{{sfn|クレシ|2020|p=33}}。7月24日にモスクの完成記念式典が行われた。この式典には30人ほどのムスリムが参列した{{sfn|朝日新聞|1998|p=3}}。また、[[サウジアラビア]]の[[マッカ]]にある[[マスジド・ハラーム]]の[[イマーム]]{{Refnest|group="注釈"|イマームとはイスラームにおける宗教指導者。一般的には礼拝の手本を示す導師を指す{{sfn|松本|2002|p=248}}。}}であるシャリーク・ビン・フマイドや駐日サウジアラビア大使も参列した{{sfn|桜井|2004|p=114}}。また、完成記念式典ではサウジアラビア国王から[[カアバ]]の[[キスワ]]の一片が贈られた{{sfn|クレシ|2020|p=34}}{{Refnest|group="注釈"|{{harvtxt|水谷|2010}}によると、キスワは毎年交換されることになっており、使用済みとなったものは裁断され、世界各地に送られてイスラームの伝播に寄与するという{{sfn|水谷|2010|p=53}}。}}。
1997年12月10日に愛知県安城市の東海ハウスによってモスクの建設が着工し、翌年1998年7月1日にモスクが完成した{{sfn|クレシ|2020|p=33}}。7月24日にモスクの完成記念式典が行われた。この式典には30人ほどのムスリムが参列した{{sfn|朝日新聞|1998|p=3}}。また、[[サウジアラビア]]の[[マッカ]]にある[[マスジド・ハラーム]]の[[イマーム]]{{Refnest|group="注釈"|イマームとはイスラームにおける宗教指導者。一般的には礼拝の手本を示す導師を指す{{sfn|松本|2002|p=248}}。}}であるシャリーク・ビン・フマイドや駐日サウジアラビア大使も参列した{{sfn|桜井|2004|p=114}}。また、完成記念式典ではサウジアラビア国王から[[カアバ]]の[[キスワ]]の一片が贈られた{{sfn|クレシ|2020|p=34}}{{Refnest|group="注釈"|{{harvtxt|水谷|2010}}によると、キスワは毎年交換されることになっており、使用済みとなったものは裁断され、世界各地に送られてイスラームの伝播に寄与するという{{sfn|水谷|2010|p=53}}。}}。


名古屋モスクの役員には名古屋モスクプロジェクト責任委員の7人と当時の名古屋イスラム協会の会長の合計8人が就任した{{sfn|クレシ|2020|p=34}}。設立当初名古屋モスクには礼拝の導師であるイマームが常駐しておらず、エジプト人やモーリシャス人、ウガンダ人などが短期的にイマームを務めていた{{sfn|クレシ|2020|p=35}}。2009年9月、名古屋モスクは、エジプトにある[[アル=アズハル大学|アズハル大学]]でイスラーム学を専攻し、エジプト政府からイマーム職として任命を受けたエジプト人をイマームに迎えた{{sfn|クレシ|2021|p=259}}。
名古屋モスクの役員には名古屋モスクプロジェクト責任委員の7人と当時の名古屋イスラム協会の会長の合計8人が就任した{{sfn|クレシ|2020|p=34}}。設立当初名古屋モスクには礼拝の導師であるイマームが常駐しておらず、エジプト人やモーリシャス人、ウガンダ人などが短期的にイマームを務めていた{{sfn|クレシ|2020|p=35}}。2009年9月、名古屋モスクは、エジプトにある[[アル=アズハル大学|アズハル大学]]でイスラーム学を専攻し、エジプト政府からイマーム職として任命を受けたエジプト人をイマームに迎えた{{sfn|クレシ|2021|p=259}}。


=== モスクの宗教法人化 ===
モスクの所有権は土地の売買契約を結んだ名古屋モスクプロジェクト責任委員の3人にあった。しかし、モスクの所有権は個人にあるべきではないという[[フィクフ]]があることから、所有権をモスクに移すことになった。そのため2001年8月に「宗教団体であることを証する書類」を愛知県に提出、同年12月には「宗教法人の設立に係る規則の認証」を提出し2002年2月にこれが認証、3月に宗教法人として登記された。その後同年7月に3人から宗教法人名古屋モスクにモスクの所有権が移された{{sfn|クレシ|2020|p=34}}{{Refnest|group="注釈"|名古屋モスクの宗教法人化は、神戸にある[[神戸モスク]]、東京にある[[大塚モスク]]に次いで日本国内で3番目だった<ref name="history" />{{sfn|店田|2015|p=71}}。また、当初は愛知県知事所管の宗教法人だったが、2008年に完成した岐阜モスクを支部としたことで2010年1月1日から文部科学大臣所管となった{{sfn|クレシ|2020|p=35}}。}}。
当初のモスクの所有権は土地の売買契約を結んだ名古屋モスクプロジェクト責任委員の3人にあった。しかし、モスクの所有権は個人にあるべきではないという[[フィクフ]]がある{{sfn|クレシ|2020|p=38}}ことから、所有権をモスクに移すことになった。そのためにはモスクが法人化される必要がある{{Refnest|group="注釈"|モスクが法人されていないと法律上の権利義務の主体になれない<ref name="文化庁月報540"/>ため、}}。そこで、3年分の活動実績に対する証明書類が揃った2001年8月に「宗教団体であることを証する書類」を愛知県に提出、同年12月には「宗教法人の設立に係る規則の認証」を提出した。2002年2月には愛知県より認証を受け、3月に宗教法人として登記された。その後同年7月に、モスクの所有権は、プロジェクト責任委員の3人から宗教法人名古屋モスクに移された{{sfn|クレシ|2020|p=34}}{{Refnest|group="注釈"|名古屋モスクの宗教法人化は、神戸にある[[神戸モスク]]、東京にある[[大塚モスク]]に次いで日本国内で3番目だった<ref name="history" />{{sfn|店田|2015|p=71}}。}}。

また、名古屋モスクは、当初は愛知県知事所管の宗教法人だったが、2008年に完成した岐阜モスクを支部としたことで2010年1月1日から文部科学大臣所管となった{{sfn|クレシ|2020|p=35}}{{Refnest|group="注釈"| 宗教法人の所轄官庁は、原則としてその法人の所在地の都道府県知事であるが、他の都道府県に建物を備える宗教法人などの所轄官庁は文部科学大臣である<ref name="文化庁宗教法人">{{cite web| title=概要|date=2022-03-25 |work=宗教法人と宗務行政 | publisher=文化庁|url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/shukyohojin/gaiyo.html |access-date=2022-05-15|ref="文化庁宗教法人"}}</ref>。 }}。


=== ISILによる日本人拘束事件 ===
=== ISILによる日本人拘束事件 ===
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=== 現在まで ===
=== 現在まで ===
その後、通常の金曜礼拝に集まるムスリムは300人を超えるようになり、2013年に購入したモスク裏の建物と、2017年に購入したモスク西隣の建物に分散して収容している{{sfn|クレシ|2020|p=35}}。

[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|Covid-19のパンデミック]]が始まると、名古屋モスクは2020年2月下旬から金曜礼拝を中止した。また、1日5回行われる礼拝も中止した。それまで名古屋モスクは1年中開かれており、閉鎖はモスクの開設以来初めてのことだった{{sfn|朝日新聞|2020|p=27}}。
[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|Covid-19のパンデミック]]が始まると、名古屋モスクは2020年2月下旬から金曜礼拝を中止した。また、1日5回行われる礼拝も中止した。それまで名古屋モスクは1年中開かれており、閉鎖はモスクの開設以来初めてのことだった{{sfn|朝日新聞|2020|p=27}}。


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== 運営 ==
== 運営 ==
名古屋モスクは宗教法人である名古屋イスラミックセンターによって運営されている{{sfn|朝日新聞|2019|p=22}}。設立当初、モスクの所有権は土地の売買契約を結んだ名古屋モスクプロジェクト責任委員の3人にあった。しかし、モスクは個人所有であるべきでないというフィクフがあることから、所有権をモスクに移すため2002年に宗教法人名古屋モスクとして認可を受けた。その後、モスクとしての名古屋モスクと宗教法人としての名古屋モスクの混同を防ぐため2017年に名古屋イスラミックセンターと改称された{{sfn|クレシ|2020|p=36}}。名古屋イスラミックセンターは名古屋モスクのほかに、2008年に完成した岐阜県にある岐阜モスクを運営している{{sfn|クレシ|2020|p=35}}{{sfn|店田|2015|p=70}}。また、名古屋市内の霊園を管理している{{sfn|クレシ|2020|p=28}}。
名古屋モスクは宗教法人である名古屋イスラミックセンターによって運営されている{{sfn|朝日新聞|2019|p=22}}。設立当初、モスクの所有権は土地の売買契約を結んだ名古屋モスクプロジェクト責任委員の3人にあった。しかし、モスクは個人所有であるべきでないというフィクフがあることから、所有権をモスクに移すため2002年に宗教法人名古屋モスクとして認可を受けた{{sfn|クレシ|2020|p=34}}
「名古屋モスク」という名称は、モスクとしての名古屋モスクと宗教法人としての名古屋モスクの二つの意味で使われていたが、両者の混同を防ぐため、宗教法人としての名古屋モスクは「宗教法人名古屋イスラミックセンター」と改称することになり、2017年6月27日「宗教法人名古屋イスラミックセンターして登記された{{sfn|クレシ|2020|p=36}}。名古屋イスラミックセンターは名古屋モスクのほかに、2008年に完成した岐阜県にある岐阜モスクを運営している{{sfn|クレシ|2020|p=35}}{{sfn|店田|2015|p=70}}。また、名古屋市内の霊園を管理している{{sfn|クレシ|2020|p=28}}。

2019年10月現在、名古屋イスラミックセンターの代表役員は、名古屋モスク設立当初から代表を務めているAである。4人いる責任役員は何度か入れ替わっているが、2019年10月現在は3人が日本人であり、また、2人が女性である{{sfn|クレシ|2020|p=36}}。


後述するように、当モスクの活動は多岐にわたるものの、コミュニティは建設に多額の寄付をつぎこんでおり、開設当初は常駐職員を雇う余裕はなく、モスク近くに引っ越したA夫妻がこれらの活動に対応していた{{sfn|クレシ|2021|p=250}}。事務担当の職員を雇用したのは、モスク開設から18年も後の2016 年9 月である{{sfn|クレシ|2021|p=260}}。また、礼拝の導師であるイマームも、長らく常駐の担当者がおらず、エジプト人やモーリシャス人、ウガンダ人などが短期的にイマームを務めていた{{sfn|クレシ|2020|p=35}}が、モスク開設から11年後の2009年9月にイスラーム学の専門教育を受けたエジプト人を常駐のイマームに迎えた{{sfn|クレシ|2021|p=259}}。
2019年10月現在、名古屋イスラミックセンターの代表役員は、名古屋モスク設立当初から代表を務めているパキスタン出身の男性である。4人いる責任役員は3人が日本人であり、また、2人が女性である{{sfn|クレシ|2020|p=36}}。


== 活動 ==
== 活動 ==
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名古屋モスクでは2014年8月から「中高生の会」としてムスリムの子どもに向けた集まりを開始した{{sfn|子島|服部|2019|p=63}}。のちに高校を卒業した若いムスリムも参加できるようにするため{{sfn|クレシ|2020|p=35}}、SYM (Space for Young Muslims、ヤングムスリムのためのスペース) に改称された{{sfn|子島|服部|2019|p=65}}。また、2019年からは日本語を母語としない若いムスリムを対象に「SYMにほんごクラブ」が開始された{{sfn|クレシ|2021|p=257}}。
名古屋モスクでは2014年8月から「中高生の会」としてムスリムの子どもに向けた集まりを開始した{{sfn|子島|服部|2019|p=63}}。のちに高校を卒業した若いムスリムも参加できるようにするため{{sfn|クレシ|2020|p=35}}、SYM (Space for Young Muslims、ヤングムスリムのためのスペース) に改称された{{sfn|子島|服部|2019|p=65}}。また、2019年からは日本語を母語としない若いムスリムを対象に「SYMにほんごクラブ」が開始された{{sfn|クレシ|2021|p=257}}。


名古屋モスクは見学者も受け入れており、年間300人から400人ほどが訪れている{{sfn|朝日新聞|2019|p=22}}。モスクの見学は2014年までは年に数十人程度であったが、2014年にモスクのウェブサイトに見学者受け入れの案内を掲載してからは見学者が増加したという{{sfn|クレシ|2020|p=35}}{{Refnest|group="注釈"|{{harvtxt|クレシ|2020}}は、日本人に向けた発信に注力していることは名古屋モスクの大きな特色であるとしている{{sfn|クレシ|2020|p=35}}。また、{{harvtxt|店田|2015}}は、日本語で充実した情報があり、日本社会への発信を意図していることがうかがえるとするウェブサイトのひとつに名古屋モスクを挙げている{{sfn|店田|2015|p=90}}。}}。また、教育機関や自治体、企業での講義、地域との交流、他宗教との交流や自治体との連携を行っているという{{sfn|クレシ|2021|p=260}}。このほか、入り口にはモスクの設立経緯やイスラームについての説明を記したパンフレットを置いている。このことから{{harvtxt|桜井|2004}}は、日本人にも理解してもらうための工夫を行っているとしている{{sfn|桜井|2004|p=122}}。
名古屋モスクは見学者も受け入れており、年間300人から400人ほどが訪れている{{sfn|朝日新聞|2019|p=22}}。モスクの見学は2014年までは年に数十人程度であったが、2014年にモスクのウェブサイトに見学者受け入れの案内を掲載してからは見学者が増加したという{{sfn|クレシ|2020|p=35}}{{Refnest|group="注釈"|{{harvtxt|クレシ|2020}}は、日本人に向けた発信に注力していることは名古屋モスクの大きな特色であるとしている{{sfn|クレシ|2020|p=35}}。また、{{harvtxt|店田|2015}}は、日本語で充実した情報があり、日本社会への発信を意図していることがうかがえるとするウェブサイトのひとつに名古屋モスクを挙げている{{sfn|店田|2015|p=90}}。}}。また、入り口にはモスクの設立経緯やイスラームについての説明を記したパンフレットを置いている。このことから{{harvtxt|桜井|2004}}は、日本人にも理解してもらうための工夫を行っているとしている{{sfn|桜井|2004|p=122}}。


名古屋モスクには宗派のこだわりはなく、ムスリムでさえあれば良いため、[[シーア派]]の信者も利用するという{{sfn|店田|岡井|2008|p=51}}。
名古屋モスクには宗派のこだわりはなく、ムスリムでさえあれば良いため、[[シーア派]]の信者も利用するという{{sfn|店田|岡井|2008|p=51}}。

2022年5月15日 (日) 13:55時点における版

名古屋モスク
名古屋モスク 地図
基本情報
所在地 愛知県名古屋市中村区本陣通2丁目26番地7号[1]
座標 北緯35度10分38.7秒 東経136度52分16.1秒 / 北緯35.177417度 東経136.871139度 / 35.177417; 136.871139座標: 北緯35度10分38.7秒 東経136度52分16.1秒 / 北緯35.177417度 東経136.871139度 / 35.177417; 136.871139
宗教 イスラム教
ウェブサイト 公式ウェブサイト
建設
形式 モスク
施工 東海ハウス
着工 1997年12月10日
完成 1998年7月1日
建設費 約4470万円[2]
建築物
ミナレット 2[3]
資材 鉄筋コンクリート
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名古屋モスク(なごやモスク)は、日本愛知県名古屋市にあるモスクであり、1998年に開設された。

名古屋モスクは4階建ての鉄筋コンクリート製の建物である。2階に女性用礼拝室、3階と4階に男性用礼拝室が設けられている。また、名古屋モスクは礼拝といった宗教活動のほかに、イスラームにまつわる資料の配布や見学者の受け入れを行っている。このほか、女性や若いムスリムを対象とする勉強会やお茶会を開いている。

名古屋モスクの母体となったのは、イスラーム諸国からの留学生らによって1987年1月に設立された「名古屋イスラム協会」である[4]。彼らは名古屋市内のアパートを借りて礼拝所としていたが、外国人が集まったことがアパートや近隣の住民の不安を招き、たびたびアパートを追い出されてそのたびに別のアパートを借りるなど礼拝所を転々としていた[5][4]。そこで、自前のモスクを設立する機運が高まり、各所からの寄付金を得て1998年7月にモスクが完成した。

所在地

名古屋モスクは愛知県名古屋市中村区本陣通2丁目に位置している[5]名古屋市営地下鉄東山線本陣駅から徒歩6分で、片側2車線の大通りである外堀通に面している[6]

歴史

名古屋におけるイスラーム

かつて名古屋にはタタール人を中心として1936年に設立された名古屋モスクというモスクが存在した。このモスクは神戸モスクに次ぐ日本国内2つ目のモスクであったが、1945年に空襲によって焼失した[7]。およそ50人いた名古屋在住のタタール人もほとんどが名古屋を離れており、モスクが再建されることはなかった。その後、1980年代に至るまで、名古屋においてムスリムのコミュニティが存在した記録はない[8]

名古屋イスラム協会の設立

1980年代に入ると名古屋においてイスラーム諸国からの留学生が増加した[9]。留学生たちは、1986年年頭から名古屋大学の空き教室を利用して金曜礼拝を行っていた。しかし、大学により学内での宗教活動を禁止され、教室の利用が出来無くなった[9]。そこで彼らはイスラミックセンター・ジャパンに、アパートを借りるための資金援助を依頼した[9]。その後イスラミックセンター・ジャパンの理事や名古屋市外の留学生など200人が参加した会合が開かれ、その場でイスラミックセンター・ジャパンによる賃料補助が約束され、1987年1月、名古屋ムスリム学生協会(Muslim Student Association of Nagoya)が結成された[9]。名古屋ムスリム学生協会は1988年に「名古屋イスラム協会」と改名される[9]。名古屋イスラム協会は1988年頃に名古屋大学に隣接するアパートの一室を借りてムサッラー(一時的礼拝所)[注釈 1]とした[9]。この時は留学生の名義では賃貸を断られ、当時のコミュニティに所属していた唯一の日本人が名義人となって借りることができた[9]

しかし、1990年にはその日本人がコミュニティを去ったため、アパートの更新契約ができなくなった。そこで、この頃コミュニティに参加し始めたパキスタン出身の自営業者Aが、やはり名古屋大学に隣接する別のアパートを自分の会社名義で契約し、新たなムサッラーとした[11]。この時期にAは、会社を名古屋イスラム協会の連絡先とし、結婚や入信などに必要なイスラミックセンター・ジャパンの証明書の取次も行い、またハラールに則って処理された肉(ハラール肉)を販売するなど、コミュニティを積極的にサポートするようになっていく[11]。 この頃、1990年末にはモスク設立のための基金口座が開設され、2年で300万円ほどが集まっている[12]

しかしその後、湾岸戦争によるイスラームへの偏見が高まり、警察の訪問が度重なったこともあって、1992年明けにアパートからの退去を通告されたため、再び別の場所が必要になった[6]。3ヶ月近い物件探しの末、名古屋大学から2駅離れたビルの一室をAの会社名義で借りることになった[6]。このムサッラーでは、礼拝の他、アラビア語やハディースの勉強会や食事会なども行なわれ、ムスリムの外国人男性を中心としたコミュニティが形成されて行く[4]。また、金曜礼拝には70人から80人ほどが参加しており、礼拝スペースが足りなかった[5]。この新しい物件は賃料は高額だったが室内は狭く、そのうえ立地も不便であった[4]。しかし、他に選択肢はなく、その後6年ほど、この場所をムサッラーとして使用していた[6]

こうした諸事情を受けて、永続利用が可能なモスクを設立する機運が高まり[13]、1993年にはモスク建設用の土地探しが始まった[6]

名古屋モスクの設立

第二次世界大戦後に日本で設立されたモスクは、工場やコンビニエンスストアなどの中古物件を買い取り、それをモスクに改築するという手法が主流だった。しかし、モスク設立の中心になったAは、モスクとしての新築にこだわった[14][2]

モスクの候補地としては、(1).留学生の利便を考え、名古屋大学から移動しやすい名古屋市営地下鉄東山線の沿線から徒歩で通えること、(2).近隣住民の不安を招かないように、住宅地ではなく大通り沿いであること、の2つが条件であった[14]。名古屋大学の最寄り駅だった本山駅から順に1駅ずつ土地探しが続けられ、土地探しが始まってから4年後の1997年にこれらの2つの条件に合致する土地が見つかった[6]

建設用地探しと並行してモスク設立のための募金活動も行われていた。募金活動は日本の国内外で10年にわたり行われ、その結果、最終的には土地購入と建築に必要な約6780 万円を調達した[5][14]

1997年4月には名古屋イスラム協会に名古屋モスクプロジェクトが組織され、その責任委員としてAを含むパキスタン人など7人が選出された[12]。 また、この頃には、1990年に開設されたモスク基金口座にすでに約1200万円が集っていた[6]が、国内外のムスリムや諸団体に寄付を募るため、会員が奔走し、最終的には土地購入と建築に必要な約6780 万円を調達した[6][14]

法人登記されていない団体は、法律上の権利義務の主体になれない[15]ため、土地の売買契約は、名古屋モスクプロジェクト責任委員のうち3人が共同名義で締結した[6]

1997年12月10日に愛知県安城市の東海ハウスによってモスクの建設が着工し、翌年1998年7月1日にモスクが完成した[6]。7月24日にモスクの完成記念式典が行われた。この式典には30人ほどのムスリムが参列した[5]。また、サウジアラビアマッカにあるマスジド・ハラームイマーム[注釈 2]であるシャリーク・ビン・フマイドや駐日サウジアラビア大使も参列した[17]。また、完成記念式典ではサウジアラビア国王からカアバキスワの一片が贈られた[2][注釈 3]

名古屋モスクの役員には名古屋モスクプロジェクト責任委員の7人と、当時の名古屋イスラム協会の会長の合計8人が就任した[2]。設立当初の名古屋モスクには礼拝の導師であるイマームが常駐しておらず、エジプト人やモーリシャス人、ウガンダ人などが短期的にイマームを務めていた[19]。2009年9月、名古屋モスクは、エジプトにあるアズハル大学でイスラーム学を専攻し、エジプト政府からイマーム職として任命を受けたエジプト人をイマームに迎えた[20]

モスクの宗教法人化

当初のモスクの所有権は、土地の売買契約を結んだ名古屋モスクプロジェクト責任委員の3人にあった。しかし、モスクの所有権は個人にあるべきではないというフィクフがある[21]ことから、所有権をモスクに移すことになった。そのためにはモスクが法人化される必要がある[注釈 4]。そこで、3年分の活動実績に対する証明書類が揃った2001年8月に「宗教団体であることを証する書類」を愛知県に提出、同年12月には「宗教法人の設立に係る規則の認証」を提出した。2002年2月には愛知県より認証を受け、3月に宗教法人として登記された。その後同年7月に、モスクの所有権は、プロジェクト責任委員の3人から宗教法人名古屋モスクに移された[2][注釈 5]

また、名古屋モスクは、当初は愛知県知事所管の宗教法人だったが、2008年に完成した岐阜モスクを支部としたことで2010年1月1日から文部科学大臣所管となった[19][注釈 6]

ISILによる日本人拘束事件

2015年1月末、名古屋モスクは、ISILを「イスラム国」と呼称していることがイスラームのイメージを不当に損なっているとして、日本国内10か所以上のモスクの代表者とともに「イスラム国」ではなく「ISIS」や「ISIL」、「ダーイッシュ」という呼称を用いるよう報道機関に求める発表を行った[25]

2015年2月1日にISILによる日本人拘束事件においてジャーナリストである後藤健二が殺害される映像が公開された。同日、名古屋モスクには「日本の敵だ」と書かれた電子メールが送られたほか、「日本から出ていけ」「お前らはゴミだ」と語る電話が5、6件かけられた[26][注釈 7]。また、インターネットでは「モスクを燃やしてやる」という書き込みが行われた。安田 (2015)によると、これを受けて名古屋モスクは火災保険に加入したという[27]

現在まで

その後、通常の金曜礼拝に集まるムスリムは300人を超えるようになり、2013年に購入したモスク裏の建物と、2017年に購入したモスク西隣の建物に分散して収容している[19]

Covid-19のパンデミックが始まると、名古屋モスクは2020年2月下旬から金曜礼拝を中止した。また、1日5回行われる礼拝も中止した。それまで名古屋モスクは1年中開かれており、閉鎖はモスクの開設以来初めてのことだった[28]

建築

名古屋モスクの礼拝室

名古屋モスクは、61.7平方メートルの敷地に建てられた、あずき色をした4階建ての鉄筋コンクリート製の建物である[5][17]。ビルの形式をとったモスクは日本特有のものであるという[29]。モスクには2本のミナレットが備えられている[30][31]。1階が事務所とウドゥのための水場、2階が女性用の礼拝室、3階と4階が男性用の礼拝室となっている[32][注釈 8]。各階60人ほどを収容できる[30]。女性用の礼拝室を設けたことは当時のモスクとしては珍しいことだった。また、当初は女性用の礼拝室は4階だったが、子どもを連れた母親が階段を上る負担を考慮して2階に変更された[14]

モスクの開設当初は礼拝室は余裕があったが、モスクの利用者の増加によって金曜礼拝時にはすべてを収容しきれなくなった。そこで名古屋モスクは2013年と2017年に隣接する建物を購入した[20]。また、2019年には隣接する201.66平方メートルの土地を購入した。これによって2019年現在の名古屋モスクの敷地面積は1881.69平方メートルとなった[21]

運営

名古屋モスクは宗教法人である名古屋イスラミックセンターによって運営されている[30]。設立当初、モスクの所有権は土地の売買契約を結んだ名古屋モスクプロジェクト責任委員の3人にあった。しかし、モスクは個人所有であるべきでないというフィクフがあることから、所有権をモスクに移すため2002年に宗教法人名古屋モスクとして認可を受けた[2]。 「名古屋モスク」という名称は、モスクとしての名古屋モスクと宗教法人としての名古屋モスクの二つの意味で使われていたが、両者の混同を防ぐため、宗教法人としての名古屋モスクは「宗教法人名古屋イスラミックセンター」と改称することになり、2017年6月27日に「宗教法人名古屋イスラミックセンター」として登記された[33]。名古屋イスラミックセンターは名古屋モスクのほかに、2008年に完成した岐阜県にある岐阜モスクを運営している[19][34]。また、名古屋市内の霊園を管理している[35]

2019年10月現在、名古屋イスラミックセンターの代表役員は、名古屋モスク設立当初から代表を務めているAである。4人いる責任役員は何度か入れ替わっているが、2019年10月現在は3人が日本人であり、また、2人が女性である[33]

後述するように、当モスクの活動は多岐にわたるものの、コミュニティは建設に多額の寄付をつぎこんでおり、開設当初は常駐職員を雇う余裕はなく、モスク近くに引っ越したA夫妻がこれらの活動に対応していた[36]。事務担当の職員を雇用したのは、モスク開設から18年も後の2016 年9 月である[37]。また、礼拝の導師であるイマームも、長らく常駐の担当者がおらず、エジプト人やモーリシャス人、ウガンダ人などが短期的にイマームを務めていた[19]が、モスク開設から11年後の2009年9月にイスラーム学の専門教育を受けたエジプト人を常駐のイマームに迎えた[20]

活動

2019年現在、名古屋モスクは礼拝のほか、イスラームにまつわる資料の配布や入信の手続き、アラビア語教室や講演、勉強会を行っている[30]。2019年までに名古屋モスクは1,041件の入信の手続きを、700件の結婚を執り行った[20]。このほか、女性を中心とする日本人ムスリムによるお茶会が行われている[32]。お茶会は名古屋モスク設立前の1994年に始まった。そこではハラール食材の入手方法や保育園・幼稚園の給食対応などにまつわる情報交換や、文化的・宗教的なギャップに関する悩みの吐露が行われていたという[38]。名古屋モスク開設以降はモスクの2階に場所が移された[36]

名古屋モスクでは2014年8月から「中高生の会」としてムスリムの子どもに向けた集まりを開始した[39]。のちに高校を卒業した若いムスリムも参加できるようにするため[19]、SYM (Space for Young Muslims、ヤングムスリムのためのスペース) に改称された[40]。また、2019年からは日本語を母語としない若いムスリムを対象に「SYMにほんごクラブ」が開始された[41]

名古屋モスクは見学者も受け入れており、年間300人から400人ほどが訪れている[30]。モスクの見学は2014年までは年に数十人程度であったが、2014年にモスクのウェブサイトに見学者受け入れの案内を掲載してからは見学者が増加したという[19][注釈 9]。また、入り口にはモスクの設立経緯やイスラームについての説明を記したパンフレットを置いている。このことから桜井 (2004)は、日本人にも理解してもらうための工夫を行っているとしている[43]

名古屋モスクには宗派のこだわりはなく、ムスリムでさえあれば良いため、シーア派の信者も利用するという[29]

アクセス

脚注

注釈

  1. ^ モスクは礼拝専用場所であるが、ムサッラーとは家屋や事務所の1区画を必要に応じて礼拝場所とするもの、とされる [10]
  2. ^ イマームとはイスラームにおける宗教指導者。一般的には礼拝の手本を示す導師を指す[16]
  3. ^ 水谷 (2010)によると、キスワは毎年交換されることになっており、使用済みとなったものは裁断され、世界各地に送られてイスラームの伝播に寄与するという[18]
  4. ^ モスクが法人されていないと法律上の権利義務の主体になれない[15]ため、
  5. ^ 名古屋モスクの宗教法人化は、神戸にある神戸モスク、東京にある大塚モスクに次いで日本国内で3番目だった[22][23]
  6. ^ 宗教法人の所轄官庁は、原則としてその法人の所在地の都道府県知事であるが、他の都道府県に建物を備える宗教法人などの所轄官庁は文部科学大臣である[24]
  7. ^ 同日、同じく愛知県の一宮市にあるモスクである尾張一宮マスジドには「キル・ユー・イスラム」と語る電話がかけられた[26]
  8. ^ 3階にマッカの方向であるキブラを示すミフラーブが設けられている[2]
  9. ^ クレシ (2020)は、日本人に向けた発信に注力していることは名古屋モスクの大きな特色であるとしている[19]。また、店田 (2015)は、日本語で充実した情報があり、日本社会への発信を意図していることがうかがえるとするウェブサイトのひとつに名古屋モスクを挙げている[42]

出典

  1. ^ 名古屋イスラミックセンター”. 名古屋モスク. 2022年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月30日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g クレシ 2020, p. 34.
  3. ^ 店田 2015, p. 26.
  4. ^ a b c d クレシ 2021, p. 246.
  5. ^ a b c d e f 朝日新聞 1998, p. 3.
  6. ^ a b c d e f g h i j クレシ 2020, p. 33.
  7. ^ 店田 2015, p. 24.
  8. ^ a b クレシ 2020, p. 30.
  9. ^ a b c d e f g クレシ 2020, p. 31.
  10. ^ クレシ 2021, p. 262.
  11. ^ a b クレシ 2020, p. 32.
  12. ^ a b クレシ 2020, pp. 32, 33.
  13. ^ クレシ 2021, p. 248.
  14. ^ a b c d e クレシ 2021, p. 249.
  15. ^ a b 文化庁文化部宗務課 (2013). “解説 宗教法人制度の概要と宗務行政の現”. 文化庁月報 (文化庁) (540). https://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2013_09/special_04/special_04.html 2022年5月15日閲覧。. 
  16. ^ 松本 2002, p. 248.
  17. ^ a b 桜井 2004, p. 114.
  18. ^ 水谷 2010, p. 53.
  19. ^ a b c d e f g h クレシ 2020, p. 35.
  20. ^ a b c d クレシ 2021, p. 259.
  21. ^ a b クレシ 2020, p. 38.
  22. ^ 名古屋モスクの歴史”. 名古屋イスラミックセンター. 2022年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月30日閲覧。
  23. ^ 店田 2015, p. 71.
  24. ^ 概要”. 宗教法人と宗務行政. 文化庁 (2022年3月25日). 2022年5月15日閲覧。
  25. ^ 毎日新聞 2015, p. 7.
  26. ^ a b 朝日新聞 2015, p. 34.
  27. ^ 安田 2015, pp. 44, 45.
  28. ^ 朝日新聞 2020, p. 27.
  29. ^ a b 店田 & 岡井 2008, p. 51.
  30. ^ a b c d e 朝日新聞 2019, p. 22.
  31. ^ 店田 2015, p. 31.
  32. ^ a b 三木 2012, p. 894.
  33. ^ a b クレシ 2020, p. 36.
  34. ^ 店田 2015, p. 70.
  35. ^ クレシ 2020, p. 28.
  36. ^ a b クレシ 2021, p. 250.
  37. ^ クレシ 2021, p. 260.
  38. ^ クレシ 2021, pp. 247, 248.
  39. ^ 子島 & 服部 2019, p. 63.
  40. ^ 子島 & 服部 2019, p. 65.
  41. ^ クレシ 2021, p. 257.
  42. ^ 店田 2015, p. 90.
  43. ^ 桜井 2004, p. 122.
  44. ^ a b c 名古屋モスクへの交通アクセス”. 名古屋イスラミックセンター. 2022年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月1日閲覧。

参考文献

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  • 「(訪ねてみました)名古屋モスク 名古屋市」『朝日新聞』朝日新聞社、2019年6月14日、朝刊、愛知版、22面。
  • 「集団礼拝なくなり、途絶えた交流 外国人信者ら、教会・モスク集まれず」『朝日新聞』朝日新聞社、2020年5月14日、朝刊、27面。
  • 「名古屋モスク:脅迫電話、「後藤さん殺害」で相次ぐ 「過激派と無関係」イスラム教徒」『毎日新聞毎日新聞社、2015年2月5日、夕刊、中部版、7面。
  • クレシ サラ好美「名古屋におけるムスリムコミュニティの様相 -戦前期と現代のモスク設立の動きを中心に-」『人間科学研究』第33巻第1号、早稲田大学人間科学学術院、2020年、27-38頁、hdl:2065/00080641ISSN 1880-0270 
  • クレシ サラ好美「名古屋におけるムスリムコミュニティの様相 ―モスクの活動および日本人女性による自主活動の展開―」『グローバル・コンサーン』第3巻、2021年、244-264頁、doi:10.34594/globalconcern.3.0_244 
  • 桜井啓子『日本のムスリム社会』筑摩書房ちくま新書〉、2004年。ISBN 4-480-06120-7 
  • 店田廣文『日本のモスク』山川出版社〈イスラームを知る〉、2015年。ISBN 978-4-634-47474-1 
  • 店田廣文、岡井宏文「日本のモスク調査1 ―イスラーム礼拝施設の調査記録―」、早稲田大学人間科学学術院 アジア社会論研究室、2008年。 
  • 子島進、服部美奈「在日ムスリムによる地域交流─モスクでの聞き取り調査から」『アジア文化研究所研究年報』第53巻、アジア文化研究所、2019年、54-66頁、ISSN 1880-1714CRID 10508457638040913922022年5月5日閲覧 
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  • 三木英「宗教的ニューカマーと地域社会:外来宗教はホスト社会といかなる関係を構築するのか」『宗教研究』第85巻第4号、2012年、879-904頁、doi:10.20716/rsjars.85.4_879 
  • 水谷周『イスラーム建築の心―マスジド』国書刊行会〈イスラーム信仰叢書〉、2010年。ISBN 978-4-336-05208-7 
  • 安田浩一『ヘイトスピーチ「愛国者」たちの憎悪と暴力』文藝春秋文春新書〉、2015年。ISBN 978-4-16-661027-3 

外部リンク