「ウバイドゥッラー・マフディー・ビッラー」の版間の差分
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[[file:Calif al Mahdi Kairouan 912 CE(png).png|thumb|ウバイドゥッラーのコイン]] |
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|人物名 = ウバイドゥッラー・アル=マフディー・ビッラー |
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|原語表記 = عبيد الله / ʿUbayd allāh |
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|画像 = Calif al Mahdi Kairouan 912 CE(png).png |
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|画像説明 = ウバイドゥッラーの[[ディナール]]金貨 |
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|地位 = [[イスマーイール派]][[イマーム]] |
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|地位付記 = 第11代 |
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|在位期間 = [[881年]] - [[934年]]2月22日 |
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|先代 = {{仮リンク|フサイン・イブン・アフマド|de|Hussein ibn Ahmad|en|Radi Abdullah}} |
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|次代 = {{仮リンク|カーイム・ビ・アムリッラー|en|Al-Qa'im (Fatimid caliph)}} |
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|地位2 = [[ファーティマ朝]][[カリフ]] |
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|地位付記2 = 初代 |
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|在位期間2 = [[909年]]11月 - [[934年]]2月22日 |
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|次代2 = カーイム・ビ・アムリッラー |
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|出生日 = [[873年]]もしくは[[874年]][[7月31日]] |
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|出生地 = [[フーゼスターン州|フーゼスターン]]もしくは{{仮リンク|サラミーヤ|en|Salamiyah}} |
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|死亡日 = [[934年]][[2月22日]] |
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|死亡地 = [[マフディーヤ]] |
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|変名 = サイード(出生名)、アブドゥッラー・アル=マフディー・ビッラーフ(別名)、アブー・ムハンマド・アブドゥッラー・イブン・アル=フサイン(別名) |
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|王室 = ファーティマ朝 |
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|王室類型 = 王朝 |
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|父親 = フサイン・イブン・アフマド |
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|子女 = アブー・カースィム(後のカーイム・ビ・アムリッラー) |
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|信仰 = [[イスラム教]][[シーア派]]イスマーイール派 |
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{{シーア派}} |
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'''ウバイドゥッラー''' |
'''ウバイドゥッラー・アル=マフディー・ビッラー'''([[873年]]もしくは[[874年]][[7月31日]] - [[934年]][[2月22日]])は、[[イスラム教]][[シーア派]][[イスマーイール派]]の第11代[[イマーム]]、[[北アフリカ]]を拠点とした[[ファーティマ朝]]の建国者で初代[[カリフ]]。アブドゥッラー・アル=マフディー・ビッラーフ、アブー・ムハンマド・アブドゥッラー・イブン・アル=フサインとも呼ばれる{{refnest|group="注"|「ウバイドゥッラー」の呼称は[[イスラム世界]]および西洋研究者の間で一般的に使用されているが、イスマーイール派内では「アブドゥッラー」を用いている{{sfn|菊地達也2005|p=34}}。}}。 |
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== 誕生までの時代背景 == |
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==概要== |
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[[預言者ムハンマド]]([[クライシュ族]][[ハーシム家]])の従弟で娘婿の第4代[[正統カリフ]]、[[アリー・イブン・アビー・ターリブ]]が661年に暗殺されると{{sfn|渥美堅持|2015|pp=156-159}}、その敵対勢力であったクライシュ族ウマイヤ家の[[ムアーウィヤ]]が唯一のカリフとなり、のちに世襲制を採ることになる[[ウマイヤ朝]]が成立した{{sfn|後藤明|2001|p=82}}。一方で、ウマイヤ家は預言者ムハンマド(ハーシム家)から系譜上で遠く、より近い系譜の人物が指導者たるべきだとする勢力は秘密結社をつくり、しばし反乱を起こしていた{{sfn|後藤明|2001|pp=94-95}}。この様な勢力の一つに、預言者ムハンマドの父方の叔父[[アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ]]の子孫があり、750年のウマイヤ朝の滅亡、[[アッバース朝]]の成立へと繋がった([[アッバース革命]]){{sfn|後藤明|2001|pp=95-96}}。一方で、「統率する資格があるのは、預言者ムハンマドの娘[[ファーティマ]]とその夫アリー・イブン・アビー・ターリブ(第4代正統カリフ)の息子である[[ハサン・イブン・アリー]]、[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン・イブン・アリー]]の子孫だけである」とする一派([[シーア派]])は、アッバース朝も認めなかった{{sfn|Brett|2017|p=18}}。フサイン・イブン・アリーの子孫たる[[イマーム#シーア派におけるイマーム|(シーア派における)歴代イマーム]]は、[[カリフ]]位を公然とは主張しなかったが、シーア派信者は歴代イマームを「地上における神の真の代理」と考えていた{{sfn|Brett|2017|p=18}}。 |
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[[イスラム]]史上唯一の重要な[[シーア派]][[カリフ]]国である[[ファーティマ朝]]の建国者。 |
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シーア派の第6代イマーム、[[ジャアファル・サーディク]]は、息子{{仮リンク|イスマーイール・イブン・ジャアファル|en|Isma'il ibn Ja'far}}を後継者に指名({{仮リンク|ナッス|en|Nass (Islam)}})したが、イスマーイール・イブン・ジャアファルは父に先立ち760年に死去{{sfn|後藤明|2001|p=128}}。765年にジャアファル・サーディクが死去すると、指名された後継者がいない状態となった{{sfn|桜井啓子|2006|p=27}}。シーア派の大部分は「イスマーイール・イブン・ジャアファルの異母兄弟[[ムーサー・カーズィム]]が第7代イマームに後継指名された」とし([[十二イマーム派]])、他方で、「イスマーイール・イブン・ジャアファルは実際には死んでおらず、迫害から信仰を守るため隠れた([[タキーヤ]])に過ぎない」とし、こちらを第7代イマームと認める一派もあった([[イスマーイール派]]){{sfn|桜井啓子|2006|p=27}}。なお、この第7代にイスマーイール・イブン・ジャアファルを当てるか、その息子{{仮リンク|ムハンマド・イブン・イスマーイール|en|Muhammad ibn Isma'il}}を当てるかで争いがあったが、9世紀末までには、息子の方のムハンマド・イブン・イスマーイールであるとされるようになった{{sfn|Brett|2017|p=18}}{{sfn|Halm|1991|pp=27–28}}{{sfn|Daftary|2007|pp=89–90}}。イスマーイール・イブン・ジャアファル、ムハンマド・イブン・イスマーイールともにその生涯はあまり知られておらず、ムハンマド・イブン・イスマーイールの死後、[[アッバース朝]][[ハールーン・アッ=ラシード]](在位786-809年)治世の頃には、初期イスマーイール派がどのような活動を行っていたか、よくわからない状況となった{{sfn|Daftary|2007|pp=90–96}}{{refnest|group="注"|[[イスラム学]]者・[[菊地達也]]によると、8世紀中盤までのイスマーイール派の活動と9世紀中盤以降の同派活動との関連について、アッバース朝からの迫害を逃れるため活動を地下に潜行させていたと思われ、同派による同時代資料が残っていないこと、アッバース朝は反イスマーイール派の宣伝活動の一環として虚実織り交ぜた情報発信を積極的に行っていたことから、正確な関係の実証はほとんど不可能としている{{sfn|菊地達也|2005|pp=18-19}}。}}。十二イマーム派もイスマーイール派も、アリー・イブン・アビー・ターリブの血統・子孫たるイマームの後継者が途絶えた場合、「最後のイマームは死んだわけではなく、単に姿を隠しただけである([[ガイバ (イスラム教)|ガイバ]]=幽隠)。やがて、{{仮リンク|イスラム教の終末論|label=この世の終末|en|Islamic eschatology}}の到来を告げに、[[救世主]]、[[マフディー]](正しく導かれし者)、もしくは{{仮リンク|カーイム・アル・ムハマンド|label=カーイム|en|Qa'im Al Muhammad}}(出現せし者)として戻ってくるだろう」と考えていた{{sfn|Brett|2017|p=18}}{{sfn|Halm|1991|p=28}}。 |
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イスマーイール派の教えを広めるために[[シリア]]から[[チュニジア]]に移動、チュニジアの[[ベルベル人]]たちからの支持を得てファーティマ朝を建てた。東にある[[アッバース朝]]に対抗して、カリフを名乗った<ref>{{cite kotobank |author=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |word=ウバイドゥッラー・アルマフディー |accessdate=2022-03-26 }}</ref>。 |
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「マフディー」たるムハンマド・イブン・イスマーイールは姿を隠した(ガイバ)ままであったが、忠実な信者を集め、「お言葉」を広め、その復活の準備を行う組織が必要であった。この教宣するための地下組織「{{仮リンク|ダアワ|en|Dawah}}」は、イマームが存在することの生きた証とされた{{仮リンク|フッジャ|en|Hujja}}が指導していた{{sfn|Halm|1991|pp=29-30}}。既知の最古のフッジャは、アスカル・ムクラム(Askar Mukram。現在の[[イラン]]南西部[[:en:Band-e Qir|Band-e Qir]])出身の裕福な商人{{仮リンク|アブドゥッラー・アル=アクバル|de|ʿAbdallāh al-Akbar|en|Ahmad al-Wafi}}とされるが、後の反イスマーイール派の論者が流布した荒唐無稽な話は別として、その詳細はよくわかっていない{{sfn|Halm|1991|pp=16–18}}。アブドゥッラー・アル=アクバルは、その教宣活動に問題があるとしてアッバース朝当局から迫害され、故郷を捨てて[[バスラ]]に逃げ込むことを余儀なくされた。バスラでは、預言者ムハンマドを出した[[ハーシム家]]の{{仮リンク|アキール・イブン・アビー・ターリブ|en|Aqil ibn Abi Talib}}{{refnest|group="注"|第4代正統カリフで初代イマームの[[アリー・イブン・アビー・ターリブ]]の兄<ref>{{cite journal |和書 |author1=熊倉和歌子 |author2=吉村武典 |author3=亀谷学 |author4=手島秀典 |author5=久保亮輔 |date=2021-09-30 |title=マムルーク朝前期・軍務庁書記官のための書記術指南:ヌワイリーの『学芸の究極の目的』「ディーワーンの書記術と財務のペン」(第2学芸・第5部・第14章)日本語訳注 |journal=アジア・アフリカ言語文化研究 |issue=102 |page=131 |publisher=[[東京外国語大学]]アジア・アフリカ言語文化研究所 |doi=10.15026/116719 |url=http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/116719/1/jaas102006_ful.pdf |format=PDF |accessdate=2022-04-24 }}</ref>。}}の子孫と称していた。ここでも当局に目を付けられ、[[シリア砂漠]]西端にある{{仮リンク|サラミーヤ|en|Salamiyah}}の小さな町に移ることとなった{{sfn|Halm|1991|pp=17–20}}。バスラ出身の商人としてサラミーヤに根を張り、ここで{{仮リンク|アフマド・イブン・アブドゥッラー|de|Ahmad ibn ʿAbdallāh|en|Muhammad at-Taqi (Isma'ili)}}とイブラヒムの二人の息子を儲けた。827-828年頃にアブドゥッラー・アル=アクバルが死去すると、アフマド・イブン・アブドゥッラーが父の跡を継いでイスマーイール派の指導者となった。アフマド・イブン・アブドゥッラーの次は、その次男アブー・アリー・ムハンマド(別名[[:de:Abu sch-Schalaghlagh|Abu sch-Schalaghlagh]])が跡を継ぐこととなった{{sfn|Halm|1991|pp=22–24}}{{sfn|Daftary|2007|p=100}}。 |
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イマームとしての在位は881年から934年まで。カリフとしての在位は909年から934年まで。イマームの先代は{{仮リンク|ラビ・アブドゥッラー|en|Radi Abdullah}}、イマームおよびカリフの次代は{{仮リンク|アル=カーイム (ファーティマ朝)|label=アル=カーイム|en|Al-Qa'im (Fatimid caliph)}}。 |
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== 誕生後の状況 == |
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ウバイドゥッラーは、教宣地下組織ダアワのフッジャ、アフマド・イブン・アブドゥッラーの長男である父{{仮リンク|フサイン・イブン・アフマド|de|Hussein ibn Ahmad|en|Radi Abdullah}}の子、サイードとして生まれた{{sfn|Halm|1991|pp=23–24, 62–63}}。公式の伝記では874年7月31日生まれとされるが、ちょうど1年前の873年7月31日生まれとする別の伝承がある{{sfn|Halm|1991|p=63}}。父フサイン・イブン・アフマドが880年頃に死去すると、叔父アブー・アリー・ムハンマド{{refnest|group="注"|その子と孫はアッバース朝に捉えられ投獄されたと伝わり、後継ぎがいなかった。}}の下で育った。こうして、ウバイドゥッラーは後継ぎに指名され、叔父の娘と結婚することとなった{{sfn|Halm|1991|p=63}}。893年3月もしくは4月、ウバイドゥッラーの一人息子アブー・カースィム(後の{{仮リンク|カーイム・ビ・アムリッラー|en|Al-Qa'im (Fatimid caliph)}})が誕生した{{sfn|Halm|1991|p=63}}。 |
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この頃、9世紀後半には、[[イスラム世界]]では{{仮リンク|ミレニアリズム|en|Millennialism}}への期待が高まりつつあり、また、10年間に及ぶサーマッラーの混乱([[:en:Anarchy at Samarra]])、各地方勢力の離反や自治開始の頻発、大規模な反乱であった[[ザンジュの乱]]{{refnest|group="注"|この反乱の指導者は{{仮リンク|アリー家|label=アリーの家系|en|Alids}}と主張し、自らを「マフディー」と宣言した{{sfn|Brett|2017|p=17}}。}}の発生、によりアッバース朝は深刻な危機に瀕していた{{sfn|Brett|2017|p=17}}。アッバース朝が反乱鎮圧に躍起になっていた、この混沌とした状況において、シーア派の十二イマーム派では、第12代イマームの幽隠や指導部の{{仮リンク|イスラム教における政治的キエティスム|label=政治的キエティスム|en|Political quietism in Islam}}を起因とする同派信者の不満感もあって、イスマーイール派の「ダアワ」は急速な広がりを見せるようになった{{sfn|Daftary|2007|p=108}}。{{仮リンク|ハムダーン・カルマト|en|Hamdan Qarmat}}やその義弟アブー・ムハンマド・アブダーン(Abu Muhammad Abdan)といった{{仮リンク|ダーイー|en|Da'i}}(教宣者)は870年代後半には組織のネットワークを[[クーファ]]周辺地域へ広げ、さらにそこから[[イエメン]](882年、{{仮リンク|イブン・ハウシャブ|en|Ibn Hawshab}}により)、[[インド]](884年)、{{仮リンク|東アラビア|en|Eastern Arabia}}地域(899年、{{仮リンク|アブー・サイード・ジャンナービー|en|Abu Sa'id al-Jannabi}}により)、[[ペルシア]]、[[マグリブ]](893年、[[アブー=アブドゥッラー]]により)へと広まった{{sfn|Halm|1991|p=47}}{{sfn|Daftary|2007|pp=108–110}} 。また、885年頃からは、地下活動による教宣活動のみならず、イエメン、イラク、北アフリカにおいては武装蜂起による反権力闘争も行われる様になった{{sfn|菊地達也2005|p=21}}。真の指導者はサラミーヤで秘密裡に隠伏したままで、そのことはハムダーン・カルマトといった各地域のダーイーの長のみが知っており、密かに連絡を取っていた{{sfn|Daftary|2007|p=116}}。しかし、その真の指導者は組織幹部にも直接には姿を現さなかったので、ファイルーズ何某(a certain Fayruz)が「ダーイー・アルドゥアート」(dā'ī al-duʿāt'。教宣者ダーイーの長)や「{{仮リンク|バーブ (シーア派)|label=バーブ|en|Bab (Shia Islam)}}」(取次する者。門の意)の役割を務めた{{sfn|Halm|1991|p=61}}。 |
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表向きは幽隠イマームに関する世話役に過ぎないとはいえ、ダアワは急速な広がりを見せ今や武装拠点も複数作っていることに自信を付けたのか、アブー・アリー・ムハンマドは「自分は、幽隠しているイマーム、ムハンマド・イブン・イスマーイールのフッジャ(幽隠イマームの代わりに統率する者)ではなく、イマームそのものである」とダアワ幹部に秘密裏に宣言し、加えて甥ウバイドゥッラーが「マフディー」(正しく導かれし者)であり、その幼子アブー・カースィムが「カーイム」(出現せし者)であると主張した{{sfn|Halm|1991|pp=61–62}}。のちには、ファーティマ朝はこの主張との辻褄を合わせるために様々の系図を示すことになった。最も一般的なものは、アブドゥッラー・アル=アクバル(初代とされるフッジャ)をムハンマド・イブン・イスマーイール(第7代イマーム)の息子とするものだったが、イスマーイール派寄りの資料でさえ、アフマド・イブン・アブドゥッラー(ウバイドゥッラーの父)以前のイマームの継承状況や名前に相違がある。例えば、ウバイドゥッラーは、ある書簡では、自身をムハンマド・イブン・イスマーイール(第7代イマーム)の子孫ではなく、その兄アブドゥッラーの子孫であるとしていた。反イスマーイール派の立場の[[スンニ派]]およびシーア派十二イマーム派側の資料では、当然のことながら、アリーの家系に連なるとするファーティマ朝を全く認めておらず、家系を詐称している偽者だとしている。ウバイドゥッラーの子アブー・カースィムを「カーイム」としていること(一般的には「マフディー」と同義とされる)が、事態をより理解しづらくしている。これは、「並立した二つのイマームの系統があり、一つは公けにされる系統(そしてこの系統は非アリー系)で、もう一つの隠された真実の系統からその務めを受託する形で真のイマームに仕えている」という解釈([[バーナード・ルイス]]が提唱)につながった。この解釈では、ウバイドゥッラーは最後の「公けにされる系統」で、その子アブー・カースィムは「真実の系統」のイマームであるとされた{{sfn|Canard|1965|pp=850–851}}{{sfn|Daftary|2007|pp=100–107}}。 |
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899年頃にアブー・アリー・ムハンマドが死去すると、教宣組織「ダアワ」指導者の立場を引き継いだ{{sfn|Halm|1991|pp=63–64}}。ほどなくして、ダアワ本部のあるサラミーヤからの書簡により、組織の公式教義の変化が明らかになった。組織幹部のハムダーン・カルマトはこれを懸念し、調査のために義弟アブー・ムハンマド・アブダーンをサラミーヤに派遣した。そこで「(幽隠していた)イマームはムハンマド・イブン・イスマーイールではなく、父のアフマド・イブン・アブドゥッラーであり、現時点では自分自身がイマームである」とウバイドゥッラーが主張していることを知った。これにより組織に大きな亀裂が生じた。ハムダーン・カルマトはサラミーヤの指導者ウバイドゥッラーを非難し、[[イラク]]のダーイー(教宣者)を集め布教活動を止めるよう命じた。ほどなくして、ハムダーン・カルマトは組織より失踪{{sfn|Halm|1991|pp=64–65}}{{sfn|Daftary|2007|pp=116–117}}、アブー・ムハンマド・アブダーンは殺害されるが、東アラビア、イエメンなどの勢力も呼応し、「ウバイドゥッラーのイマーム性の否定し、幽隠イマームであるムハンマド・イブン・イスマーイールの再臨」を信じ続ける勢力が[[カルマト派]]として分派することとなった{{sfn|菊地達也2005|p=23}}。 |
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== ファーティマ朝の樹立と治世 == |
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ウバイドゥッラー(アル=マフディー)がいるサラミーヤにカルマト派の脅威が迫るようになり{{sfn|菊地達也2005|p=23}}、また[[アブー=アブドゥッラー]]の[[マグリブ]]での教宣活動の成功{{refnest|group="注"|[[メッカ]]で出会った[[ベルベル人]][[クターマ族]]への教宣に成功、クターマ族の本拠地の[[マグリブ]]へ同行し、同地を拠点に教宣活動を行った{{sfn|菊地達也2005|p=21}}。}}が契機となり、899年、ウバイドゥッラーは商人に変装しサラミーヤを脱出することになった{{sfn|Hitti|1951|p=617}}<ref name="Mumtaz Ali Tajddin">{{cite web |author=Mumtaz Ali Tajddin |title=MUHAMMAD AL-MAHDI (268-322/881-934), 11TH IMAM |url=http://www.ismaili.net/heritage/node/10622 |website=Ismaili.NET - Heritage F.I.E.L.D. |publisher=The Heritage Society |accessdate=2022-04-25 |language=en }}</ref>。905年、当地で教宣活動を開始。しかし、[[スンナ派]][[アグラブ朝]]に捕らえられ、[[シジルマサ]]の牢に投獄された{{sfn|Hitti|1951|p=617}}。909年の初め、アブー=アブドゥッラーはウバイドゥッラー救出のため大規模な遠征軍を派遣、その途上で[[イバード派]][[ルスタム朝]]の{{仮リンク|ターハルト|fr|Tahert}}を征服した。ウバイドゥッラーは解放されると、勢力を増しているこの国(ファーティマ朝)の指導者となり{{sfn|Hitti|1951|p=618}}、「カリフ」「マフディー」を戴冠{{sfn|菊地達也2005|p=24}}、[[ケルアン]]、[[:en:Raqqada|Raqqada]]といった都市を攻略した[[ベルベル人]][[クターマ族]]を率いた。909年3月までにアグラブ朝は滅亡し、ファーティマ朝がこれに取って代わった{{sfn|Hitti|1951|p=617}}。これにより、スンナ派は[[北アフリカ]][[マグリブ]]地域における最後の拠点を失うこととなった{{sfn|Hitti|1951|p=617}}。 |
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911年頃になると、教宣を主導したアブー=アブドゥッラーを殺害、名実ともにファーティマ朝の支配者となった{{sfn|Hitti|1951|p=618}}。 |
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一方で、[[イスラム学]]者でその歴史に詳しい{{仮リンク|ハインツ・ハルム|en|Heinz Halm}}が「初期のファーティマ朝の体制は『クターマ族の覇権』に過ぎない」と評する様な状況であった{{sfn|Halm|1991|pp=162, 293}}。イマーム・カリフに選ばれた戦士という、この「半文明化部族」の地位に対し、他の[[ベルベル人]]だけでなく、アラビア文化が支配的な都市の住民も、大いに憤慨していた{{sfn|Halm|1991|p=158}} 。イフリーキヤ、[[シチリア]]、[[トリポリタニア]]へのファーティマ朝統治が始まってから数年は、クターマ族の傲慢さやクターマ族が行う収奪に抗う、当地住民の反乱が目立った{{sfn|Halm|1991|pp=158–162, 187}}。 |
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ウバイドゥッラーは、ケルアンの南東16[[マイル]]辺りの海岸沿いに、自身の王朝の首都を建設し、自身の名に因み[[マフディーヤ]]と名付けた{{sfn|Hitti|1951|p=618}}。この街は海に突き出た半島状(長さ約1.6km、幅約0.4km)の地に城、モスク{{refnest|group="注"|{{仮リンク|マフディーヤの大モスク|en|Great Mosque of Mahdiya}}、916年に半島の南側に建てられた{{sfn|Hadda|2008|p=72}}。}}、要塞、倉庫、港などが作られた<ref name="Mumtaz Ali Tajddin"/>。920年、ウバイドゥッラーはそこに居を移した{{sfn|Hitti|1951|p=618}}。 |
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921年、[[モロッコ]]に侵攻、[[イドリース朝]]より当地の支配権を奪った<ref name="Mumtaz Ali Tajddin"/>。 |
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922年、[[第一次ブルガリア帝国|ブルガリア]]皇帝[[シメオン1世]]はマフディーヤに使節を派遣、[[東ローマ帝国]]の首都[[コンスタンティノープル]]を共同で攻撃(ブルガリア側が大規模な陸軍、ファーティマ朝側が海軍との役割)しようと提案した。戦利品は全て均等に山分け、コンスタンティノープルはブルガリアが獲得、シチリアと[[南イタリア]]の東ローマ帝国領土はファーティマ朝が獲得との条件であった{{sfn|Fine|1991|p=152}}。{{仮リンク|ブルガリア・東ローマ戦争 (913年-927年)|label=ブルガリアと東ローマ帝国は913年より戦争状態|en|Byzantine–Bulgarian war of 913–927}}にあり、ブルガリアは922年までに[[バルカン半島]]のほぼ全域を支配下としたが、海軍力が不足していたため、シメオン1世が主目的として掲げていたコンスタンティノープル奪取には至っていなかった。なお、東ローマ帝国とファーティマ朝は914年に[[平和条約]]を締結していたが、918年以降はイタリア沿岸への攻撃を再開していた{{sfn|Fine|1991|p=152}}。 |
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ウバイドゥッラーは、コンスタンティノープルを共同で攻撃するというブルガリアの提案を受諾し、協定締結のため返使を送った{{sfn|Fine|1991|p=152}}。両国使節は船でブルガリアに向かうが、途中、[[カラブリア州|カラブリア]]の沿岸付近で東ローマ帝国側に捕まり、コンスタンティノープルに移送された{{sfn|Fine|1991|p=152}}。この公表されていない協定交渉を東ローマ帝国皇帝[[ロマノス1世レカペノス]]が知ると、ブルガリア側使節は投獄された一方で、ファーティマ朝側使節はカリフ宛てのたくさんの豪華な贈り物付きでマフディーヤに戻ることを許された。その後、東ローマ帝国はブルガリア皇帝シメオン1世に競り勝つために北アフリカに使節団を派遣し、最終的に、ファーティマ朝はブルガリア側に付かないことに同意した{{sfn|Fine|1991|pp=152–153}}。 |
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その生涯においては、[[マグリブ]]地域を超えて勢力を拡大させたが、[[エジプト]]への一連の侵攻([[ファーティマ朝のエジプト侵攻 (914年-915年)|914年-915年]]、[[ファーティマ朝のエジプト侵攻 (919年-921年)|919年-921年]])は、[[アッバース朝]]の抵抗に遭って多くの犠牲者を出し、うまくはいかなかった<ref name="Mumtaz Ali Tajddin"/>。 |
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934年2月22日にウバイドゥッラーが死去すると<ref name="Mumtaz Ali Tajddin"/>、息子{{仮リンク|カーイム・ビ・アムリッラー|en|Al-Qa'im (Fatimid caliph)}}が跡を継ぎ、領土拡張政策を引き継いだ{{sfn|Hitti|1951|p=619}}。 |
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== イスマーイール派イマームの系譜 == |
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{{sfn|桜井啓子|2006|p=24}}{{sfn|後藤明|2001|pp=108,130}}{{sfn|菊地達也|2005|pp=22,37}} |
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{{familytree/start}} |
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{{familytree | 初代 |-|v|-| 初代妻 |初代=(1) [[アリー・イブン・アビー・ターリブ]](第4代[[正統カリフ]]) |初代妻=[[ファーティマ]]([[預言者ムハンマド]]の娘) }} |
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{{familytree | |,|-|-|^|-|.}} |
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{{familytree | 第2代 | | | | 第3代 |第2代=(2) [[ハサン・イブン・アリー]] |第3代=(3) [[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン・イブン・アリー]]}} |
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{{familytree | |,|-|-|-|-|'}} |
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{{familytree | 第4代 |第4代=(4) [[アリー・ザイヌルアービディーン]]}} |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book |和書 |author=[[菊地達也]] |title=イスマーイール派の神話と哲学 イスラーム少数派の思想史的研究 |date=2005-12-09 |publisher=[[岩波書店]] |series=岩波アカデミック叢書 |isbn=4-00-026737-X |ref=harv }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=渥美堅持 |title=イスラーム基礎講座 |date=2015-07-17 |publisher=[[東京堂出版]] |isbn=978-4-490-20912-9 |ref=harv }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[後藤明 (歴史学者)|後藤明]] |title=ビジュアル版 イスラーム歴史物語 |date=2001-11-12 |publisher=[[講談社]] |isbn=4-06-209759-1 |ref=harv }} |
|||
* {{cite book |last=Brett |first=Michael |title=The Fatimid Empire |series=The Edinburgh History of the Islamic Empires |publisher=Edinburgh University Press |location=Edinburgh |date=2017-02-21 | isbn=978-0-7486-4076-8 |language=en |ref=harv }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[桜井啓子]] |title=シーア派 台頭するイスラーム少数派 |date=2006-10-25 |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |isbn=4-12-101866-4 |ref=harv }} |
|||
* {{cite book |last=Halm |first=Heinz |authorlink=:en:Heinz Halm |title=Das Reich des Mahdi: der Aufstieg der Fatimiden (875-973) |language=de |publisher=C. H. Beck |location=Munich |date=1991 | isbn= 978-3-406-35497-7 |ref=harv }} |
|||
* {{cite book |last=Daftary |first=Farhad |authorlink=:en:Farhad Daftary |date=2007-09-20 |title=The Ismāʿı̄lı̄s: Their History and Doctrines |edition=Second |place=Cambridge |publisher=Cambridge University Press |isbn=978-0-521-61636-2 |language=en |ref=harv }} |
|||
* {{cite book |last=Canard |first=Marius |authorlink=:en:Marius Canard |date=1965 |chapter=Fāṭimids |editor=[[バーナード・ルイス|Lewis, B.]]; [[:en:Charles Pellat|Pellat, Ch.]]; [[:en:Joseph Schacht|Schacht, J.]] |title=The Encyclopaedia of Islam |edition=New |volume=2: C-G |pages=850-862 |publisher=E. J. Brill |location=Leiden |doi=10.1163/1573-3912_islam_COM_0218 |language=en |ref=harv }} |
|||
* {{cite book |last=Hitti |first=Philip K. |date=1951 |chapter=A Shi'ite Caliphate in Egypt: The Fatimids |title=History of The Arabs |url=https://archive.org/details/in.gov.ignca.4274/mode/2up |pages=617–624 |publisher=Macmillan |authorlink=:en:Philip K. Hitti |language=en |ref=harv }} |
|||
* {{cite book |title=The Early Medieval Balkans, A Critical Survey from the Sixth to the Late Twelfth Century |last=Fine |first=J. |authorlink=:en:John Van Antwerp Fine Jr. |date=1991 |publisher=[[:en:University of Michigan Press|University of Michigan Press]] |isbn=0-472-08149-7 |language=en |ref=harv }} |
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== 関連文献 == |
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* {{cite book |last=Brett |first=Michael |title=The Rise of the Fatimids: The World of the Mediterranean and the Middle East in the Fourth Century of the Hijra, Tenth Century CE |series=The Medieval Mediterranean |volume=30 |publisher=BRILL |location=Leiden |date=2001 |isbn=9004117415 |language=en |ref=harv }} |
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* {{cite book |last=Dachraoui |first= F. |chapter=al-Mahdī ʿUbayd Allāh |volume=V: Khe–Mahi |pages=1242–1244 |doi=10.1163/1573-3912_islam_SIM_4783 |editor= Bosworth, C. E.; van Donzel, E.; Lewis, B. & Pellat, Ch. |title=The Encyclopaedia of Islam |edition=New |language=en |location=Leiden |publisher=E. J. Brill |date=1986 |isbn=978-90-04-07819-2 }} |
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== 関連記事 == |
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* [[:en:Family tree of Muhammad]] |
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* [[:en:List of Ismaili imams]] |
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* [[:en:People claiming to be the Mahdi]] |
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* [[:en:The Book of the Highest Initiation]] |
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2022年5月31日 (火) 12:14時点における版
ウバイドゥッラー・アル=マフディー・ビッラー عبيد الله / ʿUbayd allāh | |
---|---|
ウバイドゥッラーのディナール金貨 | |
先代 | フサイン・イブン・アフマド |
次代 | カーイム・ビ・アムリッラー |
次代 | カーイム・ビ・アムリッラー |
出生 |
873年もしくは874年7月31日 フーゼスターンもしくはサラミーヤ |
死亡 |
934年2月22日 マフディーヤ |
変名 | サイード(出生名)、アブドゥッラー・アル=マフディー・ビッラーフ(別名)、アブー・ムハンマド・アブドゥッラー・イブン・アル=フサイン(別名) |
王朝 | ファーティマ朝 |
父親 | フサイン・イブン・アフマド |
子女 アブー・カースィム(後のカーイム・ビ・アムリッラー) | |
信仰 | イスラム教シーア派イスマーイール派 |
シーア派 |
---|
教説 |
イマーム • マフディー ガイバ • タキーヤ |
分派 |
イマーム |
ウバイドゥッラー・アル=マフディー・ビッラー(873年もしくは874年7月31日 - 934年2月22日)は、イスラム教シーア派イスマーイール派の第11代イマーム、北アフリカを拠点としたファーティマ朝の建国者で初代カリフ。アブドゥッラー・アル=マフディー・ビッラーフ、アブー・ムハンマド・アブドゥッラー・イブン・アル=フサインとも呼ばれる[注 1]。
誕生までの時代背景
預言者ムハンマド(クライシュ族ハーシム家)の従弟で娘婿の第4代正統カリフ、アリー・イブン・アビー・ターリブが661年に暗殺されると[2]、その敵対勢力であったクライシュ族ウマイヤ家のムアーウィヤが唯一のカリフとなり、のちに世襲制を採ることになるウマイヤ朝が成立した[3]。一方で、ウマイヤ家は預言者ムハンマド(ハーシム家)から系譜上で遠く、より近い系譜の人物が指導者たるべきだとする勢力は秘密結社をつくり、しばし反乱を起こしていた[4]。この様な勢力の一つに、預言者ムハンマドの父方の叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫があり、750年のウマイヤ朝の滅亡、アッバース朝の成立へと繋がった(アッバース革命)[5]。一方で、「統率する資格があるのは、預言者ムハンマドの娘ファーティマとその夫アリー・イブン・アビー・ターリブ(第4代正統カリフ)の息子であるハサン・イブン・アリー、フサイン・イブン・アリーの子孫だけである」とする一派(シーア派)は、アッバース朝も認めなかった[6]。フサイン・イブン・アリーの子孫たる(シーア派における)歴代イマームは、カリフ位を公然とは主張しなかったが、シーア派信者は歴代イマームを「地上における神の真の代理」と考えていた[6]。
シーア派の第6代イマーム、ジャアファル・サーディクは、息子イスマーイール・イブン・ジャアファルを後継者に指名(ナッス)したが、イスマーイール・イブン・ジャアファルは父に先立ち760年に死去[7]。765年にジャアファル・サーディクが死去すると、指名された後継者がいない状態となった[8]。シーア派の大部分は「イスマーイール・イブン・ジャアファルの異母兄弟ムーサー・カーズィムが第7代イマームに後継指名された」とし(十二イマーム派)、他方で、「イスマーイール・イブン・ジャアファルは実際には死んでおらず、迫害から信仰を守るため隠れた(タキーヤ)に過ぎない」とし、こちらを第7代イマームと認める一派もあった(イスマーイール派)[8]。なお、この第7代にイスマーイール・イブン・ジャアファルを当てるか、その息子ムハンマド・イブン・イスマーイールを当てるかで争いがあったが、9世紀末までには、息子の方のムハンマド・イブン・イスマーイールであるとされるようになった[6][9][10]。イスマーイール・イブン・ジャアファル、ムハンマド・イブン・イスマーイールともにその生涯はあまり知られておらず、ムハンマド・イブン・イスマーイールの死後、アッバース朝ハールーン・アッ=ラシード(在位786-809年)治世の頃には、初期イスマーイール派がどのような活動を行っていたか、よくわからない状況となった[11][注 2]。十二イマーム派もイスマーイール派も、アリー・イブン・アビー・ターリブの血統・子孫たるイマームの後継者が途絶えた場合、「最後のイマームは死んだわけではなく、単に姿を隠しただけである(ガイバ=幽隠)。やがて、この世の終末の到来を告げに、救世主、マフディー(正しく導かれし者)、もしくはカーイム(出現せし者)として戻ってくるだろう」と考えていた[6][13]。
「マフディー」たるムハンマド・イブン・イスマーイールは姿を隠した(ガイバ)ままであったが、忠実な信者を集め、「お言葉」を広め、その復活の準備を行う組織が必要であった。この教宣するための地下組織「ダアワ」は、イマームが存在することの生きた証とされたフッジャが指導していた[14]。既知の最古のフッジャは、アスカル・ムクラム(Askar Mukram。現在のイラン南西部Band-e Qir)出身の裕福な商人アブドゥッラー・アル=アクバルとされるが、後の反イスマーイール派の論者が流布した荒唐無稽な話は別として、その詳細はよくわかっていない[15]。アブドゥッラー・アル=アクバルは、その教宣活動に問題があるとしてアッバース朝当局から迫害され、故郷を捨ててバスラに逃げ込むことを余儀なくされた。バスラでは、預言者ムハンマドを出したハーシム家のアキール・イブン・アビー・ターリブ[注 3]の子孫と称していた。ここでも当局に目を付けられ、シリア砂漠西端にあるサラミーヤの小さな町に移ることとなった[17]。バスラ出身の商人としてサラミーヤに根を張り、ここでアフマド・イブン・アブドゥッラーとイブラヒムの二人の息子を儲けた。827-828年頃にアブドゥッラー・アル=アクバルが死去すると、アフマド・イブン・アブドゥッラーが父の跡を継いでイスマーイール派の指導者となった。アフマド・イブン・アブドゥッラーの次は、その次男アブー・アリー・ムハンマド(別名Abu sch-Schalaghlagh)が跡を継ぐこととなった[18][19]。
誕生後の状況
ウバイドゥッラーは、教宣地下組織ダアワのフッジャ、アフマド・イブン・アブドゥッラーの長男である父フサイン・イブン・アフマドの子、サイードとして生まれた[20]。公式の伝記では874年7月31日生まれとされるが、ちょうど1年前の873年7月31日生まれとする別の伝承がある[21]。父フサイン・イブン・アフマドが880年頃に死去すると、叔父アブー・アリー・ムハンマド[注 4]の下で育った。こうして、ウバイドゥッラーは後継ぎに指名され、叔父の娘と結婚することとなった[21]。893年3月もしくは4月、ウバイドゥッラーの一人息子アブー・カースィム(後のカーイム・ビ・アムリッラー)が誕生した[21]。
この頃、9世紀後半には、イスラム世界ではミレニアリズムへの期待が高まりつつあり、また、10年間に及ぶサーマッラーの混乱(en:Anarchy at Samarra)、各地方勢力の離反や自治開始の頻発、大規模な反乱であったザンジュの乱[注 5]の発生、によりアッバース朝は深刻な危機に瀕していた[22]。アッバース朝が反乱鎮圧に躍起になっていた、この混沌とした状況において、シーア派の十二イマーム派では、第12代イマームの幽隠や指導部の政治的キエティスムを起因とする同派信者の不満感もあって、イスマーイール派の「ダアワ」は急速な広がりを見せるようになった[23]。ハムダーン・カルマトやその義弟アブー・ムハンマド・アブダーン(Abu Muhammad Abdan)といったダーイー(教宣者)は870年代後半には組織のネットワークをクーファ周辺地域へ広げ、さらにそこからイエメン(882年、イブン・ハウシャブにより)、インド(884年)、東アラビア地域(899年、アブー・サイード・ジャンナービーにより)、ペルシア、マグリブ(893年、アブー=アブドゥッラーにより)へと広まった[24][25] 。また、885年頃からは、地下活動による教宣活動のみならず、イエメン、イラク、北アフリカにおいては武装蜂起による反権力闘争も行われる様になった[26]。真の指導者はサラミーヤで秘密裡に隠伏したままで、そのことはハムダーン・カルマトといった各地域のダーイーの長のみが知っており、密かに連絡を取っていた[27]。しかし、その真の指導者は組織幹部にも直接には姿を現さなかったので、ファイルーズ何某(a certain Fayruz)が「ダーイー・アルドゥアート」(dā'ī al-duʿāt'。教宣者ダーイーの長)や「バーブ」(取次する者。門の意)の役割を務めた[28]。
表向きは幽隠イマームに関する世話役に過ぎないとはいえ、ダアワは急速な広がりを見せ今や武装拠点も複数作っていることに自信を付けたのか、アブー・アリー・ムハンマドは「自分は、幽隠しているイマーム、ムハンマド・イブン・イスマーイールのフッジャ(幽隠イマームの代わりに統率する者)ではなく、イマームそのものである」とダアワ幹部に秘密裏に宣言し、加えて甥ウバイドゥッラーが「マフディー」(正しく導かれし者)であり、その幼子アブー・カースィムが「カーイム」(出現せし者)であると主張した[29]。のちには、ファーティマ朝はこの主張との辻褄を合わせるために様々の系図を示すことになった。最も一般的なものは、アブドゥッラー・アル=アクバル(初代とされるフッジャ)をムハンマド・イブン・イスマーイール(第7代イマーム)の息子とするものだったが、イスマーイール派寄りの資料でさえ、アフマド・イブン・アブドゥッラー(ウバイドゥッラーの父)以前のイマームの継承状況や名前に相違がある。例えば、ウバイドゥッラーは、ある書簡では、自身をムハンマド・イブン・イスマーイール(第7代イマーム)の子孫ではなく、その兄アブドゥッラーの子孫であるとしていた。反イスマーイール派の立場のスンニ派およびシーア派十二イマーム派側の資料では、当然のことながら、アリーの家系に連なるとするファーティマ朝を全く認めておらず、家系を詐称している偽者だとしている。ウバイドゥッラーの子アブー・カースィムを「カーイム」としていること(一般的には「マフディー」と同義とされる)が、事態をより理解しづらくしている。これは、「並立した二つのイマームの系統があり、一つは公けにされる系統(そしてこの系統は非アリー系)で、もう一つの隠された真実の系統からその務めを受託する形で真のイマームに仕えている」という解釈(バーナード・ルイスが提唱)につながった。この解釈では、ウバイドゥッラーは最後の「公けにされる系統」で、その子アブー・カースィムは「真実の系統」のイマームであるとされた[30][31]。
899年頃にアブー・アリー・ムハンマドが死去すると、教宣組織「ダアワ」指導者の立場を引き継いだ[32]。ほどなくして、ダアワ本部のあるサラミーヤからの書簡により、組織の公式教義の変化が明らかになった。組織幹部のハムダーン・カルマトはこれを懸念し、調査のために義弟アブー・ムハンマド・アブダーンをサラミーヤに派遣した。そこで「(幽隠していた)イマームはムハンマド・イブン・イスマーイールではなく、父のアフマド・イブン・アブドゥッラーであり、現時点では自分自身がイマームである」とウバイドゥッラーが主張していることを知った。これにより組織に大きな亀裂が生じた。ハムダーン・カルマトはサラミーヤの指導者ウバイドゥッラーを非難し、イラクのダーイー(教宣者)を集め布教活動を止めるよう命じた。ほどなくして、ハムダーン・カルマトは組織より失踪[33][34]、アブー・ムハンマド・アブダーンは殺害されるが、東アラビア、イエメンなどの勢力も呼応し、「ウバイドゥッラーのイマーム性の否定し、幽隠イマームであるムハンマド・イブン・イスマーイールの再臨」を信じ続ける勢力がカルマト派として分派することとなった[35]。
ファーティマ朝の樹立と治世
ウバイドゥッラー(アル=マフディー)がいるサラミーヤにカルマト派の脅威が迫るようになり[35]、またアブー=アブドゥッラーのマグリブでの教宣活動の成功[注 6]が契機となり、899年、ウバイドゥッラーは商人に変装しサラミーヤを脱出することになった[36][37]。905年、当地で教宣活動を開始。しかし、スンナ派アグラブ朝に捕らえられ、シジルマサの牢に投獄された[36]。909年の初め、アブー=アブドゥッラーはウバイドゥッラー救出のため大規模な遠征軍を派遣、その途上でイバード派ルスタム朝のターハルトを征服した。ウバイドゥッラーは解放されると、勢力を増しているこの国(ファーティマ朝)の指導者となり[38]、「カリフ」「マフディー」を戴冠[39]、ケルアン、Raqqadaといった都市を攻略したベルベル人クターマ族を率いた。909年3月までにアグラブ朝は滅亡し、ファーティマ朝がこれに取って代わった[36]。これにより、スンナ派は北アフリカマグリブ地域における最後の拠点を失うこととなった[36]。
911年頃になると、教宣を主導したアブー=アブドゥッラーを殺害、名実ともにファーティマ朝の支配者となった[38]。
一方で、イスラム学者でその歴史に詳しいハインツ・ハルムが「初期のファーティマ朝の体制は『クターマ族の覇権』に過ぎない」と評する様な状況であった[40]。イマーム・カリフに選ばれた戦士という、この「半文明化部族」の地位に対し、他のベルベル人だけでなく、アラビア文化が支配的な都市の住民も、大いに憤慨していた[41] 。イフリーキヤ、シチリア、トリポリタニアへのファーティマ朝統治が始まってから数年は、クターマ族の傲慢さやクターマ族が行う収奪に抗う、当地住民の反乱が目立った[42]。
ウバイドゥッラーは、ケルアンの南東16マイル辺りの海岸沿いに、自身の王朝の首都を建設し、自身の名に因みマフディーヤと名付けた[38]。この街は海に突き出た半島状(長さ約1.6km、幅約0.4km)の地に城、モスク[注 7]、要塞、倉庫、港などが作られた[37]。920年、ウバイドゥッラーはそこに居を移した[38]。
921年、モロッコに侵攻、イドリース朝より当地の支配権を奪った[37]。
922年、ブルガリア皇帝シメオン1世はマフディーヤに使節を派遣、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを共同で攻撃(ブルガリア側が大規模な陸軍、ファーティマ朝側が海軍との役割)しようと提案した。戦利品は全て均等に山分け、コンスタンティノープルはブルガリアが獲得、シチリアと南イタリアの東ローマ帝国領土はファーティマ朝が獲得との条件であった[44]。ブルガリアと東ローマ帝国は913年より戦争状態にあり、ブルガリアは922年までにバルカン半島のほぼ全域を支配下としたが、海軍力が不足していたため、シメオン1世が主目的として掲げていたコンスタンティノープル奪取には至っていなかった。なお、東ローマ帝国とファーティマ朝は914年に平和条約を締結していたが、918年以降はイタリア沿岸への攻撃を再開していた[44]。
ウバイドゥッラーは、コンスタンティノープルを共同で攻撃するというブルガリアの提案を受諾し、協定締結のため返使を送った[44]。両国使節は船でブルガリアに向かうが、途中、カラブリアの沿岸付近で東ローマ帝国側に捕まり、コンスタンティノープルに移送された[44]。この公表されていない協定交渉を東ローマ帝国皇帝ロマノス1世レカペノスが知ると、ブルガリア側使節は投獄された一方で、ファーティマ朝側使節はカリフ宛てのたくさんの豪華な贈り物付きでマフディーヤに戻ることを許された。その後、東ローマ帝国はブルガリア皇帝シメオン1世に競り勝つために北アフリカに使節団を派遣し、最終的に、ファーティマ朝はブルガリア側に付かないことに同意した[45]。
その生涯においては、マグリブ地域を超えて勢力を拡大させたが、エジプトへの一連の侵攻(914年-915年、919年-921年)は、アッバース朝の抵抗に遭って多くの犠牲者を出し、うまくはいかなかった[37]。
934年2月22日にウバイドゥッラーが死去すると[37]、息子カーイム・ビ・アムリッラーが跡を継ぎ、領土拡張政策を引き継いだ[46]。
イスマーイール派イマームの系譜
(1) アリー・イブン・アビー・ターリブ(第4代正統カリフ) | ファーティマ(預言者ムハンマドの娘) | ||||||||||||||||
(2) ハサン・イブン・アリー | (3) フサイン・イブン・アリー | ||||||||||||||||
(4) アリー・ザイヌルアービディーン | |||||||||||||||||
(5) ムハンマド・バーキル | |||||||||||||||||
(6) ジャアファル・サーディク | |||||||||||||||||
イスマーイール・イブン・ジャアファル | ムーサー・カーズィム(十二イマーム派第7代イマーム) | ||||||||||||||||
(7) ムハンマド・イブン・イスマーイールが ガイバ (幽隠) | 以後、十二イマーム派第12代イマームがガイバ(幽隠) | ||||||||||||||||
(8) アブドゥッラー・アル=アクバル | |||||||||||||||||
(9) アフマド・イブン・アブドゥッラー | |||||||||||||||||
(10) フサイン・イブン・アフマド | アブー・アリー・ムハンマド(別名Abu sch-Schalaghlagh) | ||||||||||||||||
(11) ウバイドゥッラー | |||||||||||||||||
(12) カーイム・ビ・アムリッラー | |||||||||||||||||
脚注
注釈
- ^ 「ウバイドゥッラー」の呼称はイスラム世界および西洋研究者の間で一般的に使用されているが、イスマーイール派内では「アブドゥッラー」を用いている[1]。
- ^ イスラム学者・菊地達也によると、8世紀中盤までのイスマーイール派の活動と9世紀中盤以降の同派活動との関連について、アッバース朝からの迫害を逃れるため活動を地下に潜行させていたと思われ、同派による同時代資料が残っていないこと、アッバース朝は反イスマーイール派の宣伝活動の一環として虚実織り交ぜた情報発信を積極的に行っていたことから、正確な関係の実証はほとんど不可能としている[12]。
- ^ 第4代正統カリフで初代イマームのアリー・イブン・アビー・ターリブの兄[16]。
- ^ その子と孫はアッバース朝に捉えられ投獄されたと伝わり、後継ぎがいなかった。
- ^ この反乱の指導者はアリーの家系と主張し、自らを「マフディー」と宣言した[22]。
- ^ メッカで出会ったベルベル人クターマ族への教宣に成功、クターマ族の本拠地のマグリブへ同行し、同地を拠点に教宣活動を行った[26]。
- ^ マフディーヤの大モスク、916年に半島の南側に建てられた[43]。
出典
- ^ 菊地達也2005, p. 34.
- ^ 渥美堅持 2015, pp. 156–159.
- ^ 後藤明 2001, p. 82.
- ^ 後藤明 2001, pp. 94–95.
- ^ 後藤明 2001, pp. 95–96.
- ^ a b c d Brett 2017, p. 18.
- ^ 後藤明 2001, p. 128.
- ^ a b 桜井啓子 2006, p. 27.
- ^ Halm 1991, pp. 27–28.
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- ^ Daftary 2007, pp. 90–96.
- ^ 菊地達也 2005, pp. 18–19.
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関連文献
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関連記事
- en:Family tree of Muhammad
- en:List of Ismaili imams
- en:People claiming to be the Mahdi
- en:The Book of the Highest Initiation
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