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2022年3月1日 (火) 20:20時点における版
尹泰日 | |
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生誕 |
1918年6月18日 日本統治下朝鮮京畿道仁川府 |
死没 |
1982年10月12日(64歳没) 大韓民国ソウル特別市 |
所属組織 |
満州国軍 大韓民国陸軍 |
最終階級 |
中尉(満州国軍) 中将(韓国陸軍) |
墓所 | 国立ソウル顕忠院将軍第1墓域134号 |
尹 泰日(ユン・テイル、윤태일)は、満州国および大韓民国の軍人。
経歴
1918年6月、大日本帝国京畿道仁川に生まれる。光明中学校卒業。1942年、満州国の新京軍官学校第1期卒業。吉林地区の工兵隊に服務[1]。終戦後、治安が悪化した満州で朝鮮人の生命と財産を保護するために新京保安司令部(司令官:丁一権)が創設され尹は高級副官となった[2]。1946年3月、アメリカ軍政下の朝鮮半島に帰国[3]。同年9月、警備士官学校第2期に入学するが、病気によりわずか数日で退校した[3]。
1948年10月12日、韓国の陸軍士官学校特別第7期卒業、任大尉[1][4](軍番11642番)。1949年6月、富平の第1工兵団長[5]。1950年7月、第1軍団第1201工兵団長(中領)[6][7]。1953年5月、陸軍工兵学校校長。
1954年、第1野戦軍工兵部長(准将)[8]。1958年6月、陸軍大学卒業。同年8月、陸軍本部監察監。1959年4月15日、第36師団長[9]。
1961年5月、ソウル特別市長。同年6月、国防研究院卒業。同年8月、少将。1963年12月、民政移管のため市長を辞任し、中将で予備役編入。
1964年1月、大韓住宅公社総裁。1965年5月、東南アジアを視察。1969年、大韓住宅公社顧問。1973年3月、第9代国会議員(維新政友会)、国会建設委員会委員。1977年7月、オーストラリア及び南米各国を視察。1978年5月、韓国・ノルウェー議員親善協会会員。同年12月、維新政友会3期議員候補から脱落。
2008年4月29日に民族問題研究所と親日人名辞典編纂委員会が発表した親日人名辞典収録対象者軍部門に記載[10]。
出典
- ^ a b 親日人名辞典編纂委員会 2009, p. 706.
- ^ “중국인들 무자비한 한인보복살인 교민 자유 위해 보안사 설치-김홍일장군 권고따라 천신만고 끝에 귀국” (朝鮮語). 中央日報. (1982年11月29日) 2016年11月27日閲覧。
- ^ a b 張昌国 (1982年12月23日). “(3596) 제79화 제79화 육사졸업생들(49) 장창국” (朝鮮語). 中央日報 2016年8月15日閲覧。
- ^ 張昌国 (1983年3月8日). “(3655)제79화 육사졸업생들-7기 특별반(108)” (朝鮮語). 中央日報 2018年7月12日閲覧。
- ^ “(421)지원 작전(7)” (朝鮮語). 中央日報. (1973年2月5日) 2018年7月12日閲覧。
- ^ 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国編 下巻』。
- ^ “(423)지원작전(9)공병(3)” (朝鮮語). 中央日報. (1973年2月9日) 2018年7月12日閲覧。
- ^ 白善燁『若き将軍の朝鮮戦争』草思社〈草思社文庫〉、2013年、538頁。
- ^ “政府人事” (朝鮮語). 부산일보. (1959年4月17日) 2019年10月22日閲覧。
- ^ “[명단] 친일인명사전 수록 대상자 4776명” (朝鮮語). オーマイニュース. (2008年4月29日) 2021年4月30日閲覧。
参考文献
- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』原書房、1976年。
- 世界政経調査会 編『韓国・北朝鮮人名辞典 1979年版 上巻』世界政経調査会、1980年、17頁。
- 친일인명사전편찬위원회 編 (2009). 친일인명사전 2. 친일문제연구총서 인명편. 민족문제연구소. ISBN 978-89-93741-04-9