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2022年3月1日 (火) 19:28時点における版
閻伝紱 | |
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『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日夕刊 | |
プロフィール | |
出生: | 1896年(光緒22年) |
死去: |
1962年 中国遼寧省撫順市 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区奉天府金州庁 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 閻傳紱 |
簡体字: | 阎传绂 |
拼音: | Yán Chuánfú |
ラテン字: | Yen Ch'uan-fu |
和名表記: | えん でんふつ |
発音転記: | イエン チュアンフー |
閻 伝紱(えん でんふつ)は、中華民国・満州国の政治家。満州国では司法部大臣などをつとめた。字は紉韜。
事跡
金州南金書院を卒業。1913年(民国2年)、日本に留学する。県立仙台中学校などを経て、1923年(民国12年)、東京帝国大学経済学部に入学した。帰国後は、大連中華青年会副会長となる。さらに南満州鉄道株式会社嘱託にもなった。1924年(民国13年)、関東庁で勤務する。1928年(民国17年)、大連市会議員となった[1][2]。
満州事変(九・一八事変)勃発後、閻伝紱は奉天省諮議に任ぜられる。満州国建国後の1932年(大同元年)4月8日、立法院長に転じた趙欣伯の後任として奉天市市長に起用された[3]。この他、協和会審査処処長、日満文化協会理事にも就任している[1]。1935年(康徳2年)5月、浜江省省長兼北満特別区公署長官となる(翌年1月、北満特別区は廃止)。1937年(康徳4年)7月1日、吉林省省長に異動した[4]。1942年(康徳9年)9月28日、司法部大臣に任ぜられ[5]、満州国滅亡まで在任した。
満州国滅亡後、閻伝紱はソ連軍に逮捕、連行され、ハバロフスク第45収容所に収監された。1950年8月、中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監されている。1962年4月、獄中で病没。享年67[1]。
注
参考文献
- 孫棫蔚「偽満州国大臣省長的大連人」『大連文史資料 第7輯』大連市政協文史資料委員会、1990年。
- 山室信一『キメラ-満洲国の肖像 増補版』中央公論新社(中公新書)、2004年。ISBN 4-12-191138-5。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
満州国
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