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'''マント事件'''(マントじけん)とは、[[菊池寛]]が[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]3年生だった[[1913年]]([[大正]]2年)に、友人の[[佐野文夫]]の身代わりとなって同校を[[退学]]となった事件<ref name="takeshi-1-2">「第一編 菊池寛の生涯 二、青春放浪時代」({{Harvnb|小久保|2018|pp=31-50}})</ref><ref name="kawanishi-15-2">「第十五章 菊池寛『文藝春秋』を創刊 〈2〉-〈7〉」({{Harvnb|文壇史|2010|pp=46-64}})</ref><ref name="asai2">「学生時代――友と友の間」({{Harvnb|アルバム菊池|1994|pp=16-27}})</ref><ref name="jijo">「半自叙伝」([[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] 1928年12月号、1929年1月号)。{{Harvnb|菊池・随想23|1995|pp=41-48}}に所収</ref>。菊池寛のその後の人生観や運命が大きく左右されることとなった出来事である<ref name="takeshi-1-2"/><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="saeki">[[佐伯彰一]]「『劇的人間』のドラマチックな青春」({{Harvnb|菊池・評論22|1995|pp=632-648}})</ref><ref name="katayama">[[片山宏行]]「《菊池寛文学のおもしろさ》作品のうしろ影 十」({{Harvnb|菊池・感想24|1995}}月報「菊池寛全集通信・18」pp.1-9)</ref>。
'''マント事件'''(マントじけん)は、[[1912年]]に[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]](一高)に在学していた[[菊池寛]]が、友人の身代わりとなって同校を[[退学]]となった事件。
{{ウィキポータルリンク|文学}}

== 事件の発端 ==
== 事件の発端 ==
=== 佐野のデート ===
1912年4月、菊池寛の親しい友人で同級生の[[佐野文夫]]は、[[日本女子大学|日本女子大学校]]<!---当時は正式な大学ではなく、専門学校の扱いだったので「大学校」が正式名称--->に通う倉田艶子([[倉田百三]]の妹)とのデートに、一高のシンボルである[[マント]]を着ていきたいと思ったが、自分のマントは質入れしていたため、他人のものを黙って着て行き、返さずにいた。二日ほど後、佐野と菊池は金に窮してマントを質入れすることにした。しかしそのマントはすでに盗難届が出されていたため、その夜、菊池は寄宿舎の舎監に呼び出された。しかし佐野は不在であり、菊池は親友を守るため、その場は自分が盗んだことにして退出した<ref name="repo1">[[関口安義]]「[http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/bitstream/trair/285/1/KJ00005220920.pdf 反骨の教育家 評伝 長崎太郎 II」]『都留文科大学研究紀要 第64集』2006年</ref>。その後帰寮した佐野に菊池がマントの件を質すと、佐野は親や親戚に合わせる顔がないと泣き出した<ref name="repo1"/>。
[[1913年]](大正2年)4月、当時[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]文科3年の菊池寛の親しい同級生の中に同じ南寮8号部屋の[[佐野文夫]]がいた<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="sugi2">「好色」({{Harvnb|杉森|1987|pp=50-85}})</ref>。菊池は一高に入学した当初から、同じクラスの佐野の天才ぶりに惹かれ、その自信満々な明晰な湿りのある声で先生と対等に話す姿に感銘して以来、積極的に佐野に近づいていき友人関係を深めていた<ref name="jijo"/><ref name="aoki">「青木の出京」([[中央公論]] 1918年11月号)。{{Harvnb|菊池・短編小説2|1993|pp=247-266}}に所収</ref><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="sugi2"/>。

3年生当時の佐野は、独法科の[[倉田百三]]から紹介された妹の倉田艶子と交際していた<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/>。[[日本女子大学|日本女子大学校]]<!---当時は正式な大学ではなく、専門学校の扱いだったので「大学校」が正式名称--->に通う艶子は18歳で、寮には佐野宛の艶子からの桃色の封筒がよく届いていた<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/>{{refnest|group="注釈"|一高の『校友会雑誌』227号(大正2年6月15日号)には「草名数之助」という筆名による倉田艶子の「なつかしき幹」と題する短歌25首(佐野への恋歌など)が掲載されたこともあった<ref name="kawanishi-15-2"/>。}}

4月のある日、佐野は艶子との[[戸山 (新宿区)|戸山ヶ原]]でのデートに、一高のシンボルである[[マント]]を着ていきたいと思ったが、自分のマントは質入れしていたため、同室の佐藤のマントを借りて試着した<ref name="jijo"/><ref name="sugi2"/>。しかしそのマントは丈が少し長すぎ、気取り屋の佐野には気に入らなかった<ref name="jijo"/><ref name="sugi2"/>。

佐藤にマントを返した佐野は、部屋を出てからしばらくして違うマントを着て自室に戻ってきて、そのまま艶子とのデートに出かけて行った<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="sugi2"/>。デートが終って、その日はそれで何ごともなく済んだが、他人のものを黙って持ち出してきたそのマントを、佐野はそのまま返さずにいた<ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="sugi2"/>。

=== マントの質入れ ===
2日ほど後、佐野と菊池は金に窮してそのマントを一時[[質屋|質入れ]]することにした。佐野は菊池にマントのことを、同県人の先輩大学生の黒田から借りたものと言っていた<ref name="jijo"/><ref name="takeshi-1-2"/>。日頃から自分の蒲団などを質入れしていた菊池は、白昼堂々そのマントを着て質屋に行った<ref name="jijo"/><ref name="takeshi-1-2"/>。普段はマントなど着たことのない菊池が珍しくマントを着て校門を出て、帰りは手ぶらで戻ってきた姿は人目に付いた<ref name="takeshi-1-2"/>。

その夜、[[成瀬正一 (フランス文学者)|成瀬正一]]とトランプをしていた菊池は、寄宿舎の生徒監の谷山初七郎に呼び出された<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="takeshi-1-2"/>。菊池が質入れしたマントは盗難届が出されていたもので、北寮の1年生の部屋から紛失していたものだった<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="takeshi-1-2"/>。谷山や大沼という年配の体育教師にマントの入手先を問い詰められた菊池は自分の嫌疑を晴らしたかったが、佐野は郷里の人を東京案内していて不在であった<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="takeshi-1-2"/>。

とりあえず菊池は親友を守るため(佐野に会ってから真相を確かめてから善後策を講じようと思い)、その場は自分が盗んだことにして寮務室を出ることを考えた<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="takeshi-1-2"/><ref name="repo1">{{Harvnb|関口|2006}}</ref>。一高名物の[[体罰|鉄拳制裁]]が怖かった菊池は、自分が殴られるか大沼先生に聞くと、退学となれば制裁は受ける必要はないと言われ、「じゃとにかく僕がしたことにしましょう」と退出した<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="takeshi-1-2"/>。

=== 菊池の自己犠牲 ===
その夜遅くに帰寮した佐野に菊池がマントの件を質すと、佐野は「どうしよう。どうしよう」と蒼白になり、親や親戚に合わせる顔がないと悲鳴をあげて泣き出した<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="takeshi-1-2"/><ref name="repo1"/>。佐野の父・[[佐野友三郎]]は[[図書館学者]]として有名で、長男の佐野に不祥事があれば[[山口県立山口図書館]]長の職を辞するおそれがあった<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/>。佐野は、クリスチャンの父の勧めで子供の頃に教会に通ったこともあった<ref name="kawanishi-15-2"/>。

色白の佐野は眉目秀麗で頭脳明晰な秀才のため華やかな存在であったが、性格的には脆弱で病的な盗癖の持主でもあった<ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="saeki"/>。菊池は、天才的でもあった佐野のことを、「落着いた頭のいゝ男であるが、どこか狂的な火のやうなものを持つてゐた」とのちに語っている<ref name="jijo-b">「半自叙伝」(文藝春秋 1928年10月号)。{{Harvnb|菊池・随想23|1995|pp=34-37}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|1年生の頃に菊池と佐野が一緒に[[国立国会図書館支部上野図書館|国立上野図書館]]に行った時、インキ壺を持っている佐野が玄関入り口のところで門衛に咎められると、怒って感情的になった佐野がいきなり持っていたインキ壺を足下に投げつけたこともあった<ref name="jijo-b"/>。壺は割れ散乱したインキでそこら中が汚れたため、佐野は[[建造物等損壊罪|建造物毀損]]として危うく上野図書館の出入り禁止処分になるところだったという<ref name="jijo-b"/>。}}。菊池は泣きじゃくる親友の佐野を見て、そのまま自分が罪をかぶることを決意した<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="takeshi-1-2"/><ref name="repo1"/>。菊池は、佐野や他の同級生より4歳も年上で親分気質なところがあり<ref name="kawanishi-15-2"/>、一高を卒業しても大学に行く学資金の当てもなく、やや自棄的な気持にもなっていた<ref name="jijo"/><ref name="repo1"/>。

5年後、この出来事をモデルにした短編小説「青木の出京」を執筆した菊池は、「ロマンチックな感激と、センチメンタルな陶酔――それらのものを雄吉は、後年どれだけ後悔し、どれだけ憎んだかわからないが――とで、彼の心はいつぱいになつた。(中略)俺は一人の天才、一人の親友を救ふといふ英雄的行動を、あへてなした勇士のごとき心持で」と、そのときの心情を主人公に語らせ<ref name="aoki"/>、その後の随筆「半自叙伝」でも、自身本来の情熱的な気質に触れている<ref name="jijo"/>。
{{Quotation|私は、高等師範を青年客気の情熱の赴くままに、行動して出されたが一高もやはりさうであつた。しかも、なけなしの学資、借金をして送つてくれる毎月の学資を使ひながら、私は真面目な学問一方の学生にはなれないのだつた。かう云ふことを考へると、私は今でこそ理知的であるとか悧巧者だとか云はれてゐるが、私のどこかに情熱的な出鱈目なところがあるのである。|菊池寛「半自叙伝」<ref name="jijo"/>}}

また、菊池は佐野に対して[[同性愛]]的慕情も抱いていたため、愛する佐野を庇うため自らが犠牲になる道を選んだ面もあった<ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="sugi2"/>。菊池自身はそれを特に語ってはいないが、菊池の同性愛とマント事件の関わりについては、友人の[[久米正雄]]や<ref name="kume">[[久米正雄]]「同性恋愛の宣伝者(菊池寛氏の印象)」([[新潮]] 1919年1月号)。{{Harvnb|文壇史|2010|p=46}}、{{Harvnb|杉森|1987|pp=68-69}}に抜粋掲載</ref><ref name="kawanishi-15-2"/>、知人の[[江口渙]]も触れており<ref name="eguchi">「その頃の菊池寛 一 はじめて菊池寛をたずねる」({{Harvnb|江口|1995|pp=109-124}})</ref>、この事件を論文などで取り上げた[[東條文規]]や[[関口安義]]などからも指摘されている<ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="repo2">「菊池寛と図書館と佐野文夫」({{Harvnb|東条|2009|pp=335-354}})。初出は『香川県図書館学会会報』</ref><ref name="repo1"/>。菊池には一高以前にも同性愛的思慕の相手があり、[[香川県立高松高等学校|高松中学校]]時代に英語を教えた美少年の下級生・渋谷彰に出したラブレターや交換日記も残されている<ref name="sugi1">「恋文」({{Harvnb|杉森|1987|pp=7-49}})</ref><ref name="kawanishi-15-2"/>{{refnest|group="注釈"|日本では古くから同性愛の風習がみられ、高松中学でも上級生が下級生の美少年と兄弟の約を結ぶ風習があった<ref name="sugi1"/>。鹿児島や熊本ではこれを「[[稚児]]」と呼び、高松では「[[ペット]]」と言った<ref name="sugi1"/>。キリスト教では同性愛は罪悪であるが、日本の[[旧制中学校|旧制中学]]ではむしろ女性との交際は士気を弛緩させ堕落させるものとして厳しく罰せられた一方、男子同士の恋愛は寛大で、気節を磨く倫理的なものとしてみなされていたという<ref name="sugi1"/>。}}{{refnest|group="注釈"|渋谷彰はその後、[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国学校]][[スペイン|西班牙]]語学科に進学し、卒業後は[[三井物産]]に就職。のちに郷里の香川県[[小豆島]]で県立中学の教員となり、退職後も島で暮らして90代まで長生きし、菊池からの手紙や交換日記を大事に保管していた<ref name="sugi1"/><ref name="sugi3">「京洛」({{Harvnb|杉森|1987|pp=86-111}})</ref>。その文面には「あなたは決して僕のPではない。私の世界でたゞ一人の愛弟であります」「My dear boy」という文言もみられる<ref name="sugi1"/>。渋谷から菊池へ出した多くの返信もあったが、現在はどこにも残されていないという<ref name="sugi1"/>。}}。
{{Quotation|僕たちの高等学校時代は、忘れる事の出来ない程出鱈目な、呑気な、又{{ruby|焦々|いらいら}}した、愉快な生活をしたものだ。其時分彼(菊池寛)は同性恋愛の熱心な宣伝者だつた。彼の言に依れば、同性恋愛こそは最も神聖な、最高なる恋愛の極致であり、其関係は最も進歩したる、最も文明的なるものであつた。此の見地に学問的背景を与へるため、彼は独逸のある{{ruby|六ヶ敷|むつかし}}い研究を読んだり、同性恋愛の関する日本の古今の著書は、悉く渉猟し尽したりした。|久米正雄「同性恋愛の宣伝者(菊池寛氏の印象)」<ref name="kume"/>}}

菊池は一高入学前に、徴兵猶予のために在籍していた[[早稲田大学]]の図書館で読んだ[[井原西鶴]]全集に感激し、その中でも、とりわけ『[[男色大鑑]]』に「随喜の涙」をこぼしたほど感動を覚えていた<ref name="jijo-a">「半自叙伝」(文藝春秋 1928年9月号)。{{Harvnb|菊池・随想23|1995|pp=32-34}}に所収</ref><ref name="takeshi-1-2"/><ref name="sugi2"/>。『男色大鑑』には、男同士の義理、仁義、献身、自己犠牲などの純粋な愛情を讃美するような物語の数々が描かれ、「グライヒゲシュレヒトリヒ」(ドイツ語で「同性愛的な」の意)の傾向にあった菊池の愛読書となっていた<ref name="jijo-a"/><ref name="takeshi-1-2"/><ref name="sugi2"/>。

== 菊池の退学 ==
=== 同級生への波紋 ===
結局、菊池は抗弁しないまま、退学処分を受け入れて一高を去ることになった。菊池を慕っていた同寮の[[成瀬正一 (フランス文学者)|成瀬正一]]は菊池の突然の退学事件にショックを受け、しばらくは理由や事情の分らないまま心配をする毎日であった<ref name="naruse">成瀬正一の日記。{{Harvnb|文壇史|2010|pp=49-50,55-57}}に抜粋掲載</ref><ref name="kawanishi-15-2"/>。佐野から、菊池が大学の本科に入学できるよう高等学校検定試験を受けさせるため奔走している、と聞いていた成瀬は、「佐野の様な親切な友を持つた彼は何と幸福だらう」と勘違いして日記に綴っていた<ref name="naruse"/><ref name="kawanishi-15-2"/>。
{{Quotation|四月十六日 菊池は退学するかも知れないと言つて私共を驚かした。あの面白い彼がもう学校へ来ないようになるのは悲しい様な気がする。<br />
四月十七日 菊池はもう退学届を出してしまつた由だ。彼に去られるのは悲しい。彼は私の先輩の様な人であつた。私は彼にいろいろ教育された事もあつた。時には彼と共鳴を感じたこともある位だ。どんな事情があるのか知らないけども、私に出来る事なら何でもするから彼が復校できる事を切に願つてゐる。昨夜はねむくて、早く床へ入つたが夜中に眼があいて昂奮して、寝られなかつた。そうして彼を思つた。どうして彼は退校したのだらう。|成瀬正一「日記」<ref name="naruse"/>}}

同じく同級生だった[[長崎太郎]]は、その頃は寮生でなかったので菊池の退学の噂を学校で知った。長崎が佐野に問うと、「菊池はマントを盗み、退学になる筈だ」と答えたため、驚いて詳細や経緯の説明をさらに佐野に求めるが、菊池が破廉恥なことをしたので退学になったと言うだけで、菊池の居場所を訊ねても教えてくれなかった<ref name="kawanishi-15-2"/>。

=== 長崎太郎の奔走 ===
菊池はその後のある夜、クリスチャンの長崎を訪ねて「他言しない」条件で退学の経緯と事件の真相を告げた<ref name="kawanishi-15-2"/>。真実を長崎に語った菊池は、「俺は人間のうち誰か一人でよいから此の事実を知つて置いてもらい度いのだ。その一人に君を選んだ。総ての人が俺を泥棒と呼んでも、俺が泥棒でない事を君にだけには知つて置いてもらい度い」として、最後に「君の知る通り俺は佐野を愛して居る。その為めに俺は佐野の犠牲になるのだ」と告げたという<ref name="nagasaki">長崎太郎「吾が友菊池寛」(山口アララギ会『なぎ』1956年2月)。{{Harvnb|文壇史|2010|pp=51-53}}に抜粋掲載</ref><ref name="kawanishi-15-2"/>。

事実を知った長崎は苦悶し、再び佐野に聞くが、佐野は菊池がやったと突っぱねるだけだった<ref name="kawanishi-15-2"/>。
{{Quotation|菊池君の犠牲が彼の為めに何の益にも立つて居ない事がよくわかつた。私は深く思いなやんだ。二人は私の親しい友である。私は其の誰をも憎まぬ。何とかして両君を生かす道はないものだろうか。|長崎太郎「吾が友菊池寛」<ref name="nagasaki"/>}}

長崎は意を決し、菊池と佐野の救済を求めて校長の[[新渡戸稲造]]に相談した<ref name="takeshi-1-3">「第一編 菊池寛の生涯 三、作家修業時代」({{Harvnb|小久保|2018|pp=51-70}})</ref><ref name="repo1"/>。新渡戸からは「私にまかせてもらいたい。適当の処置を講じようから」という返答を得たが、校長を退任することがすでに決まっていたため、後任の校長となった[[瀬戸虎記]]にも長崎は事情を説明し、「善処する」という約束を取り付けた<ref name="repo1"/>。

=== 菊池の決心の固さ ===
だが、学校側に呼ばれた菊池は前言を翻すことなく、退学することとなった<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="repo1"/>。菊池がもしもこの時に自分の無実を告白すれば、学校側は菊池を復学させると同時に、佐野の罪も不問にする手筈となっていたが、菊池はその意図を知らなかった<ref name="jijo"/><ref name="takeshi-1-3"/>{{refnest|group="注釈"|しかし、前言を翻すことなく佐野の罪をかぶったままの菊池の態度は、学校当事者たちに感銘を与えた<ref name="takeshi-1-3"/>。特に[[新渡戸稲造]]は「一高の入学を志願した感心な前科者」と題する文章を同年5月に『実業之日本』に寄稿し、自身の在職中に最も感銘を受けたエピソードとして、マント事件とは分からないよう仮構化しながら、菊池の立場を弁護しその態度を賞讃した<ref name="jijo"/><ref name="takeshi-1-3"/>。}}。菊池はその後、長崎に「俺の犠牲を君は無にしたのだ」となじる書簡を何度か出し、佐野のことを憂慮しつつ、「佐野は自殺するであらう」とも書いた<ref name="kawanishi-15-2"/>。

佐野の盗みが父親の耳に入り、休学・謹慎により山口県に引き上げることになった際には「僕は君の親切を長く痛切に恨む。君は誰よりも怖しい(原文ママ)僕等(引用者注:佐野と菊池)の破壊者であった」と菊池は長崎宛に綴った<ref name="repo1"/>。1913年(大正2年)7月の書簡では、自らの行ないを「少しも恥ぢるところはない」として、長崎のことを「馬鹿」「ケチな人間」「下らない聖書なんかよして講談本でも読んで常識を養ひ給へ」などと激しく罵倒した<ref name="repo1"/>。
{{Quotation|君はなんといふCredulousな馬鹿な人間だらう。(中略)俺は君に断言する、あの事件に関して俺は少しも恥ぢるところはない。俯仰天地に恥ぢないはもとより君らが信じてゐる融通のきかない神といふ奴に対しても恥づる所は少しもない。君はどんな事を誤解してゐるか俺には分からないが、どうせ君のやうなケチな人間の推測だから相場は知れてゐる。君のやうな怖しい利己主義を道徳や信仰で包んでなるべくウマク世の中をゴマカシテ渡らうとする手合ひには俺のやうなsupermoralな人間のやることは分からないだらう。|菊池寛「長崎太郎宛ての書簡 大正二年七月六日付」}}

== 退学後 ==
=== 成瀬家の援助と京大入学 ===
菊池の退学後、成瀬正一はすぐに父・[[成瀬正恭]](当時[[十五銀行]]の総支配人)に相談した<ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="takeshi-1-2"/><ref name="asai2"/>。菊池の退校理由は一切話さず、大学に行く学資が菊池にないから援助してほしいと頼み込んだ<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="takeshi-1-2"/>。成瀬の父は菊池と同じ[[香川県]]出身ということもあり、快く息子の頼みを聞き入れた<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="takeshi-1-2"/>。

無精であった菊池は、3つの条件(毎日の洗顔、風呂に入ること、着替えをすること)を誓った上で[[白金 (東京都港区)|白金三光町]]の成瀬家に寄宿し、成瀬の母・峰子から母子同様の親身な世話を受けながら{{refnest|group="注釈"|この成瀬峰子の親切に多大な感謝を感じていた菊池は、峰子夫人の死去に際して短編「大島が出来る話」(1918年)を『[[新潮]]』に書いて<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="asai2"/>、私家版『至誠院夫人の面影』(1920年3月)を上梓した<ref name="asai2"/>。}}、9月に[[京都大学|京都帝国大学]]英文科へ進学する(当初は選科で、翌年に高等学校卒業検定試験に合格してから本科に移る)<ref name="jijo"/><ref name="takeshi-1-2"/><ref name="repo1"/>。ちなみに、成瀬が、菊池の退学と佐野が故郷に帰った真実の事情を初めて知ったのは、6月に友人の石原から告げられた時であった<ref name="kawanishi-15-2"/>。

菊池は高等学校卒業検定試験合格の際に[[東京大学|東京帝国大学]]文科大学(現在の[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京大学文学部]])の進学を希望していたが、当時の文科大学長[[上田萬年]]の認めるところとならなかった<ref name="jijo"/><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="takeshi-1-3"/><ref name="repo2"/>。成瀬と石原が直接に上田学長に必死に懇願してもだめであった<ref name="kawanishi-15-2"/>。上田萬年は佐野の保証人で、佐野が上田の印章でなくデタラメな印章を押印し下宿届などを一高に出していたことが発覚したこともあったため、上田は菊池を佐野の「悪友」と見なしていたようでもあった<ref name="jijo"/>。

=== 佐野の帝大中退 ===
一方、佐野文夫は父のいる山口県に帰って[[秋吉台]]の[[本間俊平]]の感化院で[[大理石]]を採掘する謹慎生活を送った後、一高を遅れて卒業、東京帝国大学の哲学科に進学しながら高校時代から続けていた[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]や[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]、[[ローザ・ルクセンブルク]]などの翻訳を手がけた。しかし、大学に入ってからも盗癖は治らず、哲学科の研究室から本を持ち出したのが発覚し、1914年(大正3年)に東京帝大を中退した<ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="takeshi-1-3"/>。

佐野は、成瀬正一から借りた腕時計や久米正雄から借りた金も踏み倒すなどしていたが、佐野は非凡な才能を持っていたため第三次『[[新思潮]]』の同人仲間は大目に見ていた<ref name="repo1"/>。盗みや踏み倒しで得た金で佐野は、[[倉田百三]]と[[待合]]に行って遊んでいた<ref name="eguchi"/><ref name="kawanishi-15-2"/>。この倉田については、彼が妹・艶子を佐野に紹介した一件が、そもそもの事件の発端の元凶と捉えていた菊池にとっては不愉快な存在であった<ref name="jijo"/><ref name="sugi2"/>{{refnest|group="注釈"|後年に菊池が創刊した『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』の匿名批評欄でも、たびたび倉田百三が批判の的となり、倉田攻撃の急先鋒として編集同人の[[斎藤龍太郎]]の投稿も注目を浴びた<ref name="sugi2"/><ref name="sugi7">「仮面を剥ぐ」({{Harvnb|杉森|1987|pp=192-224}})</ref>。}}。その後、佐野は山口県秋吉台の感化院に再び戻り、昼は青空の下で大理石を磨き、夜は聖書を読んで神に祈りを捧げる懺悔の日々を約2年間送った<ref name="eguchi"/><ref name="kawanishi-15-2"/>。

なお、長崎は菊池が京都帝国大学に在籍していた[[1914年]](大正3年)に面会した際、事件の折の行動に赦しを求めたところ、菊池は「今はもうそんなことは思っていない」と返答したという<ref name="repo1"/>。[[芥川龍之介]]や久米正雄といった刺激し合う文学の友がいない京都大学では、孤独を紛らわすため研究室や図書館に入り浸り、東京にいられた時よりも「二倍か三倍位多くの本をよむことが出来たと思ふ」とのちに菊池は回想している<ref name="jijo"/><ref name="takeshi-1-3"/>。多くの読書で菊池は、[[ジョン・ミリントン・シング|シング]]や[[ロード・ダンセイニ|ダンセイニ]]、[[オーガスタ・グレゴリー|グレゴリー]]などの[[アイルランド]]の戯曲に親しんだ<ref name="jijo-c">「半自叙伝」(文藝春秋 1929年6月号-8月号)。{{Harvnb|菊池・随想23|1995|pp=34-37}}に所収</ref><ref name="takeshi-1-3"/>。

この時期、佐野が再び盗みの罪を犯したことを知ったであろう菊池は、自分の犠牲的行為が無に帰したことをはっきりと自覚した<ref name="aoki"/><ref name="katayama"/>。
{{Quotation|彼は、一時の昂奮と陶酔との為に、青木の為に払つた犠牲の、余りに大きかつたのを後悔し始めた。彼は、よく芝居で見た身代りと云ふ事を、考へ合はせた。一時の感激で、主君の為に命を捨てる。{{ruby|夫|それ}}は其場限りの事だ、感激の為に理性が、盲目にされて居る其場限りの事だ。雄吉自身の場合の如く、その感激が冷めて居るのに、まだその感激の為にやつた一時の出来心の、恐ろしい結果を、背負はされて居るのは堪らない事だと思つた。|菊池寛「青木の出京」<ref name="aoki"/>}}

ロマンチシストの菊池は幻滅的な現実を忘れるため、[[井原西鶴]]や[[歌舞伎]]、[[オスカー・ワイルド]]、[[谷崎潤一郎]]などの耽美的・享楽的芸術世界を心のよりどころとした<ref name="katayama"/>。また、京都の芸術を復興させるため、その計画を『[[中外日報]]』で呼びかけるが、結局は頓挫し京都にも幻滅していった<ref name="katayama"/>。やがて菊池は、ワイルドと平行し愛読していた[[バーナード・ショー]]の現実主義的思想に実感を伴って共感するようになり<ref name="shaw">「青顔朱髯のショオ」([[中外日報]] 1914年6月2、3日)。{{Harvnb|菊池・評論22|1995|pp=313-316}}に所収</ref><ref name="katayama"/>、文学作品にも反映されることになる<ref name="katayama"/>。
{{Quotation|ショオは幻覚を蛇蝎視して居る、人類は生の事実を逃避せん為に凡ての緩和剤を用ゐて幻覚を追ふにのみいそがはしい、人類が幻覚を追ふ力は最も大なる力であるがこの幻覚を破つて生の事実に面と向つてこそ初めて切実なる事理は得られるのであると。(中略)ショオ劇の人物も人生の迷路に立ち或は因習の信条に迷はされながらも遂に自己が浅薄なるローマンスの殿堂に参拝して居たのを感悟し勇ましく光明に向つて突進して行くのである。|菊池寛「青顔朱髯のショオ」<ref name="shaw"/>}}


== 菊池の京大卒業後 ==
菊池はそのまま自分が罪をかぶることを決意する。菊池は佐野や他の同級生より4歳も年上で親分気質があったことに加え、佐野には[[同性愛]]的慕情をいだいていたので、佐野の将来を考えて、自らが犠牲になる道を選んだという。菊池はのちに、この事件をモデルにした作品『青木の出京』の中で、「自分が崇拝する親友を救うことこそ英雄的であると信じ、それに陶酔し、感激していた」とそのときの心情を主人公に語らせている<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/485_19845.html 『青木の出京』菊池寛] 青空文庫</ref>。菊池の同性愛的嗜好と事件の関わりについては、この事件を著作や論文で取り上げた東條文規<ref name="repo2">東條文規「菊池寛と図書館と佐野文夫」『図書館という軌跡』、pp.335 - 354[https://books.google.co.jp/books?id=8S2btgqloHoC](初出は『香川県図書館学会会報』)</ref>や[[関口安義]]<ref name="repo1"/>からも指摘されている。また、当時大学に進学するに当たって学資の当てがなかったことも、菊池が退学を決意する一因であったと関口安義は記している<ref name="repo1"/>。
=== 5年ぶりの2人の再会 ===
京大卒業後、成瀬家の尽力もあり[[時事新報社]]の取材記者となった菊池は、[[1917年]](大正6年)1月に戯曲「[[父帰る]]」を同人誌の第四次『[[新思潮]]』に発表し、春には同郷の資産家で旧[[高松藩]]士・奥村五郎の娘の包子と結婚した<ref name="takeshi-1-3"/><ref name="asai3">「文壇へ――記者から作家へ」({{Harvnb|アルバム菊池|1994|pp=28-47}})</ref>。いつまでも成瀬家の世話になることは心苦しく、実家への送金も月給だけではきつかった菊池は、「[[バーナード・ショー|バアナード・ショオ]]が金のある未亡人と結婚したやうに、財力のある婦人と結婚すること」を考え「金のある妻か、でなければ職業婦人」を求めていた<ref name="jijo-d">「半自叙伝」(文藝春秋 1929年10月号)。{{Harvnb|菊池・随想23|1995|pp=61-63}}に所収</ref>。


その後[[1918年]](大正7年)に『[[中央公論]]』に発表した小説「無名作家の日記」や「忠直卿行状記」が高い評価を受け、菊池は文壇での地位を確立した<ref name="jijo-e">「半自叙伝」(文藝春秋 1929年12月号)。{{Harvnb|菊池・随想23|1995|pp=65-67}}に所収</ref><ref name="takeshi-1-4">「第一編 菊池寛の生涯 四、新進作家からジャーナリストへ」({{Harvnb|小久保|2018|pp=71-93}})</ref><ref name="asai3"/>。
== 退学 ==
結局、菊池は抗弁しないまま、退学処分を受け入れて一高を去ることになった、菊池は同級生の[[長崎太郎]]に「他言しない」条件で退学の経緯と事件の真相を告げ、長崎は菊池と佐野の救済を求めて校長の[[新渡戸稲造]]に相談した<ref name="repo1"/>。新渡戸からは「私にまかせてもらいたい。適当の処置を講じようから」という返答を得たが、校長を退任することがすでに決まっていたため、後任の校長となった[[瀬戸虎記]]にも長崎は事情を説明し、「善処する」という約束を取り付けた<ref name="repo1"/>。だが、学校側に呼ばれた菊池は前言を翻すことなく、退学することとなる<ref name="repo1"/>。


事件から5年後の1918年(大正7年)6月、佐野が父親の縁故で[[大連]]にあった[[南満州鉄道]]の調査課図書館に転職する際<ref name="repo1"/>、日本を離れる前に菊池と久米正雄に銀座の[[服部時計店]]の前で遭遇し、近くのカフェで懇談している<ref name="kawanishi-15-2"/>。菊池は同年11月に、この一件を機に佐野を題材にした短編小説「青木の出京」を『中央公論』に発表した<ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="sugi2"/>。
菊池は長崎の行動を「自分の犠牲を無にした」となじる書簡を何度か出し、佐野が休学・謹慎により山口県に引き上げることになった際には「僕は君の親切を長く痛切に恨む。君は誰よりも怖しい(原文ママ)僕等(引用者注:佐野と菊池)の破壊者であった」と綴った<ref name="repo1"/>。さらに1912年7月の書簡では、自らのおこないを「少しも恥じるところはない」として、長崎のことを「馬鹿」「ケチな人間」「下らない聖書なんかよして講談本でも読んで常識を養い給え」などと、激しく罵倒した<ref name="repo1"/>。長崎は菊池が[[京都大学|京都帝国大学]]に在籍していた1914年に面会した際、事件の折の行動に赦しを求めたところ、菊池は「今はもうそんなことは思っていない」と返答したという<ref name="repo1"/>。


その小説によれば、佐野は北国に旅立つ前に菊池に会うために時事新報社を訪ねたとされる<ref name="kawanishi-15-2"/>。「青木の出京」の中では久米の存在はなく、菊池は再会時の複雑な[[アンビバレンス|愛憎共存]]な心境を綴っているが、実際同席していた久米は、2人が会ったときに昔どおりの「情緒纏綿」な親密な感じに戻ったことに驚いたという<ref name="eguchi"/><ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="sugi2"/>。
== その後 ==
退学後、困窮を見かねた同級生の[[成瀬正一 (フランス文学者)|成瀬正一]]の世話で菊池は成瀬家の書生となり、9月に京都帝国大学の英文科へ進学する(当初は選科で、翌年高等学校卒業検定試験に合格してから本科に移る)<ref name="repo1"/>。菊池は高等学校卒業検定試験合格の際に[[東京大学|東京帝国大学]]文科大学(現在の[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京大学文学部]])への進学を希望していたが、当時の文科大学長[[上田萬年]]の認めるところとならなかったという<ref name="repo2"/>。卒業後、[[時事新報社]]の取材記者となり、『[[父帰る]]』を発表して人気作家の仲間入りをする<ref>[http://1000ya.isis.ne.jp/1287.html 「菊池寛・真珠夫人」松岡正剛の千夜千冊]</ref>。


== 佐野のその後 ==
佐野は父のいる山口に一度帰って謹慎生活を送ったのち一高を遅れて卒業、東京帝国大学の哲学科に進学しながら高校時代から続けていた[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]や[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]、[[ローザ・ルクセンブルク]]などの翻訳を手がけたが、1914年に東京帝大を中退した。
佐野文夫は、満鉄の調査部に就職しそこを辞めた後、再び父の縁故で[[外務省]]情報局に勤めた<ref name="kawanishi-15-2"/>。その時期に[[小牧近江]]と知り合い影響された佐野は、[[社会主義]]思想に興味を持ち、次第に過激な[[共産主義]]思想にのめり込んでいくようになる<ref name="kawanishi-15-2"/>。一方、息子の行く末を案じていた父親の[[佐野友三郎]]は、神経衰弱ぎみな日々を送っていたが、病気を苦に[[1920年]](大正9年)5月に、小刀で喉を突いて死のうとしたが死にきれず、縁側の梁に細紐を吊して縊死自殺をした<ref name="kawanishi-15-2"/>。


その後、佐野は[[1922年]](大正11年)7月に[[第一次共産党 (日本)|非合法日本共産党]]創立に参加<ref name="kawanishi-15-2"/>。[[1925年]](大正14年)に[[コミンテルン]]極東[[ビューロー (日本共産党)|ビューロー]][[上海]]会議に出席し、翌年には日本共産党の中央委員会議長にも選任され、[[1927年]](昭和2年)には[[ソ連]]を訪問し討議に参加するなど活躍した<ref name="kawanishi-15-2"/>。その頃の佐野は[[笹塚]]に居住していた<ref name="eguchi"/>。その後[[福本和夫|福本イズム]]をめぐって中央委員を罷免され、[[1928年]](昭和3年)には「[[三・一五事件]]」の弾圧で検挙されて[[転向]]し、保釈後の[[1931年]](昭和6年)に[[肺結核]]で亡くなった<ref name="kawanishi-15-2"/><ref name="takeshi-1-3"/>。
事件から6年後の[[1918年]]に、佐野が[[大連]]にあった[[南満州鉄道]]の調査課図書館に転職する際<ref name="repo1"/>、日本を離れる前に菊池と[[久米正雄]]に遭遇している。これをもとに菊池は同年に『青木の出京』を『[[中央公論]]』に発表。その中で、再会時の複雑な心境を綴っているが、同席していた久米は、二人が会ったときに昔どおりの親密な感じに戻ったことに驚いたという。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
<references/>
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|author=[[菊池寛]]|date=1993-12|title=菊池寛全集第2巻 小説集|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4166203208|ref={{Harvid|菊池・短編小説2|1993}}}}
*[[関口安義]]『評伝 成瀬正一』日本エディタースクール、1994年
*{{Citation|和書|author=菊池寛|date=1995-11|title=菊池寛全集第22巻 評論集|publisher=文藝春秋|isbn=978-4166205202|ref={{Harvid|菊池・評論22|1995}}}}
*{{Citation|和書|author=菊池寛|date=1995-12|title=菊池寛全集第23巻 随想集|publisher=文藝春秋|isbn=978-4166205301 |ref={{Harvid|菊池・随想23|1995}}}}
*{{Citation|和書|author=菊池寛|date=1995-08|title=菊池寛全集第24巻 感想集|publisher=文藝春秋|isbn=978-4166205400 |ref={{Harvid|菊池・感想24|1995}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[浅井清]]|date=1994-01|title=新潮日本文学アルバム39 菊池寛|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4106206436|ref={{Harvid|アルバム菊池|1994}}}}
*{{Citation|和書|author=[[江口渙]] |date=1995-01 |title=わが文学半生紀 |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社文芸文庫]] |isbn=978-4061963061 |ref={{Harvid|江口|1995}}}} 原本(青木書店)は1953年-1968年 {{NCID|BN08276124}}
*{{Citation|和書|author=[[川西政明]]|date=2010-07|title=新・日本文壇史第3巻 昭和文壇の形成|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000283632|ref={{Harvid|文壇史|2010}}}}
*{{Citation|和書|author=[[小久保武]]|editor=[[福田清人]]|date=2018-04|title=菊池寛|publisher=[[清水書院]]|series=Century Books 人と作品32|edition=新装|isbn=978-4389401276|ref={{Harvid|小久保|2018}}}} 初版は1979年6月 ISBN 978-4389400323
*{{Citation|和書|author=[[杉森久英]] |date=1987-10 |title=小説菊池寛 |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4120016196 |ref={{Harvid|杉森|1987}}}}
*{{Citation|和書|author=[[関口安義]] |date=1994-08 |title=評伝 成瀬正一 |publisher=[[日本エディタースクール]]出版部 |isbn=978-4888882200 |ref={{Harvid|関口|1994}}}}
*{{Citation|和書|author=[[関口安義]] |year=2006 |title=反骨の教育家 : 評伝 長崎太郎 II |journal=都留文科大学研究紀要= 都留文科大学研究紀要 |publisher=都留文科大学 |volume=64 |pages=118-101 |doi=10.34356/00000185 |naid=110007055966 |url=https://doi.org/10.34356/00000185|ref={{Harvid|関口|2006}}}}
*{{Citation|和書|author=[[東条文規]] |date=2009-04 |title=図書館という軌跡 |publisher=ポット出版 |isbn= 978-4780801231 |ref={{Harvid|東条|2009}}}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{青空文庫|000083|485|新字新仮名|青木の出京}}
*[http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/485_19845.html 『青木の出京』菊池寛] 青空文庫
* {{青空文庫|000083|493|新字新仮名|大島が出来る話}}


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2022年5月30日 (月) 04:02時点における版

マント事件(マントじけん)とは、菊池寛第一高等学校3年生だった1913年大正2年)に、友人の佐野文夫の身代わりとなって同校を退学となった事件[1][2][3][4]。菊池寛のその後の人生観や運命が大きく左右されることとなった出来事である[1][2][5][6]

事件の発端

佐野のデート

1913年(大正2年)4月、当時第一高等学校文科3年の菊池寛の親しい同級生の中に同じ南寮8号部屋の佐野文夫がいた[4][2][7]。菊池は一高に入学した当初から、同じクラスの佐野の天才ぶりに惹かれ、その自信満々な明晰な湿りのある声で先生と対等に話す姿に感銘して以来、積極的に佐野に近づいていき友人関係を深めていた[4][8][2][7]

3年生当時の佐野は、独法科の倉田百三から紹介された妹の倉田艶子と交際していた[4][2]日本女子大学校に通う艶子は18歳で、寮には佐野宛の艶子からの桃色の封筒がよく届いていた[4][2][注釈 1]

4月のある日、佐野は艶子との戸山ヶ原でのデートに、一高のシンボルであるマントを着ていきたいと思ったが、自分のマントは質入れしていたため、同室の佐藤のマントを借りて試着した[4][7]。しかしそのマントは丈が少し長すぎ、気取り屋の佐野には気に入らなかった[4][7]

佐藤にマントを返した佐野は、部屋を出てからしばらくして違うマントを着て自室に戻ってきて、そのまま艶子とのデートに出かけて行った[4][2][7]。デートが終って、その日はそれで何ごともなく済んだが、他人のものを黙って持ち出してきたそのマントを、佐野はそのまま返さずにいた[2][7]

マントの質入れ

2日ほど後、佐野と菊池は金に窮してそのマントを一時質入れすることにした。佐野は菊池にマントのことを、同県人の先輩大学生の黒田から借りたものと言っていた[4][1]。日頃から自分の蒲団などを質入れしていた菊池は、白昼堂々そのマントを着て質屋に行った[4][1]。普段はマントなど着たことのない菊池が珍しくマントを着て校門を出て、帰りは手ぶらで戻ってきた姿は人目に付いた[1]

その夜、成瀬正一とトランプをしていた菊池は、寄宿舎の生徒監の谷山初七郎に呼び出された[4][2][1]。菊池が質入れしたマントは盗難届が出されていたもので、北寮の1年生の部屋から紛失していたものだった[4][2][1]。谷山や大沼という年配の体育教師にマントの入手先を問い詰められた菊池は自分の嫌疑を晴らしたかったが、佐野は郷里の人を東京案内していて不在であった[4][2][1]

とりあえず菊池は親友を守るため(佐野に会ってから真相を確かめてから善後策を講じようと思い)、その場は自分が盗んだことにして寮務室を出ることを考えた[4][2][1][9]。一高名物の鉄拳制裁が怖かった菊池は、自分が殴られるか大沼先生に聞くと、退学となれば制裁は受ける必要はないと言われ、「じゃとにかく僕がしたことにしましょう」と退出した[4][2][1]

菊池の自己犠牲

その夜遅くに帰寮した佐野に菊池がマントの件を質すと、佐野は「どうしよう。どうしよう」と蒼白になり、親や親戚に合わせる顔がないと悲鳴をあげて泣き出した[4][2][1][9]。佐野の父・佐野友三郎図書館学者として有名で、長男の佐野に不祥事があれば山口県立山口図書館長の職を辞するおそれがあった[4][2]。佐野は、クリスチャンの父の勧めで子供の頃に教会に通ったこともあった[2]

色白の佐野は眉目秀麗で頭脳明晰な秀才のため華やかな存在であったが、性格的には脆弱で病的な盗癖の持主でもあった[2][5]。菊池は、天才的でもあった佐野のことを、「落着いた頭のいゝ男であるが、どこか狂的な火のやうなものを持つてゐた」とのちに語っている[10][注釈 2]。菊池は泣きじゃくる親友の佐野を見て、そのまま自分が罪をかぶることを決意した[4][2][1][9]。菊池は、佐野や他の同級生より4歳も年上で親分気質なところがあり[2]、一高を卒業しても大学に行く学資金の当てもなく、やや自棄的な気持にもなっていた[4][9]

5年後、この出来事をモデルにした短編小説「青木の出京」を執筆した菊池は、「ロマンチックな感激と、センチメンタルな陶酔――それらのものを雄吉は、後年どれだけ後悔し、どれだけ憎んだかわからないが――とで、彼の心はいつぱいになつた。(中略)俺は一人の天才、一人の親友を救ふといふ英雄的行動を、あへてなした勇士のごとき心持で」と、そのときの心情を主人公に語らせ[8]、その後の随筆「半自叙伝」でも、自身本来の情熱的な気質に触れている[4]

私は、高等師範を青年客気の情熱の赴くままに、行動して出されたが一高もやはりさうであつた。しかも、なけなしの学資、借金をして送つてくれる毎月の学資を使ひながら、私は真面目な学問一方の学生にはなれないのだつた。かう云ふことを考へると、私は今でこそ理知的であるとか悧巧者だとか云はれてゐるが、私のどこかに情熱的な出鱈目なところがあるのである。 — 菊池寛「半自叙伝」[4]

また、菊池は佐野に対して同性愛的慕情も抱いていたため、愛する佐野を庇うため自らが犠牲になる道を選んだ面もあった[2][7]。菊池自身はそれを特に語ってはいないが、菊池の同性愛とマント事件の関わりについては、友人の久米正雄[11][2]、知人の江口渙も触れており[12]、この事件を論文などで取り上げた東條文規関口安義などからも指摘されている[2][13][9]。菊池には一高以前にも同性愛的思慕の相手があり、高松中学校時代に英語を教えた美少年の下級生・渋谷彰に出したラブレターや交換日記も残されている[14][2][注釈 3][注釈 4]

僕たちの高等学校時代は、忘れる事の出来ない程出鱈目な、呑気な、又焦々いらいらした、愉快な生活をしたものだ。其時分彼(菊池寛)は同性恋愛の熱心な宣伝者だつた。彼の言に依れば、同性恋愛こそは最も神聖な、最高なる恋愛の極致であり、其関係は最も進歩したる、最も文明的なるものであつた。此の見地に学問的背景を与へるため、彼は独逸のある六ヶ敷むつかしい研究を読んだり、同性恋愛の関する日本の古今の著書は、悉く渉猟し尽したりした。 — 久米正雄「同性恋愛の宣伝者(菊池寛氏の印象)」[11]

菊池は一高入学前に、徴兵猶予のために在籍していた早稲田大学の図書館で読んだ井原西鶴全集に感激し、その中でも、とりわけ『男色大鑑』に「随喜の涙」をこぼしたほど感動を覚えていた[16][1][7]。『男色大鑑』には、男同士の義理、仁義、献身、自己犠牲などの純粋な愛情を讃美するような物語の数々が描かれ、「グライヒゲシュレヒトリヒ」(ドイツ語で「同性愛的な」の意)の傾向にあった菊池の愛読書となっていた[16][1][7]

菊池の退学

同級生への波紋

結局、菊池は抗弁しないまま、退学処分を受け入れて一高を去ることになった。菊池を慕っていた同寮の成瀬正一は菊池の突然の退学事件にショックを受け、しばらくは理由や事情の分らないまま心配をする毎日であった[17][2]。佐野から、菊池が大学の本科に入学できるよう高等学校検定試験を受けさせるため奔走している、と聞いていた成瀬は、「佐野の様な親切な友を持つた彼は何と幸福だらう」と勘違いして日記に綴っていた[17][2]

四月十六日 菊池は退学するかも知れないと言つて私共を驚かした。あの面白い彼がもう学校へ来ないようになるのは悲しい様な気がする。
四月十七日 菊池はもう退学届を出してしまつた由だ。彼に去られるのは悲しい。彼は私の先輩の様な人であつた。私は彼にいろいろ教育された事もあつた。時には彼と共鳴を感じたこともある位だ。どんな事情があるのか知らないけども、私に出来る事なら何でもするから彼が復校できる事を切に願つてゐる。昨夜はねむくて、早く床へ入つたが夜中に眼があいて昂奮して、寝られなかつた。そうして彼を思つた。どうして彼は退校したのだらう。 — 成瀬正一「日記」[17]

同じく同級生だった長崎太郎は、その頃は寮生でなかったので菊池の退学の噂を学校で知った。長崎が佐野に問うと、「菊池はマントを盗み、退学になる筈だ」と答えたため、驚いて詳細や経緯の説明をさらに佐野に求めるが、菊池が破廉恥なことをしたので退学になったと言うだけで、菊池の居場所を訊ねても教えてくれなかった[2]

長崎太郎の奔走

菊池はその後のある夜、クリスチャンの長崎を訪ねて「他言しない」条件で退学の経緯と事件の真相を告げた[2]。真実を長崎に語った菊池は、「俺は人間のうち誰か一人でよいから此の事実を知つて置いてもらい度いのだ。その一人に君を選んだ。総ての人が俺を泥棒と呼んでも、俺が泥棒でない事を君にだけには知つて置いてもらい度い」として、最後に「君の知る通り俺は佐野を愛して居る。その為めに俺は佐野の犠牲になるのだ」と告げたという[18][2]

事実を知った長崎は苦悶し、再び佐野に聞くが、佐野は菊池がやったと突っぱねるだけだった[2]

菊池君の犠牲が彼の為めに何の益にも立つて居ない事がよくわかつた。私は深く思いなやんだ。二人は私の親しい友である。私は其の誰をも憎まぬ。何とかして両君を生かす道はないものだろうか。 — 長崎太郎「吾が友菊池寛」[18]

長崎は意を決し、菊池と佐野の救済を求めて校長の新渡戸稲造に相談した[19][9]。新渡戸からは「私にまかせてもらいたい。適当の処置を講じようから」という返答を得たが、校長を退任することがすでに決まっていたため、後任の校長となった瀬戸虎記にも長崎は事情を説明し、「善処する」という約束を取り付けた[9]

菊池の決心の固さ

だが、学校側に呼ばれた菊池は前言を翻すことなく、退学することとなった[4][2][9]。菊池がもしもこの時に自分の無実を告白すれば、学校側は菊池を復学させると同時に、佐野の罪も不問にする手筈となっていたが、菊池はその意図を知らなかった[4][19][注釈 5]。菊池はその後、長崎に「俺の犠牲を君は無にしたのだ」となじる書簡を何度か出し、佐野のことを憂慮しつつ、「佐野は自殺するであらう」とも書いた[2]

佐野の盗みが父親の耳に入り、休学・謹慎により山口県に引き上げることになった際には「僕は君の親切を長く痛切に恨む。君は誰よりも怖しい(原文ママ)僕等(引用者注:佐野と菊池)の破壊者であった」と菊池は長崎宛に綴った[9]。1913年(大正2年)7月の書簡では、自らの行ないを「少しも恥ぢるところはない」として、長崎のことを「馬鹿」「ケチな人間」「下らない聖書なんかよして講談本でも読んで常識を養ひ給へ」などと激しく罵倒した[9]

君はなんといふCredulousな馬鹿な人間だらう。(中略)俺は君に断言する、あの事件に関して俺は少しも恥ぢるところはない。俯仰天地に恥ぢないはもとより君らが信じてゐる融通のきかない神といふ奴に対しても恥づる所は少しもない。君はどんな事を誤解してゐるか俺には分からないが、どうせ君のやうなケチな人間の推測だから相場は知れてゐる。君のやうな怖しい利己主義を道徳や信仰で包んでなるべくウマク世の中をゴマカシテ渡らうとする手合ひには俺のやうなsupermoralな人間のやることは分からないだらう。 — 菊池寛「長崎太郎宛ての書簡 大正二年七月六日付」

退学後

成瀬家の援助と京大入学

菊池の退学後、成瀬正一はすぐに父・成瀬正恭(当時十五銀行の総支配人)に相談した[2][1][3]。菊池の退校理由は一切話さず、大学に行く学資が菊池にないから援助してほしいと頼み込んだ[4][2][1]。成瀬の父は菊池と同じ香川県出身ということもあり、快く息子の頼みを聞き入れた[4][2][1]

無精であった菊池は、3つの条件(毎日の洗顔、風呂に入ること、着替えをすること)を誓った上で白金三光町の成瀬家に寄宿し、成瀬の母・峰子から母子同様の親身な世話を受けながら[注釈 6]、9月に京都帝国大学英文科へ進学する(当初は選科で、翌年に高等学校卒業検定試験に合格してから本科に移る)[4][1][9]。ちなみに、成瀬が、菊池の退学と佐野が故郷に帰った真実の事情を初めて知ったのは、6月に友人の石原から告げられた時であった[2]

菊池は高等学校卒業検定試験合格の際に東京帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)の進学を希望していたが、当時の文科大学長上田萬年の認めるところとならなかった[4][2][19][13]。成瀬と石原が直接に上田学長に必死に懇願してもだめであった[2]。上田萬年は佐野の保証人で、佐野が上田の印章でなくデタラメな印章を押印し下宿届などを一高に出していたことが発覚したこともあったため、上田は菊池を佐野の「悪友」と見なしていたようでもあった[4]

佐野の帝大中退

一方、佐野文夫は父のいる山口県に帰って秋吉台本間俊平の感化院で大理石を採掘する謹慎生活を送った後、一高を遅れて卒業、東京帝国大学の哲学科に進学しながら高校時代から続けていたレーニンフォイエルバッハローザ・ルクセンブルクなどの翻訳を手がけた。しかし、大学に入ってからも盗癖は治らず、哲学科の研究室から本を持ち出したのが発覚し、1914年(大正3年)に東京帝大を中退した[2][19]

佐野は、成瀬正一から借りた腕時計や久米正雄から借りた金も踏み倒すなどしていたが、佐野は非凡な才能を持っていたため第三次『新思潮』の同人仲間は大目に見ていた[9]。盗みや踏み倒しで得た金で佐野は、倉田百三待合に行って遊んでいた[12][2]。この倉田については、彼が妹・艶子を佐野に紹介した一件が、そもそもの事件の発端の元凶と捉えていた菊池にとっては不愉快な存在であった[4][7][注釈 7]。その後、佐野は山口県秋吉台の感化院に再び戻り、昼は青空の下で大理石を磨き、夜は聖書を読んで神に祈りを捧げる懺悔の日々を約2年間送った[12][2]

なお、長崎は菊池が京都帝国大学に在籍していた1914年(大正3年)に面会した際、事件の折の行動に赦しを求めたところ、菊池は「今はもうそんなことは思っていない」と返答したという[9]芥川龍之介や久米正雄といった刺激し合う文学の友がいない京都大学では、孤独を紛らわすため研究室や図書館に入り浸り、東京にいられた時よりも「二倍か三倍位多くの本をよむことが出来たと思ふ」とのちに菊池は回想している[4][19]。多くの読書で菊池は、シングダンセイニグレゴリーなどのアイルランドの戯曲に親しんだ[21][19]

この時期、佐野が再び盗みの罪を犯したことを知ったであろう菊池は、自分の犠牲的行為が無に帰したことをはっきりと自覚した[8][6]

彼は、一時の昂奮と陶酔との為に、青木の為に払つた犠牲の、余りに大きかつたのを後悔し始めた。彼は、よく芝居で見た身代りと云ふ事を、考へ合はせた。一時の感激で、主君の為に命を捨てる。それは其場限りの事だ、感激の為に理性が、盲目にされて居る其場限りの事だ。雄吉自身の場合の如く、その感激が冷めて居るのに、まだその感激の為にやつた一時の出来心の、恐ろしい結果を、背負はされて居るのは堪らない事だと思つた。 — 菊池寛「青木の出京」[8]

ロマンチシストの菊池は幻滅的な現実を忘れるため、井原西鶴歌舞伎オスカー・ワイルド谷崎潤一郎などの耽美的・享楽的芸術世界を心のよりどころとした[6]。また、京都の芸術を復興させるため、その計画を『中外日報』で呼びかけるが、結局は頓挫し京都にも幻滅していった[6]。やがて菊池は、ワイルドと平行し愛読していたバーナード・ショーの現実主義的思想に実感を伴って共感するようになり[22][6]、文学作品にも反映されることになる[6]

ショオは幻覚を蛇蝎視して居る、人類は生の事実を逃避せん為に凡ての緩和剤を用ゐて幻覚を追ふにのみいそがはしい、人類が幻覚を追ふ力は最も大なる力であるがこの幻覚を破つて生の事実に面と向つてこそ初めて切実なる事理は得られるのであると。(中略)ショオ劇の人物も人生の迷路に立ち或は因習の信条に迷はされながらも遂に自己が浅薄なるローマンスの殿堂に参拝して居たのを感悟し勇ましく光明に向つて突進して行くのである。 — 菊池寛「青顔朱髯のショオ」[22]

菊池の京大卒業後

5年ぶりの2人の再会

京大卒業後、成瀬家の尽力もあり時事新報社の取材記者となった菊池は、1917年(大正6年)1月に戯曲「父帰る」を同人誌の第四次『新思潮』に発表し、春には同郷の資産家で旧高松藩士・奥村五郎の娘の包子と結婚した[19][23]。いつまでも成瀬家の世話になることは心苦しく、実家への送金も月給だけではきつかった菊池は、「バアナード・ショオが金のある未亡人と結婚したやうに、財力のある婦人と結婚すること」を考え「金のある妻か、でなければ職業婦人」を求めていた[24]

その後1918年(大正7年)に『中央公論』に発表した小説「無名作家の日記」や「忠直卿行状記」が高い評価を受け、菊池は文壇での地位を確立した[25][26][23]

事件から5年後の1918年(大正7年)6月、佐野が父親の縁故で大連にあった南満州鉄道の調査課図書館に転職する際[9]、日本を離れる前に菊池と久米正雄に銀座の服部時計店の前で遭遇し、近くのカフェで懇談している[2]。菊池は同年11月に、この一件を機に佐野を題材にした短編小説「青木の出京」を『中央公論』に発表した[2][7]

その小説によれば、佐野は北国に旅立つ前に菊池に会うために時事新報社を訪ねたとされる[2]。「青木の出京」の中では久米の存在はなく、菊池は再会時の複雑な愛憎共存な心境を綴っているが、実際同席していた久米は、2人が会ったときに昔どおりの「情緒纏綿」な親密な感じに戻ったことに驚いたという[12][2][7]

佐野のその後

佐野文夫は、満鉄の調査部に就職しそこを辞めた後、再び父の縁故で外務省情報局に勤めた[2]。その時期に小牧近江と知り合い影響された佐野は、社会主義思想に興味を持ち、次第に過激な共産主義思想にのめり込んでいくようになる[2]。一方、息子の行く末を案じていた父親の佐野友三郎は、神経衰弱ぎみな日々を送っていたが、病気を苦に1920年(大正9年)5月に、小刀で喉を突いて死のうとしたが死にきれず、縁側の梁に細紐を吊して縊死自殺をした[2]

その後、佐野は1922年(大正11年)7月に非合法日本共産党創立に参加[2]1925年(大正14年)にコミンテルン極東ビューロー上海会議に出席し、翌年には日本共産党の中央委員会議長にも選任され、1927年(昭和2年)にはソ連を訪問し討議に参加するなど活躍した[2]。その頃の佐野は笹塚に居住していた[12]。その後福本イズムをめぐって中央委員を罷免され、1928年(昭和3年)には「三・一五事件」の弾圧で検挙されて転向し、保釈後の1931年(昭和6年)に肺結核で亡くなった[2][19]

脚注

注釈

  1. ^ 一高の『校友会雑誌』227号(大正2年6月15日号)には「草名数之助」という筆名による倉田艶子の「なつかしき幹」と題する短歌25首(佐野への恋歌など)が掲載されたこともあった[2]
  2. ^ 1年生の頃に菊池と佐野が一緒に国立上野図書館に行った時、インキ壺を持っている佐野が玄関入り口のところで門衛に咎められると、怒って感情的になった佐野がいきなり持っていたインキ壺を足下に投げつけたこともあった[10]。壺は割れ散乱したインキでそこら中が汚れたため、佐野は建造物毀損として危うく上野図書館の出入り禁止処分になるところだったという[10]
  3. ^ 日本では古くから同性愛の風習がみられ、高松中学でも上級生が下級生の美少年と兄弟の約を結ぶ風習があった[14]。鹿児島や熊本ではこれを「稚児」と呼び、高松では「ペット」と言った[14]。キリスト教では同性愛は罪悪であるが、日本の旧制中学ではむしろ女性との交際は士気を弛緩させ堕落させるものとして厳しく罰せられた一方、男子同士の恋愛は寛大で、気節を磨く倫理的なものとしてみなされていたという[14]
  4. ^ 渋谷彰はその後、東京外国学校西班牙語学科に進学し、卒業後は三井物産に就職。のちに郷里の香川県小豆島で県立中学の教員となり、退職後も島で暮らして90代まで長生きし、菊池からの手紙や交換日記を大事に保管していた[14][15]。その文面には「あなたは決して僕のPではない。私の世界でたゞ一人の愛弟であります」「My dear boy」という文言もみられる[14]。渋谷から菊池へ出した多くの返信もあったが、現在はどこにも残されていないという[14]
  5. ^ しかし、前言を翻すことなく佐野の罪をかぶったままの菊池の態度は、学校当事者たちに感銘を与えた[19]。特に新渡戸稲造は「一高の入学を志願した感心な前科者」と題する文章を同年5月に『実業之日本』に寄稿し、自身の在職中に最も感銘を受けたエピソードとして、マント事件とは分からないよう仮構化しながら、菊池の立場を弁護しその態度を賞讃した[4][19]
  6. ^ この成瀬峰子の親切に多大な感謝を感じていた菊池は、峰子夫人の死去に際して短編「大島が出来る話」(1918年)を『新潮』に書いて[4][2][3]、私家版『至誠院夫人の面影』(1920年3月)を上梓した[3]
  7. ^ 後年に菊池が創刊した『文藝春秋』の匿名批評欄でも、たびたび倉田百三が批判の的となり、倉田攻撃の急先鋒として編集同人の斎藤龍太郎の投稿も注目を浴びた[7][20]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「第一編 菊池寛の生涯 二、青春放浪時代」(小久保 2018, pp. 31–50)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az 「第十五章 菊池寛『文藝春秋』を創刊 〈2〉-〈7〉」(文壇史 2010, pp. 46–64)
  3. ^ a b c d 「学生時代――友と友の間」(アルバム菊池 1994, pp. 16–27)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 「半自叙伝」(文藝春秋 1928年12月号、1929年1月号)。菊池・随想23 1995, pp. 41–48に所収
  5. ^ a b 佐伯彰一「『劇的人間』のドラマチックな青春」(菊池・評論22 1995, pp. 632–648)
  6. ^ a b c d e f 片山宏行「《菊池寛文学のおもしろさ》作品のうしろ影 十」(菊池・感想24 1995月報「菊池寛全集通信・18」pp.1-9)
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m 「好色」(杉森 1987, pp. 50–85)
  8. ^ a b c d 「青木の出京」(中央公論 1918年11月号)。菊池・短編小説2 1993, pp. 247–266に所収
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n 関口 2006
  10. ^ a b c 「半自叙伝」(文藝春秋 1928年10月号)。菊池・随想23 1995, pp. 34–37に所収
  11. ^ a b 久米正雄「同性恋愛の宣伝者(菊池寛氏の印象)」(新潮 1919年1月号)。文壇史 2010, p. 46、杉森 1987, pp. 68–69に抜粋掲載
  12. ^ a b c d e 「その頃の菊池寛 一 はじめて菊池寛をたずねる」(江口 1995, pp. 109–124)
  13. ^ a b 「菊池寛と図書館と佐野文夫」(東条 2009, pp. 335–354)。初出は『香川県図書館学会会報』
  14. ^ a b c d e f g 「恋文」(杉森 1987, pp. 7–49)
  15. ^ 「京洛」(杉森 1987, pp. 86–111)
  16. ^ a b 「半自叙伝」(文藝春秋 1928年9月号)。菊池・随想23 1995, pp. 32–34に所収
  17. ^ a b c 成瀬正一の日記。文壇史 2010, pp. 49–50, 55–57に抜粋掲載
  18. ^ a b 長崎太郎「吾が友菊池寛」(山口アララギ会『なぎ』1956年2月)。文壇史 2010, pp. 51–53に抜粋掲載
  19. ^ a b c d e f g h i j 「第一編 菊池寛の生涯 三、作家修業時代」(小久保 2018, pp. 51–70)
  20. ^ 「仮面を剥ぐ」(杉森 1987, pp. 192–224)
  21. ^ 「半自叙伝」(文藝春秋 1929年6月号-8月号)。菊池・随想23 1995, pp. 34–37に所収
  22. ^ a b 「青顔朱髯のショオ」(中外日報 1914年6月2、3日)。菊池・評論22 1995, pp. 313–316に所収
  23. ^ a b 「文壇へ――記者から作家へ」(アルバム菊池 1994, pp. 28–47)
  24. ^ 「半自叙伝」(文藝春秋 1929年10月号)。菊池・随想23 1995, pp. 61–63に所収
  25. ^ 「半自叙伝」(文藝春秋 1929年12月号)。菊池・随想23 1995, pp. 65–67に所収
  26. ^ 「第一編 菊池寛の生涯 四、新進作家からジャーナリストへ」(小久保 2018, pp. 71–93)

参考文献

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  • 菊池寛『菊池寛全集第22巻 評論集』文藝春秋、1995年11月。ISBN 978-4166205202 
  • 菊池寛『菊池寛全集第23巻 随想集』文藝春秋、1995年12月。ISBN 978-4166205301 
  • 菊池寛『菊池寛全集第24巻 感想集』文藝春秋、1995年8月。ISBN 978-4166205400 
  • 浅井清 編『新潮日本文学アルバム39 菊池寛』新潮社、1994年1月。ISBN 978-4106206436 
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  • 川西政明『新・日本文壇史第3巻 昭和文壇の形成』岩波書店、2010年7月。ISBN 978-4000283632 
  • 小久保武 著、福田清人 編『菊池寛』(新装)清水書院〈Century Books 人と作品32〉、2018年4月。ISBN 978-4389401276  初版は1979年6月 ISBN 978-4389400323
  • 杉森久英『小説菊池寛』中央公論新社、1987年10月。ISBN 978-4120016196 
  • 関口安義『評伝 成瀬正一』日本エディタースクール出版部、1994年8月。ISBN 978-4888882200 
  • 関口安義反骨の教育家 : 評伝 長崎太郎 II」『都留文科大学研究紀要= 都留文科大学研究紀要』第64巻、都留文科大学、118-101頁、2006年。doi:10.34356/00000185NAID 110007055966https://doi.org/10.34356/00000185 
  • 東条文規『図書館という軌跡』ポット出版、2009年4月。ISBN 978-4780801231 

外部リンク