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7世代目となる昭和57年(1982年)生まれの産駒の中に、ダイアトムの日本での最大の活躍馬となる'''[[クシロキング]]'''が出た。クシロキングは3歳(当時の表記では4歳)のクラシックシーズンには皐月賞に出たものの、22頭中の13着に終わった。この昭和60年(1985年)10月にダイアトムは死んだ。その後クシロキングは成長して連勝を始め、昭和61年(1986年)正月の[[中山金杯|金杯]](GIII)で初めて重賞を制すると、3月の[[中山記念]](GII)、4月の[[ |
7世代目となる昭和57年(1982年)生まれの産駒の中に、ダイアトムの日本での最大の活躍馬となる'''[[クシロキング]]'''が出た。クシロキングは3歳(当時の表記では4歳)のクラシックシーズンには皐月賞に出たものの、22頭中の13着に終わった。この昭和60年(1985年)10月にダイアトムは死んだ。その後クシロキングは成長して連勝を始め、昭和61年(1986年)正月の[[中山金杯|金杯]](GIII)で初めて重賞を制すると、3月の[[中山記念]](GII)、4月の[[天皇賞(春)]](GI)に勝って、ダイアトム産駒の日本での最初の大レースの勝ち馬となった。 |
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===父系の存続=== |
===父系の存続=== |
2022年3月11日 (金) 22:33時点における版
ダイアトム | |
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欧字表記 | Diatome |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 黒鹿毛 |
生誕 | 1962年 |
死没 | 1985年10月 |
父 | Sicambre |
母 | Dictaway |
母の父 | Honeyway |
生国 | フランス |
生産者 | Guy de Rothschild(ギー・ド・ロートシルト男爵) |
馬主 | Guy de Rothschild(ギー・ド・ロートシルト男爵) |
調教師 | Geoffroy Watson |
競走成績 | |
生涯成績 | 12戦6勝 |
獲得賞金 | 1,198,413フラン 及び 90,000ドル |
ダイアトム(Diatome)はフランス産[1] のサラブレッド競走馬である。生産者と馬主はフランス人のギー・ド・ロートシルト男爵で、フランス国内で走って良績をあげ、アメリカに遠征して当時の国際的な大競走の一つ、ワシントンDC国際ステークスに勝った。種牡馬として日本に輸入され、天皇賞馬クシロキングを出すなど好成績を残した。
概要
ダイアトムは、フランスの銀行家、ギー・ド・ロートシルト男爵(イギリス風に発音すると、ロスチャイルド男爵)による生産馬である。代々ロートシルト家が経営してきたモートリー牧場(en:Haras de Meautry)で生まれたダイアトムは、競走馬としても男爵が所有し、アメリカ遠征を除いてずっとフランス国内で走った。
不運なことに、ダイアトムと同じ年生まれのフランス競走馬には、シーバードとルリアンスという歴史的な名馬がいた。ダイアトムは数々の大レースでこの両馬に敵わなかったが、アメリカに遠征すると、当時の世界的な大レースの一つ、ワシントンDC国際ステークスでアメリカとカナダの代表馬を破った。
1967年に引退した後は生まれ故郷のモートリー牧場で種牡馬として過ごし、1975年に日本に輸出された。フランス時代の産駒からは、アイルランドのダービーを勝ったスティールパルス(Steel Pulse)が出た。日本では、天皇賞馬クシロキングなどが出た。
フランスでは同馬を記念して、サンクルー競馬場でダイアトム賞という競走が行われている。
血統
血統表
*ダイアトム Diatomeの血統 プリンスビオ系 | |||
父 Sicambre 1948 鹿毛 フランス産 |
Prince Bio 1941 鹿毛 フランス産 |
Prince Rose | Rose Prince |
Indolence | |||
Biologie | Bacteriophage | ||
Eponge | |||
Sif 1936 鹿毛 フランス産 |
Rialto | Rabelais | |
La Grelee | |||
Suavita | Alcantara | ||
Shocking | |||
母 Dictaway 1952 黒鹿毛 フランス産 |
Honeyway 1941 黒鹿毛 イギリス産 |
Fairway | Phalaris |
Scapa Flow | |||
Honey Buzzard | Papyrus | ||
Lady Peregrine | |||
Nymphe Dicte 1935 鹿毛 フランス産 |
*ダイオライト | Diophon | |
Needle Rock | |||
Nanaia | Kircubbin | ||
グランクリテリウム2着
|
Lannette F-No.12-e |
父シカンブル
シカンブルの母のシフ(Sif)は傑出した繁殖牝馬で、9頭の産駒のうち4頭がステークスウィナーになった。特に、父をプリンスビオとする全兄弟のシノネ(Senones)とシカンブル(Sicambre)がその代表で、シカンブルはフランスダービー、パリ大賞典の二大レースのほか、グランクリテリウム、ギシュ賞、グレフュール賞に勝った。
シカンブルは種牡馬になっても大成功をおさめ、産駒はイギリス、アイルランド、フランス、アメリカの4ヶ国のクラシックレースを勝った[2]。
母の父リアルト(Rialto)はイスパーン賞に勝ち、凱旋門賞では2着だった馬である。シカンブルもリアルトもジャン・ステルン(Jean Stern)氏の所有馬で、白地に水色の星をあしらったステルン氏の勝負服は人気があった。日本で種牡馬になった*スノッブ(Snob)やフランス2000ギニーの勝馬フリーマン(Free Man)もステルン氏の所有馬だった。ステルン氏はダイアトムが生まれた1962年の暮れに88歳で没している[3]。
母ディクタウェイ
ディクタウェイの母系はロートシルト家が所有するモートリー牧場の代表する名牝系で、19世紀の活躍馬ジュスティシャ(Justicia)に遡ることができる。ジュスティシャは「2歳賞(Prix des Deux Ans、後のモルニ賞)」という大レースに勝ち、繁殖牝馬として数頭の重賞勝ち馬を産んだ[4]。
ジュスティシャから数えて5代目にあたるニンフディクテ(Nymphe Dicte)は、父が日本に輸入されて大成功したダイオライトである。ニンフディクテはスピードのある競走馬で、グランクリテリウムやマルレ賞で2着になった。ニンフディクテが引退して繁殖牝馬になってすぐ、第二次世界大戦が始まり、フランスにはドイツ軍が進攻し、モートリー牧場の牝馬の多くがドイツ軍に接収されてドイツへ持ち去られてしまった。ニンフディクテもドイツに奪われ、ドイツで数頭の子を産んだ。戦後、これらの子とニンフディクテは無事にモートリー牧場に戻ってきたが、ドイツ時代の産駒の子孫から2歳チャンピオンのドラゴンブラン(Dragon Branc)やパリ大賞典に勝ったホワイトレーベル(White Label)が出た[4]。
1952年生まれのディクタウェイ(Dictaway)は、1949年に亡くなった父の跡を継いだギー・ド・ロートシルト男爵による生産馬である。男爵は、代を重ねて長距離偏重になっていたモートリー牧場の繁殖牝馬にスピードを加えるため、一部をイギリスに送りこんでイギリスの種牡馬と交配させてた。ディクタウェイの母ニンフディクテもそのうちの1頭で、ニンフディクテにはイギリスのスプリンターであるハニーウェイ(Honeyway)が交配された。こうして誕生したのがディクタウェイである[4]。
ハニーウェイはジュライカップやコークアンドオラリーステークスといった6ハロン(約1207メートル)の大レースに勝ったスプリンターで、ほかにもキングジョージステークスなど5ハロン(約1006メートル)の重賞も勝っている。短距離馬であったが、例外的に10ハロン(約2012メートル)のチャンピオンステークスにも勝った[5]。
ディクタウェイは1955年に仏1000ギニーに優勝し、クラシックウィナーとなった。ディクタウェイは引退後、モートリー牧場で繁殖牝馬となり、ダイアトムを産んだ[6]。
競走馬時代
競走成績
- 12戦6勝 2着5回 3着1回
- 収得賞金:1,198,413フラン 90,000ドル[7]
主な成績
- 1着:ワシントンDC国際ステークス、ガネー賞、ノアイユ賞、プランスドランジュ賞、ボイアール賞
- 2着:フランスダービー、パリ大賞典、サンクルー大賞典、リュパン賞、ドラール賞
- 3着:凱旋門賞
1962年生まれのフランス馬
ダイアトムの生涯戦績は12戦6勝だが、敗れた6戦のうち4戦はシーバードかルリアンスに敗れたものだった。シーバードとルリアンス以外でダイアトムに先着したことがある馬は、ドラール賞でのタジュベナ(Tajubena)と、引退レースとなったサンクルー大賞典でのシーホークの2頭だけある。
2歳時(1964年)
ダイアトムは2歳の時は1度しか出走していない。トランブレー競馬場のトレパ賞(1800メートル)でデビューし、勝った[8]。
3歳時(1965年)
春シーズン
3歳になったダイアトムは4月25日のノアイユ賞に出て、2着馬に2馬身半差をつけて勝った[8]。
続くリュパン賞には、プール・デッセ・デ・プーラン(フランス2000ギニー)の優勝馬カンブルモン(Cambremont)が出てきたが、既にイギリスダービーの本命と目されていたシーバードが中心とみられていた。ダイアトムはゴール前で先頭に立ったが、あっという間にシーバードにかわされてしまった。シーバードは鞭も使わずにそのままゴールした。ダイアトムはカンブルモンを半馬身抑えきって2着になったが、シーバードとの差は6馬身あった[9]。
ダイアトムは続けてジョッキークラブ賞(フランスダービー)に出た。シーバードはイギリスのダービーへ向かったのでここには出て来なかったが、かわって現れたのがルリアンス(Reliance)だった。ルリアンスはジョッキークラブ賞の前哨戦のひとつ、オカール賞を勝ってきた2戦2勝の馬だった。このジョッキークラブ賞では、ルリアンスは先行して、直線の半ばで先頭に立った。ダイアトムはこれを追ったが、3/4馬身差で及ばず2着だった。着差はそれほど大きくなかったが、実際にはルリアンスの方は鞭を一度も使っていなかったので、ルリアンスの楽勝だと思われた[10]。
次のレースは、6月末に行われる、英仏の3歳馬が集まるパリ大賞典になった。3000メートルのこのレースでも、最後はルリアンスとの争いになった。ダイアトムはルリアンスに並びかけたが、ジョッキークラブ賞の時とは違い、ルリアンスには鞭が入った。するとルリアンスはダイアトムをあっさり離し、1馬身差をつけてゴールした[11]。
凱旋門賞
こうしてダイアトムはこの年のフランスの3歳馬としては3番手の評価に甘んじることになったが、秋にはシーバード、ルリアンスともにいないプランスドランジュ賞を2馬身半差で楽勝し、フランスの最大のレースである第44回凱旋門賞に挑むことになった。この年の凱旋門賞には、シーバードとルリアンスの二強が揃って出てきたが、ほかにもアイルランドやソ連からダービー馬が遠征してきたし、アメリカからも最良の3歳馬トムロルフが遠征してきて、凱旋門賞史上、最も層の厚い顔ぶれになった。ダイアトムにはフリーライド(Free Ride)という僚馬がおり、同馬主の馬は一つの馬券とみなされて発売されるのだが、このダイアトムとフリーライドのカップル馬券は、シーバード、リライアンスに次ぐ3番人気で8.5倍だった[12]。
この年のロンシャン競馬場では、前週から雨が降り続いた影響で、コースは重くなって非常にスタミナを要求される馬場になった。トムロルフ、シーバード、ルリアンスらが比較的先行したのに対し、ダイアトムは後ろに控えてレースを進めた。中盤を過ぎて坂を下り始めると、有力馬はこぞって前へ出て行き、ダイアトムも後方から差を詰めた。最後の直線では、大方の予想に反し、シーバードのワンサイドゲームとなった。余裕を持って手綱を緩めたシーバードは、それでも2着のルリアンスに6馬身の差をつけた。ルリアンスから更に5馬身離れた3着にダイアトムが入り、後方から追い込んだフリーライドが短頭差で4着になった[13][14]。
北米遠征
この勝利によってシーバードは高い評価を受けることになったが、その評価を形成することになったのは、この凱旋門賞のあとでダイアトムがアメリカに遠征して力を証明したからである。ダイアトムは凱旋門賞のあとアメリカに渡り、11月11日にワシントンDC国際ステークスに出走した。アメリカ側の代表馬はローマンブラザー(Roman Brother)で、この年既にアメリカの最強馬を決めるジョッキークラブ金杯をはじめ、ウッドワードステークス、マンハッタンハンデキャップなどの大レースに勝っていた。北米代表のもう1頭はカナダのチャンピオンホース、ジョージロイヤル(George Royal)で、カナダの大レースの他、アメリカでもサン・フアン・カピストラーノ・ハンデに勝っていた。他には、フランス時代から争ってきた同世代のカルヴァン(Carvin)も出走した[15][16]。
最後の直線で、ローマンブラザーが先頭に立った。一方、ダイアトムは内に包まれて出るに出られなくなった。カルヴァンのほうが残り200メートルでローマンブラザーに並びかけ、差し切ろうというところで、ようやくダイアトムが馬群を抜け出した。ダイアトムはそこから爆発的な加速をみせて、最後の最後に短頭差だけカルヴァンを捉えて優勝した。ローマンブラザーは3着、ジョージロイヤルは4着だった。ローマンブラザーはこの年のアメリカチャンピオンに選ばれたが、凱旋門賞組が北米に遠征してこれを破ったことで、凱旋門賞でのシーバードの勝利はより価値が高まった[15]。
4歳時(1966年)
シーバードが凱旋門賞を最後に引退したので、この世代ではルリアンスとダイアトムが二強ということになった。ダイアトムは3月にボイヤール賞(2000メートル)でシジュベール(Sigebert)の追撃を半馬身抑えきって勝った。シジュベールは前年のアンリフォワ賞に勝った馬で、凱旋門賞ではシーバードの前に着外に敗れていた。ダイアトムは、続いて春最初の大レースであるガネー賞(2000メートル)に臨んだ。ここでもダイアトムとシジュベールの争いになり、3/4馬身差でダイアトムが勝った。馬主のロートシルト男爵にとっては、4度目のガネー賞勝利となったが、これはフランソワ・デュプレ氏と並んでガネー賞の最多記録である[17][18][19]。
ダイアトムは続いて、6月のドラール賞(2500メートル)に出た。ここでダイアトムは、5キロ斤量の軽い大穴のタジュベナ(Tajubena)に不覚をとってしまい、3/4馬身差の2着に敗れてしまった。次にダイアトムが出走したのは7月のサンクルー大賞典だった。当時のサンクルー大賞典は3歳馬が初めて古馬と対戦する大レースで[20]、ダイアトムの側からすると1歳下の3歳勢を迎え撃つ立場だった。ダイアトムは61キロを背負って出走したが、7キロ軽い斤量の3歳馬シーホークに2馬身差で敗れてしまった[18][19][21]。
ダイアトムはこのあと、秋の凱旋門賞を目指す予定だったが、調教中に腱を痛めてしまった。この怪我が原因で、ダイアトムは以後出走ができなくなり、引退することになった。サンクルー大賞典で対戦したシーホークも同じ頃に怪我をして引退することになり、「二強」のもう1頭、ルリアンスもこの年はアクシデントが続いて結局一度も出走できないまま引退となった。この年の凱旋門賞は、開催直前に6日間連続で雨が降り、ひどい不良馬場で行われたのだが、この年の前半にダイアトムに2戦して2敗のシジュベールが逃げ、ゴール寸前まで粘って半馬身差の2着になった[22]。さらに、サンクルー大賞典でダイアトムよりも遅れた3着のベイトアン(Behistoun)はアメリカに渡ってワシントンDCインターナショナルステークスに優勝した[23]。
評価
ダイアトムは12戦して6回敗れたが、そのうち5戦は2着で、生涯で最悪の成績は凱旋門賞の3着である。3歳時の4敗はいずれもシーバードかルリアンスに敗れたもので、この両馬以外にダイアトムに先着した馬はいない。もしもシーバードとルリアンスという、フランス競馬史上に残る2頭の名馬と同じ年に生まれていなければ、ダイアトムはリュパン賞、フランスダービー、パリ大賞典、凱旋門賞というフランスの4大競走を勝っていたかもしれない。ダイアトムは古馬になってから敗れた2戦は、それぞれ5キロ、7キロ斤量が軽い馬に敗れたものだった。
ダイアトム賞
ダイアトムを記念して、サンクルー競馬場ではダイアトム賞(Prix Diatome)という競走が行われている。3歳馬による2400メートルの競走で、通例、7月の上旬に行われる。最近では、2012年に凱旋門賞を勝ってジャパンカップにも出走したソレミアの半兄プロスペクトウェルズ(Prospect Wells)がダイアトム賞の勝馬である[24][25]。
種牡馬時代
フランス時代
引退したダイアトムは、1967年からロートシルト男爵のモートリー牧場で種牡馬になった。最初に活躍したのは、2世代目のスティールパルス(Steel Pulse)で、1971年の秋にフランスの2歳重賞、クリテリウム・ド・メゾンラフィット(en:Critérium de Maisons-Laffitte、G2)に勝った。スティールパルスはG1のグランクリテリウムにも出たが、ハードツービートに敗れて2着だった[26][27]。
翌1972年には、ジャコミマ(Jakomima)が5月にイギリスでムシドラステークス(en:Musidora Stakes、G3)に勝った。翌6月には、ダイアトムと同じギー・ド・ロートシルト男爵の持馬ヘアドゥー(Hair Do)がフランスのリス賞(G2)を勝った。さらに6月末にはスティールパルスがアイルランドダービー(G1)に勝ちった。この1972年にダイアトムはイギリスの種牡馬ランキングで6位に入っている[26][27]。
その後ダイアトムの産駒からは、1973年から1974年にかけて、フランスのG2戦オカール賞やドラール賞に勝ったマルグイヤ(Margouillat)、リス賞(G2)に勝ったブルーダイヤモンド(Blue Diamond)が出た。ダイアトムは1974年までフランスで供用された後、1975年(昭和50年)1月に日本へ輸出された。その後もフランスに残った産駒の中から、キングオブマセドン(King of Macedon)などの活躍馬が出た[26][27]。
日本時代
日本には既にシカンブルの産駒としてシーフュリュー(Si Furieux)、ムーティエ(Moutiers)などが輸入され、種牡馬として複数のクラシック優勝馬を出して大成功していたが、競走馬としてはダイアトムはこれらよりも遙かに上の活躍馬だった。ダイアトムは北海道の三石町の本桐牧場に繋養された。日本での産駒がデビューしたのは昭和53年(1978年)で[28]、この年の新種牡馬チャンピオンになった。翌年、この世代が3歳(※当時の表記方法では「4歳」)になると、1月にファーストアモンが京成杯に勝った。ほかにも、カミノカオル、ダイワプリマ、シャダイプリンセスがクラシック路線に進んでG1レースへの出走を果たした[26][27]。
2世代目からはコマサツキが登場し、4歳牝馬特別(オークストライアル)に勝って、優駿牝馬(オークス)で1番人気になった。この日のオークスは重馬場になって、人気馬が総崩れとなり、10番人気のケイキロクが勝って大荒れになった。コマサツキは結局そのまま一度も勝てずに終わった[26][27]。
3世代目の中からはハシノエースが日本ダービーで僅差の4着になった。このあとも毎年のように、クラシックレースへ出走する産駒が出たが、これらの初期の活躍馬を超える成績をおさめたものは出なかった[26][27]。
クシロキング
7世代目となる昭和57年(1982年)生まれの産駒の中に、ダイアトムの日本での最大の活躍馬となるクシロキングが出た。クシロキングは3歳(当時の表記では4歳)のクラシックシーズンには皐月賞に出たものの、22頭中の13着に終わった。この昭和60年(1985年)10月にダイアトムは死んだ。その後クシロキングは成長して連勝を始め、昭和61年(1986年)正月の金杯(GIII)で初めて重賞を制すると、3月の中山記念(GII)、4月の天皇賞(春)(GI)に勝って、ダイアトム産駒の日本での最初の大レースの勝ち馬となった。
父系の存続
フランス時代の活躍馬、スティールパルスやマルグイヤは種牡馬になった。スティールパルスはオーストラリアに輸出されて種牡馬になり、VRCニューマーケットハンデ(G1)を連覇したレイザーシャープ(Razor Sharp)等を出した。ほかにもG2勝馬が種牡馬になり、1990年代までオーストラリアで父系を残している。マルグイヤはフランスで種牡馬になり、コンセイユドパリ賞(G2)を勝ったアンカルカ(En Calcat)を通じて、1990年代まで父系を残した[29]。日本ではクシロキングやファーストアモン、ヤスナガなどが種牡馬になったが、特筆すべき産駒を出さないまま1990年代半ばに死亡している。
母の父
ダイアトムが現役時代に同世代のライバルの1頭だったカルヴァン(Carvin)の半妹となるカルヴィニア(Carvinia)はダイアトムの産駒である[30]。このカルヴィニアの孫のナスルエルアラブ(Nasr El Arab)はフランスとアメリカでG1競走を4勝し、種牡馬として日本に輸入された。日本国内では、平成2年(1990年)にオークスに勝ったエイシンサニーの母の父がダイアトムである。このほか初年度産駒のピンクメリーが繁殖牝馬となり、札幌記念や愛知杯を勝ったグレートモンテを産んだ。[31][32]。
各種指標
- フランス時代の産駒の勝利数
- フランス 268勝(獲得賞金:13,779,266フラン)
- イギリス 13勝(獲得賞金:109,311ポンド)
- アメリカ 6勝(獲得賞金:40,260ドル)
- LS(種牡馬ランキング)
- 1972年イギリス6位
- 1974年フランス9位
- 1975年フランス14位
- 1976年フランス8位
- 1977年フランス17位
- 1978年フランス8位
- AD(産駒の勝利の平均距離) フランス:10.5[33]
主な産駒
フランス
- スティールパルス(Steel Pulse) - 1972年アイルランドダービー(G1)、クリテリウムドメゾンラフィット、グランクリテリウム2着
- マルグイヤ(Margouillat)- 1973年オカール賞(G2)、1974年ドラール賞(G2)、凱旋門賞3着
- ヘアドゥー(Hair Do) - 1972年リス賞(G2)
- ブルーダイヤモンド(Blue Diamond) - 1974年リス賞(G2)
- キングオブマセドン(King of Macedon) - 1978年・1979年モートリー賞(G3)、1978年・1979年セーネワーズ賞(en:Prix de Seine-et-Oise、G3)、1978年モーリスドギース賞(G3)、1979年サンジョルジュ賞(en:Prix de Saint-Georges、G3)
日本
- クシロキング - 天皇賞(春)、中山記念、日刊スポーツ賞金杯
- コマサツキ - 4歳牝馬特別
- ファーストアモン - 京成杯、新潟大賞典
- ショウハイホープ - 戸塚記念
- カネコメスワロー - 北海優駿
- ヤスナガ - 荒尾ダービー
出典・脚注
- ^ 産国については、フランス産とする資料とイギリス産とする資料がある。ここでは状況からフランス産とした。詳しくはノートページ参照。
- ^ サラブレッド・ヘリテイジ ラブレー 2013年3月15日閲覧
- ^ 『フランス競馬百年史』p191
- ^ a b c サラブレッド・ヘリテイジ ロートシルト家のモートリー牧場 2013年3月15日閲覧
- ^ サラブレッド・ヘリテイジ フェアウェー 2013年3月15日閲覧
- ^ サラブレッドヘリテイジ ロートシルト家のモートリー牧場
- ^ 『日本の種牡馬録vol.III』p270および『日本の種牡馬録5』による。『サラブレッド種牡馬銘鑑』第4巻p122では、ダイアトムの収得賞金を1,643,013フランと90,000ドルとしている。両者の差は444,600フランであるが、当時の大レースの一つ、サンクルー大賞典の賞金が50万フランであるから、これは相当な差異である。『サラブレッド種牡馬銘鑑』には凡例がないため詳細は不明である。一方『日本の種牡馬録』では詳細ではないものの凡例があり、なおかつ各年毎の収得賞金の内訳も掲載されていることから、『日本の種牡馬録』の数字を記載した。英語版記事(en:Diatome)は1,643,013フランとしている。
- ^ a b 『凱旋門賞の歴史』第3巻p10
- ^ 『凱旋門賞の歴史』第3巻p5
- ^ 『凱旋門賞の歴史』第3巻p6
- ^ 『凱旋門賞の歴史』第3巻p7
- ^ 『凱旋門賞の歴史』第3巻p10-14,p24
- ^ 『凱旋門賞の歴史』第3巻p14-16
- ^ 『フランス競馬百年史』p200
- ^ a b 『凱旋門賞の歴史』第3巻p18
- ^ 『Family Tables of Racinghorses Vol.Ⅳ』(サラブレッド血統センター編、日本中央競馬会・日本軽種馬協会刊、2003)
- ^ この最多勝記録は2012年現在破られていない フランスギャロHP ガネー賞の歴史 2013年3月16日閲覧。
- ^ a b 『凱旋門賞の歴史』第3巻p33-34
- ^ a b 『フランス競馬百年史』p204
- ^ 2005年から3歳馬が出走できなくなった。
- ^ ダイアトム全成績 2013年3月16日閲覧。
- ^ 勝ったのは日本にも輸入されたボンモー(Bon Mot)だった。『凱旋門賞の歴史』第3巻p34-36
- ^ 『フランス競馬百年史』p204-207
- ^ ソレミアの母系 2013年3月16日閲覧。
- ^ 2010年ダイアトム賞の結果 2013年3月16日閲覧。
- ^ a b c d e f 『日本の種牡馬録volIII』p230-231
- ^ a b c d e f 『日本の種牡馬録5』p270-271
- ^ 実際には、これに先駆けて昭和48年(1973年)にダイアトムの産駒が少なくとも1頭、日本で走り、2勝をあげている。持込馬か外国産馬だと思われるが、詳細は不明。『日本の種牡馬録5』p270-271
- ^ 各馬の詳細は『Family Tables of Racinghorses Vol.IV』等を参照。
- ^ つまり、カルヴァンの母にダイアトムを配合して生まれたのがカルヴィニアである。
- ^ 『日本の種牡馬録6』p356-357
- ^ 『日本の種牡馬録8』p562
- ^ Average Distance、産駒の勝利した距離の平均値のことで、この値が10.5ハロン=約2100メートルであることを示す。
参考文献
- ダイアトム重賞成績 2013年3月16日閲覧。
- サラブレッド・ヘリテイジ ロートシルト家のモートリー牧場 2013年3月13日閲覧。
- サラブレッド・ヘリテイジ リアルト 2013年3月13日閲覧。
- 『日本の種牡馬録vol.III』白井透・著、サラブレッド血統センター・刊、1977
- 『日本の種牡馬録5』白井透・著、サラブレッド血統センター・刊、1987
- 『日本の種牡馬録6』白井透・著、サラブレッド血統センター・刊、1991
- 『日本の種牡馬録8』白井透・著、サラブレッド血統センター・刊、1998
- 『サラブレッド種牡馬銘鑑』第4巻、日本中央競馬会・刊、1977
- 『凱旋門賞の歴史(第三巻)1965-1982』A・フィッツジェラルド・著、草野純・訳、競馬国際交流協会・刊、1997
- 『フランス競馬百年史』ギイ・チボー・著、真田昌彦・訳、競馬国際交流協会・刊、2004
- 『新・世界の名馬』原田俊治・著、サラブレッド血統センター・刊、1993
- 『伝説の名馬PartII』山野浩一・著、中央競馬ピーアール・センター・刊、1994
- 『サラブレッド血統事典』山野浩一・著、二見書房・刊、1991年(第6版)
- 『Family Tables of Racinghorses Vol.IV』サラブレッド血統センター編、日本中央競馬会・日本軽種馬協会刊、2003